グレン・ヴァンプ

依近

プロローグ


――少女は光に焦がれていた。


 闇に生き、闇を象徴する彼女が抱いたその憧れはやがて、世界を壊す。

 繊細で、柔らか。風をなぞるような、淡い旋律。シルバーを反射する唇が滑らかに動いて、舌が躍る度に空気を震わす歌が響く。高く、澄んだ歌声。彼女が掲げた白い腕にツゥと伝う鮮血の赤。縁まで落ちた先で膨らんだ雫はフルッと揺れて、彼女の肌を離れて地に落ちる。


 乾いた地面は雫を飲み込み、土が裂け、ひび割れを生み、萌芽する。地の底から伸びた黒い影は徐々に生き物の形に変わり、羽根の生えた蝙蝠に似た姿になった。


 地を、天を切り裂く咆哮。いくつも生まれた影は地から抜け出し、翼で空を掻く。グワッと湧き上がる風が乾いた土を巻き上げ、不鮮明なる視界にいくつも鮮血が散った。


「ひぃっ……!」


「ぐあっ!」


「きゃあああああっ!」


 影に襲われた人々の皮膚に深く突き立てられる牙。穿たれた穴から噴き出す鮮血。じゅるっ、じゅ、じゅるる。吸い上げる音と、首筋から流れ指先から滴る残滓。ドウッと倒れたその人々の背中がボコッと盛り上がり、中からまた同様の黒い影が生まれる。


「ひ、ああ、ああっ」


 三角の翼を生やしたコウモリのような生き物は、翼を広げて飛び立ち次々と街の人に襲い掛かった。


「あ、っ……ッ……」


 少年は悲鳴を噛み殺し、震える脚を叱咤して自身の家に向かって走る。行く手に群がる影を避け、転びそうになるのを何度も手をついて支え、抱えていた荷物が落ちるのも構わず。通りにいくつも転がる倒された人々の亡骸。充満する血の匂いに吐き気がこみ上げてくる。


「は、は……っ、く……ぅ……ぁ、ぅ……」


 恐怖でかみ合わない歯の根がガチガチと音を立てた。全身から血の気が引いて、額が痛いほど冷たい。少年は勝手に涙が溢れてくる瞳を何度も瞬いて、やっとたどり着いた自身の家に飛び込んだ。


「父さん! 母さん! クオン!」


 バタン、と。勢いをつけて開いた扉がキィキィ耳障りな音を立てる。少年--ハスミは零れそうなほど瞳を見開き、肩を上下させて荒い呼吸を繰り返した。


「ぁ……あ……っ……」


 悲鳴を上げる器官が消えうせたように。虚しい空気だけを送り出す喉からは掠れた音が零れるだけ。ハスミは震える脚をなんとか動かし、室内に入る。まるで床の模様にように広がる濃い色彩は、鉄の匂いを漂わせる血液。台所仕事の途中だったような母親は、シンクにもたれかかるようにして倒れていて、上がったままのノズルの下から絶えず水が流れ出ていた。


「母さん……」


 近づく間に、爪先に引っかかる感触。ハッとして足を上げると、父親がうつぶせで倒れていた。2人とも、なにか強大な砲弾で撃ち抜かれたかのように、半身がなくなっている。


「父さん……、クオン……っ」


 胃の奥からブルブル湧きおこる震え。ハスミは冷たい頭を振って、周囲を見回した。目につく範囲に、妹のクオンの姿は見えない。代わりに、じゅ、じゅる、と、何かを啜る音がした。ハスミは父親の遺体から離れて、音のするほうへ進んだ。扉が外れた、クオンの部屋。近づくな、と警戒のような音が頭の中で鳴り響く。それでも、ハスミは操られたように足を進めて、扉の外れたドア枠に手をかけた。


「クオン……?」


 部屋の中に、クオンはいた。静けさが満ちるその場所に響くのは、血を啜る音と遠くから聴こえる柔らかな旋律だけ。彼女のお気に入りだった三つ編みの髪は血濡れて垂れ下がり、床に赤い雫を垂らしている。ベッドから床、そして壁にも、先ほど見たものの倍以上の血液が広がり、部屋中を赤く染めていた。

 クオンの小さな体を掴んで、黒い牙を何度も突き立てる蝙蝠に似た影。その大きさは街の中で見たものの数倍大きい。ハスミはその巨大な姿に気圧され、靴底を擦って後退した。微かに立つ摩擦音に、影がゆっくりと振り返り、赤く光る瞳を向ける。


「ひ、ぅ……ッ……」


 ハスミはフルッと頭を振って、後退する勢いのままに体の向きを変えて駆け出した。家を飛び出し、外に出る。外に出て目にした街の光景は、ハスミの知るものではなくなっていた。

 荒廃した大地に転がるいくつもの死体。空を蝙蝠に似た影が覆いつくし、咆哮を上げて飛び交っている。影が覆う空の上、高い位置にぽっかり浮かぶ、赤い月。

 不気味な咆哮に交じって、ずっと、歌が響いている。聞きなれた声。まるで笑っているような、優しい旋律。ハスミは滲んでくる涙を拭い、赤い月影に映える人型の陰に向けて声を上げた。


「やめろ……やめて……」


 歌声は止まない。止むどころか、より高らかに変化する。彼女は空に向けて両腕を伸ばした。白に近い銀色の長い髪が、風に揺れる。彼女の深紅の瞳はまっすぐに空を見上げて、祈るように組んだ手を胸の前に押し当てる。希望の歌を、銀の唇に乗せて歌い上げる。


「やめろ! もう、やめてくれ……ッ!」


 そこかしこで上がる悲鳴も、化け物の咆哮も、意識から消え失せ、ハスミの頭には彼女の歌声だけが鳴り響いた。脳を突き上げるように揺さぶる不快感に、ハスミは頭を押さえてその場に蹲る。街の人を襲っていた影が一斉にハスミのほうを振り返る。ハスミは空を見上げ、一筋の涙を流した。


「ユア……」


 群がる影が覆う視界の中で、彼女――ユアが振り返り、ソッと微笑むのを目にした。

 銀色の髪と、深い赤の瞳。他の同族を生み出す力を持つ彼女の姿に、あどけない少女の微笑みがだぶる。


――あなたと、つがいになれたらいいのに。


 脳裡に鮮明に甦る、彼女の願い。ハスミは喉を締めて唾を呑み、絶望を呟いた。


「……グレン・ヴァンプ」


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