第5話 ナマズの怨念(空墨十五年 七月)

その1

「江若殿、塀の装飾に紋蜂が巣をかけていると聞いたぞ。危ないことだ。私は市民の危機を放っておくわけにはいかんのだ」

「はあ、それは申し訳ない。すぐ片づけさせるので」

「それで済むと思っておるのか? 私の貴重な時間を使わせたのだから、少しくらい、な?」

「はあ……」


 江若は役人に体を近づけた。通りの反対側にいる孫式からは見えなかったが、おそらく金目の物を袖の下に入れたのだろう。


「よし、では片づけは頼んだぞ!」


 役人は高笑いして去っていった。


「旦那さま、あんな男の言いなりになるなんて情けないですわ。旦那さまの方が遙かに富をお持ちなのですから、もっと毅然とした対応を見せてほしかったです」


 第三夫人の紹青雅が横でたらたら不満を述べている。江若は苦笑した。


「気持ちはわかる。俺だって腹が立っているさ。だが役人は仲炎進ちゅうえんしんだけではないのだ。今ならあいつ一人を相手しているだけでいいが、県長官にまで目をつけられると厄介なことになってくる。そのうち突っぱねるから、今は耐えてくれ」

「もう、仕方ありませんね。……あら、誰かと思えば銀家の小間使い」

「お久しぶりでございます。銀家の孫式でございます」

「おう、水鶴は部屋にいるはずだ。荷物を届けてやれ」

「はい、お邪魔いたします」


 西邸にある水鶴の部屋に行くと、部屋の主は水色の襦裙を纏って魚の様子を見ていた。


「荷物はこちらに置きます」

「ええ、そうして」


 部屋の隅にある水桶には、セーロから買ったという肉食魚が泳いでいる。二匹いても共食いを始めることはなく、今日まで仲良く暮らしているようだ。


「カラスの肉を切ってあげているのだけど、なかなか食いつきがいいのよ」


 水鶴は箸でつまんだ肉片を落とす。魚たちが跳ねて肉を水中に持っていった。


「不気味ではありませんか?」

「そんなことないわ。一緒に過ごしていればかわいいものよ」


 孫式には理解できない感覚だった。

 水鶴は「そうそう」と手を叩いて嬉しそうにする。


「実は最近ね、月凛様がわたしを見ていたら魚を飼いたくなったと言って、曹湖でとれたナマズを飼い始めたの。お部屋に大きな水桶が置いてあってね、それもかわいいわ」

「ナマズは魚なのですか?」

「月凛様が魚と言うのだから魚なのよ。まだ小さいけれど、これから成長していくのかと思うとわくわくするわ。水の生き物を育てる知識はあるから、月凛様のお部屋に呼ばれる回数も多くて、とても楽しい」


 水鶴の顔は幼い子供のように輝いている。こんなにも上機嫌な主人は珍しい。


「あ、そうだ。丸平がんぺい先生の診療所はわかるわね? そこに行ってお願いしていた丸薬をもらってきてほしいの」

「ええと、丸平先生とはほとんどお話ししたことがないので、診療所の方も……」

「あらそう。じゃ、地図を書いてあげる。行ってきて」


 水鶴は墨を用意すると、さらさらと地図を書いてくれた。孫式はそれを受け取って部屋を出る。回廊では雪羅と青雅が話していた。


「ちょっと、孫式」


 青雅が声をかけてきた。


「水鶴さんは今日も楽しそうに魚に餌をあげていたんでしょう」

「ええ、あげておりました」


 青雅は不愉快そうにため息をついた。


「水鶴さんが怪しげな魚を飼うのは、まあ理解できるのよ。でも最近は奥様まで影響されたかのようにナマズなんてものを飼い始めた。これはよくないことよ。東江楼に変な生き物ばかり集められたんじゃこっちはたまらないわ」

「では、どうすればよいのでしょうか……」


 口元に笑みを浮かべた青雅は、孫式に顔を近づけてくる。耳元で囁かれ、一瞬で顔が熱くなった。


「孫式、あなた奥様のお部屋に入ってナマズに毒を飲ませてきてくれない?」

「そ、それはいけません」


 どう考えても重罪である。小間使いがそんな真似をしたら江若に首を落とされてもおかしくない。


「お、恐ろしくてとてもできません。それに、月凛様がナマズを飼い始めたことは水鶴様も歓迎しておられました。殺してしまったら、私は二人から恨まれてしまいます」

「なによ、できないの?」

「は、はい……」


 はっきり舌打ちをされた。


「せっかく毒を用意したのに。雪羅もできないって言うし……みんな気が小さいわね」

「飼っている生き物は、その方と同じくらい命が重いのです……」

「私はね、奥様に目を覚ましてほしいの。水鶴さんは第六夫人だけれど、元は県長官の陰で働く裏方だったのよ。私たちとは育ってきた環境が違う。そういう人の影響を受けて変わっていくことは危険なの。これは東江楼のためを思って言っているのよ」


 青雅なりに考えて出した答えが、ナマズを殺すという選択なのだ。気持ちはわかる。わかるのだが……。


「申し訳ありません。私にはできません……」

「仕方ないわね。じゃあいいわ」

「もしや、青雅様がご自身で……?」


 青雅は少し首をかしげてみせた。


「さあ、どうかしらね?」


 その冷たい響きに、孫式の背筋はぞっと寒くなった。

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