サラリーマンと月夜の蛍

帆尊歩

第1話 サラリーマンと月夜の蛍

同期の葛山と夜の繁華街を歩いていた。

散々上司の悪口で盛り上がり楽しい時間を過した。これぞサラリーマンの醍醐味だ。

その時ふと蛍が飛んだ。

「なあ」

「あん」

「今蛍が飛んだ。見た?」

「何バカなこと言っているんだよ。こんな月の綺麗な、あっ」

葛山は何かに気付いたように言う。

「今日は満月か、でもなおさら見えるわけない。良いか、蛍の光なんて本当に微弱なんだ」

「いや本当に見えたんだよ」

「はい、はい」葛山は全く信じていない。

僕は遠い記憶を思い出した。

そう僕が四、五歳の頃だ。遠い親戚の家に泊まりで遊びに行った。そこは酷く田舎で、夏祭りをしていたけれど、少し外れると、山の中だった。

祭の会場からはぐれた僕は、月灯りしかない山の中に迷い込んでしまった。

月だけが満月で明るかった。

圧倒的な不安感の前では泣くことすら出来ない。

そんな時、僕のまわりに蛍がまとわりついた。

そしてつぎの瞬間、おかっぱの女の子が目の前にいた。

女の子は着物を着て下駄を履いていた。

「あたしに会いに来てくれたの?」と女の子は嬉しそうに言った。

僕は何を言っているのか分からなかった。

「あたしは、蛍。あたし、ずっと一人ぼっちで寂しかったの。来てくれて本当に嬉しい」

「蛍ちゃんて言うの?」

「うん、会いに来てくれてありがとう」

「いや、僕は」迷子だとは言えなかった。

「何して遊ぶ?」みんな心配しているけれど、少しくらいならと僕は思った

「じゃあ鬼ごっこしよう」女の子は嬉しそうに言う。

「良いよ」そして僕らは山の中で鬼ごっこをした。

鬼は僕だ。

蛍は楽しげに笑いながら逃げて行く。その声はあまりに嬉しそうで、本当に寂しかったんだなと思った。

いったいどれくらい僕らは遊んでいたのだろう。どこか遠くで僕の名前を呼ぶ声がした。僕は急に不安になった。そんな僕に蛍はすぐに気付いた。

「どうしたの?」

「帰らなくちゃ」

「えっ、帰っちゃうの。一緒に遊んでくれないの?」

「だってみんな心配しているから」

「あたし、また一人になっちゃうの?」

「じゃあ、一緒に行こうよ」

「だめよ、ここにいないと。この姿でいられないの」

「そうなの」

「ここから出たらあたし、蛍になっちゃうの」

「そうなんだ。でも僕も帰らなくちゃ」蛍は酷く寂しそうに僕を見つめる。その目が幼い僕の胸を締め付ける。

「また来るよ」僕は嘘を付いた。

「嘘だ。もうあなたはここには来ない」

「そんなことない」

「じゃあ、あたしが会いに行ってもいい?」

「もちろんだよ」

「なら、満月の日の夜に会いに行くわ」

「待ってるよ」


あれは現実だったのだろうか。

その時、全ての雑踏が消えた。

繁華街なのになんの音もしない。

そして誰一人そこにはいない。同期の葛山すらいない。

街は灰色の無機質な空間に変貌していた。そう、まるで映画のセットのように。

後ろからカランコロンと下駄の音がした。

僕は驚いて後ろをふり向いた。

でも、そこには誰もいない。静寂の街があるだけだった。

今度は前からカランコロンと下駄の音がした。

僕はもう一度前を向いた。

誰かがそこの路地に入ったような気がした。

「蛍ちゃん?蛍ちゃんなの」僕は慌ててその路地に入った、でもそこにも誰もいない。でも今度は今僕がいた大通りの方から下駄の音がした。

「蛍なのかい。ずっと忘れていたことを怒っているの?だってあれから一度も会いに来てくれなかったじゃない。何年経っていると思っているの。僕は大人になって普通にサラリーマンをしているんだよ」

僕は誰もいない、静寂の街を走り出した。

街はグレーだった。

「蛍。蛍。蛍。意地悪しないで、出て来て。忘れていたことは謝るよ。だから出てきて」

下駄の音がすぐ横から聞こえる。

でもそっちを向くと誰もいない。

なのに楽しげな笑い声だけが聞こえる。

「鬼さんこちら」と声だけがこだまする。

「怒っているの?だって全然会いに来てくれなかったじゃないか」僕が必死で灰色の街を走っているのに、蛍の声がさらに楽しげに響く。

「ゴメンよ、遊んであげられなくて。でも今なら遊んであげられる。遊ぼう。ねえ。蛍、出てきておくれ」僕は蛍を求めて、誰もいない静寂の街をさまよう。

「蛍。蛍。蛍」僕は泣きそうになりながら蛍の名を呼ぶ。

「遊ぼう。ずっと一緒に遊ぼう」どこからともなく、楽しげというより、嬉しそうな笑い声がしたかと思うと、僕はまた雑踏の街に立っていた。

横には葛山がいる。

「どうしたんだ。さっきからぼーっとして。飲み過ぎたか?」

「いや」その時僕のまわりを蛍が飛んだ。蛍は僕の回りを何周かして月に消えていった。

なんだいつも来てくれていたんじゃないか、月の明かりのせいで、僕が気付かなかっただけだったのか。

いつも蛍は会いに来てくれていたのに。

「蛍。ゴメンね」

「誰に謝っているんだよ」

その蛍は葛山には見えなかったようだった。

これから僕は、満月の夜は、蛍を探さないといけなくなった。

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サラリーマンと月夜の蛍 帆尊歩 @hosonayumu

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