棚森重雄(7)
鳥羽泰江が熱心な教育ママで、息子の裕太を逐一管理していることは、山田巡査含めて多くの人が知っていた。前回の泰江の言動から、息子に度を超えた愛情を注いでいることはわかった。泰江は高校生の息子の人生のレールをすべて定めていた。
いい高校を出て、いい大学を出て、いい会社に就職し、いい身分の奥さんをもらい、かわいい赤ちゃんを作る。それ以外なかった。裕太は毎日、塾に詰めていた。
だからこそか。抑圧された環境が彼の目を、外の世界に向けたのか。
裕太は野球に興味を持ったのだ。
スポーツなど野蛮と決めつける母親のために、当然道具を家に置くわけにはいかない。彼は学校の裏の公園で、隠れて毎日素振りをしていた。そんな折、たまたま通りがかったのが、棚森重雄だった。
「隣の、たしか裕太くん……だよな」
隣にプロ野球選手が住んでいるのは知っていた。彼が引退してコーチをやっていることも知っていた。母親が教育に悪いと、近寄らせなかったことも知っていた。
しかし、実際の彼は母が言うような、粗暴な、ケダモノのような人間ではなかった。むしろ明るく朗らかな、好人物だった。ガッチリと体格がよく、快活だった。
少なくとも彼の通う進学校にはいないタイプだった。
人は自分にないものに興味を持つものだ。元来真面目で熱心な鳥羽裕太と、棚森重雄は馬が合った。母親に知られないよう、こっそり学校の裏で野球の練習に励んでいた。もちろんそれはシーズンがオフの間だけだった。
しかし野球は休みでも、受験はシーズン真っ最中なのだ。彼は二年生だが、進学校は一年のうちから大学合格に励むし、進級時期は戦争だった。
そんな大事な時期に、毎日毎日人知れずどこかへ行っている。塾だと言っているけれど母親の勘は侮れないものだ。
破滅というのはつまりそういうことなのだ。
「もともとよく思ってなかったんです。重さんが隣に住んでること。マーシャだってそうです。僕が猫アレルギーだってわかったからって言ってたけど、体よく押しつけたかっただけなんですよ。母親は僕以外、眼中にないんです。もしかしたら、僕のことも」
彼の話しぶりは、さすが賢さがにじみ出ていた。
「カニエキスはどこで手に入れたんだ。買ったのかい」
交番の奥の畳の部屋だ。角谷警部が穏やかに尋ねると、少年は小さく首を振った。
「友達の北海道土産です。今年の年明けにもらってから、ずっと部屋に隠してました。母親は、僕が付き合う友達のことも選んでたから」
「そうか」
太川刑事はパソコンに供述をメモする。角谷警部は深呼吸し、
「さて、ここからが本題だ。君は棚森重雄さんのことが、大好きなんだろう」
「はい」
「尊敬しているんだろう」
「はい」
「彼が甲殻類アレルギーだということは知っていたのかい」
「――嘘と思われるかもしれませんが、知りませんでした。僕はNHK以外見たことがなくて。ネットなんてもってのほかでした」
たゆたう目は真実を語っているように思えた。
「では、なぜカニエキスを、コロッケに混ぜたんだい」
「それは――」
彼はちょっと逡巡したのち、顔を上げた。
「カニは栄養が豊富なスーパーフード。タンパク質がたくさん入っていて、スポーツをする人には最高の食べ物。何より、あの人はカニが大好物なんだって」
「――それは、本人が言ったのか」
「……運転手さんです。名前はわからないけど僕にこっそり教えてくれたんです」
――後日、専属運転手の浅野
「その話をされたのはいつだい」
「二ヶ月ぐらい前です。そのときはなんとも思わなかったし、どうしてそんな話をするんだろうと思いました。でも一昨日の夜、お隣にコロッケをあげるからって、こねた生地を台所に置きっぱなしにしてるのを見たんです。それで……こっそり入れたんです」
それは、母に対する、ささやかな反抗でもあったのだろう。
母が大嫌いな人の食べるものに、あの人が大好きなものを入れる。
反抗期を知らずに、鳥籠の中で育った彼だ。
彼が甲殻類アレルギーと知ったとき。彼が倒れたとき。少年の苦悩はどれほどのものだっただろう。
「――いいんですか、警部」
少年を帰したあと、太川刑事はパタンとパソコンを閉じて言った。
「棚森さんが自分でカニエキスを飲んだと白状したこと、教えなくて」
「知らないほうがいいこともある。あの子にはあとでうまく伝えるさ」
大好きな、尊敬する人が自殺を企んだのだ。
角谷警部はセブンスターの箱を開けたり閉めたりしながら、億劫そうに言った。
「しかも理由が理由だ」
「ですね」
敦子と桑山皐月の不倫を知った彼は、妻の不貞を、より大変な形で暴露しようと考えた。そのために警察を巻き込んだのだ。法律で不倫は裁けない。江戸時代じゃあるまいに、裁くほどでもないことを知りながら。
「世紀の構ってちゃん、ということか――」
警部が無粋ながらそう言う。太川刑事はちらりと警部を見て、スマホを見せた。
「それだけじゃありません」
ツブヤイターの画面だった。
棚森重雄の無事と、今季限りのコーチ引退が報道されて、ファンは安堵と悲しみに暮れていた。
「――これで棚森さんは、コーチの重圧に耐える日々から解放される。誹謗中傷どころか同情の声が聞こえる。奥さんとの今後は不明ですが、自殺未遂が報道されない以上、世間は棚森さんに味方するでしょう」
「――」
あの男は自身の体を理解している。どれだけ食べたら無事で、どれ以上が致死量なのかちゃんとわかっているのだ。
それほどの把握能力が彼を名コーチたらしめたのだろう。
いずれにせよ、少年の気苦労を思うと後味の悪い結末ではあるが、まだ仕事が残っている。
「行きますよ、警部!」
「ああ」
ゆっくりしている暇はない。荷物をまとめて、次に出向くのは茨城の山中だ。
運転手、浅野清の自殺体を回収にいかねばならない。
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