影なき者たち
御坂稜星
影なき者たち
女が歩いてくる。
陽光にも負けない明るいブロンド。強めにウェーブのかかった、恐らく肩甲骨の下辺りまで垂れているだろうセミロング。
前回会った時はブルネットのボブヘアーだったが、今はそのほうがビジネス上都合がいいのだろう。
もっとも女というのは何かにつけて髪型だの服だのを変えたがる生き物で、今日も今日とてお決まりの暗色系スーツではなく、ビタミンオレンジのTシャツに
腰にはこれまた染みひとつ見当たらない白のカッターシャツを結んだりしている。左手にキルト加工柄のミントグリーン色したロングウォレット。
ダニエル・ニューマンは憤懣やるかたない面持ちで、食べさしのチョコファッションをダンキンドーナツの紙ナプキンで丁寧に包み直した。
特段空腹を覚えていたわけでも甘味を欲していたわけでもなかった。が、長い軍隊生活で染みついた習性というべきか、先に着いてしまうのはわかっていたから時間潰しに用意したに過ぎないそれを傍らの椅子に置いた紙袋に戻す。
同じくダンキンでテイクアウトした三月にしては熱すぎるコーヒーをテーブルから取ってすする。ミルクを入れてもらえば少しはぬるくなったかもしれないが、混雑していたのも手伝ってそこまで思考が回らなかったのだ。
椅子の背に畳まれたサンドカラーのフィールドジャケットに伸びた手を引っ込める。ニューヨークはマンハッタンのど真ん中、そんな場所の屋外で喫煙できるわけもない。
「少し痩せたかしら、少佐」
時間ぴったりにダニエルの向かいに腰を下ろした女――デイジー・モーテンがウェリントンフレームサングラスを人差し指で下へ滑らせる。漂うラベンダーの微香。薄いブルーの瞳。長いまつ毛にわずかに茶味がかったアイライン。
「もう少佐じゃないし、そういうあんたは少しばかり丸くなったんじゃないか」
挨拶代わりの厭味が口から出る。
人を隠すなら人の中――情報局員としてのプロ意識がそうさせるのだろうが、週末のピクニックの予定を話し合うじゃなし、同じ人目があるでもイーストリバー沿いの閑静な遊歩道のベンチで事足りたはずなのだ。安直にセントラルパークを選択しなかったところに多少の良心が窺えるものの、いずれにせよ賑々しいのは嫌いだ。
しかも目立ちたくないわりにはブライアントパークのわざわざ混雑する時間帯を選んできたのもさることながら、タイル敷きの通路を歩いている間道中の男たちの注意を引いていることには気づいていただろうに、もしくはそれが予見できたはずなのに何もしないことにしたのも気に食わなかった。
ブライアントパークは五番街と六番街に挟まれた東西に長い市立公園で、周辺の高層ビル群――エンパイアステートビルやロックフェラーセンターといった有名どころも目と鼻の先だ――に勤める会社員たちの憩いの場、まさしく都会のオアシスになっている。
また園内東側の「ブライアントパークグリル」は世界経済の中心地を拝みに来た観光客でいつ
会社員だけでなくそれらから足を向けた人々が通路にひしめく濃緑色のアイアンガーデンテーブルセットは言わずもがな、園内中央に広がる芝生にすらそれを持ち出して――自由に移動していい決まりだ――休日ほどではないものの、今もコーヒーブレイクを楽しんだりおしゃべりに興じたりと様々だ。芝生に直接坐る者や、寝転ぶ者、パートナーの膝枕に頭を預ける者なども散見され、各々が思う存分に春の陽射しを満喫している。
デイジーは毎度のごとくメールで会合場所を指定してきた。
実に三ヶ月ぶりだ。三月十九日、午後十二時十分、 ブライアントパークのこちらが指示する場所で待つこと。
パークを訪れるのは初めてではない。しかし当日席をひと目見て頭を抱えたくなった。
テーブルひとつに椅子がふたつ、そのうち片方の椅子にだけ「BRYANTPARK」の白抜きロゴ入りパラソルがみっつ。
あるいは彼らの世界では意味のあることなのかもしれなかった。
だがダニエルにとっては陽差し厳しい真夏でもあるまいに、ただただ悪目立ちしている以外の何物でもなく、せめてもっと端へ引っ張っていきたかったが、メール末尾の「なお指定場所にある如何なる物品の移動も禁ずる。異論は認めない」の定型文を思い出して断念した。
こうして街中でデイジーと落ち合うのは今回が初だが、場所のセッティングといい立ち居振る舞いといい、その支離滅裂さには例によって閉口するしかない。
「あら、女性に対してあんまりだわ。でもきっとその通りなんでしょう。豆とかとうもろこしが比較的ヘルシーで、同じ席で食事するのが友好の証だとしても何かと会食ばかりだとやっぱりごまかせないのよね」
ダニエルの苛立ちなどどこ吹く風、挑発には乗ってこない。
「へえそりゃ仕事のし甲斐があるな。あんたが丸くなればなるほど向こうはあんたを同胞として受け入れてくれるだろうさ。美人の基準は国ごとに違うからな」
感情が抑揚に乗らないよう留意しつつ皮肉たっぷりに畳みかける。
性懲りもなく現在進行形で中南米のどこかしらにちょっかいを出しているのだと察しがついたが、訊いたとてはぐらかされるか良からぬ用事に
デイジーは微苦笑する。
「なら可能な限りあちらさんの美人基準を満たす前に仕事を終えたいわね」
「そのわりに一時帰国とは余裕あるじゃないか。それほど平和な案件ということかね」
「詳しくは話せないけれど」サングラスを外し、Tシャツの胸元に引っかける。「釣りと同じよ。四六時中ルアーを動かしてばかりじゃ釣れないこともあるの。じっとして安心しているふりをして、待って……相手の油断を誘うのも仕事のうちよ。それでかかる大物もいる」
「なるほど、俺の件は要するについでか。こっちはもう三ヶ月近く焦らされているんだが」
ダニエルは肩をすくめた。本心ではなかった。
十二月の用事のあと、まるで忘れ去られたかのようにふっつり連絡が取れなくなった時に抱いた焦燥感を思い出して一瞬苦い気分になったが、それはそれとして他愛のないように見えて下手に触れたら火傷しそうな近況報告にさほど興味をそそられるわけでもない。本音を言えばさっさと本題を済ませてこんなごみごみしたところからおさらばしたい。
「ついでなんて心外ね。頼み事についてはずっと最新情報を収集しているわ。ただそう……何をどこまで探るか吟味が必要だったのよ。聞いてがっかりとはなりたくないでしょ」
デイジーは表情を曇らせた。
並みの男ならこれだけで余計な口を滑らせてしまったと狼狽してしまうだろう。もちろんダニエルには今さらなんの効果もない。髪型を変え服装変え、加えて時に国籍も変えるこの女の、こちらの目と耳に入る限りの上っ面は何ひとつ信用できない。
しかし同時にダニエルは自らの煩悶を自覚する。
半年前、ファンデーションの如く欺瞞を塗り固めた身分を持ち、息をするように嘘を吐く腹の知れない相手に対してどうしようもなくプライベートな問題を託す決心をした時から――。
それでもルーカス・ベイトンの失踪に関して今現在ですら他に取れる手段が皆無だという事実を目の前に、当時他に何をどうできただろうか。
昨年の自分はどう言い繕っても彼女を頼るしかなかったし、その点はこれからも変わり得ない。
自ら進んでトラブルの種を抱え込んでいるのは重々承知の上だが、身内の、なかんずく血を分けた兄弟に関することとあればこの苦難や懊悩にも耐える意味があるだろうとこの半年間ずっと自身に言い聞かせてきた。
とはいうものの、その利用し利用される関係に今日ようやくひとつの区切りがつく。
デイジーは膝の上に置いたロングウォレットを開き、大人の親指の中ほどまでの長さしかないフラッシュメモリを取り出した。三十二GBという表記以外にはなんの意匠もない真っ白で無機質なデザインだ。
デイジーの顔から表情が消える。薄めの唇がいかにも大事な話をするぞと引き締められる。コーラルピンクのグロスが光る。
割れも欠けもひとつもないクリアジェルネイルに彩られた白い指先が、ダニエルの目の高さでその存在を誇示するようにフラッシュメモリを半回転させる。
「必ずスタンドアロンのラップトップで閲覧すること。コピーは厳禁、プリントアウトなんてもってのほか。用が済んだら燃やすか砕くかして、燃え残りまたは灰、破片はすべて集めてランダムに混ぜたあと数回に分けて処分すること。もしそれらを怠ったことが原因で情報が漏れたとがわかったら、以後はもう協力できないわ」
デイジーは厳しい視線を向けてくる。幾度となく聞かされた文句ではあったがダニエルは頷いた。
この女のやっていることは間違いなく真っ黒だが仕事はいつも完璧だったし、彼女のバックにある組織――その影響力と時代に跨がる数々の大罪――を思えば、ないしそれを敵に回した時の己の無力さを自問すれば大人しく指示に従うのが賢明だ。
「いいわ、これはもうあなたのもの」
デイジーは微笑むとダニエルの色褪せて擦りきれたフィールドジャケットのポケットフラップをつまみ上げ、隙間にフラッシュメモリを滑り込ませた。
「……助かる」
半ばささやくような声になる。
喉が渇いているような気がしてコーヒーを多めにひと口含む。
骨を折らせているぶんもっとしっかり礼を告げるべきかと毎度考えるが、欲するものが手に入る反面、たかがごみ捨てという市民の下世話な生活習慣に人生が左右されるストレスはなかなか無視できない。正直毎回胃が痛くなる。
「それから、今回はこれも受け取ってもらうわ」
デイジーは再びロングウォレットのファスナーを開き、何やら長方形の紙片の取り出すとこれもフィールドジャケットの同じポケットへ差し入れた。
差し込む途中で裏返しだった紙片が微風に
市販のものではなくオーダーメイドデザインの、ついでにもらう心当たりもない小切手。その気になれば電子手続きで事足りるのに、紙などというアナログこの上ないアイテムを持ち出してくるのはなんだかんだ足がつきにくいからだろう。
「口止めのつもりか?」
怪訝に思う気持ちが思わず口をつく。デイジーは涼しい顔で首を降った。
「いいえ、報酬よ。成り行きとはいえあなたは私たちのために本当によくやってくれたわ」
「順序が逆だろう。こっちの依頼に対しての対価があんたが俺に言いつけてきたあれこれだと思っていたが。こちらは対価を払い、そして依頼は達成された」
ダニエルはフィールドジャケットを見やった。怪訝が不審に変わる。
デイジーとは持ちつ持たれつの関係ではあるものの、実態は極めてドライなビジネスパートナーと言い切って相違ない。しかもダニエル自身はデイジーらのいわゆる機密と推察されるミッション――彼女たちの言葉を借りれば用事――にしばしば駆り出されているとはいえ末端も末端、それこそ掃いて捨てるほどいる“とかげのしっぽ”に過ぎない。
その“しっぽ”にわざわざご褒美を準備する意味――果たしてデイジーは当初の取り決め通り、現在の関係をすんなりクリアにする気があるのだろうか。
よもやここぞとばかりに小金を摑ませて既成事実さえ作ってしまえば、あとはなし崩し的に懐柔できると考えているのではあるまいか。使い勝手のいい手駒――そんな言葉が頭をよぎる。
今なら問答無用で突き返すこともできる。
が、少なくとも手を貸してもらった恩はあるし、あまり勘繰りたくはないがここは
気持ちを落ち着けるために一度息を吸い、ゆっくりと吐く。
「報酬ね……。あんたと直接顔を合わせるのは今日でやっと三回目だな」
「ええ」
「去年の九月に陸軍を追い出されてからこっち、俺が元軍人なのをいいことに、やれ秘密の会合の警備だの得体の知れない要人の護衛だのと
「もちろん。その通りだわ」
「それならなおさらだな。なぜ前回だけ例外なのか教えて欲しいもんだ。それ以前の用事では経費はともかく報酬やそれに類する何かなんぞ一切出たためしがない」
確かに前回の用事は特にタフだった――四ヶ月前、厳冬期のアパラチア山脈。
軍人の端くれである以上撃ち撃たれる死戦は十指では足りないほどくぐってきたが、降りしきる雪の中たったひとり、素性の知れない純白の一個小隊に執拗に追いかけ回される不気味さと七・六二ミリライフル弾が身を潜めたモミの幹を容赦なく削り取っていく戦慄は容易に忘れられるものではない。
今でも時折夢に見る。それはさておきダニエルにも人生設計がある。
先月かねてから知人のつてでアプローチしていた警備会社に技能訓練アドバイザーとして働き口が決まった。世界に名だたる当局にはとっくに筒抜けだろうが、今さら邪魔立てされてはたまらない。
「この期に及んでひとの命に値段をつけるとはずいぶん厚かましいんだな。恥知らずだとは思わないのか」
意図せず厳しい物言いになるも気が咎めたりはしない。あとあとのためにもこの場でスタンスをはっきりさせるべきだ。金で飼われるのも金で釣ればなんでもやると誤認されるのも御免被る。
デイジーはしばし小首を傾げて不思議そうにダニエルを見つめていたが、刹那
「どうかしら。あれは言うまでもなく報酬でそれ以上でも以下でもない。あなたは私たちの用事を十全にこなし、私たちはあなたの献身に応えた。取引としては充分イーブンだわ。ただ十二月の用事についてはあなたのほうが損害が大きいと最終的に判断されたから後追いで埋め合わせたに過ぎない。そこに他意はない。貸し借りはなしにしたいんでしょうけど――聞くところによると用事を済ます過程でお気に入りのSUVを爆破されて自宅も半焼したそうじゃない。受け取りを強制はしないけど、あまり現実的とは言えなさそうね」
ダニエルは
十二月の用事のレポート。一体何がどこまで記録されてしまっているのだろう。
無論デイジーは事前に件のレポートを隅から隅まで確認済みだろうに違いなく、報酬の用意を発案したのが誰なのか特定する術はないが、実際のところ新車から乗り続けていたSUVは同型の中古車を探さざるを得なくなったし、自宅の修繕はリフォームという形で完了して保険金が下りたものの、とにもかくにも貯蓄に大穴が空いたのには間違いない。
報告書の最後は恐らくこう結ばれていたことだろう。“成果に不備はないが、今後何がしかの経済的危機が降りかかった場合、遠からず路上生活者に身を落とす可能性がいくばくか存在する”。
もはや渇いた笑いしか出なかった。因果関係を考えれば家も車も間接的にデイジーらに破壊されたと言えなくもない。とはいえど往時でも話が違うと思いこそすれ、その結果生じた損失の責任が彼らにあるという発想自体なかったのだが。
誠実ぶった言い回しに隠れたひと握りの情けか罪滅ぼしのつもりか。はたまた特例に見せかけた通常営業なのか。
なんにせよこの件はひとまず諸々丸く納まったのだと思っておくのが精神の健康には良さそうだ。
「納得してもらえたようでよかったわ。ところで――」デイジーが声のトーンを落とす。「彼、つい最近までシリアにいたみたいね」
「ついにシリアか……」
ざわつく感情を意識しつつダニエルは口髭を撫でた。
アフガニスタン、イラク、シリア――去年の六月に北大西洋上で搭乗していた輸送機ごと消息を絶って以降、ルーカスと彼の部隊は二〇〇〇年代のテロとの戦いの主要地をスタンプラリーよろしく転戦しているわけで、例に違わずシリアでも現地で何かしらの秘密作戦に従事していたことだろう。
当然そんな話はどこをどうつついても転がり出てはこない。それはともかくメール本文でデイジーが今回のレポートで最後だと断言しているからして、そのさすらいもひとまず終わりと見なしていいのかもしれない。
そこまで思考していまさらのように悟る。
ルーカスの任務の終わりを知ったとて、そこから自分はどうしたいのだろうか。
デイジーは静かな口調で続けた。
「最後に目撃されたのはポーランドのジェシュフ=ヤションカ空港。あの空港は中東方面に定期便を持っているから、“みたい”じゃなく本当にそうなんでしょうね。詳細はプレゼントに入っているから裏を取れるわよ。これであなたの――失礼、あなたと
「そう、か」
うわの空でダニエルは言った。世界が揺れている。目に映る景色が急速に色を失い、周囲に
周囲の音が無秩序に溶け合って耳障りな不協和音を奏でる――芝生で憩う人々の話し声、吹き上げられた水が噴水の水面を叩く音。通りを行き交う車のクラクションはさながら金切り声だ。
デイジーはまだ何事か話しているがその一切が耳を素通りしていく。
ゆらめく視界の中でフィールドジャケットを一瞥する。
あのフラッシュメモリに詰められた最後のピースはダニエル自身は言わずもがな、この数ヶ月間夫の身を案じ続けたジェニファーにも確かにいくらかの安堵をもたらしはするだろう。
しかしそれまでだ。半ばわかっていながら今の今まで気がつかないふりをしてきた厳然たるその事実。
ルーカスはフォートブラッグには戻らない。
消息を突き止めれば何もかも元通りなどと楽観してはいなかったが、輸送機丸ごと一機分の乗員を
突如として他人の都合で奪われた肉親あるいは夫。
そんな生易しい言葉では片付けられない現実が、事ここに至ってダニエルの胸に深々と突き刺さる。
ジェニファーになんと伝えればいいのか――予感に似た確信を抱いていたダニエルと違い、彼女はルーカスは必ず帰還するのだと希望を持ち続けている。それこそ去年の六月からずっと、無論いまこの時もそうだろう。
その儚い願いを打ち砕くようなことをしなければならないのは断腸の思いだが、結局のところどんな
不協和音が支離滅裂な叫びに変わり、じわりと頭痛がしてきた。心臓が早鐘を打っている。
ベイトン夫人にそれを受け止める覚悟があるとは思えない。が、翻って自らはどうなのか。
仮にルーカスを取り返すとしてもルーカスらを秘匿したい何者かが全力で邪魔をしてくるのは想像に難くなく、なれば相手取るのは他ならぬ合衆国陸軍だ。
七ヶ月前、組織というものの恐ろしさを嫌というほど思い知らされた古巣に決して怯まず、どんな手段を使っても不退転の決意で徹底的に盾突いてやるのだという覚悟、いや勇気が己にあるのか。
胸の裡に問うてみる――。
「ねえ、ちょっと大丈夫? 顔色が悪いわよ」
女の手が腕に触れたのを感じてダニエルは我に返った。
全身にじっとりと汗が滲んでいた。
こわばって冷たくなった指先を動かしてなんとか紙コップを摑み、ぬるくなったコーヒーをひと息に飲み干す。冷めても人肌程度の温もりが気分を落ち着かせる。
「少しめまいがしただけだ。もうなんともない」
手のひらで顔を拭いつつダニエルは言った。
デイジーはなおも訝しむような目つきでこちらを覗き込んでいたが、ややあって小さく息を吐き背を起こした。
「体調がよくないなら最初に言ってくれればよかったのに。もしかして二日酔いか何かかしら」
「きのうは悠長に飲むような心のゆとりはなかったよ。今はこの状況を悪い夢にしてくれるやつが欲しいね、どうせ飲るならな」
ジョークのつもりだったがデイジーは笑わなかった。
酒を
「まあいいわ。探し物のしすぎで体を壊さないようにとだけ言っておくことにする」
「そりゃどうもご親切に」
気のない調子で返す。
デイジーはいじわるね、とつぶやき苦笑する。ふと、このどうにもしたたかなところは生来と習い性のどちらかと想像する。もしかするとその両方なのかもしれないが。
「さて、そろそろ行くわ。せっかく戻ってきてるんだから色々やりたいこともあるし」
ティファニーの腕時計をちらと見てデイジーが立ち上がった。金砂の髪が三月のまだわずかに冷たさを孕んだ薫風にそよぐ。
ダニエルは先程から胸にわだかまっている疑念をぶつけてみることにした。
「消える前にひとつ教えてくれ。さっきポーランドと言ったが、そこから先の予想はつくか」
デイジーは人差し指の先を頬につけ首を傾げる。
「あまり材料はないわね。というより今の世界情勢を鑑みれば考えるまでもないといったところかしら」
「まさか――」
水が滲みるようにじわじわ広がっていく焦燥を意識する。
だがどう足掻いても今の自分にその愚行を止める手立てはない。
あるいは少佐とはいえかつて士官――多少なりとも政治の裏側を垣間見たことがある者として積み重ねた経験があまり深入りするなと警告を発していた。
「仮に俺たちの予想通りだったとして、陸軍のお偉方はあいつに何をさせたがっていると思う?」
こちらもある程度想像できるものの、ぼかした言葉の端々から漏れるニュアンスに期待して訊いてみる。
デイジーはにったり笑った。
「悪いけどここから先は追加料金よ」
「ということはそれなりに予測が立っているんだな」
「気が変わったらいつでも連絡して、少佐」
「だから少佐じゃないって――」
ごきげんよう、とダニエルの苦言を無視してデイジーは踵を返す。
振って寄越す手の左薬指に指輪はない。日焼けのあとすらなかった。確か既婚者のはずだが、愛するパートナーの存在もケースバイケースで邪魔になるのだろう。そもそも以前ダニエルに語った家族のあれこれでさえ真実なのかどうか大いに疑わしい。デイジー・モーテンなる人物は果たして実在するのだろうか。
デイジーの背中を目で追う。公園の北側へ澱みない歩調で去っていく。
歩道を横切って車道へ近づくと、まるでその動きを予期していたかのように中型のバンが一台目の前に停車した。
デイジーはなんの迷いも見せず開け放たれたスライドドアから後部座席に乗り込み、今度こそ完全にダニエルの視界から消えた。
白いバンの側面には「ミラージュ・プロフェシー」のワームグミを彷彿とさせる丸っこいグラフィティフォント。
黒縁の内側にショッキングピンク、ラピスラズリ、蛍光グリーンのグラデーションを閉じ込めた、二十世紀のニューヨーク地下鉄を思い起こさせるけばけばしいデザイン。末尾にはドットで描かれた漂う紫煙のような不定形の中に浮かび上がる「M」の抜き文字ロゴ。
「ミラージュ・プロフェシー」といえば、陰謀論者や重度のオカルト好きがかぶりついたビッグマックをコーラで流し込みながら見るような眉唾動画を大手動画投稿サイト上で大量に垂れ流しているはた迷惑なこと
氾濫する真偽不明の憶測動画と世界を股にかける情報局――。
ダニエルの一件が片付いた今、次はそのような国民が知らず、しかし何度も目にするせいで関心はなくとも知ってはいると無意識に記憶してしまうような密やかに進行する全国規模の意識操作メソッドに手を出しているのかもしれない。
一年中フロリダに巣食うセレブから貧民街で日々せこい犯罪に手を染める悪ガキまで、今やスマートフォンはアメリカの隅々まで行き渡っている。
そういった社会背景を利用する日進月歩の技術革新に裏打ちされたMKウルトラ計画の亡霊――そんな不穏な推測が脳裏を掠める。
ひと息つこうとダンキンの紙コップに手を伸ばし、すでに空だったことを思い出して舌打ちする。
まあいい。紆余曲折あったとはいえこちらは欲しいものを手に入れた。あの女の自信たっぷりの態度をしてガセネタでないことは間違いあるまい。
ダニエルは大きく息を吐いた。
デイジーがいうところの彼――かつての部下、そして実弟でもあるルーカス・ベイトンにまつわる一連の騒動、なおかつデイジー・モーテンと彼女が籍を置く世界で最も有名で最も悪名高い情報機関との奇妙な縁にはこれでひとまずケリがついた。
それはそれで歓迎すべきことであるには違いないのだが――観光、ましてやハネムーンであるはずもないのにルーカスがポーランドに入国した目的については嫌な予感を禁じ得ない。
ふと思いついてスマートフォンのマップアプリを起動し、ジェシュフ=ヤションカ空港の立地を確かめてみる。
デイジーの弁では中東からの便でポーランドへ入ったというから、そも意図あってと考えるのが自然だろう。もちろんそこをハブに他国へ出国した可能性もあるにはあるが、追加情報のない現時点では是非もないことだ。
「国境まで七十キロくらいか――」
広域マップを画面下部の縮尺を参考にしてスワイプしつつつぶやく。
当然そこに着目した合理的な根拠はない。だが国境線の向こうは二十一世紀型の戦場を象徴するあたかも広大な次世代兵器実験場――供与の名の下に世界中の兵器製造メーカーがこぞって実戦データ収集目的で自社の無人機を投入し、これ以前の戦争では想定されていなかった被害が出る地獄だと聞いている。
なればこそ――極東から世界の覇権を虎視眈々と狙う拡大主義国家の増長阻止のために、秘密裏にでもNATOに加盟し損ねた哀れな農業立国の勝利により直接的に加担すべきという意思決定が絶対になされないとは言い切れない。
「頼むから悪い意味で歴史に名を残すようなことはしないでくれよ――」
ダニエルのつぶやきはブライアントパークに立ち並ぶ木々のざわめきに紛れて消えた。
〈了〉
影なき者たち 御坂稜星 @msakarsay2236
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます