第5話 アジトの日々 試練と小さな光

シーザー帝国から戻った盗賊団の新しいねぐらは、深い森に隠された、湿っぽく陽の差さない洞窟だった。

マリアにとって、それは再び息の詰まる日々の始まりだった。

彼女は他の女たちと共に、奴隷のように下働きに明け暮れた。食事の準備、雑用、そして盗賊たちの欲望のはけ口にされる夜もあった。

そんな絶望的な日々の中、母親の心痛など知る由もなく、幼いマイケルは持ち前の好奇心でアジトの中を駆け回った。


「こら、マイケル! そっちの剣に触っちゃだめ!」


マリアの悲鳴も、彼には面白い音にしか聞こえない。彼女が息子をかばうたび、盗賊たちの怒りを買うことも一度や二度ではなかった。


「ちっ、ガキのしつけもできねえのか!」


怒声と共に突き飛ばされる。マリアは唇を噛み、ただ耐えた。この子だけは何があっても守り抜く。その一心だけが、彼女を支えていた。


そんな二人を、若い盗賊のギルは変わらず気にかけてくれた。

他の者の目を盗んでは食料を分け与え、マイケルが怪我をしないよう、さりげなく危ないものから遠ざけてくれる。


「ギルさん…いつも、本当にすみません…」

「いいってことよ。坊主もやんちゃ盛りだからな」


彼のぶっきらぼうな優しさだけが、この暗闇の中の唯一の救いだった。



フラン王国に戻って2年目の春。マリアは自身の体に起きた異変に気づき、血の気が引いた。誰の子かもわからない命。


「ああ…神様…なぜ私ばかり……」


洞窟の片隅で一人嗚咽おえつをもらす彼女に、ギルが気づいた。


「おい、どうした? 顔が真っ青だぞ」


マリアは何も言えず、ただ助けを求めるようにギルを見つめ、そして、そっと自身のお腹に視線を落とした。

その仕草だけで、ギルはすべてを察したようだった。彼は深いため息を一つつくと、決心したように言った。


「…俺が何とかする。頭領には上手く話しといてやる。お前はとにかく、体を大事にしろ」


ギルの言葉は、暗闇の中で差し伸べられた一本の細い蜘蛛の糸のように思えた。


「ギルさん…」


マリアは、かすれた声で彼の名を呼ぶことしかできなかった。

ギルは約束通り、マリアが重労働から外れるよう取り計らい、栄養のあるものを優先的に回してくれた。その献身的な行動は、仲間たちのいやらしい噂の的となったが、彼は意にも介さなかった。


そして、凍えるような3年目の冬。

マリアは、ギルと他の女たちの助けを借り、命がけで女の子を産んだ。娘に「リリア」と名付けた。


「かあさん、あかちゃん、ちいさいね」


4歳になったマイケルが、おそるおそる妹をのぞき込む。


「そうよ、マイケル。あなたの妹よ。お兄ちゃんだから、優しくしてあげてね」


マリアは弱々しく微笑んだ。この地獄で、二人の子をどう育てればいいのか。途方に暮れそうな心を、リリアの小さな寝息と、マイケルの無邪気な瞳が必死でつなぎとめていた。



そして、マイケルが五つの誕生日を迎えた頃、恐れていた瞬間がついに訪れた。

その日、アジトの広間で酒を飲んでいた頭領が、隅でリリアと遊ぶマイケルに目をつけた。獲物を見つけた獣のように、その目がギラリと光る。


「おい、そこの小僧。こっちへ来い」


頭領の低い声に、マイケルの小さな肩がびくりと震えた。マリアに促され、おそるおそる前へ進み出る。


「お前もそろそろ役に立ってもらわねえとな。明日から、俺たちの『仕事』を手伝え。まずは見張りからだ。できるか?」


ついにこの時が来た。愛する息子が、人としての道を踏み外す手伝いをさせられる。


「お、お待ちください、頭領! この子はまだ幼すぎます! どうかお慈悲を!」


マリアは地面に手をついて懇願したが、頭領は冷たく言い放った。


「黙れ。こいつが飯を食えるのは誰のおかげだ? 嫌なら、親子三人でここから出ていくか? この山を生きて降りられる保証はねえがな!」


マリアは言葉を失い、ギルも唇を噛み締めるだけだった。


「かあさん…どうしたの? お顔がまっさおだよ?」


何もわからぬまま、マイケルが不安そうにマリアを見つめている。彼女は震える手で息子をきつく抱きしめた。


「大丈夫よ、マイケル…母さんが、ちゃんとそばにいるから…」


その言葉が、どれほど無力か。彼女自身が一番よくわかっていた。


翌日から、マイケルは盗賊たちの「仕事」を手伝うようになった。

アジトの入り口での見張り。それが彼の最初の役目だった。


「ここをしっかり見てろよ! あやしい奴が近づいたら大声で知らせるんだ!」

「うん、わかった!」


緊張しながらも、どこか誇らしげに返事をする。大人たちからもらえる木の実の褒美。退屈な日々の中の、少しだけスリリングな「ごっこ遊び」。

幼い彼にとって、そこが危険な世界の入り口だとは、まだ知る由もなかった。


「母さん、見てるー?」


洞窟の奥から自分を見つめるマリアに、マイケルは無邪気に手を振る。

マリアは、その先に待ち受ける過酷な運命を思い、胸が張り裂けそうになるのをこらえながら、ただ力なく微笑み返すことしかできなかった。

息子が人として生きる未来を、今はただ、祈るように。

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