5−3

 大きな手のひらが、鍵盤の上に乗った。

 軽やかに、しかし優しく。ぽろぽろと水の音を綴る。朴訥と語りかけるように、その音は心を包みこんでくれた。

 ところどころに少しのつたなさがあるのが、またいい。素朴で静謐で、温かさが伝わってくる。

 横顔。しみじみとしている。子どもにも、こうやって弾いて教えているのだろう。それを思うと、愛くるしさが湧き出てくる。

 永遠に。しかしあっという間に。その時は過ぎていく。



「お上手でしたわ、ダンクルベールさま」

 思わずで駆け寄っていた。ダンクルベールは恥ずかしげに頭を掻きながら、にっこりと笑った。

「お恥ずかしい限りです。弾けるといいましても、子ども用の楽曲ですし」

「十分、十分ですわ。わたくしなんて買ったはいいものの、全然弾けなくって」

 その言葉に、やはりダンクルベールははにかんでいた。


 馴染の骨董品屋に、アップライト・ピアノが入っていた。

 心得はないが、マホガニーの深い杢目もくめが美しかったので、書室のインテリアぐらいにと買ってみたのである。

 買った以上は弾かなくては、とも思ったが、これが案外以上に難しい。譜面を読むのがまず大変で、左手と右手をそれぞれに動かすのが難しく、反復記号がページをまたいでいるともなれば、どこからやりなおすのかがわからない。

 さてどうしたものかと思い悩んでいた頃、ダンクルベールから相談があると訪いがあった。娘ふたりのためにと、同じくアップライトを買ったのは聞いていたので、頼みに頼み込んで弾いてもらったのだ。


 たった数分。それでも十分に、幸せな時間。


「一件、増えました。やはり腹部を滅多刺し。傷口には、人間の噛み跡も残っていたそうです」

 改めて緑の瓶などを用意して、居間で向かい合って座った。ここ二ヶ月で起きている猟奇殺人について見解を聞きたいとのことだった。

 メタモーフ事件以来、ダンクルベールは何度かこうやって、パトリシアのもとを訪れてくれた。ダンクルベールという巨才と向き合うこと。そしてこのひとそのものと言葉を交わし、心を通わせるということ。それがなにより嬉しいことだった。

 犯罪捜査に心得はないが、本業作家である。謎解きは領分のひとつだ。

「まさしく人狼ルー・ガルーですわね。人の生き血をすすり、肉を喰らうだなんて」

「それと今回、同日に、商家への押し込み強盗が起きています。全員惨殺。金目のものは、ありったけ奪われている」

 へえ。思わず、そういう呟きが口から出ていた。


「これが本来の人狼ルー・ガルー。いえ、人狼ルー・ガルーたちね」

 パトリシアの言葉に、ダンクルベールは得心したように頷いた。


「何かしらのコミュニティの中にいた。自身が人狼ルー・ガルーであることが知られた。しかしコミュニティ自体は人狼ルー・ガルーの存在を撒き餌にして、本来の企てを動かしはじめた」


 見つめ合う瞳。まるで晴れた空のように、広く、深い青。

 ダンクルベールの色。


人狼ルー・ガルーはなぜ、噛みつくのかしら?」

 まずは、それを聞いた。


「発散ではない。落ち着こうとしている。直前にいやなことがあった。それを抑え込んでいる。あるいは拒んで、逃げようとする。血に酔うこと。手段としてそれを知っている」

「発想、着眼点よし。道徳に反すること?」

「おそらく。汚らわしいこと。たとえば、女の体」

「もっと生々しいもの。きょうだいとか」

「近親相姦?いや、女の奔放さ、そのもの。受け入れられない。関係を強要されている。それを受け入れてしまう自分も、また」

「肯定。敬虔な教徒。そして、そういうコミュニティ。それでいて手を汚すこと、血にまみれることに躊躇ためらいがない。生き延びるためにそういうことをしている」

「悪党。盗賊。それも余所者。ヴァルハリアかユィズランド。流れてきた。足場を探していた。人狼ルー・ガルーはそれを無視して、あるいは衝動的に犯行に及んでいる」

「女を狙うのは、女から目を背けたいから?」

「はい、夫人。だから共通項がある。外見的特徴、身分、役職に一切の共通点はない。私たちは今、そう思い込んでいる」

「目に見えないもの。声質、表情」

「いいえ。やはり、目に見えるもの。何かこう、わかりづらいもの」

「ほくろ」


 パトリシアのその言葉に、ダンクルベールがはっとした顔を見せた。

「首筋。もしくは、うなじ」

 にこりと微笑んでみせた。それでダンクルベールもまた、微笑んだ。


「男。まだ若い。ほくろのある女に関係を強要されている。その女もまた、コミュニティの一員。敬虔なヴァーヌ教徒。となれば南ユィズランドからの移民かも」

「恐れ入りましてございます。やはり頼って正解でした」

「いつでも頼ってちょうだい。あなたがいないとわたくし、寂しいですもの」

 そう言うと、ダンクルベールは恥ずかしそうに頭をかいた。その仕草がほんとうに可愛らしかった。


「ご内儀さまとは、うまくできているかしら?」

「ううん。正直、うまくいってないですね。ほんとう、難しくって。娘たちにも心を開かないものですから、どうしたらいいか」

「あらまあ。せっかくお腹を痛めて産んだ子なのに」

「そうですよね。リリィのピアノの先生が歳が近いので、仲よくなれるかとも思ったのですが、そうでもなく。それに、私のほうが先にピアノを弾けるようになったのにも怒っちゃって」

「それはまあ、大変ですこと」

 おかしさに笑ってしまった。

 ダンクルベールのご内儀さま。一度、顔を合わせたことがある。下の娘のキトリーが産まれてすぐのあたり。ちょうどその頃に出版した“きらきらするものと”の宣伝のために、首都に行ったときだったはず。

 ありがたいことに拙著のファンだそうで、目を輝かせて話をしてくれた。

 良家のご令嬢。嫁ぎ先が決まっていたが、向こうの都合で破談となり、そうして次に決まったのがダンクルベール。父親が濡れ衣を着せられた窃盗事件を解決したのがきっかけらしい。ただ父の恩人とはいえ、生まれや見てくれの部分で納得しきれないところが多いようだった。

 最初のうちは同情や理解を示せたが、男や家庭に対する要求の多さから途中で辟易してしまい、それなり相槌を打つ程度で終わってしまった。

 ダンクルベールもダンクルベールで女心には疎いところがあるので、ああ確かにこれじゃあ噛み合わないだろうな、と内心、毒づいた。リリアーヌとキトリーに対する愛情が産まれれば、あるいは。もしくは女友だちとか。でもあの性格だと難しいだろうな、とも。


 そのうち、眼の前のダンクルベールの様子におかしいところを感じはじめた。

「ダンクルベールさま、いかがなされました?」

「あ、いえ。特に何も」

「そうかしら?なにか、そわそわしてらっしゃるようですけれど」

 言いながら、思い当たった。

 静かに席を立つ。そうして窓の方に足を進めた。外を眺める。

 いた。確かに。男、数人。それもこちらをみとめた途端、気まずそうに逃げ帰っていった。

 思わず、大きなため息が出ていた。

「あの喧嘩屋さんね?」

「はい、夫人。申し訳ありません」

「仕方のない人」

 ダンクルベールの申し訳なさそうな顔に、こちらが大人になるより他はなかった。

 起立を促す。そうして襟元を正してあげて、これでよし。

「いってらっしゃいませ」

「すみません。いってまいります、夫人」

 とろけそうな笑顔ひとつ、そそくさと外に出ていった。


 ガンズビュールに来てくれること。嬉しさと同時に、引っかかることもひとつあった。

 細腕ほそうでのアキャール。この近辺の悪党の元締めである。それと随分以上に仲がいいのだ。


 来るたび、パトリシアのところにも顔を出してくれるが、同じようにアキャールのところにも遊びに行く。そうして必ず喧嘩をするのだ。それも酒場でちょっとした小芝居を見せびらかしてから、同じ酒を交わして、そうやって散々、周囲を盛り上げて、殴り合う。

 こっそり見に行ったことも、何度かある。活劇の真似事みたいなつたないやりとり。そして何もかもをさらけ出した大喧嘩。ふたりとも、はじめからおわりまで、ずっとにこにこして。連戦連勝ならともかく、ちょくちょく負けるし。

 向こうとも面識はある。いくらか細面ほそおもての、気障きざな男。背丈はそれほどないが、見た目は悪くない。メタモーフ事件のあとに挨拶しに来た。ちょっと軽いが、それでも丁寧な立ち振舞で、悪い印象はなかった。


 それでも、それでもである。


「あんな男の、何がいいのかしら」

 ピアノに向かいながら、そんなことをぶつくさ呟いてしまった。


 ああもう。どうして男というのは、女よりも男のほうに入れ込むんだか。コンスタン、アキャール、その他もろもろ。あのひとったら、ほんとうに人たらし。惚れたこっちが馬鹿みたいじゃない。あるいはほんとうに、そうなのかもしれないけれど。

 それでも、それでもである。

 我が愛しのオーブリー・リュシアン。覚悟なさい。絶対に見返して、振り向かせてやるんだから。


(つづく)

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