4日目④
(2:00〜9:00)
交番の壁時計が、カチリ、と小さく音を立てた。
午前3時を告げるその音が、眠気の膜を破って、身体の芯を目覚めさせる。
「山城さん、通報入りました。駅前の方で酔っ払いが暴れてるって」
後輩の巡査、佐々木くんがやや緊張した声で報告に来た。
まだ配属されて半年も経っていない若い警察官で、口数は少ないけど真面目な子だ。
「了解。私が行く。佐々木くんは念のため後方からサポートお願いね」
「は、はいっ!」
巡回帽を被りながら、私は気持ちを切り替える。
こういうときは、性別も記憶も関係ない。
ただ、警察官として、毅然と対応するだけ。
夜明け前の駅前通りは、蒸し暑い風とアルコールの匂いが混ざり合い、不快に肌を撫でていく。
ネオンがまだ明滅している中、コンビニ前の歩道に一人の中年男性が座り込み、怒鳴り声を上げていた。
「こっちは客だぞ! 文句あるなら出てこいよォッ!」
酔っているとはいえ、身振りは大きく、手には空の缶チューハイ。
店員が店内から怯えた様子でこちらを見ている。
私はゆっくりと近づき、落ち着いた声で話しかける。
「こんばんは。警察です。ちょっとお話、聞かせてもらってもいいですか?」
「なんだぁ、お前ぇ……警察かよ……女じゃねぇか……!」
「ええ、そうです。だけど、関係ないですよね? どうされましたか?」
男の視線が、一瞬、私の胸元へと落ちた。
私はわざと無表情を崩さずに、その視線を無言で受け止める。
そういう時は、毅然とした態度が一番効く。
相手の目をまっすぐに見つめ返しながら、少しだけ声を強めた。
「ここは公共の場です。もし暴れていたのなら、それは問題になります。少し冷静になって、お話しましょう」
数秒の沈黙の後、男はため息をつき、ぐらついた身体で立ち上がった。
「……わりぃ、イライラしてただけなんだよ……もう帰る」
私は頷き、店員に「ご迷惑をおかけしました」と一礼し、男には駅までの道を一緒に歩いて送った。
交番に戻る途中、隣を歩いていた佐々木くんがぽつりと呟いた。
「……やっぱ山城さん、すごいな……俺だったら、あそこまでうまく収められないです」
「そう? ただ話しただけよ」
そう答えながら、心のどこかがざわついた。
(すごい? 私が?)
——違う。
そんな立派な存在じゃない。
理史だった頃も、こういう場面で震える気持ちはあった。
怖さを飲み込みながら、それでも前に出ていただけだった。
今も同じ。
……なのに、人は「山城理彩」を、迷いのない優秀な女性警察官として見ている。
(それは、本当に「私」なんだろうか)
夜明けが近づくにつれて、空がほんのりと白み始めた。
交番の外、朝の気配を感じたくて、私は一人で表に出た。
風が、夜の重さをそっと連れ去っていく。
遠くの空に、薄く伸びる雲が、かすかな桃色に染まっている。
鳥の声が一つ、また一つと聞こえ始めた。
私は制服のまま、交番の前に立ち、じっと空を見上げる。
「……私は、誰としてこの朝を迎えているんだろう」
呟いた声が、風にさらわれて、どこかへ消えていく。
山城理史として迎える朝は、もう二度と戻ってこないのかもしれない。
けれど、今ここに立っている私は——
確かに、この街の一員として、誰かのために動いている。
空が明るくなるたび、心の奥で何かが静かにほどけていく気がした。
午前9時前。
交代の時間が近づくと、署から日勤のメンバーがやってくる。
「おはようございまーす!」
「お疲れさま、理彩さん。夜、大丈夫だった?」
「うん、大丈夫だったよ。ありがとう」
挨拶を交わすそのやりとりは、どこまでも自然だった。
「またよろしくねー!」
「うん、またね!」
笑い声の中に溶け込んでいく自分の声。
挨拶を返した自分の顔が、ふと、窓ガラスに映る。
——そこにいたのは、紛れもなく「山城理彩」だった。
(ああ……こんな顔で、私は今、生きてるんだ)
ほんの少し、胸が温かくなった。誇らしさに近い、柔らかな感情がこみ上げてくる。
*
署の更衣室で制服を脱いで、私服に着替える。
今日は、ベージュのブラウスに紺色のタイトスカート。
髪を後ろで軽く束ね、カバンを肩にかける。
警察署を出て、駅へ向かう道を歩く。
朝の陽射しはもう強く、照りつけるような熱がアスファルトを焦がしていた。
昨日と同じ道のはずなのに——
見える景色が、どこか違っていた。
歩道を走る子ども、自転車に乗るおばあちゃん、信号待ちで交差点に佇むスーツ姿の男性。
誰もが忙しく、それでもどこか、穏やかにこの街で生きている。
そして私は、その中にいる一人の女性として、違和感なく歩いている。
(この街の一部として、私は今、ちゃんと存在してるんだ)
不思議だった。
昨日までは、この身体に対する戸惑いや違和感ばかりが心を占めていたのに。
今は……ほんの少しだけ、自分の足で、この人生を歩き始めているような、そんな気がした。
朝の陽射しがまぶしい。
私は目を細めて、駅の階段を上った。
少し眠いけれど、胸の奥には確かな温もりが残っている。
——私は、今日も、誰かのためにここにいた。
そしてそのことが、何よりも「私自身」を肯定してくれている気がした。
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