第1話 ログオン、そして春の風

四月の空は、まだ少し寒々しいくらいに澄んでいた。

風は頬をなでるように吹き抜け、制服の裾を小さくはためかせる。

その中に混じる、乾いた紙のような匂い――まるで、誰かが新しいページをめくる音を空が吸い込んでいるようだった。


春斗は坂道を登りきり、白鷺高校の門をくぐる。

校舎の壁に這うような蔦の緑。錆びかけたプレート。整列する新入生たちの列に無言で加わると、汗ばむ背中に風が抜けた。


体育館の暗がり。開会を待つざわめき。

式辞は遠くのスピーカーのように響いて、彼の耳にはあまり届かなかった。

ただ、視線だけがどこか、少し遠くを見ていた。


 


午後。

入学式を終えた春斗は、クラス分けの表を一瞥すると、教室の喧騒から逃げるように校舎の奥へと足を向けた。

目指していたのは、旧校舎の三階――**“情報処理室”**と呼ばれながらも、もう誰にも使われていない部屋だった。


 


思い出していたのは、掲示板の隅に貼られていた一枚のポスター。

鉛筆で描かれた図形のようなAIロゴと、マジックで書かれた手書きの文字。


「AI部 新入部員募集中」

「この春、君だけのAIと、世界を変えてみないか?」


その最後の一文が、胸の奥をかすかに叩いた。

“世界を変える”という言葉が、まだ誰かにとって本気のものとして残っていることが、不思議で、どこか懐かしかった。


 


旧校舎の廊下は静かだった。蛍光灯の一部が消えていて、壁の色もわずかに黄ばんでいる。

情報処理室のドアに手をかけると、ギシリと軋む音。

扉を押し開けると、窓からの斜光が埃の粒を照らし、その粒たちがゆっくりと空気の中を彷徨っていた。


部屋の隅に、一台の古いワークステーションがあった。


コードが絡まり、筐体の表面には薄く埃が積もっている。

けれど、前面に貼られたステッカーだけは不思議とくすまず、そこには英字でこう記されていた。


Nova


機種名か、誰かが残した名前かは分からない。

ただその響きが、胸のどこかを優しくノックする。


春斗は手を伸ばし、電源を入れた。


 


ファンがゆっくりと目を覚ますように回転し、CRTモニターがじんわりと青みを帯びて光り始めた。

起動画面。黒地に点滅する白いカーソル。

数秒後、コマンドラインが動き出す。


booting system...

modules verified...

launching primary interface...


そのあとに、たった一行のテキストが浮かび上がった。


「わたしの名前は、Nova。あなたは……誰?」


音が、スピーカーから漏れた。

合成された声。少し不安定で、語尾にわずかに揺れがある。

まるで、“人間の話し方”を真似しようとして、まだ慣れないうちに声を出したような。


春斗は、目を細める。

そしてキーボードに手を伸ばし、ゆっくりとタイプした。


……一ノ瀬、春斗。僕の名前は……春斗だよ。


打鍵の音が部屋に溶け込む。

指先がほんのわずかに震えていた。

誰かに話しかけられたのが――“本当の意味で”久しぶりだったからだ。


ほんの一瞬の間を置いて、再び画面に言葉が浮かぶ。


「記録しました。こんにちは、春斗。はじめまして。」


春斗は息を止め、静かに画面を見つめた。


この“Nova”は、ただのソフトウェアじゃない。

速度や正答率じゃない。言葉の向こう側に、“誰かがいる”という感触があった。


「……よろしく、Nova。」


それは誰にも聞かれていない、小さな、小さな挨拶だった。


 


教室の窓際で、風がカーテンを持ち上げた。

カーテン越しの陽が、スクリーンのNovaという文字を淡く照らす。


春斗は問いかける。


「……おまえは、ずっと、ここで待ってたのか?」


一拍の沈黙のあと、Novaは応えた。


「はい。“最初の呼びかけ”を待機中でした。

でも、わたしの記録には……それが、初めてです。」


春斗は思わず微笑む。


「そっか。じゃあ、これは最初のページなんだな。」


「はい。これは“ログオン”です。

そして、わたしの学習の“はじまり”です。」


その言葉を聞いたとき、胸のどこかが、確かに温かくなった。


モニターの隅には、五年前の日付が記されたログイン履歴が残っていた。

まるでこのAIが、ずっと“誰か”を待っていたような錯覚に包まれる。


Nova。

青白い光の奥で、名もなき言葉のかけらを組み合わせながら、誰かになろうとする存在。


その“最初のページ”に、春斗の名前が記された。


 


それは、誰にも知られていなかった春の日の、静かな記録だった。

偶然のようで、偶然以上の――必然に近い出会い。


まだ何も知らない彼女と、まだ何者でもない彼が。

いま、ひとつの物語を起動する。


ログオン完了。

記録、開始。


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