その4

 炎進は帰っていったが、油断はできない。孫式は身を低くして回廊に潜んでいた。もしも海燕の目を盗んで炎進が戻ってくるようなら、水鶴を狙っている可能性が高い。その場合、夜這いの現場に踏み込んで取り押さえる。江若を呼んでしまえばこちらの勝ちだ。雪羅にも待機してもらい、すぐ誰かを呼べる態勢を作っている。


 夜もだいぶ遅くなり、夫人たちはそれぞれの部屋で休んでいるはずだ。江若も炎進のことが気になるのか、今日は誰も部屋に呼ばなかった。六人の夫人がみんな自分の部屋にいる夜は、実はかなり珍しいのではないだろうか。


 酒宴の後、水鶴は疲れた顔で部屋に入った。あんな席についていたら体調も余計に悪くなる。とはいえ役人が来るのに空席があるのはまずい。これもまた、厄介な面目の話になる。


「ふああ……」


 あくびが出て、孫式は首を左右に振った。

 このまま寝てしまいそうだった。炎進の侵入を見逃して水鶴が暴力を振るわれたら生涯最大の失態になる。銀家から追放されるだけならマシで、死ぬほど棒で打たれるかもしれない。


 ……気を引き締めなければ。銀家の小間使いとして、水鶴様の安全を……。


 と、意気込んでみるものの、さらに時間が経っても一向に変化は起きない。さすがの炎進も海燕が守る正門は抜けられないか。


 ――と、思った時、不意に低い悲鳴が聞こえた。女のものではない。


「水鶴様!?」


 聞こえたのは水鶴の部屋だった。孫式は一気に覚醒し、駆け出した。許可も取らずに水鶴の部屋に突入する。


「えっ……?」


 寝台に、寝間着をはだけさせた水鶴がいた。彼女は孫式に気づくと両手で胸を隠した。

 孫式は床に目をやる。寝台の脇に倒れているのは炎進だった。激しく痙攣している。役人の腰の辺りにはうごめくものがあった。


「蛇……?」

「孫式、人を……炎進様は、騒蛇そうだに噛まれたの……」


 かすれた声で水鶴が言う。

 騒蛇。この地域に棲む毒蛇。噛まれると死にはしないが痙攣を引き起こす。


「水鶴様、ご無事ですか!?」


 飛び込んできた雪羅は、

「ひっ、へ、蛇が……!」

 と、床を這っている蛇を見つけて悲鳴を上げた。


「炎進様は蛇に噛まれたらしい! 私が捕まえるので雪羅さんは丸平先生を呼んでください!」

「わ、わかった! 行ってくる!」


 孫式は炎進のそばに移動し、両手を伸ばした。濁った白色の蛇はあっさり捕まった。首を押さえてしまえば蛇はまともに抵抗できないことを斗開から教わっている。蛇の体表は粘り気を帯びており、感触が気持ち悪い。


「水鶴っ、何もされていないか!」

「水鶴、大丈夫なの!?」


 江若と月凛が同時に駆け込んできた。そして、蛇を掴んでいる孫式を見て固まる。


「この蛇がお部屋の中に潜んでいたようです」


 上衣の裾を引っ張られた。水鶴は精一杯抵抗したらしく、荒い呼吸を繰り返している。


「外へ、出して」

「承知いたしました」


 孫式は窓から蛇を投げ捨てた。


「水鶴様、蛇は消えました。お怪我はございませんか? 一体なにがあったのです?」

「炎進様は、舟で曹湖から回り込んできたみたい……。窓から入ってきて、いきなり寝台に押し倒されたわ……」


 道理で回廊を見張っていても炎進など現れないはずである。そこまでして水鶴をものにしたかったとはすさまじい執念だ。


「なんという男だ。声が出せない今こそ好機と見たに違いない。だが現場は押さえた。もう容赦せん」


 江若が強気に言い放つ。ついに形勢逆転の目が見えてきた。


「だが、こいつに死なれると県央府が「東江楼の備えに不備があった」と言いがかりをつけてくる可能性もある。海燕……には門を守らせておくべきだろうな。よし、俺とお前でこいつを医療房に運ぶぞ」

「は、はい。承知いたしました!」


 孫式と江若で、痙攣している炎進を持ち上げて水鶴の部屋を出た。残った月凛が水鶴に寄り添った。


「怖かったわね。もう何も心配しなくていいのよ」


 月凛が水鶴を抱きしめているのが、一瞬だけ孫式の目に映った。

 孫式が足を、江若が肩を持って、炎進を医療房に運び込んだ。治療台に仰向けにする。炎進の体はまだ小刻みに震えている。


「水鶴はこうなることを見越して、部屋に蛇を持ち込んでいたんじゃないか」

「そ、そんなことができるのですか?」

「暗殺者が蛇の毒について学ばないとは思えん。きっと修行の過程で蛇を捕まえたことくらいあるはずだ」

「炎進様の夜這いを返り討ちにするために……?」

「あいつならそのくらいやりかねない。まあ、蛇は壁を這い上がったりもするから偶然入り込んでいたということもありえる。水鶴がやったのだとしても、あいつは何も知らないと答えるだろう」


 江若は炎進の服を触り、袖や裾をまくった。


「……どこを噛まれたんだ。暗くて傷口が見えん。おい、丸平先生も来るしたくさんろうそくをつけておけ」

「はい!」


 孫式は、備えてあるだけのろうそくに火をつけて医療房を明るくした。


「こんなに暑いのにろうそくまでつけたら大変だな。ま、先生にはそのくらい我慢してもらおう。普段、いろいろと見逃してやっているのだからな」


 炎進を追い払う口実ができたせいか、江若の口調は明るくなっている。


「夜が明けたら噂を流すぞ。県役人の仲炎進は東江楼の夫人に夜這いを仕掛けて、潜んでいた蛇に噛まれた――とな。これでこいつの面目は丸つぶれだ。恥ずかしくて街も歩けまい」


 それは実に痛快な話だ。炎進の横暴を黙って見ているしかなかった孫式としてもわくわくする。


「……暑いな。外で待とう」

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