その4

 翌日も孫式は東江楼を訪れた。滞在できる三日間、あまりやることはない。水鶴に用事があれば走り回るが、今回はそういうこともないようだ。


 五月の晴天の下、空気は心地よい暖かさで過ごしやすい。水鶴は水色の襦裙を纏い、涼しげな雰囲気を纏っていた。


「ホウラは今日も月凛様のあとを追いかけていたわ。せっかくいいお天気なのに気分は最悪よ」

「何がそれほどホウラを刺激するのでしょうか。安心したいという以上のものを感じます」

「そうね。……もしかしたら、セーロの集落に月凛様に似た女がいたのかもしれない」


 ありえることだった。一目ぼれであんなに近づくことは考えにくい。相手は主人の妻なのだ。雪羅に言い聞かされているのだから、さすがに理解しているはずだ。


「ああもう、落ち着かなくて駄目。孫式、街に出るわ。ついてきなさい」

「承知いたしました」


 後宮ではないので、夫人たちは自由に出かけることができる。

 二人は東江楼を出て、左に向かった。広い通りが東西に走っている。春の日差しを受けながら、二人はゆっくり歩いた。


 左手に曹湖があり、桟橋が見え、少し先のほとりに柳の木がそびえている。柳はほどよく傾いているため、街の子供たちが枝に登ってはしゃいでいる。


「あれ、親は気にしないのかしら。落ちたら水の中よ。危なっかしい」

「知らないか、落ちても泳げると思われているのかもしれません」


 通りを歩いていくと、孫式がたびたび寄っている辛焼からやきの店が見えてきた。小麦粉を伸ばして焼き、辛い調味料をふんだんに使った焼き料理だ。


「水鶴様、あのお店に立ち寄ったことはございますか?」

「ないわね。ふうん、辛焼き? そういえば景嵐様がいつか話していたかも……」


 水鶴は孫式の顔を見た。


「食べたいの?」

「あ、いえ。そんなつもりでは……」

「いいわ、せっかくだから食べましょう。気に入ったら今度から雪羅に買いに行かせてもいいし」


 水鶴は辛焼きの店に近づき、二枚頼んだ。主人は鉄板の上で腕を振るい、たちまち二枚を焼き上げた。半円に焼いたものが二枚、水鶴と孫式に手渡される。


 店の横に長椅子が置いてあったので、そこに座って食べる。仕えるべき相手と並んで座るなど許されない話のはずだが、水鶴が座れと言うのだから逆らえない。


「なるほど、これが辛焼きなのね。なかなかおいしいわ」

「平気なのですか? 私は時間をかけて食べるのですが……辛いので」

「毒に慣れていると、このくらいの辛さでは気にならないわね。むしろいい刺激よ」


 またしても暗殺者としての体質が発揮されている。

 水鶴があっという間に食べ終えてしまったので、孫式は焦りつつなんとか食べ切った。口の中がジンジンする。


「おお? 見慣れねえ美人がいるじゃねえか」


 細い路地から背の高い男が歩いてきた。後ろにもう一人、男がいる。


「旅の人かい? こんな美人は街じゃ見たことねえ」

「お、おやめください」


 孫式は立ち上がってあいだに入った。


「この方は東江楼の第六夫人、銀水鶴様です。手出しなどしては泰江若様が黙っていませんよ」

「ああ、お前は江若の嫁か! ったく、あいつはいいなあ。こんな美人の嫁が六人もいるんだろ? とんでもねえ男だ」

「あっ」


 孫式は突き飛ばされてあっけなく転んだ。


「泰江若がなんだ。俺にもちょっとくらい楽しませろ」


 男が水鶴に手を伸ばす。それを、彼女はピシッと叩いた。


「いてぇ……何しやがる」

「虫を払っただけよ」

「言うじゃねえか。後悔するぞ!」


 男が飛びかかってくる。が、水鶴は鮮やかに躱した。前のめりになった男の背中を、水鶴は軽く押した。男は店の壁に顔からぶつかった。


「この女っ!」


 もう一人の男は容赦なく殴りかかってくる。水鶴はあっさり左手で受けて、鉤のように曲げた右の人差し指と中指で二人目の喉を突いた。


「げっ」とえずいて二人目の男が崩れ落ちる。二人とも痛みで動けないようだ。


「ちょっと外に出たくらいですぐこういう目に遭うのね。やっぱり、あまり出歩かない方がいいのかも」


 水鶴は何事もなかったかのようにつぶやき、


「孫式、帰るわよ」


 手を差し伸べてくれた。孫式が恐る恐るその手を掴むと、グイッと引っ張られた。


 ……やはり、暗殺者。


 細身でありながら腕力と技術を備えている。その実力の一端を垣間見た思いだった。


 東江楼に戻ると、雪羅がそわそわした様子で回廊に立っていた。


「どうかしたの?」

「あの……奥様がホウラを部屋に招き入れたので……」

「えっ」


 外ではずっと無感動な反応をしていた水鶴が途端に焦った顔をする。


「ホウラが押し入ったの? だとしたらなぜ止めないの!」

「お、落ち着いてくださいませ。奥様が自ら招いたのです。話を聞いてみたいと……」

「そんな……」


 ホウラを嫌っている水鶴からしたら耐えられないことなのだろう。肩が落ちた。


「ホウラが変な気を起こさないとよいのですが……心配で」

「いつから?」

「水鶴様たちがお出かけして少し経ったくらいからです」

「……もうだいぶ経つわね。そんなに話すことがあるのかしら」


 水鶴が深刻そうな顔をしているので、自然と場は緊張している。

 そんな時、ちょうど月凛の部屋の戸が開いた。


「月凛様っ」

「どうしたの、そんなに慌てて。らしくないじゃない」


 先にホウラが出てきて、後から月凛もついてきた。


「ご無事ですか」

「当たり前でしょ。ホウラはそんなことしないわよね」

「しません」

「……月凛様が言うのだから、信じるけど」


 水鶴は引き下がった。とにかく月凛の言葉が第一のようだ。


「さあホウラ、掃除に行ってちょうだい。広間の手すりを拭いてもらうのがいいかしらね。雪羅、教えてあげて」


 雪羅は返事をして、離れたくなさそうにしているホウラをむりやり連れていった。


「どんなお話をしていたのですか?」

「いろいろと、昔のことなんかをね。そのうち聞かせてあげるから、そう必死にならないで」


 水鶴はうなずいた。


「セーロも複雑ね。弱者は強者に従わねばならない、という掟があるみたい。禁軍に制圧されたあと、反抗する者がまったく出てこないのはその掟の影響なのよ」

「そんな掟があるのですね。つまり、セーロの内部にも……」

「その掟は適用されている。弱い者はずっと虐げられる。そういうことだったようね」


 暁国でも、小間使いは粗雑に扱われて死んでいく者が多い。孫式はかなり恵まれている方だ。セーロでも同じことは起きていた。少数民族だから絆が強いというのは幻想のようだ。


「ともかく、ホウラは心配ないわ。水鶴も安心して夕食に備えて」

「はい」


     ☆


 今日も江若は上機嫌であった。

 酒を浴びるほどあおり、朗らかに冗談を飛ばした。酔っていても話が上手いので、青雅や景嵐などは面白そうに笑っていた。


 孫式は料理に手をつけつつ、広間に視線を走らせる。部屋の隅に立っているホウラは、やはりじっと月凛の方を見ている気がした。


「今日もホウラはちゃんと働いたか?」

「はい、しっかりと」

「ならばよい。追い出すのは簡単だが、できるなら成長してもらいたいからな」

「お仕事自体は真面目に取り組んでおりますよ」


 それ以外の場所でのことは、江若の耳に入っていない。ホウラがここに来てまだ六日目だから、そのうち届くだろうが。


「よし、今宵はこれまでとする。今日もよく働いた」


 江若は杯を置くと、ゆっくり立ち上がった。わりあいにしっかりした足取りで水鶴のところへやってくる。


「水鶴、今夜はお前に来てほしい」

「承知いたしました。今、お酒で汗をかいてしまいましたので、綺麗にしてから参ります」

「わかった。待っているぞ」


 江若が一人で出ていこうとすると、すぐに月凛が横についた。すかさず体を支えてやる。このあたりの気づかいはさすが正夫人というところである。


「ホウラっ、なについていこうとしてるんです! あなたは食器のお片付けをするんですよ! 雪羅に言われなくてもやること!」


 小間使いの謝蓮雨が大きな声で注意する。またホウラは月凛を追いかけようとしたのだ。


「孫式、わたしは旦那さまとの時間があるから、今日はもう帰ってくれていいわ。また明日ね」

「はい、頑張ってください」

「何をどう頑張るの?」

「え、それは……その……」


 返事に詰まると、水鶴はかすかに笑って孫式の額を指で突いた。


「本当にうぶなのね。この程度で顔を赤くするようでは、女の裸を見たら気を失ってしまいそう。せいぜい遊びの女に引っかからないようにすることね」

「は、はい、気をつけて帰ります……」


 またもやり込められた孫式は、若干の悔しさを引きずったまま東江楼を後にするのだった。

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