真壁と小林

「――どういうことだ?」

 さすがにもう涙が引っ込んだ小林は、聞き返した。

「桑山皐月って不倫相手だよな。そいつが奥さんの調査を依頼したって」

『君、パソコン持ってる?』

「当たり前だろ。現代作家の七つ道具だぜ」

『ならば僕の言う言葉を今から検索してくれないか。一度電話を切ってもいいから、理解できたらまたかけてほしい』

 一方的に切れた。

「……くそっ」

 ただでさえ明日の電気にも困っているというのに、馬鹿にならない電話代を取られてしまうことはさておいて。小林は現代とは思えない旧式のパソコンを開いて、彼の言う言葉を検索した。

藤棚ふじだな論争』

 ヒットしたのはスポーツ関連の記事が主だった。高校野球の懐古や名試合紹介など、甲子園ファンのサイトも見つかった。

 野球など、イチローやダルビッシュ、大谷、松坂に新庄に野茂、野村星野落合、ON程度しか知らない彼だが、夏が近づくと、テレビの特集でこの言葉を聞きかじったことがある。それは、悲しき夢だった。

 神奈川県の小さな町、桜井町の桜高校と、橘町の橘高校は、川を挟んで向かい合わせに建っていた。二つの学校はともに神奈川が誇る野球の名門校だが、場所が場所だけあって、二つはライバル関係どころか、いがみ合っている節があった。桜井町の人間は桜高校を、橘町の人間は橘高校を応援した。どちらが甲子園に行くか、それは町内間戦争の様相を呈していた。

 盛り上がりのピークは、三十年近く前、各々の高校にそれぞれ、二人の傑物が入学したときだった。

 天才的バットコントロールを有した安打製造機、桜高校の棚森重雄。

 ホームランと学生離れした強肩が魅力の外野手、橘高校の藤井ふじいただし

 同時期に現れた二種類の天才は、お互い知らぬところで切磋琢磨した。二人ともドラフト上位候補として名が挙がった。互いに意識していたのかどうかは知らないけれど、少なくともまわりは盛り上がった。

 どちらがより優れているか――両町の井戸端で日々おこなわれるディスカッションを、メディアは藤棚論争と称した。

 しかしこの冷戦は思わぬ形で終止符が打たれることとなる。

 藤井正の転落事故だ。

 学校の階段を十数段転げ落ちた藤井は、野球ができない体になったのだ。

 結果的に藤棚論争は、棚森重雄の不戦勝という形で幕を下ろす。

 その後、ドルフィンズにドラフト一位で選ばれた彼の活躍は、今さら語るまでもない。

「……藤棚論争な」

『どっちが優れていると思う?』

「わかんねえよ。もったいぶらないで教えろ。これがなんだってんだ」

『藤井正は浅野清の双子の弟だ。二卵性のね』

「――」

 小林は息を呑んだ。二卵性――似てはいない。

『浅野というのは婿養子に入って名前が変わったからだ。浅野家……藤井家は家庭の都合で大阪から引っ越して、いがみ合いなど知らずに各々清は桜高校に、正は橘高校に入学した。二卵性だし、藤井というありふれた名前だから誰にも気づかれなかった』

「で、でも、それがなんだってんだ」

『当時桜高校の棚森重雄は、同級生の栗岡くりおか敦子と付き合っていた。奥さんだね。今やいつまで奥さんかわからないけど――当然藤井清とも同級生だ』

「だから――」

『ここからが僕の調査結果だよ。なんせ三十年近く前の話だから、難しかったよ』

 真壁の口ぶりには苦労の色がひとつも見えなかった。

『ある日の放課後、敦子は橘高校に侵入した。そして階段を下りようとする正の背中を押した』

「――は?」

『人通りが少ない時間帯だからね。他校の制服でもバレなかった。彼もまさか、女子が自分を突き落とすなど考えもしなかったから油断していた』

「な、なぜ」

『それはもちろん、彼氏をドラ1でプロに行かせるためでしょ』

「だからってそんな――」

『ありえない?』

「いや」

 ありえない――本当にありえない?

 ライバルが怪我でプロを諦める――それほど都合のいい蹴散らし方はあるか?

「……いやいやいや」

 小林はぶるんぶるんと首を振り、恐ろしい考えを打ち消した。

 真壁は続ける。

『それが事実だと、判明してしまったんだから君も受け入れたらいい。実際あの日彼女が学校に侵入しているのを覚えている用務員さんだっていたんだよ。いくら放課後でも桜高校の人間が橘高校に潜入するなど言語道断だからね。もちろん、彼女を疑っていたわけじゃないだろうけど。そして目撃していたのは用務員さんだけじゃない』

 藤井清。

 忘れ物のタオルをこっそり届けに来た兄が、転落した藤井正の第一通報者だったそうだ。動転した少年は、公衆電話に駆け込んで、警察や親が来ても、本当のことを言えなかったそうだ。

『これこそ奥さんが復讐対象にならなかった理由だね』

「――弟がひどい目に遭ったんだぞ?」

『彼にとっては棚森重雄がすべてだよ。さっき言わなかった?』

 ありえない――本当にありえない?

 ライバルが怪我でプロを諦める――それほど都合のいい蹴散らし方はあるか?

 たとえそのライバルが、同じ母親の腹から、同じ日に生まれた弟であっても――?

「…………」

『君、聞いてる?』

「聞いてるよ」

 少しぐらい感傷に浸らせてほしいが、こうしている間にどんどん電話料金がかさんでくる。

「……で、これと桑山皐月になんの関係が?」

『桑山皐月は生まれも育ちも今も橘町なんだよ。実はね。藤棚絶頂期、彼は小学生で、言うまでもなく藤井正は信仰対象だった。面倒見がよかった彼は近所の子どもたちに野球を教えていて、桑山も生徒の一人だったんだよ。そして敦子を目撃した数少ない人物の一人である、用務員さんというのが、桑山皐月の叔母だったんだよ』

「…………」

『さっきも言ったけど、敦子を疑っていたわけじゃないだろうけど、何かのタイミングでそれをぽろっと漏らしたんだろうね。そしてそれが、幼い少年の心に強く残った。彼はその、トラウマじみた思いを抱えたまま成長し、僕のところにやってきた』

「まさか!」

『彼は執念で、あの日侵入した少女の名前を知った。そしてその後真実を僕に依頼した。理由は当然、子どもたちのヒーロー藤井正の未来を奪った女と、あろうことか彼女と結婚している当時のライバルの家庭を壊すためだろうね』

 開いた口がふさがらないとは、まさにこのことだ。

 部屋の温度が零下に冷える。小林が鼻をすすったのは、決して花粉のためだけじゃないだろう。

『ちなみに藤井正さんは、結婚して、二人の息子も立派に育っている。大阪で仕事の傍ら週末は草野球を楽しんでいるよ。数十年たった今、後遺症なんて残っていないんだろうね』

「ひとつ、聞いていいか」

 小林はおずおずと、噛み砕くように言った。

「おまえ、それを警察に言ったのか」

『言いやしないよ』

 彼はあっけらかんと言ってのけた。

『向こうさん、嘘ついたからね。僕を信用すると言いながら、腹の中ではひとつもしてなかった。だからこの件は僕らだけの秘密――警察としては、桑山が奥さんに接近した理由なんてどうでもいい話だよ。あ、今さらあえて言うことじゃないけれど、ネタにするときはぼかしてね』

「わかった」

 小林は電話を切った。

 長い長い話が終わり、いつの間にか陽が沈んでいた。差し込む明かりは月の色だった。

 小林は自分なりの見解を、彼の言いつけどおり、ネタ帳にまとめてみんとしたが、頭がぐちゃぐちゃと頼りないので、ペンを置いた。

 思うのは。

 藤井正以外、誰も幸せじゃないってことだ。

 でもそれは、第三者的視点を持った小林の結論で。

 実は、そんな悪い結末じゃないと思っている人が、いるんじゃないかってこと。

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何でも屋真壁嵐~ダイヤモンドに沈んだ陽~ かめだかめ @yossi0102

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