その7
「突発性の呼吸困難というやつじゃな。まあ薬も飲み込めたし、ここからは回復していくはずじゃ。安心せい」
「ありがとうございます、丸平先生」
町医者の済丸平が江若の治療を終えて廊下に出てきた。夫人たちはそれぞれにお礼を言う。
「てっきりご夫人の誰かが倒れたのだと思ったが、まさかご主人の方だったとは驚いた。この頑丈な男でも疲れには勝てなかったようじゃな」
丸平は残念がっている。孫式はそう感じていた。
以前来た時は、ちょうど景嵐が風邪を引いて丸平に診てもらっていた。孫式は水鶴に命じられて医療房に軽食を届けに行った。そっと覗いてみると、治療台に寝かされていた景嵐の手を、丸平はゆっくりとさすっていた。孫式が入ると慌てたように離したが、風邪引きを診るのにそんなことをする必要はないはずである。丸平は治療にかこつけて夫人たちの肌に触れるのを楽しんでいる。水鶴はそれを見越して孫式を差し向けたのだ。
江若の恩人だからという理由で丸平が東江楼の専属医師になっているが、この男は節操がなさすぎると孫式は思う。
「ともかく、もう心配はいりませんぞ。皆さんも休まれるとよい」
「ありがとうございます。では関頼、丸平先生をお送りして」
「承知いたしました」
送り手が男だと知れて、やはり丸平はがっかりした様子だった。
「また明日、様子を見に来るわい」
夫人たちが頭を下げるので、丸平はもう帰るしかない。料理人であり使用人でもある関頼が丸平を案内していった。月凛の人選は見事である。
「では、先生もああ言っていましたし、わたくしたちもいったん休みましょう。蓮雨に旦那さまを見守っていてもらいますが、起きたら全員が確認に来ること。よろしい?」
はい、と夫人たちが声をそろえる。
「蓮雨は、旦那さまの容態が悪化したらすぐに教えてね」
「はっ、責任を持って見守ります!」
背筋を伸ばした蓮雨は、将官のような返事をする。
「とんだ夜になっちゃったわね。では、おやすみなさいませ」
真っ先に部屋に帰っていったのは青雅だった。
月凛が下がり、景嵐も戻っていく。
「白扇さん、先ほどは本当に助かりました。感謝いたします」
「こちらこそ。明日、あらためてお話ししましょう。もっと素直にあなたと向き合いたいわ」
「嬉しいです。薬の話も、聞いていただきたいです」
「もちろん。そのうちあなたの薬のお世話になるかもしれないし」
笑い合って、白扇と花悠は廊下を歩いていった。
「どうやら、仲直りの方は上手くいったようですね」
水鶴に声をかける。主人は満足げな顔をしていた。
「安心したわ。孫式はどうするの? 宿へ帰る?」
「そうですね。まだそこまで遅くないはずなので」
「気をつけなさいよ」
孫式は返事をして、水鶴を見送った。
☆
――見送ったあと、正門へ続く階段の床を調べてみた。一晩あれば隠すことができるものも、今ならまだ隠せない。この推理の裏付けを取って、今夜のうちに決着をつける。
孫式はうなずき、西邸へ向かった。
「水鶴様、先ほど話し忘れたことがありまして。聞いていただけませんか」
しばらく沈黙があったあと、水鶴がゆっくり戸を開けた。露骨に不機嫌そうだ。
「……なんなのよ?」
「内密の話にございますので、ここでは」
主人は黙って、孫式を招き入れてくれた。
「私は、水鶴様が悪意であんなことをしたわけではないと思っております」
「なんの話?」
「水鶴様が、江若様に毒を与えたというお話です」
「あらあら、わたしが旦那さまのお酒に毒を入れたとでも言うのかしら? それにしては効き始めるのにずいぶん時間がかかった気がするけれど」
「お酒には入れていませんよね。櫂に毒が塗られていたのです」
「…………」
水鶴はきょとんとしている。
「わたしが櫂に毒を塗った? どうやって? お前に持ってきてもらって、あとはずっとお前と青雅さんが一緒にいたじゃない。そんな中でどうやって毒を?」
「毒液を仕込んだ葡萄を袖に隠しておき、陰で握りつぶして塗ったのです。あの時、私も青雅様も旦那さまを待っていたので広間の方を見ていました。隣に立っていても水鶴様の手元までは気にしていませんでしたし、暗くてよく見えませんでした。ですから手先の器用な水鶴様は見事に綱渡りをやってのけたのです」
一転して目つきがきつくなった。
「でも、櫂には海燕だって触れているし、旦那さまが倒れてからは白扇さんだって握っているのよ。なぜ旦那さまだけ倒れるのよ。おかしいと思わない?」
「いいえ、おかしくはありません。水鶴様は夜宴の時、酔ったふりをして旦那さまの手のひらに爪を立てました。あの時の傷口から毒が染み込んだのです。今朝、海燕さんの手のひらを見ていましたね。あれは手相を口実に、手のひらに怪我をしていないか確かめていたのでしょう。傷があったら海燕さんも倒れてしまいますから。奥様方は普段から肌に気をつけていらっしゃいますし、白扇様と花悠様も危険はないと判断されたのでしょう」
「…………」
「すぐ回復すると言われたのですから、軽い呼吸困難が起きるような毒だったのでしょう。水鶴様は旦那さまを殺したかったわけでも、恨んでいたわけでもありませんよね。ただ、旦那さまが窮地に陥ることによって白扇様と花悠様が自然と協力し合う状況を作りたかったのではないでしょうか。実際、お二人はすっかり意気投合しておられました。目論見は成功したのです」
「……どこまで、わたしの邪魔をするつもりなの」
水鶴は苛立たしげに言った。
「では、やはり合っているのですね」
「わたしは、他の奥様方がいがみ合うと不安でたまらなくなる。東江楼を形作っているのは旦那さまだけじゃない。奥様方の存在が大きいのだから。お屋敷を安定させるためには、旦那さまに傷ついてもらってでもみんなに折り合いをつけさせないといけないのよ」
「そこまでして、東江楼を守りたいと?」
「そうよ。この場所はわたしを満たしてくれるただ一つの家だから」
「しかし、旦那さまに毒を盛るなどただごとではありません。もしも旦那さまが亡くなってしまわれたら東江楼はおしまいなのですよ」
「わたしは自分の扱う毒薬について、誰よりもよくわかっているつもりよ。旦那さまの体格、今宵の体調を考えて、どのくらいの量を使えば後遺症を残さない程度に強い症状が出るかしっかり計った。死なせない自信があったのよ」
「そこまで……」
「目標を決めたら徹底してやるのがわたしよ」
「お屋敷のため……ということでしたら、私は黙ります」
水鶴の表情にかすかな安堵が浮かんだ。
「ですが、黙るので、その、私にも……」
その美しい顔を見て、孫式は思わずそんなことを口走っていた。水鶴が口元に笑みを浮かべる。
「ふうん? 黙っているから対価がほしいというのね?」
圧力を感じて、孫式はすぐに後悔した。
「あ、あの、出過ぎたことを言ってしまいました。今のは聞かなかったことに――んん」
言い切る前に、もう水鶴の唇に封じられていた。主人の両腕が背中に巻きつき、熱い唇が押しつけられる。
孫式の体は燃えるように熱を帯びた。
――ああ、素敵だ、水鶴様は。一生、ついていける……。
孫式は陶酔の感覚に飲まれていった。
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