「男爵家の光を奪われ、盗賊に育てられた俺が、やがて帝国を救う英雄と呼ばれるまで ~聖女と歩む成り上がり英雄譚~」
ひよこ
第1話 光と影
フラン王国が誇る大財閥、ホワイト家の屋敷は、今宵、祝福の光に満ちていた。
当主アルフォンス・ホワイト男爵に、待望の嫡男が誕生したのだ。赤子の名は「マイケル」。その力強い産声は、一族の輝かしい未来を約束する吉兆と、誰もが信じて疑わなかった。
「祝え! 領民にも酒とパンを振る舞うのだ! この喜びを皆で分かち合おうぞ!」
男爵の高らかな声が響き、屋敷は幸福な喧騒に包まれていく。
だが、その光が届かぬ屋敷の片隅。
一つの影の中で、長年仕える使用人のデイビスとその妻マリアは、絶望の底にいた。
「……ああ……」
デイビスは、虚ろな目で宙を見つめる妻の肩を、ただ抱きしめることしかできない。
彼らもまた、ひと月前に子を授かった。しかし、運命は残酷にも、その小さな命を病という形で奪い去った。
遠くから響く、マイケル坊ちゃまの誕生を祝う歓声。それは、空っぽになった二人の胸を、無慈悲に抉るやすりのようだった。
「……私たちの赤ちゃん……あんなに、温かかったのに……」
マリアは乾いた唇で呟き、まるでそこに赤子がいるかのように、自分の腕の中をゆっくりとさする。もう涙も枯れ果てていた。
その仕草が、デイビスの心の最後の何かを、ぷつりと断ち切った。
(神よ、なぜだ。なぜ我らの子だけが奪われる? 結婚して十年、ようやく授かったたった一人の光だったというのに……! この不公平を、誰が正してくれる?)
怒りにも似た問いが、彼の頭を焼き尽くす。
(……いや、神などいない。いるとしても、我らのような者には目をくれぬ。ならば――)
脳裏に、冷たくなった我が子の小さな手と、バラ色の頬で眠るマイケルの姿が重なる。
その瞬間、悲しみは、氷のように冷たい狂気に変わった。
「マリア」
デイビスは、暗闇の中で妻に囁いた。
「……眠れないの、あなたも……?」
「ああ。……マリア、俺たちの悲しみを、このまま終わらせてはいけない」
デイビスは妻の冷え切った手を取り、熱に浮かされたように語り始めた。
「あの子のために。いや、俺たちのために、何かを……何かをしなければ」
「……何を言うの? 何ができるっていうの……?」
マリアの声が恐怖に震える。
「見てみろ、マリア。この屋敷は光に満ちている。だが、俺たちには何もない。……もし、俺たちの腕に、もう一度……温かい命があったなら……」
「まさか、あなたは……!」
マリアは息をのんだ。夫の言わんとすることが、恐ろしい形で胸に突き刺さる。
「そうだ。神が与えてくれないのなら、俺たちが手に入れる。失ったものを、取り戻すんだ。そうすれば、お前もまた笑える日が来るかもしれない……!」
「そんなこと……! それは罪よ! 許されないわ!」
「罪だと!? 我らの子が死んだのは誰の罪だ! 誰が我らを救ってくれた! このまま二人で朽ち果てるのが正しいというのか!」
デイビスの絶叫が、空っぽになった彼女の心にじわりと染み込む。失った我が子の温もり。生きる意味すら見失った深い喪失感。このままでは自分も夫も壊れてしまうという予感。夫の狂気じみた提案は、もしかしたら、この底なしの絶望から抜け出す唯一の道なのかもしれない。
正常な判断力は、とうに麻痺していた。
マリアは、夫の手にすがりつくように、自分の手を重ねた。そして、壊れた人形のように、ゆっくりと、一度だけ頷いた。
その夜更け。
祝宴の喧騒が遠のき、屋敷が寝静まった頃、デイビスは影となった。
長年仕えた屋敷の構造は、知り尽くしている。軋む床、物音のする扉、衛兵の巡回ルート。その全てを避け、彼は赤子の眠る部屋へと、音もなく滑り込んだ。
月明かりに照らされた豪奢な揺りかごの中、マイケルは天使のように健やかな寝息を立てていた。
バラ色の頬、柔らかな髪。祝福されるべき、光そのもののような命。
デイビスは一瞬、その神々しさに気圧された。だが、すぐに冷たくなった我が子の感触を思い出し、心を鋼に変える。
彼は用意していた古い毛布に、そっとマイケルを包み込んだ。
そして、闇から生まれ、闇へと帰る獣のように、再び音もなく屋敷を抜け出した。
腕の中には、温かく、確かな命の重み。
彼の背後には、ただ静寂と、持ち主を失った冷たい揺りかごだけが残されていた。
この罪深き選択が、二つの国の運命さえも揺るがす壮大な物語の序章になることを、まだ誰も知らなかった。
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