その3
孫式は使用人の居室である西小房に入っていた。廊下で待機するにはあまりにも寒すぎる。広間も簾がかかっているだけなので、この時期は火鉢をたくさん用意している。水鶴はその近くで弓達を見ているはずだ。
……いかに水鶴様と言えども、いきなり襲われたらやはり抵抗できないのでは……。
そんな不安が孫式にはある。
酔っ払いが見境なしに振るう力はすさまじい。水鶴には技があるが、豪腕に押し倒されたらそれも使えなくなる。
水鶴という女性は気づかってあげたくなる危うさを持っていて、今まさにそんな状況なのだった。
……私が駆けつけたところで、水鶴様を助けられるとは思えないけど。
何もかもが未熟な孫式には、男を取り押さえる力などない。
「まったく、冷えるな」
料理人の関頼が火鉢に手を近づけて温まっていた。こんな夜でも外にいなければならない海燕は大変だ。
「十何年ぶりの寒波だと言いますね。雪解けが遅れると鉱山の方にも影響があるのでしょうか」
「俺は鉱山のことはよくわからん。まあ雪が消えないと作業に支障は出るだろうが」
「江若様は弓達様をどうすると思いますか」
「放っておくんじゃないか? あれは酒癖が悪いだけだろう。弓達様と旦那さまは長いつきあいがあるんだ。俺たちよりわかっているはずさ」
「ですが、反乱とは穏やかではありません」
「とんでもないことを言ったもんだよな。でも旦那さまは大して驚いてもいなかったし、冗談ということなんだろう」
「言ってはいけない冗談もありますよね」
「まったくだ」
二人で火鉢に手を近づけて時間を過ごしていると、かなり経った頃に急ぐような足音が聞こえた。
「誰かいますか!?」
水鶴の声だ。孫式はすぐ廊下に飛び出した。
「ここにおります!」
「ああ孫式、弓達様がよろけて転んでしまったの。頭を打ったみたいで……旦那さまが起きていたら呼んでちょうだい」
「それは俺が行きましょう」
関頼が二階へ走っていった。あちこちの戸が開いて夫人たちが顔を出す。みんな水鶴のことを気にしていたようだ。
……愛されているじゃないか。
呑気すぎるが、孫式はそんなことを思った。水鶴が仲間に数えてもらえていないなど、まったく要らぬ心配だ。
「弓達様が本当に転んだというの?」
まだ襦裙姿の月凛が言うと、水鶴はこくこくとうなずいた。
「帰ろうとして、ふらついてひっくり返ってしまったのです。それで頭を」
「この時間なら、まだ潮涼先生は起きているかしらね。雪羅、行ってくれる?」
「お任せください!」
待機していた雪羅は最初から厚着をしていたので、そのまま回廊を駆け抜けていった。
水鶴に続いて、みんなでぞろぞろ広間に移動する。
入り口寄りに置かれている火鉢の近くに、なるほど見事な仰向けで弓達が倒れていた。
「弓達様、聞こえますか? お返事はできますか?」
月凛が弓達の頬に触れて声をかける。しかし返事はない。
「息はしている。ひっくり返ったくらいで亡くなるような歳ではないし、そのうち回復するはずだけど……」
月凛も確信が持てないようだ。水鶴は立ったまま白い息を吐いている。
「あまりにあっという間だったので……ちゃんと支えてあげられたらよかったのですが」
「責任を感じすぎないでね。そこまであなたが面倒を見る必要はないのだから」
江若と関頼がやってきた。
「転んで頭を打っただと? 水鶴の言った通りになったな」
主人は第六夫人を見た。
「わたしがやったように、見えてしまいますね」
水鶴はひかえめに応じる。江若はその肩に手を置いた。
「お前が弓達を懲らしめる理由もないだろう。それとも、俺のためにそこまで怒ってくれたというのか?」
「えっと……」
戸惑ったように、水鶴はあわあわし始める。江若は笑った。
「安心しろ、疑ってなどいないさ。潰れるほど酔っ払ったこいつが悪いんだからな」
しばらく待っていると、雪羅に連れられ、新しい専属医師の孟潮涼がやってきた。分厚い上着を着込んでいる。
「寒いところを悪いな、潮涼先生。こいつが転んで頭を打ったようでね」
「さっそく診させていただきます。動かさなかったのは賢明な判断でしたね」
潮涼は弓達の意識を確認したあと、頭に触れて傷を確かめていった。
「腫れていますね。勢いよくひっくり返ってしまったのでしょう」
「間違いなく転んだんだな?」
「ええ。何かご心配が?」
「そうではないのだが……」
江若が言いよどむと、潮涼はあらためて弓達の傷口に触れた。
「私はたくさんの怪我人を診て参りましたが、これは確かに転んだ時にできる腫れ方です。これでも指先の感覚には自信がありますので、断言できます」
「そうか。だったらいいんだ」
言葉にはしないが、江若がホッとしているのは伝わってきた。孫式はその光景をぼんやり見つめている。頭の中である考えを巡らせながら。
「ううん……」
やがて、弓達が意識を取り戻した。起きようとして頭を押さえる。
「いてて……ああ、そういえば俺、転んだっけ……」
自分から言い出す。
「なんだ、お前は転んだ自覚があるのか」
「ええ。酔いが覚めてきたのでそろそろ帰ろうかと思って何歩か歩いて……すぐコロッと倒れちまったような覚えがあります。奥様方、総出で見守ってくださったんですか。これはありがたい……」
「飲みすぎるからだ。水鶴の言った天罰はしっかり下ったようだな」
「はい、恐れ入りました」
弓達はのろのろ起き上がって、座ったまま頭を下げた。
「皆様、大変ご迷惑をおかけいたしました。酒宴に招いていただけて、どうも舞い上がってしまったようです。江若様には大きな恩がございますので、心を入れ替えて春からも役目を果たしていく所存です」
弓達の決意表明を、夫人たちはかすかにうなずきながら聞いていた。
「頑張ってくださいね、弓達さん。あなたたちのおかげでわたくしたちも平和な生活を送ることができています。これからもよろしくお願いいたします」
代表して月凛が答えると、弓達は「ははっ」とひれ伏した。
「弓達も、潮涼先生も朝まで泊まっていくとよい。明るくなったら馬車を呼ぼう」
二人とも恐縮したようにお礼を言った。
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