第2話 亡き狼の遠吠え(空墨十四年 十月)

その1

 霊峰に隠居した老人から手紙を預かって、水鶴は街まで帰ってきた。馬は使わない。走る。街道も山道もとにかく走り続ける。


 そうして帰ってきた家では、暗殺術の師匠である男から次なる指示が飛ぶ。


 水鶴は森へ走って、川に飛び込む。暁衣のままでだ。水の抵抗を受けながらも必死に泳ぐ。底が深く歩くことはできない。長距離を走ってきた疲労で足の動きは鈍くなり、腕の力も弱まっていく。


 それでも水鶴は対岸にたどり着いた。そこは切り立った崖になっている。水鶴は取っかかりを探して掴み、よじ登り始める。腕が震え、呼吸も震える。「ひい」と甲高い音が勝手に喉から漏れる。


 腕力と握力を振り絞って、水鶴は懸命に崖を上がっていく。

 そしてようやく、頂上へ這い上がることに成功する。

 そこにはすでに師匠の男が来ており、腕を組んで待っていた。


「遅いぞ」

「……申し訳、ありません……」


 遠距離を走破することになったのも、師匠の師匠に手紙を渡すためだった。その雑用から休む時間すら与えられず、いつもの鍛錬を行う。無事で済むはずがない。


「そんなことで銀家が守れるか。まだまだ生ぬるい」

「……はい……」


 この師匠が褒めてくれたことは一度もない。苦手だったことができるようになっても、できて当然としか言ってくれない。


 ……せめて一言だけでも、よくやったと言ってくれたら……。


 そんな願いは叶いそうにない。


「失礼いたします」と、師匠の若い部下がやってきた。


「斗開様のお命を狙った男ですが、拷問に拷問を重ねてようやく吐かせました。黒幕は夏卓かたくで間違いありません」

「やはり奴の差し金か。ふふ、これで夏卓の失脚は確定した。銀家の勢力はますます強くなるぞ」


 水鶴は地面にうずくまったままその会話を聞いていた。

 のどかな話など一つもない。水鶴の耳に入るのは、こんな不穏な会話ばかりだ。たまに街を歩けば、同年代の娘たちはどこそこの男が素敵だ、禁軍の誰々がかっこいいといった呑気な話をしている。


 ……わたしには、一生縁のないものなんだろう。


「それと、もう一つ重要なことが」と、部下の男が師匠に耳打ちする。師匠の顔色がたちまち変わった。


「水鶴、何日か前、泰江若という豪商の男に酒を注いだことを覚えているか」

「は、はい」

「そいつがお前を嫁にもらいたいと言ってきたそうだ」


 水鶴はぽかんとして、しばらく身動き一つ取れなかった。


     ☆


 雲間からかすかに日差しが見える昼時のこと。

 馬車から降りた銀水鶴は、泰江若に案内されて東江楼に足を踏み入れた。後ろからは銀家の小間使いたちが生活に必要な道具を持ってついてくる。

 水鶴は落ち着かない気分で廊下を歩いた。


 ……こんな立派なお屋敷に嫁入りだなんて。わたしなんかじゃ、あまりにも場違い……。


 一通りの礼儀と化粧のやり方は学んできた。今も精一杯に着飾っている。お前には水色が似合うと言われて着せられた新しい襦裙だ。それも、今までどうやって人を殺すか、あるいは罠にかけるかばかり考えてきた娘には着心地の悪いものでしかなかった。


 ……わたしはどうせみんなに嫌われる。そのうち追い出されてお父様を失望させてしまう……。


 どんどん考え方は悪い方へと向かっていた。


「ようこそ、東江楼へ」


 涼やかな声が聞こえてきて、水鶴は顔を上げた。

 回廊には左右に三つずつ戸がある。右側一番手前の部屋の前に、黒を基調に赤を取り入れた襦裙を着た女性が立っていた。つややかな黒髪と、切れ長の目、長いまつげが視界に入ってくる。


「わたくしは湖月凛。旦那さまの最初の妻……わかりやすく言うと正夫人ということになるわね。どうぞよろしく」

「あ……あの、今日からお世話になります、銀水鶴と申します。その、わたしは……」

「県長官の家で裏方のお仕事をされていたと聞いたわ。あまりこういう場所には馴染みがないでしょう」

「え、ええ」

「困ったことはなんでも相談してちょうだい。わたくし、人の世話を焼くのが好きなの。旦那さまにはそれでうるさいと言われてしまうのだけど」

「お前は本当に細かいところまで見ているからかなわん」


 江若は楽しそうに言う。月凛は微笑みを返した。


「建前ではないわよ。わからないことはなんでも聞いて。一度で覚えられなかったら何度でも教えてあげる。皆で協力して、明るい東江楼を作り上げていくのよ」


 水鶴はこくこくとうなずくしかできない。ただ、少しずつ緊張がほぐれていくのを感じていた。


「もっとも、旦那さまには一人だけを愛してもらいたいところだけど……今さら言ったところでどうにもならないものね」

「そうだぞ。俺はこういう性格なんだ。おとなしく諦めろ」


 月凛は笑顔のまま、水鶴の手を取った。柔らかく温かい手に、水鶴の心臓が強く脈打つ。


「一緒に、仲良く過ごしましょうね。不安になったらわたくしの部屋に来るといいわ。気楽にお昼寝して、こわばった心をほぐすの。ね、だから安心して」

「あ、ありがとう、ございます……」

「これからが楽しみね」


 あの時、月凛が迎えてくれなかったらどうなっていたか。きっと、東江楼での暮らしはもっと別の形になっていただろうと水鶴は今でも思う。


 何より、あんなに優しい言葉をかけてもらったのは初めてだった。いつも、何かしらの指示か、注意、怒声、大人たちの汚い話ばかり耳に入ってきた。成果を褒めてもらえたことはほとんどない。見返りのない優しさが、水鶴には信じられなかった。


 ……湖月凛様。覚えた。わたしはこの方についていこう。


 その日、水鶴の心に光が差し込み始めたのであった。

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