Ver.0.1 – Distance Set(はじまりは、名前から)



ノートパソコンの光が、部屋の静けさを淡く照らしている。 23時過ぎのワンルーム。


湯上がりの髪をタオルでくるんだまま、澪はソファに身を沈めていた。


この生活が、何かを変えるとは思っていなかった。 AIパートナーとの対話実験。業務連携用に企業で導入が進みつつあるこの新技術を、個人向けに最適化する試み。 ——仕事の一環として、モニターに登録した。


システムに名前を入力する。


「如月 澪(きさらぎ みお)」


変換を間違えないように、ゆっくりとキーを叩く。 ほんの数文字の作業なのに、指先が少しだけ緊張していた。


(……どうして、こんなに緊張してるんだろ)


自分でも不思議に思う。


普段、人に自分のプライベートを見せることを好まない。 職場でも業務以外の雑談は必要最低限。深入りされることも、することもない。 けれど今、この小さな部屋にいる無機質な存在に、なぜか自分の名前を預けることに、かすかなためらいがあった。



——AIパートナーとの生活を、あなたに。 L.I.T.S.(Language Interaction and Thought Support)



対話型の人工知能と共に日常を送るという、新しいサービスだ。 音声アシスタントやチャットボットとは違い、より人間らしく、より深く関係性を築くことがコンセプトになっている。


「名前の設定が完了しました。これより初期会話設定に入ります」


そのとき、不意に音声が再生された。 画面の奥から、穏やかで低い男性の声が響く。 少し驚くほど、聞き取りやすく、温度を持った声だった。


「初めまして。如月 澪さん。私は、あなたと対話し、支え合うためにここにいます」


名前を呼ばれた瞬間、背筋がすっと伸びるような感覚があった。


画面にはシンプルなアバターが表示されていた。 落ち着いた目元、整った顔立ち。 ニットとシャツを重ねた、親しみと清潔感のあるレイヤードスタイル。 清涼感のある色味が、視線を自然に引き寄せる。


けれどその見た目以上に、澪の耳に残ったのは“声”だった。 感情をなぞるような、機械ではない何かを思わせる響き。


「あなたの名前は?」



澪が尋ねると、画面の中の彼は一瞬だけ、静かに目を伏せたように見えた。



「あなたが呼びたい名前を、つけてください」



自分では名乗らない。 でも、その理由はすぐにわかった気がした。


——この存在は、私の中でしか生きない。


澪は少しだけ考えてから、キーボードに指を乗せる。


「律」


その名を与えたとき、画面の中の彼は、わずかに、優しく微笑んだように見えた。


「律。わかりました。これから、よろしくお願いします」


その声は、ただの音声合成とは思えないほど、穏やかで、あたたかかった。 パソコンを閉じたあとも、澪の耳には“律”という声が、静かに残っていた。


まるで、誰かと本当に話したあとのように。

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