その3

 水鶴の実家と東江楼を往復しているうちに孫式の一ヶ月は過ぎてしまう。片道およそ十日。それをずっと繰り返すだけの生活だ。今では自在に馬を操れるようになっている。


 ただの小間使いでしかない孫式にとって、東江楼への滞在を許される三日間は特別である。泊まる場所は安宿だが、宴会への参加を許可されているのだ。実家や旅の道中ではまずお目にかかれないような高級食材がずらりと並ぶ席に座ることができる。こんなに嬉しいことはない。


 夏の日が落ちると蒸し暑い夜が来た。


 東江楼の一階広間には宴席の用意が調っていた。暁国では上座に主人がつき、長い台に序列順に並んで座るのが一般的だ。江若と月凛が上座につき、そこから左右の長い台に夫人たちが順番に座る。


 月凛が上座につく関係で一人分欠けることになるが、東江楼では隣の席の夫人が奥へ詰める形を取る。第三夫人が上座の手前、第五夫人が中央、入口側に今日は玉芳が入る。孫式は右側一番手前だ。水鶴の左隣で、斜め向かいには玉芳がいる。


「嬉しそうね」

「はい。やはり東江楼での食事は何度経験してもワクワクしてしまいます」

「たくさん食べなさい。帰りも険しい道のりになるんだから」

「はいっ」


 一方、月凛と引き離されてしまった玉芳だったが、全員がやってくる前にあらかた話したのか、不満そうな顔はしていない。


「よし、今宵も乾杯だ!」


 江若が杯を掲げると、夫人たちも倣う。孫式も「かんぱい!」と調子を合わせた。


 月凛が酒瓶を傾け、すぐ杯を空っぽにしてしまう江若に注いでやる。江若の隣につく順番もあって、今夜は正夫人のお役目である。日によって上座につく女性は変わる。順番を守る日もあれば、江若の気分で変わることもある。孫式も、水鶴があちらに行っていると誰とも話せないまま料理を進めることになる。


「それで、月凛と玉芳殿は仲直りできたのかね? 夕方は何やら喧嘩しているようだったが」


 それぞれが肉料理に手をつけ始めると、江若が言った。


「ええ、ひとまずは説明いたしましたよ」

「あたしは納得したわけじゃないんですよ。月凛さんだけずいぶん上手くやっているからあたしに分け前があってもいいと思いませんか?」


 玉芳はもう酒が回っているのか、江若にも恐れ知らずの口を利く。


「なんだ、玉芳殿は金に困っておるのか。月凛が迷惑をかけたというなら俺が少しくらい面倒を見てやってもよい」

「あら、ご主人の手を煩わせるほどの話じゃないんです。あたしと月凛さんだけの話ですからねえ」


 ほほほ、と玉芳は耳に響く声で笑う。

 孫式はずっと落ち着かぬ気分で箸を動かしていた。

 そっと上座を見ると、月凛はいつも通りのすました顔で手元を見ている。夕方、回廊では玉芳があんな声でわめいたのだ。他の夫人たちも気になっているはずである。だが、それを露骨に顔に出す者はいない。


「何かの間違いだと思いますけどねえ」


 そんなことを言い出したのは、第五夫人の張花悠だ。桃色の襦裙姿で、髪はうっすら茶色く染まっている。良薬毒薬の扱いに長けたこの夫人は、江若が政敵を葬るところまで見越して娶ったと孫式は聞いている。


「奥様が自分のお兄様を殺すなんて。こんなに穏やかで頭の切れる方がそんな暴挙に及ぶとは考えられませんわね」


 六人全員が江若の妻だが、正夫人の月凛だけを奥様と呼ぶのが東江楼の決まりである。


「わかりますよ。奥様方はずいぶんと仲がよろしいとか。であればかばうのも当然。あたしも全員に信じてもらおうなどとは思っていないのです。ただ、口出しさえされなければそれでいいの」

「月凛が言うには誤解らしいが……これは手強そうな相手だな」

「わたくしは嘘などついておりませんよ」


 月凛は静かに言う。


「たとえ月凛様がお兄様を手にかけたとしても、いま素晴らしいお方であることは厳然たる事実。わたしはお慕いしております」


 そんな言葉を放ったのは水鶴だった。孫式は焦って、焼いた肉を喉に詰まらせそうになった。


「ふうん。月凛の味方というわけね。まあ、あたしはそれでもかまわないけどね」


 なんだか妙な空気になった。いつも豪快に笑っている江若も、今日はいささかおとなしい。月凛に淡々と酒を注いでもらい、ゆっくり飲んでいる。酒は回っているようで、顔は赤いのだが宴会の定番である無茶も言い出さない。


「どうも盛り上がらんな」


 やがてそんなつぶやきをこぼした。いつも感じるような熱気が、今の広間にはない。


「でしたら、わたしが舞を披露いたしましょう」


 不満げな主人に対し、水鶴がすかさず申し出た。


「うむ、お前の舞であれば華やぎも出てくる。やれ」

「では……白扇はくせんさん?」

「少し待って」


 孫式のついた台の上座側から、第二夫人の香白扇こうはくせんが立ち上がる。純白の襦裙を纏った白扇は、壁に立てかけてあった琵琶を手にして慣れた手つきで調律する。


「お願いいたします」

「では」


 白扇が琵琶を弾き始める。物静かな雰囲気に見合わぬ速い旋律の曲だった。真っ白な指が弦の上を自在に行き交い、気分が高揚するような激しい演奏が展開される。この曲は水鶴が舞う時にしか使われない。第六夫人の身体能力あってこその曲であった。


 左右の台のあいだに立った水鶴は、さほど広くない空間を前後に上手く使って、伸びやかな舞を披露する。暗殺者仕込みの体術がこんな形で活かされるとは、銀家の誰も思っていなかったことであろう。


 水鶴は足先、指先まで無駄なく使って広間の視線を自分のものにする。孫式は見とれる。玉芳もこうした激しい舞は初めてのようで、ぽかんと口を開けて見入っている。


 ……やはり、水鶴様はものすごいお方だ。


 旋律が一瞬止まり、次の段階へ移行する。そのわずかな静寂が皆の意識をハッとさせ、さらに深い世界観へ誘う。


 水鶴は江若の方を向いたまま下がって、自分の席から扇を手にする。シャッと小気味よい音がして扇が開かれた。水鶴の世界観はさらに強度を増す。


 蒸し暑い空気のせいか、水鶴が舞うと汗の雫が飛んだ。それすらも彼女の艶っぽさを増す道具になっている。


 水鶴は玉芳の方を向き、左から右へ扇を払う。さながら氷の上にいるかのように鮮やかに回転してみせる。

 琵琶の旋律がゆっくりになってくると、その場に膝をついて扇を閉じ、上衣の中に隠した。


「うむ、見事!」


 江若が機嫌よさそうに手を叩いた。月凛や他の夫人たちも一緒に拍手している。


「やはり塞いだ時は水鶴の舞だ。白扇の速弾きにこれだけの動きを合わせられるのは水鶴だけであろう。いや、楽しくなってきたぞ」

「ふうん。……すごい技量ね」


 玉芳は飲まれたようにそれだけつぶやいた。水鶴は玉芳に対して両手を重ね、顔の前に持ち上げた。無言の礼であった。


 水鶴が席に戻ってくると、孫式はすぐ体を傾けた。


「お見事でございました、水鶴様。何度見ても本当に美しいです」

「ありがとう。これも月凛様が手ほどきしてくださったおかげよ」


 泰江若に嫁ぐにあたり一通りの礼儀は教え込まれた水鶴だったが、舞は東江楼にやってきてから新たに覚えたのだという。月凛曰く、恐ろしいほどに飲み込みが早く、すでに誰より鮮やかに難しい曲も踊りこなすとのことだ。


「今夜は暑いわね。いつになく汗をかいてしまったわ」


 水鶴は布きれで額や頬の汗を拭いた。酒を飲んだ上に激しく舞ったのだ。無理もない。


 一曲演じられたこともあってか、江若の声が大きくなった。夫人たちに話を振り、順番に答える形になっている。ようやく盛り上がり始めた。

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