その7
「一難去ったわね。まったく、あんなに酒癖の悪い人は初めてよ」
昼の食事が終わると、孫式は水鶴の部屋に一緒に戻ってきた。
「では、やはりあれは玉芳様に上手く帰っていただくための方便だったのですね」
「決まってるでしょ。わたしが月凛様を蹴落とすだなんてありえない。そんなこと、冗談でも言いたくなかったわ。状況が許してくれなかっただけ」
「玉芳様は金塊を受け取り、あとは水鶴様が復讐してくれると信じている。これならまたここにやってくることなどないでしょうね」
「そうであってほしいわね」
水鶴は窓を開けた。中庭の草が風になびいているが、室内にはあまり入ってこない。
孫式はふと壁の方を見て、首をかしげた。それからしばらく考え込み――。
「水鶴様」
「何かしら」
「すべて、仕組んでおられたのですね?」
「……どういう意味?」
孫式は壁に沿って並べられているろうそくを指さした。孫式はゆうべ、水鶴と玉芳が話しているあいだ、それを黙って数えていたのだ。
「一本、減っております」
「減っていたらなんだというの」
「なくなっているのは、毒煙を出すろうそくです。水鶴様はそれを、最初から玉芳様に吸わせるつもりだったのではありませんか」
水鶴は小首をかしげ、微笑を浮かべる。
「いいわよ、言いたいことは全部言ってちょうだい」
「水鶴様は、玉芳様が廊下で騒いでいるのが耐えられなかったのでしょう。あの方は、月凛様を中傷するようなことを大勢に聞こえるところでわめいていたのです。月凛様に不都合なことをしゃべらせないよう、あなたは玉芳様の喉を潰そうとした。殺してしまったら月凛様に疑いが向きますから」
「…………」
「水鶴様はゆうべ、話を聞くという口実を設けて玉芳様をお酒で潰しました。その上で花悠様のお部屋に連れていき、まず私を宿に帰しました。そのあと、ろうそくを持ってまた花悠様のお部屋に引き返した」
水鶴は微笑を崩さない。
「水鶴様と花悠様のお部屋には明確な違いがございます。花悠様の寝台には御簾がかかっているのです。あの中で煙を焚けば外に逃げにくくなり、確実に喉を焼くことができます」
孫式はまっすぐ、主人の目を見ている。
「当然、玉芳様も眠りから覚めるでしょう。しかし激しく酔っている体では抵抗できません。相手の声を聞いて、喉が潰れたか確認もしたと思います」
「…………」
「煙を吸いすぎて、玉芳様は再び意識を失いました。そしたら戸と窓を開け放ち、御簾も解放します。回廊には壁がありません。ゆうべは雨に加えて風もありましたから、吹き抜ける道を作ってやれば、煙はたちまち外へ流れてしまい、痕跡は残らなかったことでしょう。あとは棚からそれらしい毒薬の瓶を取りだし、中身を捨てて床に転がしておく。これで完成です。水鶴様と花悠様には毒薬を扱うという共通点がありますから、あの部屋の薬のことは知っておられたのですね。誰も転がっていた瓶に疑問を持たなかったことからも、正しい毒薬を選び出したことがわかります」
「そうかもしれないわね。でも、花悠さんのお部屋が空いていたのは偶然なのよ?」
「いえ、あれも計算してやったことだと思います」
「……聞かせてみなさい」
「ゆうべの夜宴が始まる前に、水鶴様はもうこの企みを考えておられたのでしょう。水鶴様は自分から舞を披露しましたね。ゆうべはひどく蒸し暑い夜でした。その中で舞えば汗をかきます。実際、水鶴様が激しく動いた時には雫が飛びました」
「そういうことはわざわざ言わなくていいわ」
「ですが、説明には必要なことなのです。水鶴様は扇を持つ手のひらに紋蜂の毒をあらかじめ塗っておいたのですね。それが、垂れてきた汗と混じって手元に残ります。あとは扇を振って汗を飛ばし、花悠様の杯に投げ入れたのです」
水鶴は暗殺者なのだ。毒を素手で扱えるよう、様々な毒を自分の体内に取り入れて耐性をつけている。だから素手で触れることにはなんのためらいもなかった。さらに、水鶴は針をほんのわずかな隙間に投げ入れることができるほど技巧に長けている。舞いながら雫を一つ、目標へ投げ込むなど造作もないことであっただろう。
「こうして、誰も花悠様に近づいていないのに、杯に毒は入れられてしまったのです。酔った玉芳様が間違って毒薬を飲んだと誤解されるためには花悠様のお部屋で寝てもらう必要があったからです。そのために死なない程度の毒を花悠様に与え、医療房に押し込んだ。あとは話した通りでございます」
「……お前、役人に向いているかもしれないわね」
「つまり、正しいということでしょうか」
水鶴は答えず、イスに座った。孫式に背中を向けてつぶやく。
「月凛様をお守りするためにはああするしかなかったのよ。誰も殺さないようにやるのはとても難しかったんだから……」
「そこまでして、月凛様を……」
「わたしの一番の恩人なの。何もわからないわたしの世話を焼いてくれて、東江楼のためになることをたくさん教えてくれた。初めて、わたしに優しさというものを教えてくれた方なのよ」
絞り出すような口調だった。孫式は、そっと近づく。
「あの、このことは口外しません」
水鶴が振り返った。潤んだ目で孫式を見つめてくる。
「黙っていてくれるの?」
「はい。私も、水鶴様をお慕いしておりますから。打ち明ければ、水鶴様だけでなく銀家の皆様も苦しむことになります。私は、何も見なかったことにいたします」
水鶴は立ち上がり――いきなり、孫式を抱きしめた。突然のぬくもりと甘い香りに包まれ、孫式の顔は真っ赤になる。
……だ、駄目だ! 江若様に見られたら大変なことに……!
「ありがとう。好きよ、孫式」
「は、はいっ、光栄でございます」
水鶴は力をゆるめた。孫式はすばやく下がって、呼吸を整える。水鶴の頬もほんのりと赤くなっていた。
何か言わなければ、と孫式が思った瞬間、戸を叩く音がした。
「水鶴、いますか?」
月凛の声だった。
「はい、どうぞお入りください」
戸がゆっくり開き、月凛が静々と入ってきた。
「あら、孫式も一緒だったのね。ゆうべも同じだったの?」
「ええ、この子も寝るまでここに」
水鶴がイスを勧めると、月凛はお礼を言って座った。向かいに水鶴も座る。孫式は部屋の脇へ下がった。
「玉芳さんを部屋に招き入れたでしょう。旦那さまのお部屋に行く時、見えたの」
「はい……昨日叫んでいたことがどういうことなのか、気になってしまって」
「聞いたの?」
水鶴は黙ってうなずく。
「どこまで?」
「その……」
水鶴は言いづらそうに、月凛が長兄湖秀豪を毒殺したこと、秀豪と裸で絡み合っていたことを話した。
「やはりうちに忍び込んでいたのね。そんな気はしたけれど」
「あの……玉芳様は確信しておられましたが、やはり事実なのですか?」
「違うわね」
月凛ははっきり言った。水鶴は安堵した様子だ。
「よかった。わたし、月凛様がそんなことをするはずがないと信じておりました」
「でも、
「え――」
これには水鶴も孫式も何も言えなくなってしまった。
「もし玉芳さんに見たままを聞かされたのなら、本当のことを話して誤解を解かなければと思って、こうして来てみたのよ」
「一体、どういう事情が?」
月凛は愁いを帯びた顔で、少しだけ顔を窓の方に向けた。
「秀兄は禁軍でも指折りの猛将として知られていたわ。それを東騎将軍、焔虎常様に認められて婿入りする話が来たの」
「ええ、聞きました」
……それで、兄妹が結ばれることはないと絶望した月凛様が、秀豪様に毒を飲ませた――というのが玉芳様の話だったけど。
「…………」
間が、長かった。月凛は何か言おうとしているのに、なかなか言葉が出てこない様子だ。
「いえ、駄目ね。ちゃんと話さないと」
「わたしも孫式も、けっして口外はしないとお約束いたします」
月凛はうなずいた。
「秀兄は焔家の、男児後継者の不在を解決してほしいと期待されていた。焔家の長女様も稀に見る才女で、お似合いと言われたわ」
「でも、何か不満が?」
「そうじゃないの。向こうにはなんの非もない」
月凛は息を吸って、言った。
「秀兄はね、不能だったのよ」
「――――」
本日二度目の絶句であった。
不能。
男の象徴が、起き上がらない。
「で、では、毒を飲んだというのは……」
「秀兄には相手を孕ませることができなかったのよ。後継者問題を解決するために結婚するのに、そんな事情で何もできませんとなったら湖家の面目は丸つぶれ。それどころか暁国全体の笑いものになるわ。ただでさえ湖秀豪の武名は広く知られているのだから逃げようがない。秀兄はその事実を隠すために、暗殺を装って自害したの」
「月凛様が男装して家に入ったというのは……」
「殺されたという話をより確実なものにするため。玉芳さんに見抜かれていたとは不覚だったわ」
「は、裸で絡み合っていたというのは?」
月凛の頬がうっすら赤くなった。
「お、女の裸に慣れればいつか治ると思って、私から言い出したことなの。兄が休暇で帰ってくるたびにやっていたのだけど、とうとう最期まで変わらなかった。そうしているうちに婚礼の日が近づいてきて、兄は逃げ場を失ってしまったのよ……」
「そう、だったのですね」
さすがの水鶴も、かける言葉が見つからないようだ。
玉芳の目に映っていた兄殺し。その裏にこんな事実が隠れていようとは。
「あなたたちにだけ、本当のことを伝えておくわ。でも、くれぐれも他の人に話さないようにしてね」
孫式と水鶴はそろって返事をした。
「それにしても、私は運がいいのかもしれないわ。玉芳さんの酒癖が昔のままで、あんな事故を起こすなんて」
「…………」
どうやら、月凛は水鶴の仕掛けた罠に気づいていないらしい。
「聞いてくれてありがとうね。また夕食の時に会いましょう」
月凛は話を終わらせ、静かに部屋を出ていった。
「孫式、約束が一つ増えたわ」
「今のお話も口外しない、ですね」
「わかっているならいいの」
水鶴は窓枠に肘を突いて、しばらく外を眺めた。
「月凛様が手を汚していなくて、本当によかった」
部屋の主は小さくつぶやいている。
「月凛様は慈愛に満ちた素晴らしいお方。一生、ついていける……」
風に流れていく水鶴の言葉を、孫式は突っ立ったまま聞いていた。
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