11日目④
(16:30〜18:00)
交番のドアが、控えめに「カラン」と鳴った。
私は椅子から立ち上がり、カウンターに向かう。
夕方の光がガラス越しに差し込み、床に淡い模様を描いている。
そこに立っていたのは——
見覚えのある小さな顔だった。
「あ……」
思わず声が漏れた。
昨日、私が事故から庇ったあの子だった。
手を引いているのは、きちんとしたワンピース姿のお母さん。
ふたりとも、少し緊張した面持ちで、でも確かな意志を秘めた眼差しで、私を見つめていた。
「こ、こんにちは」
小さな声で男の子が言う。
ぴたっと隣に立つ母親が、深々と頭を下げた。
「……あの時は、本当にありがとうございました」
しっかりとした、震えを隠した声。
私は何と言っていいかわからず、ただ笑って、軽く頭を下げ返すしかなかった。
「うちの子……あのままだったら、どうなっていたかわかりません。あなたがいてくれて、本当によかったです」
母親の声が、少しだけ震えた。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
温かく、でも苦しい。
私は、言葉にならない想いを飲み込むように、また笑って、もう一度、深く頭を下げた。
「元気そうで……よかったです」
やっと絞り出した自分の声は、思ったよりもかすれていた。
男の子が、私を見上げる。
瞳の奥が、ぱあっと花開くみたいに輝いた。
「また……また、会いに来てもいい?」
その言葉に、胸があつくなる。
喉の奥がじんと熱くなって、私はぎゅっと拳を握り込んだ。
「うん。もちろん。いつでも、おいで」
できるだけ優しく、そっと笑いながら応えた。
男の子はうれしそうに顔を綻ばせ、母親もほっとしたように微笑んだ。
しばらくして、ふたりは「ありがとうございました!」と何度もお辞儀をしながら、交番をあとにした。
私は、ドアが静かに閉まる音を聞きながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
胸の真ん中で、温かな何かが、静かに脈打っている。
ゆっくりと息を吐いて、ふと、外を見る。
——雨が、上がっていた。
外に出ると、アスファルトがしっとりと濡れて、黒々と光っていた。
夏の匂いを含んだ、湿った空気が肌にまとわりつく。
ふと足元に目を落とすと、そこに、自分の姿が映っていた。
歪み、揺れながらも、はっきりとそこに存在している、私。
制服の胸元、左腕の包帯、軽く広がった黒髪。
水たまりに映ったそれは、完璧でも、美しくもない。
けれど、確かに、ここにある。
雨に濡れても。
アスファルトの凹凸に歪んでも。
——それでも、私は、ここにいる。
知らず、微笑みが零れていた。
胸の奥に溜まった涙が、そっと滲んでいく。
こぼれそうになったそれを、私はぐっと堪えた。
でも、頬に流れた一滴は、もう拭わなかった。
かすれた声で、そっと呟く。
「……私は、ここにいる」
その瞬間だった。
ふと顔を上げると、空に虹がかかり始めていた。
淡く、儚げで、それでも確かにそこに架かる、七色の橋。
夕陽に照らされた街が、やわらかく、優しい光に包まれていく。
蝉の声も、遠くからかすかに聞こえてくる。
誰かの笑い声、風鈴の音、夏の匂い——
すべてが、私のいるこの世界を優しく肯定しているようだった。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
あの日から、ずっと探していたもの。
心のどこかで、ずっと確かめたかったこと。
——私は、生きている。
——私は、私だ。
ただ、それだけのことが、こんなにも眩しく、愛しい。
頬を伝う涙が、またひとすじ、アスファルトに落ちた。
しずくが、光を受けて、きらりと弾ける。
私は、そっと微笑んだ。
やわらかく、穏やかに——
心の底から。
虹のかかる空の下で。
濡れたアスファルトに映る「私」と一緒に。
私は、ここに、ちゃんと、いる。
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