その2
「花悠さん、最近なにをやっているの?」
「なにと言いますと? 新しい薬の調合ならしておりますが……」
孫式が東江楼に到着した時、回廊で言い争いが起きていた。
第二夫人の香白扇と、第五夫人の張花悠が剣呑な雰囲気で向き合っている。
「あなた、いつも毒々しい匂いを振りまいていて非常に迷惑よ。匂いの立たない薬は作れないものなの?」
「旦那さまに頼まれているのは体に害のない虫よけ薬です。そのためにはどうしても匂いが出てしまうのです」
「もっといい匂いにできないの? 正直、あなたの近くにはいられないわ」
「だったら離れていればよいことかと。無理して近づいていただかなくてもけっこう」
「年下の分際で言うじゃないの。ちょっと薬の知識があるからって思い上がっているんじゃなくて?」
「それは悪口のつもりですか? 最近、旦那さまにお呼ばれする回数が多いからって、白扇さんこそ思い上がっているのでは?」
「なんですってっ」
「あっ、このっ、腕力に頼るなんて……!」
ついに取っ組み合いになってしまった。
「白扇様、花悠様、どうか落ち着いてくださいませ!」
小間使いの雪羅が止めに入ったが、二人は聞く耳を持たない。押された花悠が回廊の手すりに背中をぶつけて呻いた。が、すぐ反撃に転じて、白扇を廊下に転がす。やられた第二夫人も相手を引っ張り倒し、襦裙が絡み合って何が何やらという状態になってしまう。
「何をやっているの!」
怒りながら出てきたのは正夫人の湖月凛であった。気づけば他の夫人たちも回廊に姿を見せている。孫式の東江楼での主人、銀水鶴は水色の襦裙姿であった。
「泰江若の妻ともあろう者がなんとはしたない。恥を知りなさい!」
月凛が怒鳴ると、二人は不満たっぷりといった表情で立ち上がった。
「そもそも、言いがかりをつけてきたのは白扇さんですからね。旦那さまのためのお薬です。調整を重ねているのですから、出来上がるまで耐えるくらいしてもらわないと」
「いつまでかかるのよ? 花悠さんの近くを通ると鼻がしびれて仕方ないわ」
「そこまでひどくはないでしょう!」
「いいえ、ひどいわ! ああ、今だって頭が痛いもの!」
「このっ……!」
月凛が手を叩くと、また飛びかかろうとしていた花悠が動きを止めた。
「しばらく、白扇さんと花悠さんは近づかないように。離れていた方がお互いのためです。よろしい?」
二人はしぶしぶうなずいた。
「まったく、旦那さまが出かけていたからよかったものの、こんなところを見られたら追い出されていたかもしれませんよ。はしたない真似は慎んでください」
白扇は鼻を鳴らし、自分の部屋に戻っていってしまった。
「さっさと完成させればいいのね。わかったわかった」
花悠も苛立たしげにつぶやき、部屋に入っていく。
「荒れたねえ。あれは白扇さんが悪いと思うけど」
第四夫人の陽景嵐が言う。
「虫よけの薬なんてそりゃ臭うでしょ。それくらいわかってあげなきゃ」
「白扇さんも言い出した手前、退けなかったんでしょ。一番年上だもの、言い負かされるなんて屈辱よねえ」
第三夫人、紹青雅が続ける。武人の家に生まれただけあって夫人たちの中では誰よりも背が高く、無駄のない体つきをしている。心に余裕があるのか、いつも人を見下すような顔つきをしている。孫式の方が小さいので、見つめられると不安になる。
泰江若の六人の妻は、白扇が三十一歳で一番年上だ。正夫人の月凛は今年で二十八。最年少は水鶴で今年二十三になる。青雅、景嵐、花悠は二十四から六のあいだに収まる。江若は三十五になる。
「江若様はお留守なのですか?」
孫式は水鶴に近づいた。
「雪が溶けて金山の採掘が本格的に再開されたの。その様子を見に行ったわ」
江若を豪商に押し上げた金山。人夫に無理をさせないやり方で、江若は現場の反乱にも対策を打っている。寒さと雪が厳しい冬は作業の回数を減らし、人夫に給金を持たせて順番に国に帰らせるなど極力不満を取り除いている。それだけやってもなお余るほどの富を、金山は生み出してくれるのだ。ならば余計なことで鉱山を奪われるのが一番つまらない。それが江若の考え方であった。こういう性格の金持ちは、暁国広しと言えどもそうそうお目にかかれまい。
金は他国への輸出も順調に行われており、江若の元へ飛び込んでくる富は年々増えているという。夫人たちも安泰であろう。
「白扇さん、ああなるとなかなか折れないのよねえ。旦那さまが帰ってきたら仲直りの席を用意してもらうべきなんじゃない? 私は眺めさせてもらうわ」
「それって、二人一緒に相手するみたいな?」
景嵐が訊くと、青雅は呆れたような顔を作った。
「そんなわけないでしょう。旦那さまはその夜呼ばれた人だけのものよ。他に手段なんていくらでもあるでしょ」
「あるかなあ。お酒は毎晩飲むし、特別な感じはないよね」
「だったら」と、月凛が割り込む。
「お月夜になったら旦那さまに舟を出してもらいましょう。曹湖で春の月見舟。どうかしら」
「あら、それは素敵ね。さすが奥様。場というものをよく心得ていらっしゃるわ」
「旦那さま、自分で櫂を漕ぐの好きですもんね。三人で湖に出ればいい雰囲気になるかも」
「みんなで漕ぐのもいい。力を合わせると自然と仲が深まるものよ」
「共同作業は仲が通じ合うものでしょうか? わたしは経験がないので……」
水鶴が質問すると、月凛は優しい顔でうなずいた。
「思うよりずっと効果があるわ。まずは旦那さまにお願いしてみないとね」
水鶴は納得した顔をしている。暗殺者として育てられた水鶴には、誰かと力を合わせて目標に挑むという経験がまったくなかったのだ。
月凛が妙案を出してくれたので、青雅も景嵐も安心したようだった。
「ひとまず旦那さまが帰ってくるのを待つわ。材料を見せてもらえる?」
「承知いたしました」
水鶴は月凛に頭を下げると、孫式を部屋に招き入れた。
「……これは?」
室内には花の香りが濃い。前に来た時はなかった甘い匂いが漂っている。寝台の脇に花瓶があり、そこに白くて茎の長い花がいれてあった。
「
「ちょうど先ほどのお二人が問題にしていたように、ですね」
「そうね。先手を打って取り寄せたのは正解だったかもしれない。わたしも白扇さんにきつく当たられるところだったわ」
水鶴は孫式の持ち込んだ箱の中を確かめる。薬の材料になる薬草、乾かした木の皮、果物の皮といったものを自分の薬品棚にしまっていく。
「白扇さんは気が立っているから、お前も不用意なことを言わないように気をつけなさい」
「そうなのですか? 旦那さまに呼ばれる回数が多くなっていると、さっき花悠様が……」
「回数だけなのよ。旦那さまは子供ができないように気をつかっている。でも白扇さんは二月に三十一になって、そろそろ子供を作らないと実家に顔向けできない時期になってきている。その焦りがあるのね」
江若は、跡継ぎより自由を公言している。上流階級の人間からしたら常識外れと言われるようなことだ。そのくらい、大きな家は後継者の存在を重要視している。つくづく泰江若という男は型破りな人間である。
「旦那さまは本当に不思議な方だと思うわ。だからこそ東江楼はまとまっているのかもね」
「これだけ派手な生活をして、お役人様に目をつけられないものでしょうか」
「そこは気がかりね。不穏な動きがある、と前に夜宴の席で話していたことがあるから」
役人はどんな形でも言いがかりをつけて金を巻き上げようとするものだ。水鶴の父、銀斗開は真面目な長官だが、下についている小役人たちが同じとは言い切れない。皆、陰で何をしているかわかったものではないのだ。
「さて、旦那さまが帰ってくるまでやることがないわね。頂き物の葡萄でも食べる?」
「よろしいのですか?」
「もちろん。長旅の疲れを癒やしなさい」
水鶴は台の上に置いてあった葡萄を手に取り、孫式に一房まるまる渡してくれる。
「こ、こんなにいただけるのですか?」
「こっちにまだ余ってるから心配いらないわ。嫌いならわたしがもらうけど」
「い、いえ。ありがとうございます」
孫式は部屋の隅のイスに座って葡萄を食べ始めた。ほどよく酸味があり、疲れた体に染みる。あとからやってくる甘みもたまらなく美味だ。
「幸せそうな顔をしているわね」
水鶴が孫式を見つめて、かすかに微笑んでいる。孫式は顔を赤くした。
「お、お見苦しいところを……」
「何を言っているの。年頃の少年らしくてかわいらしいじゃない」
「か、かわいいのでしょうか、私は」
「うん。綺麗な顔立ちよ。ちゃんと体を洗って髪の毛も整えればだいぶ見栄えのする男になるはず」
「う、嬉しいです」
水鶴はいつもこうして褒めてくれる。からかっているだけかもしれない。それでも、なんの刺激もない旅をしている孫式は嬉しく思う。銀家からここにやってくるまで、何度も宿に泊まる。そこで十代の異性に出会うことはほとんどない。水鶴は年上だが、接している人間の中で一番年齢が近い。からかいの言葉が刺激的に響くのはその影響もあるだろう。
葡萄を食べ終えて、しばらく無言の時間が流れる。
水鶴は窓枠に肘を乗せて外を眺めていた。中庭の雪はかなり消えて、向こうにある東邸の広間がよく見える。先月来た時は、屋根から落ちた雪が積み重なって視界が悪かったのだ。
春風が吹き込んで、水鶴の黒髪を踊らせた。後ろ姿しか見えないのに、
……美しいお方だ。
と、孫式は見とれている。
広間の先に広がる曹湖のほとりに立てばさぞ絵になることだろう。
何もしていないのに、孫式は充実した気分になっていた。
日が傾くと使いの者が東江楼にやってきて、江若は鉱山のある街に泊まると伝えてきた。夫人たちだけの静かな夕食となり、孫式は早めに自分の宿に帰った。
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