その2

 暁国南方の行政区・雷南原らいなんげん。その中の一都市である開峡県かいきょうけん。そこの頭、県長官を代々拝命しているのが銀家である。


 銀斗開には四男四女があり、水鶴は一番下の娘であった。

 長男次男、長女次女が銀家を引き継ぐための教育を受け、下の四人はそんな兄姉たちを陰から支えるための教育を受けた。

 暗殺、諜報などがこれに当たる。体術を磨き、天候、自然、植物などへの知識を深めた。様々な毒を素手で扱えるよう、自分の体に毒を入れて耐性もつけた。


 水鶴は四人の中で誰よりも熱心にこの修行に打ち込んだ。服のまま泳いで、濡れた格好のまま崖をよじ登れるようになったし、針を投げればわずかな窓の隙間を通し、目標に突き刺すなんて芸当まで習得した。剣も槍も鉄扇も、武器になりそうなものは一通り使いこなせるようになった。


 それだけに、水鶴が男と結ばれることはない、と誰もが思っていた。


 開峡県の役所に江若が挨拶に来なければ、接待の夜宴が銀家で開かれなければ、江若に酒を運んだのが水鶴でなければ、二人が出会うこともなかった。縁とは不思議なものである、と斗開はのちにつぶやいている。


「お兄様、お姉様たちはどうなの? 相変わらず?」

「聞いた話によりますと――」


 孫式は、水鶴の兄、姉たちの近況を語って聞かせる。

 その時、廊下から勢いよく戸を叩く音が聞こえてきた。


月凛げつりん! やっと見つけたわ! あたしは諦めないんだからね!」


 甲高い女の声がする。水鶴のまぶたがピクピク動いた。


「うるさいわね」


 様子を見に行くらしい。二人で回廊に出ると、左の一番奥の部屋に向かってわめいている女の姿があった。短い黒髪の女で、「早く出てこい」と乱暴な言葉を投げている。


 やがて戸が開いた。

 出てきたのは、黒を基調に赤色を取り混ぜた襦裙姿の女だった。水鶴に勝るとも劣らない見事な黒髪の持ち主で、銀の髪飾りを挿している。切れ長の目からは知的さがうかがえ、口の端はかすかに上がっている。


 闖入者にも穏やかな顔を向けているこの女こそ、泰江若の正夫人、湖月凛こげつりん。姿勢がよく、相手と同じくらいの身長にも関わらず風格がまるで違う。


「あら……玉芳ぎょくほうさん、お久しぶりですね。もう十年も会っていませんでしょうか」

「ふん、その十年、あたしはあんたを恨み続けていたんだ。どこへ消えたかと思えばこんないい家の正夫人だって? 笑わせる!」


 一方的にしゃべりまくる玉芳という女を、月凛は怯むことなく見据えている。友雪羅が、やや離れたところから心配そうに見守っている。


「だ、誰なのでしょう、あの方は」


 孫式は恐る恐る水鶴に訊く。


「わたしも初めて見るわ。どうも月凛様と因縁があるようね」


 他の部屋からは誰も出てこない。厄介ごとと見て関わるのを避けているのだろうか。


「自分だけ幸せになるなんてうらやましいじゃないの。あたしは想い人を失って途方に暮れてたってのに、あんたはふらりといなくなってさ」

「ちゃんと挨拶をして実家を出ましたよ」

「うるさい! 自分のお兄様を殺しておきながら、よく平然としていられるわね!」


 孫式はまた水鶴の横顔を見た。第六夫人も目を見開いて固まっていた。


「あんたのお兄様――秀豪しゅうごう様のことが、あたしは好きだった。結ばれないなら諦めたさ。でも殺されたんなら話は別だ!」

「殺していません」


 月凛はきっぱりと言う。


「私があの兄を殺すものですか」

「ほう? あたしは見てるんだよ。秀豪様が毒殺された日、男装して自分の家に入ってくあんたの姿をね!」

「…………」


 月凛がこちらに視線を飛ばしてきた。


「お部屋にどうぞ。中で話しましょう」

「やっぱり、人に聞かれたら困る話なんだね。後ろめたいことがあるんだ!」

「あなたが大声すぎるのですよ。みんなこんなところで騒がれたらゆっくりできません。ですからお部屋へ」

「そうやって、今度はあたしに毒を盛ろうってんでしょ! その手には乗らないよ!」

「そんなつもりじゃ……」

「なんだなんだ、やけに騒がしいな」


 階段を下りてきたのは、身長が高く肩幅も広い偉丈夫だ。豪邸東江楼の主人、泰江若たいこうじゃくであった。髪の毛はすべて後ろへ流して固めており、ゴツゴツした顔と相まって歴戦の猛将のような雰囲気を生み出している。その一方で顔には染み一つなく、髭も丁寧に整えられて清潔感があった。


「月凛の客人か? 俺は泰江若という。こいつが何か迷惑をかけたかね」

「あ、ええと……」


 急にがっしりした男が出てきたものだから、玉芳という女も毒気を抜かれたらしかった。


「旦那さま、こちらはわたくしの実家で交流のあった、安玉芳あんぎょくほうさんという方です」

「ほう、そうか。会うのは久しぶりか?」

「ええ」

「ならば積もる話もあろう。どうだね、今夜は我が家の宴会に加わっていくか? 月凛と話したいことがあればそこで遠慮なく語るといいぞ」

「宴会……ですか」

「東江楼は毎晩宴会をやっている! 来る者は拒まぬ! 好きなだけ飲み食いしていってよいぞ!」


 がははは、と江若は豪快に笑う。どんな話が展開されていたのかまるで聞こえていなかったようだ。


「玉芳さん、もうすぐお夕食の時間です。よかったらご一緒に。お話はそこで聞きましょう」

「そ、そんな場所で話せるわけないでしょっ! 逃げる気ね!」

「わたくしは逃げも隠れもいたしませんよ。お話はちゃんと聞きますから、まずは広い場所で。わたくしの部屋では不安なのですよね」

「ま、まあ、そういうことならいいわ。宴会にも出てあげようじゃないの」

「ということです、旦那さま」

「わかった。おい雪羅、一人分多く夕食を作らせろ」

「はい、承知いたしました」


 雪羅はすぐ厨房へ走っていった。


「では、一足先に広間へ行きましょうか。こちらですよ」

「……騙されないわ」


 月凛は玉芳を連れて東邸へ歩いていった。水鶴の視線が気になるようだったが、声はかけてこなかった。


「一体、どういうことなのでしょうか」

「わからないわ。月凛様が自分のお兄様を毒殺した……? そんな話、聞いたことない」

「酔って昔話をするということもなかったのですか?」

「なかったはず。そもそも月凛様はお酒の量もわきまえている方だから」


 水鶴は部屋に引き返した。猫のような目が爛々と光っている。


「これは、何がなんでも聞き出さなければならないわね」

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