第6話 二兎を狩る(空墨十五年 九月)

その1

 孫式が安宿から東江楼への道を歩いていると、白濁した色の蛇が横切っていった。

 騒蛇そうだと呼ばれるこの地域の蛇だ。鳴き声が甲高く、噛まれた人間は痙攣して騒がしくなることからそんな名前がつけられたらしい。死ぬほどの猛毒は持っていないが、毒が体に回ると吐く息が同じ毒気を持つため隔離措置が必要になるという。


 ……この夏はよく見かけるな。例年より暑いせいだろうか。


 今日も九月とは思えない気温の高さである。歩いているだけで汗が噴き出すのは先月とまったく同じだ。


 東江楼にやってきた孫式が正門に近づくと、中から医者の済丸平せいがんぺいが出てきた。ニヤニヤした顔つきで孫式とすれ違い、去っていく。


「どなたか具合を悪くされたのですか?」


 門番の海燕に訊く。


「花悠様が体調を崩されてな。どうも薬の調合が上手くいかなくて悪い気に当てられたと聞いたよ」

「そうだったのですね」


 門を抜けると、右側から張花悠が歩いてきた。


「銀家の孫式でございます」

「あら、お久しぶり。水鶴さんはお部屋にいるはずよ」

「先生が来ていらしたのですね。何やら楽しそうな顔をして帰っていきましたが」


 それを聞いた花悠は表情を曇らせる。


「丸平先生にはいつもやられてしまうの。私はお腹の具合が悪くなりやすいのだけど、ちゃんと診ないといけないからと言っていつもあちこち触られて……わたしは医術の心得はないけれど、あれは女の体に触りたいだけ。絶対にそうよ」

「立場を悪用しているわけですね……」

「わたしだけじゃないのよ。他の奥様方もみんな同じことを言う。白扇さんや景嵐さんも言いくるめられてしまうと嘆いていたわ。でも薬はちゃんと効くし、旦那さまも簡単に追い返せないのが難しいところよね」

「他にお医者様はいないのでしょうか。無理に丸平先生ではなくとも……」

「最近の丸平先生の行為は目に余るわ。だから旦那さまもようやく、本腰を入れて他の腕利きのお医者様を探しているみたい。わたしとしても期待したいわね」

「その方が東江楼の平和のためによいことだと思います」

「よう、お前さんは第五夫人の花悠さんだったか。元気かい?」

「あ……炎進様……」


 ずかずかと入ってきたのは、県の役人である仲炎進ちゅうえんしんだ。剣を提げているだけで威圧されている気分になる。


「江若殿に話があって来たんだが、いるかな?」

「いいえ。今日はお仕事で空けております」

「だったら仕方ない。また明日、あらためて来るとしよう。夜に来た方が間違いなさそうだね。なんせ最近、昼間はいつ来ても留守だからなあ」


 花悠は硬い表情で黙っている。


「あんまり留守にされていると奥様方にとってもよくないことが起きてしまうよ」

「あっ、何をなさるのです」


 炎進がいきなり花悠に抱きついたのだ。孫式は硬直して何もできない。


「旦那さまによーく言っておいてくれ。金払いの悪い金持ちは嫌われるとね」


 炎進はしばらく花悠に抱きついたまま離れず、回廊から月凛が歩いてくるのを見ると帰っていった。


「花悠さん!」

「ああ、奥様。わたし、何もできませんでした……」

「いいの。下手に抵抗すると理不尽な言いがかりをつけられてしまうわ。つらいけど、今はなるべく顔を合わせないようにするしかないわ」

「ですが、明日は夜に来ると……」

「……夜宴に乗り込んでくるつもりかしら。旦那さまが逃げられないように」

「そのようです。このままではされるがままになってしまいます」

「厄介なことになったわね……。ひとまず、あなたは部屋に戻って休むべきよ。丸平先生に診ていただいたところでしょう?」

「丸平先生にもまた好き勝手されてしまいました……」


 花悠は泣きたいのを必死でこらえているように見えた。月凛は疲れたように額を押さえる。


「どうしてこんなに問題だらけになってしまったのかしら。去年までは上手くいっていたのに」


 そこで初めて孫式に気づいたらしく、月凛は暗い表情を引っ込めた。


「いつまで立っているの?」

「は、はい。申し訳ありません」

「最近、水鶴も体を壊しているの。三日間、ちゃんと気を配ってあげてね」

「えっ? 水鶴様がお体を?」

「咳のしすぎで喉がおかしいと言っていたわ。声がかすれてまともに話すことができない状態なの」

「そ、そうだったのですか。お医者様には診ていただいたのですか?」

「ええ。そのうち治るからと薬だけもらったのだけど、あまり効いていないみたい」

「それもありましたね」


 花悠が思い出したように言う。


「水鶴さんが声を出せないのをいいことに、丸平先生はだいぶ派手なことをやったそうじゃありませんか。海燕の話では顔を赤くして帰ったそうですよ。きっと水鶴さんは、わたしよりひどいことをされたのだと思います。でも声が出ないから拒否できなくて……」

「そ、そのようなことが……」

「水鶴も一番よくない時に喉を壊してしまったわね。これでは、たとえ炎進に襲われたとしても助けすら呼べないわ。その場で捕まえられないなら「証拠がない」と言い張って逃げられてしまうだろうし」


 頭の痛い問題が山積しているようだ。


「ま、まずは水鶴様の様子を見てまいります」

「そうしなさい。故郷からの贈り物を見れば、少しは元気が出るかもしれないわ」


     ☆


「水鶴様、喉を壊してしまったと聞きました」

「そうね……」


 本当に声はかすれており、声量も小さい。


「これはいつもの材料が入っている箱でございます。今、確認いたしますか」


 水鶴は黙ってうなずき、箱の中を調べ始めた。

 孫式はその様子をうかがう。顔色は悪くなさそうだが、夏の日差しに当たっていないせいか、かなり白く見える。


 室内は今日も北嶺百合ほくれいゆりの濃い香りが漂っており、水桶では二匹の肉食魚が泳いでいる。


 水鶴が何も言わないと部屋はひどく静かだ。話し始めると会話が続くので、孫式は気まずさを感じたことはない。だが、今日は同じようにできない。

 困っている孫式の前で、水鶴は薬の材料を棚に移し始める。孫式も手伝うことにして、二人でさっさと片づけた。


「先ほど、花悠様が丸平先生から、また……」


 ためらったが、伝えておく。


「そう」


 かすれた返事。


「それから仲炎進様まで現れて、花悠様にとってはおつらい時間だったことと思います」


 水鶴は目を閉じてうなずいた。喉が気になるのか、しきりに触っている。


「炎進様は明日の夜、またやってくるそうです。今日は江若様が不在なので、あらためて話をしたいと」


 水鶴はこくっとまたうなずいた。


「水鶴様もお気をつけください。炎進様はどんどん強気になっているようです。このままではお部屋まで入り込んでくることも充分考えられます」

「そこまで?」

「私はそのように思います。あれだけのことをしても江若様は反撃しないのです。であればますます好き放題にやるのは間違いないでしょう」

「気をつける」


 水鶴の声は外から聞こえる鳥の声に負けそうなくらい小さかった。

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