壁一枚

白川津 中々

 仕事が終わっても帰る家が荒んでいたら喜びは半減である。

 実家を出てからとりあえずのつもりでバイトを始めたのだが、未だに抜け出せない悲しい現実。少ない賃金で借りられる部屋は粗末であり汚れている。築年数が父親の年齢と同じ。木造二階建てはトイレと風呂が分かれている点のみ唯一誇れる物件で、薄い壁と下水の臭いが象徴的なボロ小屋だ。隣の中年夫婦の言い争いを肴に酒を飲む毎日はもううんざり。実入りのいい仕事を探して、静かな晩酌を楽しめる環境に身を置きたいと思いながら、今日も帰宅したわけである。

 部屋に入るとやはり隣で怒声が飛び交っている。金がないだのなんだのと、さっさと離別してしまえばいいのに。どうして争う相手と同じ空間で過ごしているのか理解に苦しみながらビールのプルタブを開ける。毎度の事ながら、口汚い罵倒の中で酔う惨めさといったらない。しかも今日はいつもに増して激しいようだ。「殺す」だの「やってみろ」だの物騒な言葉が並ぶ。まさか本当にそんな事態にはならないだろうが、実際に殺人でも起きたらそれはそれで面白いかもしれない。日常の中で起きる非日常。救いのない生活が、ほんの少しだけ刺激的になりそうだ。


 しかし、本当にそうなってしまったら……


 いつの間にか、鈍い音が続いている。明らかに、殴打している。

 女の金切り声からして、男が一方的に暴行を働いている様子が伺える。映画で流れるような効果音ではなく、リアルな暴力の音。頭が“危険だ”と訴えてくる。通報するべきだろうか。だが目で見ているわけでもなく、確証もない。警察に電話をして何事もなかったらいい笑い物であるし、隣人に逆恨みされるかもしれない。酔っていてしっかり話もできないかもしれないから、やはり放っておくのが一番だろう。そうとも。そもそも俺には関係のない事ではないか。隣人には隣人の人生がある。俺が首を突っ込む理由も権利も、なにもないのだ。黙っているのがいい。ただ、酒を飲んでいるだけで、それでいい。


 ……


 ……音が、途絶えた。

 最後に大きく、どしんと響いた。大人一人が座ったような、そんな感覚。

 妻を殴り殺して、冷静になった男が尻餅気味に床に崩れたイメージが頭の中に差し込まれる。そんなわけがない。全ては俺の妄想に過ぎないのだ。当たり前の、つまらない人間の日常に殺人事件など、入り込む余地などあるわけがない。


「……あ」


 手に持ったビールを落としてしまった。僅かな衝撃だが、この静寂の中であれば隣人にも伝わっただろう。緊張が走り、倒れて流れ出るビールを拭く事もできず、固まっている事しかできない。


 隣から、衣擦れと足音。どうやら、壁の前に立ったようだ。

 壁一枚を隔てて、俺と相手が、静かに対峙している。音はもう、何も聞こえない。

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