その8

「狼が鳴いた……か。にわかには信じられぬが、景嵐殿が取り乱すほど驚いたのであれば幻ではなかろう。怨念というものは実在するのかもしれぬな」


 翌朝。東江楼の門前で、孫式は湖劉双を見送る輪に混じっていた。顔を見せているのは、月凛、水鶴、景嵐の三夫人と、江若、海燕という男性陣、小間使いの雪羅、蓮雨だ。劉双は江若からご馳走を渡され、馬にくくりつけたところだった。


「劉双将軍、このたびはお騒がせしました……」

「景嵐殿のせいではあるまい。俺の討ち取り方がよくなかったのかもしれぬ。月凛も気をつけろよ。夜中に化けてお前の首に噛みついたりしたら大事だ」

「心配のしすぎです。きっと落ち着いてくれますよ」

「だといいのだが」

「まあまあ将軍! 何かあったら俺がちゃんと押さえるから安心してくれ! 大切な妻には傷一つつけさせんよ!」


 よほど充実した一夜を過ごしたのか、江若は朝から上機嫌だ。


「私はまたセーロとの戦いに参加せねばならないので、月凛を守れるのは江若殿だけです。妹のことを重ねてよろしくお願い申し上げる」

「うむ、任せておけ!」

「ではこれにて。昨夜はとても楽しかった。感謝いたします」


 劉双は、最後に月凛の頭を撫でた。


「劉兄様、わたくしはもう子供ではありません」

「そう言うな。俺にとっては変わらぬかわいい妹なのだ。幸せにやってくれ」

「……お気をつけて。怪我などなされませんよう」

「そうだな。早くセーロを征伐して、お前たちを安心させたいものだ」


 劉双は馬に飛び乗り、もう一度だけ挨拶をすると、東江楼を西へ駆けていった。


「人柄もよい。あれなら昇進も早そうだな」

「無理だけはしないでほしいものです」

「しかし狼が鳴いたとはな。青雅があんまりうるさいからまったく聞こえなかったぞ」

「わたくしも実際に聞いたわけではありません。景嵐さんがそうやって騒いだので」

「ほ、本当に聞こえたんです! じゃなかったら無様に廊下へ飛び出すような真似はいたしませんっ!」


 景嵐は顔を赤くして言った。


「まあ、害がなければなんでもよいわ。もしまた鳴いたら重りをつけて曹湖へ沈めよう」

「それが一番ですね」


 なんとなく話がまとまった。門番の海燕を残して、見送りに出た者たちは西邸へ戻る。

 孫式もついていき、部屋に入ろうとする水鶴の背中に声をかけた。


「あの、水鶴様。お部屋で話したいことが」

「……入りなさい」


 孫式が部屋に入ると、水鶴はすぐに戸を閉めた。目つきは鋭い。


「それで? 何を話したいの?」

「水鶴様が、狼を鳴かせたというお話を」


 主人の表情はいっそう硬くなった。


     ☆


「お前は、ゆうべの事件をわたしがやったと言いたいのね」

「はい。水鶴様であれば実行することができます」

「どうやって?」

「インコに狼の真似をさせるのです」

「…………」


「水鶴様のインコは、非常事態に備えて物真似ができるよう仕込んでいるのでしょう。動物だけでなく人の真似も、と水鶴様はおっしゃいましたね。つまり動物の真似もできるということ。暁国に棲む動物と言えば、犬、猫、虎、兎、鼠、そして狼も含まれます。狼の遠吠えは賊を恐怖させるに向いています。必ず教えているでしょう」


「仮に覚えていたとして、どうやってやるの? 景嵐さんは確かに狼が鳴いたと言っていたのよ」

「ゆうべの夜宴で、水鶴様は一人だけ早めに引き上げましたね。夜宴は小間使いも広間にいますから、回廊で人に見られる心配はない。それを利用して景嵐様のお部屋に入り、狼の剥製の腹をひらいた」


 孫式は自分の腹に手を当てる。


「剥製の中身は空っぽだと劉双将軍がおっしゃいました。そこにインコを潜ませる。縫い目が元通りにできなくても、あの狼の体毛は長めなので隠れて見えません。深刻な問題ではありませんでした」

「で?」


「夜中になると、水鶴様は窓から部屋を出た。景嵐様のお部屋がすぐ隣で移動しやすかったことも、この計画を実行に移した要因でしょうか。景嵐様は暖かい夜、窓を開け放っている。そこに近づき、口笛か何かで合図を飛ばし、インコに狼の真似をするよう指示を出した。景嵐様が聞いた風切り音の正体はこれです」


「…………」


「インコは狼の体内にいるのですから、狼が鳴いたとしか思えない状況になります。景嵐様は反応の大きい方ですから、調べるよりは驚いて部屋を出ていくことも予想できたでしょう。あっさり怨念を信じてしまいましたし、一人で近づいて調べる勇気はない、と水鶴様は見たのですね」


「その話でいくと、まだわたしのインコが狼のお腹に残っていることになるわね?」


 水鶴は得意げに言って、口笛を吹いた。窓の外からインコが飛び込んでくる。


「来た! 来た!」

「ほら、この子はちゃんといるわ。これをどう説明するつもり?」

「水鶴様には、窓の外からでも狼の口を開ける方法がありました」


 一瞬で水鶴の表情が元に戻る。


「景嵐様のご実家から届いた大きなです。あれを窓の外から伸ばし、剥製の口の中に入れてこじ開けた。インコはそこから外へ飛び出したのです。窓際に剥製が置いてあったからこその作戦でした。あとは誰かが見に来る前に自分の部屋に戻るだけです。それをすばやく実行するために、あらかじめイスなどをこの部屋の窓の下に置いておいたのではないかと思うのですが――イスの脚に泥がついていたら、私の推理は証明されます」


「……なんという男なの」


 水鶴は呻くように言った。インコが「かなしい」とつぶやく。


「なんで、あの場を見ただけでそこまで看破できるの……。本当に、小間使いにしておくには惜しい才だわ」

「目的は……」


 水鶴は「ふん」とそっぽを向いた。


「決まってるでしょう。あれは月凛様のお兄様が持ってきて、月凛様も欲しがっていた。だったらふさわしい人のお部屋に置かれるべきなのよ」

「……そのためだけに、こんな手間を?」

「わたしは、月凛様のためならなんだってするわ。お前はそこに立ちふさがるつもりなのね」

「あの、私は黙っているつもりです。殺人でも傷害でもないのです。騒ぎ立てる必要はないと存じます」

「……本当に、口をつぐんでくれるの?」

「はい。私は、東江楼が荒れることを望んでおりません。斗開様も同じだと思います」


 水鶴の父は、娘が大変な出来事を起こさないかばかり心配している。


「ありがとう、孫式。そういうところ、好きよ」

「あ、ああっ」


 いきなり水鶴に抱きしめられて、孫式は真っ赤になった。夜中に景嵐にも抱きつかれたばかりなのに。


「い、いけません水鶴様っ」

「ふふっ、慌ててるの? かわいらしいわ。そういうところは少年なんだから」


 また秋の涼しさが戻ってきた日だったが、孫式の体はたちまち熱くなってしまった。

 こうして狼の剥製をめぐる騒動でも、水鶴は月凛に渡すという目的を達成したのである。

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