第一部:認識と混乱 (1年目)

第1章:歪む日常、狂うコンパス

 気象庁の研究室に戻ったナオミは、ミカと買ってきたばかりのシュークリームを頬張りながらも、意識はモニターに映し出された全球気象モデルの計算結果に集中していた。シュー皮はサクサクで、中のカスタードクリームはバニラビーンズの香りが豊かで、程よい甘さが口の中に広がる。ミカが「ね、美味しいでしょ?」と得意げに微笑むのに頷きながら、ナオミはマウスを操作し、新たなパラメーターを入力していく。

 地球の自転速度に微細な変化が生じているという仮説。


 それはあまりにも突拍子もなく、荒唐無稽に響くかもしれない。しかし、ここ数週間のジェット気流の異常な蛇行、各地で報告されるGPS測位誤差の増大、そしてミカが指摘した人工衛星の軌道維持に必要な補正量の増加。これら断片的な事象を繋ぎ合わせると、その大胆な仮説が不気味なほど現実味を帯びてくるのだ。


「……ナオミ、本当に大丈夫? 顔色が少し悪いわよ。やっぱり、今日のアレの影響?」


 ミカが心配そうにナオミの顔を覗き込んだ。「アレ」とは、もちろん月経のことだ。ナオミは普段、体調の変化をあまり表に出さないが、ミカだけは敏感に察してくれる。


「うん、少しだけね。でも、それよりもこっちの方が気になるの」


 ナオミはモニターを指差した。


「もし、自転速度が本当にコンマ数パーセントでも遅くなっているとしたら、コリオリの力に影響が出るはず。それが大気循環のパターンを微妙に変化させ、ジェット気流の蛇行を引き起こしている……そう考えれば、辻褄が合うのよ」


「コリオリの力……自転による見かけの力、だったわよね。北半球だと進行方向右向きに働くやつ」


 ミカは宇宙物理学の知識を総動員して、ナオミの説明を理解しようと努めた。彼女の専門分野ではないが、物理学の基本原則は共通している。


「そう。そして、その力が弱まれば、大気の流れはより直線的になろうとする。でも、地形や温度差の影響もあるから、結果として複雑な乱れが生じる。今のジェット気流の異常は、その現れかもしれない」


 ナオミは、コーヒーを一口飲んだ。今日はいつものブラックではなく、少しだけミルクを入れている。胃への負担を考えてのことだ。彼女はデスクの引き出しから、小さな銀色のピルケースを取り出し、鎮痛剤を一錠取り出して水で飲み下した。早く効いてくれるといいのだけれど、と内心で願う。


 その日の午後、気象庁内で緊急のブリーフィングが開かれた。議題は、やはり世界各地で頻発している異常気象と、その原因究明についてだった。会議室には、各部署の専門家たちが集まり、重苦しい雰囲気に包まれていた。ナオミも、上司である研究部長と共に末席に座っていた。

 各国の気象機関からもたらされる情報は錯綜していた。ヨーロッパでは記録的な熱波が続き、インドではモンスーンの到来が大幅に遅れている。アメリカ中西部では巨大な竜巻が頻発し、南米ではアンデス山脈の氷河が急速に融解しているという。これら一つ一つは、近年の地球温暖化の影響として説明可能な範囲かもしれない。しかし、それらが同時多発的に、しかもこれほど極端な形で現れていることに、誰もが言いようのない不安を感じていた。


「佐藤君、君の分析では何か新しい見解は?」


 不意に、部長から話を振られ、ナオミは緊張した。自分の仮説をここで公にするのは、まだ時期尚早かもしれない。確たる証拠がない以上、一笑に付される可能性が高い。


「……はい。現在、大気循環モデルの再計算を進めておりますが、いくつかの仮説を検証中です。その一つとして……地球の自転パラメータに微細な変動が生じている可能性を考慮しております」


 ナオミの言葉に、会議室が一瞬静まり返った。そして、すぐにざわめきが起こる。


「自転パラメータの変動? 馬鹿な、そんなことがあり得るのか?」

「潮汐摩擦による自転の減速は知られているが、それは数万年単位の話だぞ」

「何か観測機器の誤差ではないのかね?」


 予想通りの反応だった。ナオミは唇を噛みしめ、反論の言葉を探した。しかし、それを遮るように、部長が手を挙げて場を収めた。


「まあ、落ち着きなさい。佐藤君はまだ仮説の段階だと言っている。あらゆる可能性を排除せず、冷静にデータを分析することが我々の仕事だ。……佐藤君、引き続き検証を進めてくれ。何か具体的な証拠が得られたら、すぐに報告するように」


 部長の言葉は、ナオミにとって一縷の望みだった。彼は、ナオミの突飛なアイデアを頭ごなしに否定するのではなく、検証の機会を与えてくれたのだ。


「はい、ありがとうございます」


 ナオミは深く頭を下げた。


 その夜、ナオミは一人、薄暗い研究室で黙々と作業を続けていた。窓の外には、東京のきらびやかな夜景が広がっているが、今の彼女にはそれすらもどこか現実感のない、遠い世界の出来事のように感じられた。


 モニターには、世界各地の験潮所のデータがリアルタイムで表示されている。もし自転速度が変化しているなら、潮汐のパターンにも影響が出るはずだ。特に、月の引力による起潮力と、太陽の引力による起潮力のバランスが崩れ、一日の潮の満ち引きの周期や潮位に微妙な変化が現れるかもしれない。


 ナオミは、過去数十年間の潮位データと現在のデータを比較し、フーリエ解析を用いて周期性の変化を抽出しようと試みた。コンピュータが膨大な計算をこなしていく間、彼女は息を詰めて結果を待った。

 数時間後、ようやく解析結果が出た。そこに現れたのは、ナオミの予想を裏付ける、しかし信じがたいデータだった。世界各地の潮汐パターンに、統計的に有意なズレが生じ始めている。それはごく僅かなもので、通常の観測ではノイズとして処理されてしまう程度のものだ。しかし、全球的に見ると、明らかに一定の傾向を示していた。一日の長さが、ほんの僅かだが、長くなっている可能性を示唆していた。


「……まさか……本当に……?」


 ナオミは震える手でマウスを握りしめた。これは、自分の妄想ではない。地球は、確かに何か異常な事態に陥っている。そして、その変化は、確実に加速しつつある。


 その時、研究室のドアが静かに開いた。ミカだった。手には温かいハーブティーの入ったマグカップを二つ持っている。


「やっぱり、まだいたのね。無理しちゃダメよ、ナオミ」


 ミカは、ナオミの隣にそっとマグカップを置いた。カモミールとレモングラスの優しい香りが漂う。


「ミカ……見て、これ」


 ナオミは、言葉少なにモニターを指差した。ミカは画面を食い入るように見つめ、そして息を呑んだ。


「これって……潮汐の周期が……伸びてる? ってことは、やっぱりナオミの言ってた通り、一日が……」


「ええ。まだ誤差の範囲かもしれないけど、無視できないレベルよ。そして、この変化がもし続けば……数ヶ月後には、日の出と日の入りの時刻が、暦と明確にずれ始めるはず」


 二人の間に重い沈黙が流れた。窓の外の夜景が、まるで不吉な未来を暗示するかのように、不気味に揺らめいて見えた。


「どうしよう、ナオミ……もし、これが本当なら、世界はどうなっちゃうの?」


 ミカの声は不安に震えていた。彼女の白いカーディガンの袖口から覗く手首には、可愛らしい猫のチャームがついたブレスレット。それは、先日ナオミがミカの誕生日にプレゼントしたものだった。そんなささやかな日常の象徴が、今は痛々しいほどに輝いて見えた。


「……わからない。でも、私たちは科学者よ。まずはこの現象を正確に把握して、何が起きているのかを突き止めなければ。そして、それを世界に伝えなければならない」


 ナオミの声には、不安を押し殺した強い決意が滲んでいた。彼女の月経痛は、いつの間にか和らいでいた。それよりも遥かに大きな、地球規模の痛みが、彼女の全身を貫いているような感覚だった。

 ナオミは、ミカの淹れてくれたハーブティーを一口飲んだ。温かい液体が喉を通り、少しだけ心が落ち着くのを感じた。


「ミカ、JAXAの方でも、ブレーキング……つまり、地球の自転にブレーキをかけるような、何か外部からのエネルギー干渉の可能性を探れないかしら? 例えば、太陽風の異常な変動とか、未知の宇宙線とか……」


「……ブレーキング・フィールド、みたいな? SF映画みたいだけど、今の状況じゃ笑えないわね。わかったわ。JAXAのデータベースと観測データをもう一度洗い直してみる。何か掴めるかもしれない」


 ミカは力強く頷いた。彼女の大きな瞳には、不安と共に、親友を支えようとする強い意志の光が宿っていた。ナオミは、そんなミカの瞳を見つめ返し、そっと彼女の手を握った。ミカの手は、やはり温かかった。


「ありがとう、ミカ。あなたがいれば、きっと……」


 その言葉の続きは、声にならなかった。しかし、二人の間には、言葉以上の強い絆が確かに存在していた。


 地球が囁き始めた異変の謎を解き明かすため、二人の若い女性科学者の、孤独で、しかし希望を捨てない戦いが、今、静かに幕を開けたのだった。

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