その4

「水鶴がやったのではなくて安心したわ」


 回廊に戻ってくると月凛が言った。


「疑われても仕方のない状況でした。弓達様が覚えていてくださってありがたかったです」

「まったくねえ。使ってもらってる身分なのに給金を上げろだの反乱を起こすだの、小悪党の振る舞いよね。いい薬になったんじゃない?」


 青雅が嘲るように言って、部屋に戻っていった。


「必要なら軟膏を、と思いましたが潮涼先生が早く来てくださって助かりました」


 続いて花悠が部屋に入る。


「ふああ……とにかく一件落着ですねえ。じゃ、あたしはこれで寝ますね」


 あくびをしながら景嵐も部屋に消えていく。


「水鶴さん、変な疑いに縛られなくてよかったわね」


 白扇も部屋に戻る。第二夫人はずっと右手を腹に当てていた。そこに新しい命が宿ったことを、孫式も聞かされていた。


「水鶴、気分は悪くない?」


 月凛が訊くと、水鶴はこくっとうなずく。


「早めに休んだ方がいいわ。広間は寒かったでしょうし。明日もゆっくり起きてきなさい」

「はい。お気づかいありがとうございます、月凛様」

「いいのよ。あなたが元気でいることが一番大切なのだから」

「では……失礼いたします」


 水鶴は一礼し、部屋に下がろうとする。


「孫式、少し話があるわ」


 ちょうどいい。孫式は内心で笑った。こちらからも話したいことがあったのだ。

 月凛が戻っていくのを見届けてから、孫式と水鶴は部屋に入る。

 水鶴は火鉢に近づいてから孫式を見た。


「言いたいことがあるなら聞いておくけど、さすがにないわよね」

「いえ、あります」


 水鶴は顔をしかめた。


「何を話したいの? 弓達様のことじゃないんでしょう?」

「いえ、弓達様のことです。あれは水鶴様がやったのではないかと考えています」

「……どういうこと? 弓達様は確かに、自分で転んだと説明したのよ。それに潮涼先生だって、あれは転んだ時にできる腫れ方だと言っていたじゃない。わたしが手を下す余地なんてどこにもなかったでしょう」


「そのように見えますが、実際は違うのです。重要なのは、弓達様が自分で転んだことを自覚している状況を作ることでした。だから突き飛ばしてはいけないのです。あくまで、自分の不注意だと本人に思わせるように仕向ける必要がありました」


「そんなこと、できるはずないでしょう。弓達様に気づかれないように足を引っかけたとでも言いたいの?」

「足をかければひっくり返ることはないはずです。膝を後ろから突くようなやり方をしても、やはり弓達様は違和感を覚えるはずですので、水鶴様は歩いている弓達様には手を出していなかったと思います」


 水鶴はじれったそうに、右の人差し指で左の二の腕をトントンと叩いている。


「なんでお前はそう回りくどいの。いい加減に結論だけ言ったらどうなの?」

「はい。弓達様が自分で歩き、ほぼ間違いなく転ぶ方法が一つだけあります。それは滑って転ぶことです」

「広間の床でどうやって滑るのよ。滑りにくい材質なのはお前だって知っているでしょう」

「弓達様は広間で転んだわけではないと思います。といっても広間から移動すれば門番の海燕さんに気づかれる恐れがあります。それを避けられる場所は一つだけ。

「…………」

「広間の一部は曹湖の上に建てられているのです。簾を持ち上げればもう曹湖があります。頃合いを見てから手すりを越えて、弓達様を氷の上に寝かせておけばよいのです。非常に寒いのですぐに目を覚ますでしょう。この時、起き上がったら東江楼が見えるように寝かせたことと思います。空しか見えなかったら弓達様に不自然に思われますから。幸い、今夜は真っ暗なのでそこまで難しい問題ではありませんでしたが」

「…………」

「目を覚ました弓達様は立ち上がりました。しかし、あれだけ飲んだのですから酔いは覚めていなかったでしょう。周りを確認することなく歩き出します。しかしそこは氷の上。滑ってひっくり返り、頭を打った。それを確かめた水鶴様はすぐに弓達様を広間に運び込んで皆様を呼んだ。それが真相です。――いかがですか」


 水鶴が自分で言ったように、彼女は並の女性より遙かに力がある。意識のない男を運ぶくらいは造作もないのだ。


「わたしは、東江楼のためを思ってやったのよ」


 絞り出すような声で水鶴は言った。


「わかっております。ですから、私は誰にも言いません」


 孫式が答えると、水鶴は袖で口元を隠すように笑った。穏やかな顔だった。


「ありがとう。お前の気づかいに感謝するわ」

「弓達様はさすがに暴れすぎました。頭を冷やしていただくにはよい方法だったかと」

「わたしには他のやり方が思いつかなかっただけよ」


 その、思いついた方法を必ずやり抜く。それが銀水鶴という女だ。


「お前の理解にお礼をしないといけないわね」

「あっ、水鶴様……?」


 孫式はいきなり両手を握られて顔を赤くした。水鶴の顔が近づいてきて――あっという間に唇を奪われていた。

 熱を帯びた唇の感触に、孫式の体は一気に熱くなる。


 ……ああ、江若様はいつもこの唇を一人占めしておられるのか。なんとうらやましい……。


 うっとりした心地の中にもそんな思いが浮かぶ。


「ん……」


 水鶴が甘い声を漏らした。孫式の気持ちはますます昂ぶる。こらえきれず、水鶴の背中に腕を回した。


 その時、水鶴がさらに強く唇を押し当ててきた。舌が入ってくる。あまりに大胆な行為に孫式は慌てる。


 ――直後、水鶴がつばを送り込んできた。


 唇を離せないので、孫式はそのまま飲み込むしかない。


「あ……が……」


 急激に体が痺れ始めた。最初はかすかだった腹の痛みがたちまち全身に広がり、痙攣が起きる。まともに立っていられない。水鶴に支えられているから崩れ落ちないだけだ。


 ……これは、毒……?


 唇が離れる。


「水鶴様……なぜ……」


 孫式はあえぎながら決死の思いで問いかける。第六夫人は、冷たい目で孫式をじっと見つめていた。


「小間使いの言葉など、信用できるものですか」


 孫式の意識は途切れた。


     ☆


 水鶴は壺からすくった一杯の水で口をすすいだ。

 毒液を口の中に残したまま話す。簡単なようで難しい技術だ。彼女はそれを使いこなす。だが、ずっと口に入れていると痺れが残る。


 ……顔に出ていないかしら。


 水鶴は、新しく用意してもらった姿見の前に立ち、自分の顔を見つめた。


 ……またやってしまった。


 水鶴は回顧する。


 

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