6−3
雨の通り外れ。排水溝に女ひとり、詰め込まれていた。喉には
何より、握っていた手紙だった。
「ファンレターとプレゼントの両方ってわけか」
それを見たウトマンは、思わず毒づいていた。隣りにいたダンクルベールは、天を仰いでいた。
ご指名を食らったデッサンは、
「これをやったやつは、アトリエを壊したやつだ」
ぽつりと、デッサンがこぼした。雨音に紛れるぐらいに小さかったはずだ。だが、確かにそれは、ウトマンにも聞こえるぐらいだった。
ダンクルベールを見る。瞳の青が、深まっている。
「僕の絵を知っている。そして、アトリエで描いているような絵が気に食わない。だから壊した。僕に、死体の絵だけを描いて欲しがっている」
駆け出していた。ダンクルベールとふたり。そうやって、歯を食いしばりながら絵を描くデッサンの隣に並んだ。
あのデッサンが、見立てをしていた。
「デッサン、死体画家。僕はそう呼ばれている。どこからか、それを見つけ出した。現場検証報告書。そうだ、過去の事件簿だ。だから、司法警察局か警察隊本部の人間」
「いいぞ、デッサン。吐き出していけ。絵でも、言葉でもいい。思いついたことを出力しなさい」
「女性の死体。死んだ女性。なんで狙った?弱者?それとも美意識?」
「執着というのはどうだろう、デッサン。もとより女性の美に対して敏感だった。それが、お前の絵を見たことで変質した」
「違う、正しくない。構図。そうだ、構図だ。押し込められた死体です、ウトマン少佐殿。それが見たかった。平行線と異物です。それは過去の素描にはなかった。定規を使わせたいんです。直線。新鮮な要素として」
湧き出てくる。アイデア。ひとつひとつ、噛みしめるように。急かしてはいけない。ゆっくりと、表現させなければ。
才能が萌芽しかけている。デッサンが、絵ではないものを描きつつある。
「排水溝。小柄か細身。そうなると、女性。もしくは子ども」
そこで、ウトマンははっとした。
「デッサン、そこまで。そこまででいい」
「女性か、子ども。子どもだ。次は、子ども。ああ」
そこまでで、デッサンはかがみ込んでしまった。そうして顔を両手で押さえて、嗚咽してしまった。
「マルク。マルクが死んじゃうよお」
それを見て、ウトマンはほぞを噛んでいた。
何人かで、これを見たことがあった。
高い感受性。共感する力。それが、自分に向く。自分に当てはめてしまう。そうすれば最後、精神に変調をきたしてしまう。
自分の思い描いたものに怯え、溺れてしまう。
「立て、デッサン。マルクは無事だ。マルクもペラジーも、お前の家にいる。ミレーヌさんがいる。だから大丈夫だ」
「助けて下さい、長官。あいつが、あいつが僕のマルクとペラジーを。そして愛するミレーヌ」
「大丈夫だ。守ってみせる。だから、戻ってこい、デッサン。絵を描くんだ。いつも通り、いつも通りだ」
「あいつが来るよ。あいつは、僕の家族を、題材にする気なんだ。助けて、少佐殿。ああ、ウトマン少佐殿。僕は」
「フェリエ中尉。姿勢、正せ」
怒声。ゴフの声だった。
「指導一回、用意」
「ゴフ、助けてくれ。こいつは、僕を狙ってるんだ。僕の家族を」
「指導っ」
本気の拳だった。デッサンの瓶底眼鏡が吹っ飛ぶほどに。
「馬鹿やってんじゃねえ。折角いい線いってたのによ。お前の名推理、全部台無しになっちまったじゃねえか」
「ゴフ、やめなさい。デッサンは、感情が先に出てしまっている」
「ほら、描けよ。そして思いついたまんま、口に出せよ。お前は今、絵を描く事以外のことができかけてたんだからよ」
ゴフは声を荒げながら、地面に這いつくばったデッサンの襟首を掴んで、無理くりに立ち上がらせた。そうして散らばった筆や紙を拾って、デッサンに叩きつけた。
「僕の家族がどうなってもいいってのかよっ」
今度殴りかかったのは、デッサンだった。
そこからはもう、止まらなかった。ふたり、一歩も引かずに殴り合っていた。顔が腫れ、切れた唇から血を流しても倒れず、罵りあい、ぶつかりあっていた。
オーべリソンとダンクルベールのふたりで割って入って、思いっきりぶん殴った。それでようやく収まったほどだった。
「まったく、何をやっているんだか」
収拾がついたあたり、ダンクルベールとふたり、馬車に乗り込んだ。ダンクルベールも随分、困憊した様子だった。
「デッサンが、
深い声と青い瞳で、ダンクルベールがそう言った。それを思い出して、ウトマンも身を乗り出していた。
「でも、あれは危険です。自己を投影してしまいました。感受性が豊かだからこそ、ああなってしまう」
「それでも、どこか理論立っていた。心が平静な時に、あれができれば」
「忘れましょう、長官。デッサンに負担を強いてしまう。あれはきっと、長官のそれより強力で、そして危険です」
「表現、いや、絵画そのものだ。枠組みを描き、輪郭を浮き出させ、それに色を乗せる。構図にたどり着いたのが、まさしくそれだ」
そこまで言って、ダンクルベールは雨に濡れた額を押さえた。
「あれが、ただの感情の発露であるはずがない」
それは、ウトマンも同じ意見だった。
はじめて見るものだった。ダンクルベールのものとはまた違う。もっとプリミティブなもの。デッサンだけの、見立て。
あれが確立すれば、デッサンは警察隊の最終兵器になれる。
だが一方で、あれはもう、おそらく見ることができないだろう。それも、ウトマンは直感としてあった。爆発した感情と死体。それが組み合うことがなければ、あれは起こり得ない。
今後、デッサンは、心のどこかを押し殺して絵を描くはずだ。絵に激情が乗るとしても、その余剰が見立てとして発露することはきっとない。
あの時、見てしまったのだ。襲われ、殺される家族の姿を。それはきっと、デッサンにとっては恐怖になるだろう。
庁舎に戻ってから、あらためてふたり、冷静になって見立てをやっていくことにした。
「あの
「わざとやった。見つけてほしいという欲がある。デッサンに会いたがっている」
「アトリエを荒らしたのは、やはり死体画家としてのデッサンに惚れ込んでいるから?」
「それでいいだろうな。小さな失望だ。お前の魅力は死体を描くことにあるいう、メッセージだ」
「デッサンに会いたがる。となれば、次はデッサンの家族を狙うかもしれない」
「ありえる話ではある。デッサンが見てしまったものがあたりなら、次の狙いはマルクやペラジー、ミレーヌさんなど、デッサンの家族になる」
そこで、ダンクルベールが二度ほど手を叩いた。少しもしないうちに、ひとり入ってきた。
「どこまで掴んだ?」
「アトリエ荒らしと殺しは見た。それに、
「排水溝に押し込めたのは?」
「確認済」
「よし、目撃情報として上げておいてくれ。令状を用意している間、デッサンを守る必要がある」
「自分で守らせましょう、長官。恐怖を克服させる。デッサンは今、見えてしまったものに怯えてしまっています」
ウトマンの言葉に、ダンクルベールはいくらかの迷いを見せた。そうして顎髭を撫でながら、しばらく考え込んでいた。
「“
「かしこまりました。頭目は引き続き、対象の監視を。次を狙うとなったら、すぐに伝えて下さい」
「お安い御用」
それだけ言って、その
デッサンを射撃訓練場に呼び出した。アンリが手当したようで、顔は腫れているが、大した怪我ではなさそうだった。
パーカッション・リボルバーを差し出した。デッサンの身体は、びくりと跳ねた。
「お前の家族は、お前が守れ」
「僕は、絵を描くことしか」
「お前がやるんだ、デッサン」
無理やり、握らせた。デッサンの手は、震えていた。
「右手で銃を握るなら、左手に注意しろ。親指を交差するように、銃を握った右手を左手で握り込め」
震える身体で、標的に狙いを定める。奥歯が軋む音が、ここまで聞こえた。
「右足を半歩引く。右腕を伸ばす。左腕の膝は曲げていい。それで半身で構えることができる」
デッサンは言う通りに構えた。そのあたりで、身体の震えは収まった。ただ、呼吸は荒いままだった。
「撃鉄を起こすことで照準が露出する。それで狙いを定める。ただ、小さな場所、動く場所を狙う必要はない。動かず、大きな箇所。つまりは胴体だ。それならお前の視力でも狙いやすいだろう」
荒い呼吸のまま、撃鉄を起こした。右肩が上がりすぎている。対して左肘は下がりすぎていた。ウトマンはそれを、手で直していった。
「一発につき五秒。はじめ」
銃撃音。ゆっくりと、六発。標的には、しっかりと当たっていた。
「いい感じだ」
「どうしても、やらなきゃ駄目ですか?」
「駄目だ。お前は、お前を克服する必要がある」
「僕は、こわいです。見えてしまったものも、これから起こることも」
「それを乗り越えろ。もう一度、絵を描くために」
それで、デッサンの目が震えた。それが収まるまで、ウトマンはゆっくりと時間を使った。
「わかりました。やります。やれます」
「それでいい。ゴフたちも待機させる。何より、杞憂であればそれが一番だ」
そうやって、肩を叩いた。
「今、ここで銃殺して構わん。刑罰としても、それが妥当だろう」
セルヴァンに、ことの経緯を伝えた。表情は変わらないが、声は憤然としていた。
「人間と環境の管理に長けていると聞いて引っ張ってきたが、とんだ外れくじだったようだ」
「仕方あるまい。人間、何がきっかけで変質するかなどわからんよ」
「逮捕、及び家宅捜査の令状までおよそ二日。この間で何をやらかすか、です、閣下。デッサンの心をかき乱し、死体まで作り上げた」
「今すぐ拘束したまえ」
「可能ですが、デッサンの、心の恐れを乗り越えさせる機会を失います」
「俺は、デッサンを失いたくない。わかってくれ、セルヴァン」
「難しいことを言う」
表情は変わらないまま、眉間にいくらかの皺だけが寄った。
「私に見立ての素質がないのもあるが、デッサン中尉は、それほど恐ろしいものを見たというのかね?」
「家族。子どもふたりと、奥さん。それが、絵画の題材のためだけに死ぬという光景。到底、受け止められまい」
「なるほど。私にとっての、ガンズビュールだ」
それだけ、セルヴァンは自嘲するように言った。
セルヴァンにとってのガンズビュール。それは、心の籠城戦。誰が狙われるかわからない状況で、重責に耐え、ダンクルベールを信じ抜くという戦い。
そして、その果てにあった、壊れた愛。
「わかった、好きにやりたまえ。しかし貴様、部下をわざわざ危険にさらすとあらば、準備はできているのだな?」
それを言ったあと、セルヴァンはちらと、部屋の入口を見た。ウトマンもダンクルベールも、それには気付いていたので、同じ場所をちらとだけ見て、また目線を戻した。
「本当は“
「無理だな。危険が過ぎる。未だ未知数だ」
「ならば、知りうる限りで最も強固なものを使う。今、俺にとってのそれは、ゴフとデッサンの心と絆だ」
そう言って、ダンクルベールは軽く杖を鳴らした。合わせるように、セルヴァンも鼻を鳴らしていた。
「問題児の飛車角だ。貴様とて御しきれまい」
「無理に制御する必要はない。それだけのものを、あいつらは備えている。促し、導けばいいだけだ」
「人は育てなければ育たんと言う貴様にしては、珍しい」
「持論は変わらんよ。育て方にもそれぞれある、というだけだ」
「そうかい。まあ、しくじったとて骨は拾うさ。ダンドローに、馬鹿な真似をした報いを受けさせてやれるなら、私はそれでいい」
「必ず果たす」
「頼むぞ」
そうやって、セルヴァンは拳を突き出した。少しの逡巡もなく、ダンクルベールはその拳に、拳を合わせていた。
これもまた、知りうる中で最も強固な心と絆のひとつ。
準備は整った。さあ、どう動くか。何を見たい。何を見せたい。デッサンに一体、何をさせたい。
「デッサンの怒りを侮ったこと」
執務室の椅子。背もたれに、その巨躯を預けながら。
「その身を持って報いることになる」
ダンクルベールの青い瞳は、澄み渡っていた。
(つづく)
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