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 ぱん、と。手の鳴る音。

「実験、成功。ちょっと疲れるが、ごはんを多めにすれば、どうにか戻せる。ペルグラン君のほうは大丈夫かね?」

「特になんとも。便利なものですね」

 “ルシャドン伯の決闘”とプレフェリト・デ・ペスカトリのアマービレを抱えて戻ってきたペルグランに対し、ダンクルベールは座ったまま、ぽかんとした表情をしていた。付き合いの長いダンクルベールをしても、理解が追いついていないのか。

「後はこう、繋がるきっかけというか。そういうものを用意すれば、いつでもどこでも駆けつけれるはずだ。何にしようかな?匂いが強いものは、大丈夫かい?」

 首肯する。


 夫人は上機嫌に、またちょっと遠くの方に行ってから、戻ってきた。

 桃色の香水の瓶と、それよりちょっと小さめな空の瓶。眼の前で、それを少しだけ移した。

「私のお気に入り。これを合図にしよう」


 差し出された小さな瓶から、一滴だけ手の甲に乗せ、香りを見る。

 甘い。でもすっきりとして、後ろにちょっと生姜とか、そういうのがいる。全体的には果実の甘さだ。確かに夫人に近づかれた時、こんな香りがした気がする。きれいな女のひとの、におい。

 前までは、近寄られたり、弄ばれたりしただけで、心臓が跳ね上がったり、最悪の場合、下の方がち上がったりしたものだが、いつしか慣れてしまった。なんだか勿体ないものをなくした気がする。あるいはヴィジューションでのお仕置きで色々とうしなってしまったのかもしれない。恥ずかしさと、あの至高の美味。今でも思い出しては、心の中が難しくなる。

 ゴフ隊長に女遊びに連れ回されたのが悪かったのかもしれない。しばらく控えよう。あのニコラ・ペルグランのお血筋が、よもや遊女に童貞捧げて、しかも入れ込んでるだなんて。ばれたら母上に叱られてしまうかもしれない。でもなあ、心底に惚れてしまったものは仕方ないよな。それにもう、会いに行けば、銭を払わなくたって遊んでくれるぐらいになってしまっているし。

 いっそ腹を括っちまって、とっとと娶ってしまおうか。よし、そうしよう。叔父さんの従兄さんあたりなら市井にいくらかの理解があるし、そこの養子にしてもらえれば家の面目も立つだろう。最悪、廃嫡もありうるが、今となっては寂れた漁港のいくつかを持っているだけで、さして稼ぎがある家でもない。ニコラ・ペルグランのお血筋だとか、アズナヴール伯とかいうご大層な肩書きなんかよりずっと価値のある、とびっきり愛しい、自分で見初めた人なんだから。

 会いたいなあ。行けばいっつも甘やかしてくれる。子供みたいに抱きしめて、頭を撫でてくれる。最初は恥ずかしかったが、今では嬉しさが強くなっている。それこそ今日、行こうかな。ビリヤードして、札遊びして、ゆっくりお酒飲んでさ。酒と煙草で軽く炙った、あのハスキーボイス。

 よし、決めた。遊女上がりの姉さん女房。それで行こう。政治の話を抜きにすれば、長官や局長閣下も、大笑いで。でかした、男の夢だ。なんて言ってくれそうじゃないか。

 あるいは先に、市井に理解の強いブロスキ男爵マレンツィオ閣下に顔合わせして、仲人なんかも頼んでしまおう。そうすれば天下御免の箔もつく。順番としては、それがいい。

 向こうの方は、ジスカールの親分にでも頼んでみよう。面倒見もいい任侠さんだし、あしじゃなく、手順通りに会って、真正面から筋を通せば聞いてくれるだろう。諸々含めると、一年ぐらいかな。決めたとなれば、ゆっくり時間を掛けて、急がず焦らずだ。

 夫人は、どうかなあ。恋愛小説の巨匠とはいえ、性格が合わないかもしれない。会いたいといわれたら、会わせるかな。一応この人も、国家機密だしね。



「あの、ペルグラン君?」

 ふと、声になって聞こえたものがあった。

 夫人の声。


 顔を見やると、その美貌を気恥ずかしそうに赤らめながら、くすくすと微笑んでいる。隣のダンクルベールは、なんだか訝しげな表情である。



「ごめんね?全部、聞こえちゃった」



 今度は、こちらが顔を赤くする番だった。


(つづく)

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