その5

 水鶴は寝台に横になっていた。


「吐き気などはございませんか」

「今のところはね。今夜の酒は少し強かった気がするわ」


 気温が高いせいか、水鶴の部屋は窓を開け放ってある。月が覗いてきて、外はうっすらと白く明るい。


「あまり気分がよくないの。もしかしたら夜中に具合が悪くなるかもしれない」


 水鶴の声は重たい。ひどくだるそうであった。


「でしたら、今夜は使用人のお部屋を借りてもよろしいでしょうか。水鶴様に何かあったら大変ですので、宿には帰らないでいようかと」

「それもいいわね。西小房にししょうぼうは男女で分かれているから遠慮なく使いなさい。わからないことは料理人の関頼に訊けばいいわ。海燕は遅くなるまで門を守っているから」

「承知いたしました。のどは渇きませんか?」

「少し渇く。飲ませてちょうだい」


 水鶴はゆっくり起き上がった。孫式は部屋の隅にある壺から水をすくい、杯に入れる。


「どうぞ」

「ありがとう」

「あっ……」


 孫式は思わず声を上げていた。杯だけ受け取ればいいものを、水鶴は孫式の両手を押さえ、そのまま傾けて水を飲み始めた。


「す、す、水鶴様、いけません、このようなことをしては江若様がお怒りになります」


 必死で訴えるが、水鶴はまるで気にしていないかのように水を飲み続ける。息を継がずに飲み干すと、ようやく手を離してくれた。


「旦那さまはもうお部屋に誰か連れていったのでしょう? 見られるわけないもの」

「そ、そういう話ではありません」

「じゃあどういう話なの?」

「え、えっと……」


 孫式が焦っていると、水鶴はうっすら笑って壁に背中を預けた。


「いいじゃないの、手を握るくらい。お前は難しく考えすぎなのよ」


 それで話は終わりだと言わんばかりに、水鶴は話題を変える。


「旦那さま、今夜は誰を連れていったの?」

「……青雅様です」

「ふうん。青雅さんは実家から子供を期待されているという話だったわ。でも旦那さまがあの調子では困るでしょうね。わたしの時も上手く包んでいるし」

「包む、とは?」

「お前にはわからない話かもしれないわね。男と女のこと」

「は、はあ……」


 理解できないが、夜伽にまつわる話であろうことは想像がついた。東江楼の夫人たち以外の女とは話すことのない孫式である。夜の知識はまったくない。


「あ、あの、あまり長話をされてはお体に障ります。私はこれで失礼しますので、よくお休みください」

「東江楼に残ってくれるのね?」

「はい、西小房をお借りします」

「であればけっこうよ。おやすみなさい」


 孫式は深く頭を下げ、水鶴の部屋を出た。

 月に一度、三日間滞在する東江楼。孫式はそのたび、今のように水鶴にからかわれている。水鶴は見目麗しい女性だ。肌も厳しい修行を受けてきた者とは思えないほど細やかで美しい。それだけに、触れられると孫式はすぐ真っ赤になってしまう。


 気づけば、長旅の途中も水鶴の顔ばかり浮かんでくる。泰江若という稀代の金持ちの妻だというのに、その横に自分が立つ光景を思い描いてしまう。処刑されてもおかしくない話だ。頭ではわかっていても、割り切ることはできない。そんな時にからかってくるのだから本当に銀水鶴という女は罪深い。


 孫式は回廊を西へ抜けて使用人室――西小房のある区画へやってくる。廊下の右側に二つの戸がついており、手前が女の、奥が男の部屋になっている。雪羅や蓮雨、関頼や海燕といった小間使いたちはここで寝起きする。


 室内はいたって簡素で、四つ足の寝台が四つ、四隅に置かれているだけ。部屋の中央に円卓が置いてあり、イスは四つ。壁際に板が張ってあって、そこに杯などが乗っている。


 普段は関頼と海燕しかいないが、夫人たちの家から小間使いが様子を見に来ることもある。万一帰れない時のため、ここには予備の寝台が置かれているのだった。


 孫式は寝具の畳んである寝台に腰かけた。

 しばらく月明かりをぼんやり見ていると、関頼が入ってきた。


「おう、お前さんは水鶴様の家の者だったな」

「はい、水鶴様の体調が優れないようなので、今夜はここに泊まらせていただきます」

「ここに三人目が来るなんて久しぶりのことだ。新しく人を雇っても、旦那さまはすぐ追い出してしまうからなあ。俺と海燕はよく続いている方だと思う」

「やはり、大変ですか」

「そうでもない。俺はお高い食材で好きなように腕を振るっていいんだ。やり甲斐がある。それに奥様方は美人ぞろい。褒められるだけで幸せだよ」

「やはりここに勤める以上、宦官と同じようにされるのですか?」

「いや、何も言われなかった。あの旦那さまの奥様を寝取ろうなんて想像するだけで恐ろしいや。給金もいいんだ、街で女と遊んだ方がよっぽど気楽だ。お前さんはそういう遊びはしないのかい」

「わ、私はなるべく早く銀家に帰らなければならないですし、寝不足で水鶴様に会うわけにもいきませんし、夜はちゃんと休まないと」

「真面目だねえ。ま、そういうところを買われてんのかね」

「そう……なのでしょうか。自分ではよくわかりませんが」

「純情そうだもんなあ。女がからかってくれるおいしい性格と言える」


 孫式は返事に詰まった。関頼の言う通り、水鶴はよくからかってくる。立場上、絶対に反抗できないとわかっているから仕掛けてくるのだろうか。


「まあ、よく休みな。お前さんは確か灯藍に泊まれないんだろう。ここは使用人ですら安宿よりいい寝具を置いてくれてる。のんびり寝られるぞ」

「はい、ありがとうございます」


 関頼が横になった。孫式も布団を敷いて横になってみる。本当に柔らかい。いつも宿で使っているものとは違う。銀家で寝泊まりする時でもこのような布団は出してもらったことがない。


 ……誰に対してもお金をかける。それほどの度量があるから、江若様は成功されたのだろうな……。


 小間使いはどこに行っても粗末に扱われるばかり。だが、江若は違う。彼は名家の生まれではなく、上流階級の血も引いていない。何もないところから成り上がった男は、高貴な者たちにはない柔軟さを持っているのだ。


 ……こんなお屋敷で働いてみたいなあ。旅ばかりの生活から離れて……。


 孫式はうとうとしてきた。

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