その6

 陽景嵐は真っ白な寝間着に着替えると、寝台に横になった。東江楼の夫人たちは御簾のある寝台を使う者もいるが、景嵐はそういうものを邪魔だと思っている。


 もともと実家の鍛冶屋では父の作った簡素な寝台で寝ていたのだ。仰々しい備えではかえって落ち着かないのだった。


 寝台は壁に沿って設置されている。そこから少し離れたところに窓があり、差し込む月明かりに照らされるように狼の剥製が鎮座していた。


 ……月光を浴びるとすごく神々しく見える。でも、ちょっと怖いかも。


 一目見て惹かれたからこそ、月凛を押しのけてまでもらい受けた。しかしあれは明るいところで見たからだった。夜になると、剥製の顔はまったく別物に見える。


 持ってきたばかりだから意識しているだけかもしれない。景嵐は深く息を吐き出し、仰向けになった。天井を見つめてぼんやりしていると、少しずつ眠くなってくる。


 江若に呼ばれた日はこうはいかない。絶倫の主人は何度でも景嵐の体に挑んでくる。


 景嵐も江若の寛大な面に惹かれている。顔も端正で、酒癖が悪いところ以外は好いている。交わりに愛も感じる。それでも、一晩に何度もとなるとさすがに疲れてしまい、途中からはもう天井を眺めているしかなくなるのだ。


 ……今夜は青雅さんと、か。あの人が一番、旦那さまに気に入られようと努力してる。今頃もきっとすごいことになってるんだろうな。


 その光景を想像すると、なんだか滑稽なものに思えてくるから不思議だ。


 景嵐にとっての初めての男が江若だった。周りにいた同世代の男たちは都へ仕官に行ったため、婚期を逃したと思われた。鍛冶屋の父親も嘆いていたが、そこに現れたのが江若だ。


 東江楼を構えて数年。景嵐の父の腕前を聞いて、剣の注文に来た。そこで景嵐は見初められたのだ。


 すでに妻が三人いると聞いても景嵐は動じなかった。江若の噂は街全体に広がっている。大成功を収めた変わり者だということ。


 ……自分を変えるなら今しかない。この人を信じてみよう。


 父親に、「お前をもらってくれる男はいつ現れるのかね」とぶつぶつ言われることにはもう飽きた。波風のなさすぎる、変化のない生活にも。江若については何も知らないが、飛び込んだあとに知ればいい。


 景嵐は割り切って東江楼へ入っていった。

 そこからは刺激だらけの日々が待っていた。夫人たちにもそれぞれの味がある。幸せなことに江若と性格も合い、夜伽を知ってなお愛情は深くなった。


 ……次に呼ばれるのはいつかなあ……。


 眠気がかなり強くなってきた。視界が真っ暗になりかけている。

 ヒュッと、風切り音のようなものが聞こえた。かすかな音だった。景嵐は何気なく横を向く。


 オオオオンン……。


「えっ……?」


 今の声は? 狼の剥製の、それも口から響いてきたように感じた。


 ……そんなのありえない。こいつは剥製なんだ。確実に死んでいるんだから。


 オオオオオオンンン……。


 さっきよりはっきりした声が、長く響いた。


「な、鳴いてる……?」


 オオオオオオンンン……。


 声はなおも繰り返される。月光に照らされて爛々と光る目。神々しく思えた銀色の体毛が、一転して不気味なものに見えてくる。


「い、いや……助けて……」


 意識が覚醒していた。景嵐は転がるように寝台を降りて、まっすぐ戸に向かって走った。


「あたしを恨まないで!」


 叫びながら、景嵐は部屋を飛び出していった。

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