【SF小説】永き黄昏の地球~ブレーキング・フィールド:静止する鼓動~(約54,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

序章:地球の囁き

 風が凪いでいた。


 佐藤直美――ナオミは、気象庁の屋上に設置された高感度風速計のデータを見つめながら、眉間に微かな皺を寄せた。ここ数日、東京上空のジェット気流に奇妙な揺らぎが見られる。季節の変わり目特有の不安定さとは、どこか性質が異なる、まるで地球自身がため息をついているかのような、微細で、しかし持続的な乱れ。


「……やはり、おかしいわ」


 呟きは、人気のない屋上に吸い込まれて消えた。時刻は午前8時58分。ナオミは毎朝、始業前のこの時間に、肌で大気を感じ、観測機器の生の数値を自分の感覚と照らし合わせるのが習慣だった。黒髪のボブが、不意に吹いた微風にさらりと揺れる。彼女の服装は、動きやすさを重視したネイビーのクロップドパンツに、アイボリーのシルク混コットンシャツ。首元には、華奢なプラチナチェーンのネックレスが、シャツの襟元からわずかに覗いている。それは数年前に亡くなった祖母の形見で、小さなアクアマリンが埋め込まれていた。忙しい朝でも、これだけは忘れずに身に着ける。まるで、お守りのように。


 足元には、使い込んだレザーのフラットシューズ。長時間立ち仕事や分析作業をしても疲れない、彼女の仕事の相棒だ。手首には、これまた年代物の機械式腕時計。デジタル表示が主流の現代において、アナログの文字盤と秒針の動きは、ナオミに落ち着きを与えてくれる。今日は月のものが始まって二日目で、下腹部に鈍い痛みと重だるさが居座っていた。鎮痛剤は飲んできたが、まだ完全には効いていない。こういう日は、集中力が高まる反面、些細なことで気分が沈みがちになることを、ナオミは経験上知っていた。ポケットには、ラベンダーの香りのアロマオイルを染み込ませたハンカチを忍ばせている。時折それを取り出し、そっと香りを吸い込むのが、ささやかなセルフケアだった。


 隣のビル群のガラス窓が、昇り始めた太陽の光を反射して眩しい。2030年5月、東京。世界は相変わらず喧騒と活気に満ち、人々はそれぞれの日常を営んでいる。まさか、自分たちの足元が、そして頭上の空が、静かに、しかし確実に変容を始めているなどとは、誰も気づいていない。


「おはよう、ナオミ! 今日も早いわね」


 背後から、鈴を転がすような明るい声がした。振り返ると、明日香里美佳――ミカが、大きな紙袋を抱えて立っていた。艶やかな栗色のロングヘアが太陽の光を浴びてきらめき、ぱっちりとした大きな瞳が楽しそうに細められている。今日のミカは、淡いミントグリーンのAラインワンピースに、白いレースのカーディガンという出で立ち。手首には、いくつものチャームがついたゴールドのブレスレットがきらりと光り、耳元では小ぶりのパールイヤリングが揺れている。ふわりと漂うのは、ミュゲとシトラスをブレンドした彼女愛用の香水だ。


「ミカ、おはよう。それは?」


 ナオミは、ミカの抱える紙袋に目をやった。有名パティスリーのロゴが入っている。


「んふふ、これ? 昨日、駅前に新しくできたケーキ屋さんの限定シュークリーム! ナオミの分もあるから、後で研究室で一緒に食べましょ?」


 ミカはいたずらっぽく笑い、紙袋を軽く掲げてみせた。彼女はナオミの数少ない、そして最も信頼する親友だ。大学の天文サークルで出会って以来、ナオミの気象学とミカの宇宙物理学という、隣接しながらも異なる分野で互いを刺激し合い、支え合ってきた。ナオミの内向的で理屈っぽい性格を、ミカの太陽のような明るさがいつも包み込んでくれる。


「ありがとう。でも、また買いすぎたんじゃないの?」


 ナオミは苦笑した。ミカは美味しいものに目がなく、特にスイーツに関しては見境がないところがある。


「大丈夫、大丈夫! 今日頑張るためのエネルギー補給よ。それに、今日はJAXAの定例報告会があるから、その前に糖分チャージしておかないと。そういえばナオミ、今朝のニュース見た? なんか、世界各地でGPSの誤差が頻発してるんだって。うちの部署でも、衛星軌道の微調整が最近やけに多いって話になってるのよ」


 ミカの言葉に、ナオミの表情がわずかに曇った。GPSの誤差。衛星軌道のズレ。それは、ナオミが感じているジェット気流の揺らぎと、どこかで繋がっているのかもしれない。地球規模の、まだ誰も正体をつかめていない異変の、小さな断片。


「……そうなの。実は私も、少し気になることがあって」


 ナオミは、手元のデータ端末に表示されたジェット気流のシミュレーション画像をミカに見せた。複雑な曲線が、通常ではありえないパターンで蛇行している。


「これ……確かに、少し妙な動きね。季節的なものとは違う感じ?」


 ミカは真剣な表情で画面を覗き込む。彼女の専門は宇宙物理学だが、ナオミとの長年の付き合いで、気象学の基本的な知識も持ち合わせている。


「ええ。まだ仮説の段階だけど、地球の自転速度に、ごく僅かな変化が生じているのかもしれない」


「自転速度に?」


 ミカは驚いたようにナオミを見た。地球の自転は、天文学的な時間スケールで見れば徐々に遅くなっているが、それは10万年単位で1秒程度という、人間の一生からすれば無視できるほどの変化だ。


「うん。もし、何らかの外的要因で、現在の地球のとしたら……」


 ナオミの声は、自分でも気づかないうちに低く、そして強張っていた。その仮説が意味するものの途方もなさに、彼女自身が慄然としていたのだ。


 ミカはナオミの肩にそっと手を置いた。彼女の指先はいつも温かい。

「大丈夫よ、ナオミ。きっと、何か一時的な観測誤差だって。でも、もしナオミの仮説が本当なら……私たちは、真っ先にそれに気づける場所にいる。一緒に調べましょう」


 ミカの力強い言葉と、その手の温もりに、ナオミは少しだけ強張っていた肩の力を抜いた。そうだ、一人じゃない。ミカがいる。そして、自分には科学という武器がある。


「ありがとう、ミカ。……まずは、シュークリームで糖分補給してからね」


 ナオミは微かに微笑んだ。ミカもつられて笑顔になる。

「もちろん! 最高のシュークリームが、最高のひらめきをくれるわよ!」


 二人は並んで屋上を後にした。まだ誰も知らない。この穏やかな朝が、やがて訪れる「永き黄昏」の、ほんの始まりに過ぎないということを。そして、ナオミの胸に灯った小さな疑念の炎が、やがて世界を揺るがす真実へと繋がっていく運命にあることも。

 ナオミの腕時計の秒針が、カチ、カチ、といつもと変わらぬリズムを刻んでいた。だが、その針が刻む「一秒」の重みが、これから少しずつ、確実に変わっていくことになるのだった。


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