その4

 夜宴が終わると、今日は花悠が江若の部屋に呼ばれた。どうも宴席での立ち回りが江若の心を動かしたようだ。


「では、そろそろ宿に帰りますが」

「ええ、気をつけてね。今はそんなにやることもないし、この街でゆっくりすればいいわ」

「ありがとうございます」


 孫式は挨拶を終えると水鶴の部屋を出た。まっすぐ宿に向かうつもりだったが、回廊に月凛がいたので足を止めた。声をかけようとしたが、月凛はそれより早く青雅の部屋の戸を叩いた。


「青雅さん、ちょっとお話があるのだけど」


 ……嫌な予感がする。


 孫式は引き返して水鶴を呼び、回廊に出てきてもらった。その時にはもう、部屋の入り口で言い合いになっていた。二人とも声が大きかったので、景嵐や白扇も様子を見に来た。


「最初からこうするつもりだったのでしょう。そんなに不愉快なら逃がせばよかったんだわ。毒を入れることなんてなかったじゃない」

「私ではないかもしれないじゃありませんか。奥様には確信があるのですか?」

「水桶に浮いていた花は、あなたが昼間持ってきたものでしょう。わたくしはその時、花を持って部屋に入るあなたを中庭から見ていたのですよ」

「……いたのですか」


 水鶴が近づいていく。孫式も追いかけた。


「何があったのですか? 毒がどうとか」

「ああ、水鶴。青雅さんが水桶に毒の花を入れてナマズを殺してしまったの」

「そんな……」

「だから逃がせばよかったと言っていたのよ。その方が簡単に済むのに」

「あんなものに触れるわけがないでしょう。それに、私が花を入れたのは宴席の前だったのです。花悠さんが話をまとめた時には、もうナマズは死んでいたはず。あれで落ち着くのであればもう少し待つべきでしたわ」


 青雅は責められているのに淡々と応じた。よくないことをしたとはいえ、この図太さには惚れ惚れしてしまう孫式であった。


「青雅さん、小間使いだったら旦那さまに斬られちゃうような話ですよ? やりすぎです」

「そうね。食前に毒に触れていたなんて恐ろしい」

「白扇さん、気にするところそこじゃないです」


 白扇がずれたことを言って景嵐がたしなめる。それで場の空気が和らぐはずもなく、月凛は厳しい表情を浮かべていた。


「ナマズは感情を持つと言われているわ。そんな生き物を殺したのだから、あなたは怨念に取り憑かれるかもしれないわよ」

「ふふっ、何を言い出すかと思えば怨念でございますか」

「忘れたの? この家では狼の剥製だって鳴いているのよ」

「それは覚えておりますけど……まあ、せいぜい気をつけますよ」


 青雅は軽く笑ってみせたが、不意に鋭い目つきを見せる。


「悪いことをしたとは思っています。しかし、奥様が水鶴さんの色に染まっていくように見えて不安だったのですよ。あなたは正夫人。旦那さまと並ぶ存在なのですから、自分の色でいてくれないと困ります」


 青雅の声音が真剣そのものだったので、月凛は何か言いかけて、怯んだように黙った。


「……わたくしらしさを、あなたは求めているのね」


 しばし間を置いて、月凛は言った。


「その通りです。水鶴さんにはきついことを言っているかもしれませんが、やはり環境が特殊ですから。別に、あなたを嫌っているわけではないのよ?」

「そうであれば、嬉しいです」


 水鶴はひかえめな返事をした。


「わたしはまだ、間違ったことをしていてもそれに気づけないことがあります。青雅様くらいはっきり言っていただけた方がありがたいです」

「……怒らないのね」

「子供時代が尋常でなかったことは、自覚しておりますので」

「そう」


 青雅は少しためらったような仕草をしてから、頭を下げた。


「どうも、熱くなりすぎてしまったようです。よく自分を見つめて、何が東江楼にとってよいことなのかを考え直してみます。――奥様、申し訳ありませんでした」

「あなたも思うところがあったというわけね。気持ちは受け取ったわ。でも、ナマズを殺したことは事実なのだから、埋葬は手伝ってもらうわよ」

「……ええ、お手伝いさせてください」


 夜宴に続き、この場もひとまずは収まったようだ。

 青雅も、自分の気持ちを月凛に伝えたかったのだろう。ただ、素直に話すことができなかった。きっかけができたことで、開き直って打ち明けることができた。そこにはナマズの死がついているわけだが……。


「さあ、話はついたわ。皆さんもう休んでいいのよ」


 月凛が言うと、白扇、景嵐はそれぞれ自室へ帰っていった。水鶴も一礼し、下がった。


「孫式、まだいたの? もう決着はついたのだから帰りなさい」

「はっ。では、失礼いたします」


 孫式は正門へ向かって歩き出した。途中で振り返ると、月凛と青雅はまだ言葉を交わしていた。しかし表情に硬さはなく、もう心配はなさそうだった。

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