6−4
何枚も、描いた。それを見ながら。そしてたどり着けないことを悟った。それが、快感だった。
ああ、これこそが美なのだ。凡百ではたどり着けない、美の領域。アンベール・ドゥ・フェリエ。それを生み出してくれる巨匠。
頼み込んだもの。きっと描いてくれている。楽しみだ。いや、それより前にきっと、暴かれるだろう。
向こうも準備は入念にしてくる。だが、崩すのは簡単だろう。それほど作品を通じて、心を通わせた。思いを交わらせた。
もはや君のことなら、手に取るようにわかる。
警察隊本部から司法警察局まで、先の殺しの現場検証報告書が上がってきた。監査の名目で、担当に渡る前にそれを見た。
排水溝に押し込められた女。二本の線と、それを歪める異物。白の中に浮かんだ美醜。
これだ。これを見たかった。それも、何枚もある。
きっと雨の中、描いてくれた。紙がひどくよれている。
ありがとう、フェリエ。私は今、幸せの只中にいる。
さあ、次は大作だ。きっと大変だろう。でも君ならきっと、描ききってくれるはずだ。
夜、十二時。皆が寝静まった頃。屋敷の明かりは消えていた。
玄関の鍵は、複製を作っていた。だからすぐに、そして静かに入ることができた。
二階に上がる。寝室。これも鍵は複製を作ってある。静かに入る。
懐からは、既に拳銃を引き抜いていた。
寝台。大人ふたりと子どもふたり、並んで寝ていた。ほんとうに静かに、寝息も立てていない。
「ここまで、用意してくれたのだね」
寝台の横に立ち、思わず笑みがこぼれていた。
「ええ。ここまで用意しました」
つぶやきに、部屋の隅から返答があった。それと光も。
「ここまでです、ダンドロー少佐殿」
振り向いた。瓶底眼鏡の、下膨れの顔。震える腕で、パーカッション・リボルバーを突きつけてくれている。
「待っていてくれたのだね、フェリエ中尉」
「令状ができあがりました。これより、あなたを殺人の疑いで確保します」
頷いていた。何度も、噛みしめるように。
「神妙にすれば、それでよし」
「そうでないなら?」
「ここで
撃鉄の起きる音。
腹を抱えていた。いくらでも笑いが込み上げてきた。ずっとずっとそうやって、銃を突きつける男の前で笑っていた。
「君に、私は撃てないよ」
自分でも思うほど、きっと冷たい声。
「君は、絵を描くことしかできない。私の望むものを描くことしか」
「そうだ。僕は、絵を描くことしかできない。あなたの望む、くそったれな絵を描くことしかできない。それでも」
「それを方便に、私を撃てるとでも?」
その言葉に、フェリエの体が明らかにこわばった。
「私を撃ち殺して、それを描くかね?素晴らしい。そのために私を殺してくれるのだね。新しい題材として、私を使ってくれるのだね?そうだろう?」
「違う、正しくない。僕は、僕は」
「それとも」
拳銃。寝ている四人のかたちに突きつけた。
「君の仲間を、題材にしようか?」
返答は、荒い息の音だった。それに、また笑った。
「私がこれのいずれかを撃ち、逆上した君が私を撃つ?素晴らしい。題材ふたつだ。いずれにせよ、私は君の役に立つことができる。これほど嬉しいことはないなあ」
「やれるもんなら、やってみろ」
「それに」
手にした拳銃。それを、自分の顎の下に向けた。
「私は、こういう選択も取れるよ、フェリエ中尉」
フェリエ。固まっている。目が泳いでいる。
また、笑っていた。最高だ。これが、人の死。人の心の死。どれを選んでも、フェリエを壊すことができる。そして、見ることができる。
遺作。心の壊れたフェリエの残すであろう、最高の美を。
選びたまえよ、中尉。撃つか、撃たせるか、死なせるか。
「くそくらえ、だ」
フェリエが、微笑んだように見えた。
閃光、破裂音。身が震える。しかし、痛みはない。
外したか、この距離で。いや、待て。
空砲。
「でかしたっ、馬鹿野郎」
声は、寝台の下から聞こえた。
視界が、一気にぐらついた。足首。取られた。床に叩きつけられる。何人かが体の上に乗っかっている。拳銃の引き金を引こうにも、拳銃ごと手を踏みつけられている。
動くのは、目だけ。
「器物損壊、および殺人の疑い。確保」
はっきりと、聞こえてしまった。
体に、縄が打たれていく。上体を起こされる。光。眩しい。何人もいる。囲まれて、銃を突きつけられている。
フェリエはまだ、構えたままだった。
「描いてやるもんか」
その声は、震えていなかった。
「誰がお前なんか、描いてやるもんか。勝手にしやがれ。お前なんか、誰からも忘れられて、そうして死んじまえばいいんだ」
「そんな、中尉。私に対して、そんなひどいことをするのか?」
「僕は、絵を描くことしかできない。だから、絵を描かないことを選べるんだよ、くそったれ」
そうしてフェリエは構えを解き、踵を返してしまった。
「待ってくれ、中尉。私を、描いてくれ。お願いだ」
縄の打たれた体でもがいた。必死に。それでも、どうにもならなかった。舌を噛もうとすれば布を噛まされ、そのうちに麻の袋か何かを被せられた。
そうやって、荷物か何かのように、引きずられていった。
おそらく、どこか広いところに連れて行かれたのだと思う。そうして無理矢理に起こされて、椅子か何かに縛り付けられた。
視界が開けた。褐色の大男が目の前にいた。
ダンクルベールの、お殿さま。
「ダンドロー少佐。すべての容疑を認めるな?」
威容。威圧感。何も考えることもできず、頭は頷いていた。
ダンクルベールが向き直り、敬礼した。その奥から、痩躯の男ひとり、現れた。
国家憲兵総監閣下。その顔は、ひどく疲れたように見えた。
「貴官は、国家憲兵でありながら、民衆を脅かし、害する行動を取った。我々、国家憲兵は、それを許容ことはできない」
書類ひとつ、突きつけられた。
「これより軍法に基づき、銃殺刑を執行する。貴官に軍法会議、及び裁判への出席を希望する権利はない。ここまで、よろしいな?」
震えていた。返答は、できなかった。
見渡す。黒い肌の将校。それを筆頭に、何人かが小銃を担いで並んでいる。ダンクルベールは総監とともに、そこから離れたところに陣取った。
そこに、フェリエの姿はいなかった。
視界が、暗くなる。また、麻袋を被せられたようだった。
「最後に、何かあるか?」
「フェリエ中尉。フェリエ中尉は?」
「ここにはいない」
傲然と告げられた。
「ひどい」
きっと、涙を流していた。
どうして、どうしてこんなことに。どうして、こんなことで。
どうしてこんなことで、彼の絵が見れなくなるんだ。
(つづく)
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