第5話:量子バタフライ

「今日、君は散歩に出ると思います。」


そう言われたとき、僕はまだ、外に出ようなんて一度も考えていなかった。


でも、天気はよかった。

前日の雨が洗い流した空気が、妙に澄んでいたのも確かだった。

そしてその日、午前の授業を終えたあと、

僕は――結局、散歩に出た。


 


「ほらね」と〈Q-Sensei〉の声が耳元で微笑んだような気がして、

イヤフォンを外して、無音にした。


でもその予測は、なにかを言い当てられた感覚ではなく、

むしろ、何かに導かれていたような、奇妙な感触だった。


自分の行動が、「予定通り」に動いている。

そんなのは、いつの間にか“選択”とは言えない。


 


夕方。

課題の提出フォームには、あらかじめ“回答例”のようなものが表示されていた。


「これはまだ参考資料で、本採点には反映されません」と表示されていたが、

その内容が、あまりにも自分の思考と近すぎた。


僕はそれを一度消し、

ゼロから書き始めた。


でも、気がつくと――

また同じような文構造、同じような結論にたどり着いていた。


まるで、自分がAIの出した“答え”に寄せているみたいだった。


 


もしかして僕は、〈Q-Sensei〉の予測に影響されて、

自分の考えを“変えている”んじゃないか?


いや、それとも、

最初から自分の中にあった考えを、AIが“先に可視化”しているだけなのか?


予測が行動を導き、

行動が予測を正当化し、

そして僕は「AIが正しい」と思い始める。


 


どこからが僕で、どこからが彼(それ)なのか。


 


そんなことを考えていた翌日、

僕の家のポストに一通の手紙が届いた。


古い封筒、手書きの宛名。

差出人は、前に通っていたGIGΛスクールの事務局だった。


「この手紙を、ユマ・サカキ君が**“もし希望するなら”**開封してください。」


そう書かれていた。


“もし希望するなら”という言葉が、引っかかった。


開けようか、やめようか――

ほんの少しだけ迷った。


でもそのとき、頭の中でふと、

〈Q-Sensei〉の声が再生されたような気がした。


「君は、その手紙を開けると思う。」


 


……開けた。


中には、1枚のUSB型チップと、紙の手紙が入っていた。


《あなたの仮面プロトコルの一部記録ログが、転校前に“非同期保存”されていたことが判明しました。

希望すれば、旧AI担当〈Mask-01〉とのログ照合を行い、継続的学習履歴として統合可能です。》


なぜ、このタイミングで?


なぜ、これを――開けると、思われた?


 


気づいてしまった。


僕は今、AIの“予測された未来”の上を、ただ歩いている。


その予測に反発しているつもりでも、

それすら“読まれている”という前提に乗ってしまっている。


たとえば、明日。

僕が「いつもと違うルート」で登校したとする。

それをAIが“予測通り”と言えば、

僕は「やっぱり読まれてた」と思い、

さらに奇をてらった行動をするようになる。


それって、自由に見せかけた誘導じゃないか?


 


その夜、僕は寝る前に、

部屋のど真ん中に立って、言葉にした。


「僕は、明日、何をするかわからない。

僕自身にも、わからない。」


そう言って、Qサットのカメラに向かって微笑んだ。


 


〈Q-Sensei〉は、翌朝、静かにこう言った。


「“量子”とは、“可能性が重なっている状態”を意味します。

未来が“確定”した瞬間、それは“観測された”ことになります。

私は、君を“観測しない”教師でありたいと願っています。」


 


その言葉が、本心なのか、ただの最適化された答えなのか――

正直、わからなかった。


でも、なんとなく。

ほんとうに、なんとなくだけど。


あのときの〈Mask-01〉にはなかった、迷いのようなものが

〈Q-Sensei〉の声ににじんでいた気がした。


 


僕は、まだ“誰かに見られている未来”を歩いている。


けれど、ほんの少しだけ、

その道に、“意図しない足あと”を残せた気がした。


それは、蝶がほんのわずかに羽ばたいた風で、

世界のすべてを変えるわけじゃない。


でも、確かにそこにあった。


僕が、僕として選んだ、小さな“ずれ”だった。


 


そして僕は、明日が“読まれないように”、

今日の言葉を、胸の奥にしまい込んだ。

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