没落令嬢、異世界で紅茶店を開くことにいたしました〜香りと静寂と癒しの一杯をあなたに〜
☆ほしい
第1話
あら……わたくし、どうやら死んでしまいましたのね。
最後の記憶は──あの夜会でしたわ。父が失脚し、財産も爵位も剥奪されたあの晩。親しかったはずの伯爵令嬢が、笑顔で紅茶をぶちまけたあの瞬間。逃げるように館を出て、馬車も雇えず歩き疲れて、屋敷裏の階段で足を滑らせて──それが、終わりであり始まりでしたの。
気づけば、天井もない、まばゆいほどの光に包まれた空間。真っ白な床、真っ白な空気。そこに立っていたのは、見目麗しい青年の姿をした何者かでしたの。
「ようこそ、お嬢様。あなたには異世界に転移していただきます。特別に“極上調合”スキルを授けましょう。あらゆる茶葉と薬草を、最高の状態で調合し、抽出できる力です」
「……まあ、わたくしの紅茶とハーブの腕前をご存知で?」
「ええ、前世の行いを拝見しまして。あなたのこだわり、見事でした」
「それは光栄ですけれど、戦ったり冒険したりする気はございませんの。誰とも関わらず、静かに香りと味を楽しんでいたいのです」
「はい、それで結構。あなたが望めば、世界が勝手に動きますので」
まるで皮肉のような言葉でしたが、わたくしはそれ以上問いませんでしたわ。だって、あまりに疲れていたのですもの。気づけばまぶたが重くなって──そして今、風の音と鳥のさえずりで、目を覚ましましたの。
見知らぬ森。木々の隙間から光がこぼれ、地面はふかふかの苔に覆われていて。重いドレスではなく、軽やかな旅装束を身にまとい、手には何も持っておりませんでした。
「……魔法の道具も、金貨も、馬車もなしですの? ずいぶん素っ気ない転移ですこと」
誰に向かってともなく呟くと、不思議と心が落ち着きました。そうですわ。もう貴族ではありません。追われることも、愛想笑いを振りまく必要もない。
それなら、わたくしの望むままに生きるだけですの。
まずは、少し歩いてみましょう。靴の裏から伝わる森の感触。空気に含まれる湿り気と草の香り。悪くありませんわね。数分ほどで、小さな開けた場所に出ましたの。
そこに建っていたのは、石と木で作られた古びた小屋。屋根には苔が生え、扉には蔦が絡まり、窓はすすけて曇っておりました。
「まあ、趣のある佇まいですこと」
この世界がどういうものか存じませんけれど、野宿よりは遥かにマシ。扉を押してみると、軽い音を立てて開きました。中は埃だらけで家具も粗末。ですが、わたくしにはこの上なく魅力的に映りましたの。
「ふふ……こういう場所、嫌いではありませんわ」
まず、空気を入れ替えて、掃除をいたしますわ。万能スキルとやらがあるなら、試してみるのも一興ですもの。
「紅茶を淹れる空間には、相応の清潔さが必要ですの」
心の中でそう強く念じた瞬間、手のひらに淡い光が灯り、小型の掃除道具が現れました。ほうき、塵取り、布巾、香草を編み込んだほこり除けの束。どれも古風ながら品のある仕上がりで、わたくしの好みにぴったりでしたの。
床を拭き、窓を開け、陽光を取り込み、家具の上に積もった埃を払う。そうしているうちに、気がつけば陽が傾き始めておりました。
「──やっぱり、まずは一杯、必要ですわね」
わたくしは小さなテーブルの上に、両手をそっと重ねて置き、心からこう願いましたの。
「薔薇とカモミールの調合、温かな紅茶を。陶器のティーカップと、銀のポットで」
ふわり、と甘く優しい香りが立ち昇り、気がつけば、そこには紅茶とティーセットが用意されておりました。ポットの中では、赤みがかった茶が静かに揺れておりました。
「……あら、これは……見事ですわ」
ティーカップを持ち上げ、唇に触れさせた瞬間、心の奥がほどけていくような、やわらかい温かさが胸に広がりました。
香り、味、後味、温度、すべてが完璧。薔薇の香りが華やかに広がったあとに、カモミールの優しさが包み込む。この世界でも、わたくしの“味”は健在のようですわ。
「……ええ、悪くありません。とても、良い一杯ですの」
静寂に満ちた空間で、一口一口を丁寧に味わいながら、わたくしは思いました。この小屋をわたくしの拠点にいたしましょう。そして、店でも構えますの。店といっても、誰かに媚びて、商売っ気を出すつもりはございません。
香りを楽しみ、心を整え、ほんの少し気が向いたときにだけ、誰かに一杯を差し出す。それだけで良いのですわ。
「名もない店で結構。看板もいりません。……紅茶とハーブ、それさえあれば」
窓の外には、青々とした森と小さな湖が広がっておりました。夜風が頬をなで、草木の香りが漂ってくる。完璧ではありませんけれど、それでも心が穏やかになりますの。
「さて……茶葉があれば、ハーブも欲しくなりますわね」
そう思った瞬間、足元に小さな鉢植えが並んでおりました。ミント、レモンバーム、ラベンダー、タイム──それぞれが、生き生きと葉を伸ばしておりましたの。
「まあ、なんて可愛らしい。あなたたち、わたくしの仲間になってくださる?」
植物たちは風に揺れ、まるで応えるように葉を擦り合わせました。
「ふふ……明日からは、庭を整えることにいたしますわ。わたくしだけの、香草園をつくりましょう」
もう誰の目も気にしません。誰の期待にも応える必要はございません。お茶と香りと、ほんの少しの静寂。それだけあれば、わたくしには十分ですの。
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