還暦祝いはオーダーメイドスーツ
神楽堂
還暦祝いはオーダーメイドスーツ
父の還暦を祝うため、私は一着のスーツを贈ることにした。
父は、祝う必要などないと言った。
けれども、一人娘である私をここまで育ててくれた父への感謝を、形ある贈り物として伝えたいと思った。
還暦といえば赤いちゃんちゃんこが伝統だが、父はそれを時代遅れだと笑う。
「六十歳で隠居なんて、昔の話だ」
「無理をしなくてもいいのに」
「まだまだ働くさ。だから、還暦祝いなんてしなくていい」
それでも、私は父に贈り物をしたかった。
ならば、働き続ける父にふさわしいものを──そう考え、私は一着のスーツを贈ることにした。
父と共に紳士服店を訪れる。
「父さん、サイズは?」
「A5だ」
試着を重ねるが、やや窮屈そうに見える。
「少し、お腹が……」
「太ったか」
「晩酌のつまみ、カロリー高いものが多いよね」
「楽しみなんだよ、あれは」
「でも、健康には気をつけてね」
次にAB5サイズを試すも、少しだぶつく。中間のサイズがあればいいのに──そう思ったとき、私はふと気づいた。
「父さん、オーダーメイドで仕立てようよ」
「そこまですることはない」
「還暦のお祝いだし、まだまだ働くんでしょ? だったら、ぴったりの一着を」
奮発して仕立てることに決めた。生地は上質なウール、色は父が好む深い紺青。ボタンや裏地にまでこだわり、店員と相談を重ねながら細部まで選び抜いた。
「こんな立派なスーツ、もったいないな」
そう呟く父の顔には、どこか、喜びが滲んでいた。
* * *
完成の日、父と店の前で待ち合わせ。
しかし、父は来なかった。
仕事が長引いたのかもしれない。
一時間待っても、連絡すらない。
仕方なく、一人で店に入りスーツを受け取る。
「本当はご試着いただきたいのですが」
「後ほど、連絡します」
店を出ても、父は現れない。
不安が胸を締めつける。
そのとき、電話が鳴った。
知らない番号──
「もしもし……」
それは、父の急死を告げる声だった。
大動脈解離。
運ばれたときには、すでに──
現実を受け入れられぬまま、私は呆然と立ち尽くした。
* * *
葬儀の準備に追われ、涙すらこぼせない。
遺品を整理しようと書斎に入ったとき、日記帳が目に留まる。
めくると、父の筆跡がそこにあった。
「明日、スーツを取りに行く。娘が選んでくれたスーツだ。どんな仕上がりになっているか、楽しみだ」
楽しみにしていたんだ。
包装されたスーツを開いてみる。
仕立ては、完璧だった。
──着てほしかった。
私は葬儀屋に電話をかける。
「お願いがあります」
* * *
葬儀の日、最期の対面をしようと、親族が棺を覗き込む。
「お父さん、最後まで紳士ね」
私は、死に装束をスーツにしてもらったのだ。
その一着は、働き続けた父の誠実さを、そして、生き方そのものを映し出していた。
本当は──生きて受け取ってほしかった。
そのとき、スマホが鳴った。
紳士服店からだ。
彼らは、父の死を知らない。
「スーツの仕上がりはいかがでしょうか? なにか不具合があれば……」
私は涙声になるのを必死でこらえて、こう答えた。
「……はい。とても素敵に仕上がっています。父も、とても嬉しそうにしています」
父は静かに、けれども、どこか誇らしげにそのスーツを纏っていた。
< 了 >
還暦祝いはオーダーメイドスーツ 神楽堂 @haiho_
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