第2話  偽りの夜明け

夜の闇に紛れてホワイト家の屋敷を抜け出し、どれほど歩いただろうか。

東の空が白み始め、偽りの夜明けが森を照らした時、デイビスとマリアはようやく足を止めた。


「大丈夫か、マリア。顔色が悪いぞ」


夫の声に、マリアは腕の中の赤子を見つめた。その小さな唇が、何かを求めるように微かに動いている。数日前まで、この腕には別の温もりがあったはずだった。胸の奥がうずき、自然とにじみ出る乳が張りを訴える。それは、亡くした我が子のために用意されたもの。


(この乳を……この子にあげていいものか……)


罪悪感がマリアを苛む。だが、赤子の小さな手が彼女の胸元を探るように動いた時、どうしようもない愛おしさが込み上げてきた。彼女はそっと胸をはだけ、マイケルの口元に乳首を含ませる。赤ん坊は夢中で吸い付き始めた。その力強い生命力に、マリアは涙がにじむのを感じた。


「……この子だけが、私たちの希望だ……」

デイビスは、その光景を複雑な表情で見つめていた。


しかし、逃避行は過酷を極めた。

昼は獣のように息を潜め、夜は月明かりだけを頼りに歩く。乏しい食料はすぐに底をつき、胃が焼け付くような空腹が容赦なく体力を奪った。

何よりも、姿の見えぬ追っ手の影が、常に二人を脅かした。遠くで犬の吠える声が聞こえるたびに心臓が凍りつき、夜の闇に松明の光が揺らめいた気がして、朝まで息を殺したことも一度や二度ではない。


罪の意識と、いつ捕まるか分からない恐怖。

心身ともに限界が近づいていた、そんな矢先だった。


「よう、こんな夜更けに、赤子連れでどこへ行くんでえ?」


道の脇の茂みから、たいまつを持った数人の男たちがぬっと現れた。薄汚れた身なりと、獲物を見つけた獣のようなぎらつく目。盗賊だ。

デイビスはとっさにマリアとマイケルを背後にかばった。


「ひっ……!」


マリアが小さく悲鳴を上げる。


「頼む、金目のものはこれだけだ! 全部くれてやる! だから、女房と子供には手を出さないでくれ!」


デイビスは震える声でなけなしの金が入った袋を差し出すが、男たちは下卑た笑みを浮かべ、じりじりと距離を詰めてくる。


「おいおい、それだけかよ? それより、その女と赤子の方が高く売れそうだなぁ、お頭?」


リーダー格の大柄な男が、舌なめずりをした。


「そういうこった。諦めな」


絶望的な状況。デイビスは、父親として最後の力を振り絞った。


「マリア、逃げろ! マイケルを頼む! 俺が時間を稼ぐ!!」

「あなた! いやっ!」


彼はふところに隠していた短いナイフを抜き放ち、盗賊たちに躍りかかった。


「うおおおっ!」


だが、その抵抗はあまりに虚しかった。

盗賊の一人が振り下ろした鈍器が、デイビスの頭を容赦なく強打する。声にならない呻きを上げ、彼は最後にマリアとマイケルの姿を目に映したまま、その場に崩れ落ちた。


「デイビス! あなた! いやああああっ!!」


マリアの悲痛な叫びが、夜の森に吸い込まれていく。

だが、その絶叫も虚しく、盗賊たちはニヤニヤと笑いながら、彼女が固く抱きしめるマイケルごと、その体を乱暴に馬の背に乗せた。


人気のない道端に、デイビスの亡骸なきがらは打ち捨てられる。

偽りの夜明けの先でマリアとマイケルを待っていたのは、さらに深い、底なしの闇だった。


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