10日目①


(6:30〜9:00)


カーテンの隙間から差し込む淡いオレンジ色の光で、ふと目が覚めた。


窓の外、東の空がじんわりと染まりはじめている。

まるでゆっくりと蒸された紅茶のように、静かで、やさしい色。


掛け布団を胸元まで引き寄せながら、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。

頭の中には、昨日までの私が、確かに息づいている。


でも——

どこにも、もう“迷い”はなかった。


「……うん」


小さくつぶやいたその声が、やけに澄んで響いた気がした。

のろのろと起き上がって、カーテンを開ける。

朝焼けに染まる街並みが、音もなく広がっている。


風が、ふわりと頬をなでた。

湿気を含みながらもどこか涼やかな風だった。


夏の朝。

生まれ変わったような、そんな空気。


洗面台の前に立つ。

鏡の中には、寝ぐせのついた私がいる。

肩にかかる髪を耳にかけながら、じっとその顔を見つめた。


——どこにも、違和感はない。

目のかたち、唇のカーブ、眉の角度。

あどけなさすら感じさせるその顔が、いまや私にとって“日常の自分”だった。


化粧水を手に取って、軽く叩き込む。

乳液を伸ばす指の動きも、自然と決まってきた。

ファンデーションを塗る手つき、まつげを上げる角度、リップを引くときの口元の力の抜き方——


どれも“覚えた”というより、“戻ってきた”ような感覚だった。


(……これが、私なんだよね)


目元にうっすらアイシャドウを乗せ、黒髪を軽く整える。

耳たぶに触れてから、ピアスがないことに気づく。

でも、それでいい。

今日の私は、制服姿の“山城理彩”だから。


朝食を軽く済ませて、身支度を整える。

トップスは淡いグレーのブラウス。

スラックスと合わせて、ラフだけどきちんと感のある装いにした。


自分が「女性らしく」あることを、もう意識しなくても選べる。

そんな感覚が、自然に身体を動かしてくれる。


玄関で靴を履きながら、ふと一度、鏡の前に戻った。

笑ってみる。


——ちゃんと、“私”が笑っていた。




外に出ると、すでに街は目覚め始めていた。

商店街を通ると、八百屋のおばちゃんが私を見つけて手を振ってくる。


「おはよう、山城さん! 今日も暑くなりそうよー!」


「おはようございます。ほんと、朝から蒸し暑いですね」


笑って返す声にも、もう緊張はない。

そのまま、魚屋のおじさん、パン屋の奥さん……あちこちから「おはよう、山城さん!」と声が飛ぶ。


いつからだろう、こんなふうに、自然に“理彩”として挨拶を返すようになったのは。

もう、「演じている」わけじゃない。

ただ、ここにいる“私”として、人と向き合っているだけ。


それが、嬉しかった。


 


警察署に着いて、更衣室のロッカーを開ける。

制服に手をかけたとき、ふと胸の奥にあたたかい感覚が広がった。


(これが、私の“戦う服”なんだ)

腕を通す所作ひとつにも、背筋がしゃんと伸びる。

真っ白なシャツに身を包み、ネクタイを締めて、ベルトを巻いて、最後に帽子を手に取る。


鏡の前に立ち、敬礼の姿勢を取ってみる。


……美しい、と思った。

それは見た目の話じゃない。

その姿勢の中に、迷いのない“意志”が宿っているから。


「よし、行こう」


 


交番に着くと、すでに真由がカウンターで紙をめくっていた。

制服のネクタイが少し曲がっていたのが気になって、つい手を伸ばす。


「ちょっと、真由。曲がってるよ、これ」


「え、あ、ほんとだ、ありがとう〜! 助かる〜……やっぱ理彩って、しっかりしてるよね」


「いやいや、朝からそんな言われると照れるって」


笑いながら、真由が麦茶のペットボトルを差し出してくれた。


「朝、商店街通った? さっき、パン屋のおばちゃんが“今日も山城さんが可愛かった〜”って言ってたよ」


「ちょっと、何それ。やめてよ、恥ずかしいじゃん」


「なに照れてんの〜。でも、理彩ってほんと、街の人たちからの人気すごいよね。なんか……自然なんだよね、見てて」


自然。

その言葉に、思わず胸がふるえた。


(……そうだよ。もう、“私は”自然なんだ)


真由と並んで立つカウンターの向こうに、朝の陽射しが射し込む。

少し湿った風が、ドアの隙間から入り込んで、カーテンをふわりと揺らした。


今日も、新しい一日がはじまる。

私は、山城理彩として、この制服に誇りを持って立っている。


もう、どこにも迷いなんてない。


——私は、私を選んだのだ。

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