その2
「お久しぶりでございます」
「銀家の小間使いか。通っていいぞ」
門番の海燕に挨拶をして東江楼の門をくぐる。
「ちょっと! 奥様にベタベタくっつかない! 仕事がなければ探せばいいのよ!」
友雪羅の怒っている声が聞こえる。回廊に入ると、見慣れない少年の姿があった。短い髪を針のように尖らせていて、肌は浅黒い。青い暁衣を纏っているが、似合っているとは言いがたい。
「あの……」
「あら、孫式。久しぶりね」
声をかけてくれたのは月凛だった。少年はその正夫人の腕にくっついている。
「奥様の匂い、安心する。安心しないと仕事が手につかない」
「こらっ、そんな言い訳が通ると思ってるの!? 奥様に迷惑をかけないで!」
「ええと、そちらの方は?」
月凛は嫌がる様子もなく微笑みながら、
「この子はセーロの子供で、ホウラというの。旦那さまが買ってきたのよ」
と教えてくれる。
「買った……つまり、奴隷として売られていたということでしょうか?」
「そうなるわね。旦那さまは物好きだから、働き手がほしい者は見に来いという告知を聞いて、わざわざ西都の獄舎まで見に行ったのよ」
十日以上前、セーロの集落が陥落した。そこから数日で彼らの作っていた独自の野菜や果物などが暁国の市場に出回り始めた。孫式も聞いてはいたが、奴隷まで売られていたとは初めて知った。
「さあホウラ、そろそろお掃除を始めてちょうだい。抱きつきたければあとでね」
「あとでなら、いい……?」
「いいわよ」
「じゃあ掃除、やる」
ホウラは月凛から離れ、小間使いの部屋――西小房へ歩いていった。雪羅がため息をつく。
「来たと思ったらいきなり奥様に懐いちゃって、隙あらばすぐくっつきたがるの。故郷が滅ぼされて心細いんだろうけど、買われた以上は東江楼のしきたりを守ってもらわないと」
「奥様はお嫌ではないのですか?」
「平気よ。くっつかれるのは慣れているから」
江若はくっつくというより抱きつく。では、夫人たちの誰かがそうしているのだろうか。あるいは小間使いが。
……まさか海燕さんは違うよな。そんなことをしたら旦那さまが黙っているはずがない。
孫式はあまり追及しないことにした。
「水鶴に会いに来たのでしょう? 早く行ってあげなさい」
「あっ、失礼いたしました。では、これで」
月凛と雪羅に挨拶をして、孫式は水鶴の部屋に入った。出迎えてくれた主人は、不機嫌さを隠そうともしていなかった。
「……水鶴様、何かあったのですか」
「ホウラという男に会った?」
「はい」
「あまりに馴れ馴れしい。とんでもない奴だわ。なぜ旦那さまがあんな男を買ってきたのか、理解に苦しむ」
月凛を慕っている水鶴からしたら許せない光景だろう。異性がああも気安く腕を絡めるなど、暁国の常識ではありえないことだ。しかも相手は屋敷の正夫人。もしも孫式が水鶴に同じことをしたら確実に首を落とされる。何も知らないセーロの民だから見逃されているだけだ。
「やはり、暁の知識は持っていないのですか?」
「ないわね。イスを座る道具だと知らないくらいだもの。旦那さまが座れとイスを示したら不思議そうな顔をしていたわ。休む時は床に座るのが当たり前だし、土の上に布を敷いて寝るみたいで、わたしたちと常識そのものが違うのよ」
「それで、よくあんなに長期間禁軍を苦しめましたね」
「身体能力は高いし、自分たちの領域に連れ込んでしまえば狩りの延長なのよ。数に任せて攻めていた禁軍が不利になるのは当然。調練で手を抜いていた部隊は特に被害が大きかったそうよ」
「あ、そういえば族長を討ち取ったのは月凛様のお兄様だと聞きました」
険しかった水鶴の表情がゆるんだ。
「そうね、さすが劉双将軍だわ。旦那さまがお祝いだと言って、あの日はいつもより盛大な夜宴がひらかれたの。月凛様もずっと嬉しそうにしていたわ。わたしも、見ていてすごく幸せだった」
……人の笑顔を見ているだけで幸せとは。どこまで月凛様を慕っておられるのだろう。
「劉双将軍は耀二位に昇格したそうよ。これで長兄秀豪様にも、もうすぐ追いつく」
水鶴は自分のことにように、楽しそうに語った。主人が上機嫌になるのは孫式としてもありがたいことである。
「今月の荷物をご確認ください」
水鶴は孫式が置いた箱を開けて中身を確認する。
部屋の隅でビシャッと水の音がした。
孫式が右を向くと、壁際に大きな桶が置かれていて、真っ黒な魚が二匹、泳いでいた。楕円に近い形をしていて、目をこらすと牙がちらちら覗いているのがわかった。
「す、水鶴様? あれは一体なんなのです?」
「ああ、セーロの集落近くの湖に棲んでいるという肉食魚よ。噂を聞いたから旦那さまに買っていただいたの。五日前、ホウラを連れてきた商人が一緒に運んできてくれたわ」
「肉食魚……それは、必要なものなのですか?」
水鶴は箱をいじっていて、孫式の方を見もしない。
「毒薬を作るには植物だけじゃなくて、動物の臓物や骨を使ったりするの。そうすると鼠とかモグラとかカラスの死体が少し余るのよね。今までは中庭に埋めていたけれど、他の奥様方に不気味だと言われるのも嫌だし、別の処分方法を考えなきゃなって」
「た、食べさせて処分すると?」
「いいじゃない。使えるものはなんでも使うのがわたしの主義よ。ちょうどお部屋も空いている場所が多かったし、これで少し賑やかになったわ」
「……カラスとおっしゃいましたが、どうやって捕まえているのですか?」
「中庭の木に止まっているのを見かけたら針を投げているわ」
当然と言わんばかりの返答だ。
「カラスの内臓は使えるんだけど、筋肉がいらないのよねえ」
孫式は呆気にとられてまともに反応できない。水鶴は気にすることなく箱の中身を机の上に広げた。
「これはお父様にお願いしておいた薬湯の粉袋ね。お前、特別な仕事をあげるわ。これを月凛様にお渡ししてきなさい」
「ええと、よろしいのですか? 水鶴様は……」
「頻繁に話していると、取り入ろうとしていると邪推されることもあるのよ。だからお前に任せるわ」
「では、すぐに」
孫式は小袋を受け取って水鶴の部屋を出た。
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