棚森重雄(6)
とはいえ、だ。
桑山皐月にはたしかに動機がある。棚森重雄を恨む(逆恨みする)理由がある。
けれど、とにもかくにもカニエキスをコロッケに入れられない。
「なんか、悲しいです」
翌朝。警視庁で仮眠を取り、再び桑山家へ参上する間、太川刑事はぼやいた。
「だろう。不倫だなんてな」
「そうじゃないです」
棚森重雄が妻を疑いはじめたのは、三ヶ月前のことだった。シーズン真っ只中で、たまにしか帰れない身の上。しかも一軍コーチというのは朝から晩までチームのことばかり考えねばならぬ仕事。妥協はありえない。家族が二の次、三の次になるのは仕方なかった。特に真面目な彼は、試合が関東近郊であっても、球場の近くにホテルを取っていた。
しかしその日だけは違った。結婚記念日なのだ。
その日の試合は千葉だった。次の試合に間に合う距離だ。彼女の好きなスイーツショップでケーキを買い、急いで帰路についた。
家の裏から見知らぬ男が姿を現すのを、彼は目撃した。そして彼女は、結婚当初しか見たことがない、美しく着飾った衣装と派手な化粧で、彼に手を振っていた。
不貞を捉えた彼は激情した。
なんとしても証拠をつかまねばならぬ。躍起になった彼は、調べた挙げ句、使わなくなったスマホをペット監視用のモニターとして使用する方法を発見した。家にはちょうど猫がいるが、妻にバレるわけにはいかないので、こっそりスマホを設置した。広い家だけれど、古くなくてもスマホは買えばある。妻の様子は二十四時間監視できた。
成果が実ったのは、次のビジター遠征の二日目だった。前回からたった一週間後の出来事だった。
「しかし、だからといって、殺そうとするでしょうか」
聞き取りの刑事が尋ねると、彼は虚ろな目で、しかししっかり目を見て言った。
「九月のいつだったか。何度目かの密会のとき、あの女はこう言ったんだ。『あの人は甲殻類アレルギーよ。エビやカニが食べられないの。食べると死んじゃうの』ってな。文字どおり、喘ぎ喘ぎだよ」
と。
「あの人がそんな下ネタを言うなんて……!」
「怒るところじゃないだろう」
「でもやなぁ!」
「着いたぞ。当てるなよ」
「わかっとるわ!」
当てそうだ。
なんとか無事駐車し、車を降りる。
玄関へ回り、角谷警部は建物を見上げた。
昨日までは、成功者の夢の結晶に見えたこの家が、砂上の楼閣だと知った途端、白がドス黒く見えてきた。おまけに今にも降り出しそうな曇り空だ。頭痛を起こしそうだった。
頭の痛い問題は、容疑者のことだけでない。例の専属運転手の行方が知れないのだ。
迎えの車で球場を出たところまでは多くの関係者に目撃されているが、その先どこへ行ったか未だに見当がつかない。理由はわからないが悪手だ。容疑者として上りそうな始末である。
「大変そうですね」
「大変だよ……ん!?」
太川刑事の声ではなかった。山田巡査でもない。
ぎょっとして振り返ると、面倒な顔が、胡散臭い笑顔を向けていた。
「
「下の名前はありません」
おかしなことを言いながら、シーッと自分の口に人差し指を当てる。
言動も見た目も胡散くさいこの男を、警部は知っていた。
先日の、世にも恐ろしいパチンコ屋騒動の際、犯人が被害者の素性調査を依頼したというのがこの男だった。嵐と書いてランと読む、ホストまがいの名前もさることながら見た目も言動もホストみたい、しかも悪い意味で――というのが彼の第一印象だった。
あの事件で真壁嵐は何も知らずに雇われただけでお咎めなしだったが、角谷警部は今でもこの男をよく思っていない。
「お久しぶりですね、角谷警部」
「どうしました、警部」
キーを持って駆けてきた太川刑事が真壁に気づいた。
「あれっ、そいつはこないだの……」
「そっちは太川さんでしたか」
「ああ、何でも屋の。お久しぶりです」
「無視しろ、太川」
「でも……」
「いいから行くぞ」
妻に不貞の事実を聞く気乗りしない仕事だが、この男と関わるよりマシだった。
しかしこの男はどうやら、角谷警部が思っている以上に扱いづらい人間だった。
「警部、僕も行きます」
「来るな、部外者が」
「そんな、部外者だなんて。僕はれっきとした関係者ですよ」
「どこがだ。帰れ。そして二度と我々の前に現れるな」
「棚森敦子! 不倫してるんでしょう」
始末に終えない。
こともあろうに真壁は、閑静な高級住宅街で、良家の妻の不義を堂々響かせたのである。
睨みをきかせる二人に、真壁は人を食ったようなニヤニヤ笑いで、
「言っちゃおうかな。僕が知ってること、洗いざらい叫んじゃおうかな。そうだ! 週刊文夏に売っちゃおうかな。謝礼金で叙々苑食べちゃおっかな。帝国ホテル泊まっちゃおっかなー!」
「貴様!」
地獄の拡声器を野放しにするわけにはいかない。ただでさえ注目を集める事件だから、いつどこでマスコミが耳を傾けているかわかったもんじゃない。さすがに気兼ねしていつものように家に群がる真似はしていないけど、連中は雲に目があり木に耳があるのだ。
とりあえずパトカーのシートベルトで拘束だ。
「やだなぁ、警部さん。冗談ですよ。僕はそんな阿漕な商売はしません」
「信用ならん」
「角谷警部さんが僕のことをほんのちょっとでも信用してくれるなら、僕も警部さんを依頼人とみなして、全面的に信用して全部喋ります」
「自分、なんで上からやねん! 誰が依頼人や、誰が!」
「ちょっとでもいいんですが」
「ひとつもだ、ひとつも!」
「なあんだ、つまらない御仁だ」
からかわれていることだけは明白だ――こんなどこの馬の骨ともつかぬ男を信用する警察官がどこにいるか。
しかし。角谷警部は冷静に考えてみる。
あのときのおぞましい事件での、この男の働きはかなりのものだったようだ。たった数日間で、おそらく一人で被害者二人の動向をすべて調べてみせた。吉田という女はかなり要領がよく狡猾だったが、あの仕事はこの男の力なしにはなしえなかったものだろう。
相変わらずチェシャ猫のように微笑んでいるこの男を、あまり敵に回すのは得策でないと、本能が訴えている気がする。
角谷警部は肩の力を抜いた。
「――わかった。信用する」
「警部! 何言うとん!」
「そのかわり、貴様の言うことは真実だろうな。嘘じゃないだろうな」
「逃げも隠れもいたしません」
「では、話せ。貴様が関係者だというのなら」
正直に言って、信用はしていない。けれど、使える駒は使わなければならない。
真壁は満足げにうなずいて、胡散臭さに拍車をかける眼鏡をくいっと上げると、シートベルトを外して二人に体を向けた。
「今回の件、箝口令が敷かれているようですね。昨日の昼、ワイドショーで棚森重雄というプロ野球コーチが倒れたと報道されて以降、今朝彼が目を覚ましたとあり、そして今まで何も出ていない」
「ああ」
「世間はまだ、彼が甲殻類アレルギーによるアナフィラキシーショックで倒れたとすら知らない。そして、カニエキスを盛られたことも」
「待て。貴様なぜそれを知っている」
「棚森さんに面会に行ったとき聞きました。奥さんの不倫相手が有力な容疑者だとのこと」
「自分、棚森重雄と懇意なんか!?」
「太川、興奮するな」
「懇意というか、だからこそ関係者なんです。僕は三ヶ月前、彼から奥様の不倫調査を依頼されています」
「なんだと!?」
刑事二人は顔を見合わせた。真壁はまだ笑っている。
「室内の監視を提案したのも僕です。さすがに家の中までは見えませんから」
「ほ、ほんなら棚森さんはなんで自分のこと黙っとったんや」
「知られたくなかったんじゃないですかね。どこの馬の骨ともわからない何でも屋に依頼したなど」
この男は不敵に笑っている。
たしかにそう考えると、この男は関係者だ。
「家の中を調べましたか」
「いや、まだだ。これから奥さんの許可を得て探すつもりだった」
「でしたか。それはまあいい。しかしお二人さん」
真壁は角谷警部に数ミリ、顔を近づけた。それはほんの少し、アリの一歩程度だったが、胸の奥まで見透かされているような、ぞっとする印象を警部に与えた。
「僕は元気なときの棚森さんに直接お会いしました。あなたたちはテレビでしか見たことがないでしょう」
「ああ」
二人は蹴落とされるように、尻を動かした。真壁は続けた。
「僕は、依頼人を全面的に信用することをモットーとしています。相手が信用してくれるなら、し返さなければ仕事になりません。ですから、棚森重雄さんを信用した上で、お話しします。甲殻類アレルギーの彼に、カニエキスを盛った人物――どうせ容疑者は不倫相手だけじゃないんでしょ」
角谷警部の脳裏を走る、三つの顔。
棚森敦子、鳥羽泰江、桑山皐月。
しかし実際、犯行が可能なのは一人だけだ。さらに増えたところで変わらない事実だ。
「――貴様は知らない話だがな、どれだけ容疑者が増えたとて……」
「棚森重雄」
真壁は噛むように言った。角谷警部と太川刑事は、一瞬二瞬、わけがわからなかった。
「棚森重雄が自分でカニエキスを頬張ったとしたら、どうします」
――自殺未遂。
それは、思ってもみない発想だった。
静寂に導いたのも、静寂を破ったのも真壁だった。
「――警部さん、電話です」
「……ああ」
震える手で電話を取る。山田巡査だった。
「……ああ。――わかった。悪い、少し疲れているだけだ。――すぐに行く」
山田巡査の情報は、十分驚愕に値するものだったが、あまりに斜め上な情報を受けたばかりだからか、どうもまともに反応できなかった。太川刑事は急かす。
「な、なんですか。なんて?」
「――カニエキスを入れた犯人が判明した」
「どなたです」
そう笑うのは真壁だ。警部はため息をつくと、ありのままを報告した。
「鳥羽
鳥羽泰江の息子である。
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