禁忌論戦

チャプタ

第一話:霧雨邂逅

夜の帳が下りた宿場町は、不気味なほど静まり返っていた。降り続く霧雨が、酒場の粗末な窓ガラスを絶え間なく叩き、ランプの揺らめく光を滲ませている。店内には数えるほどの客しかおらず、彼らもまた、外の異様な気配に押し黙っているかのようだった。むせ返るような湿気と、微かに漂う埃っぽさ、そして――どこからともなく忍び寄る、魂の澱のような不穏な香りが、重く空気を支配していた。


その一角、使い古された木のテーブルを挟み、三人の男女が座っていた。


最初に沈黙を破ったのは、黒衣を纏った女、リリアン・アッシュワースだった。彼女は窓の外の濃霧を一瞥すると、手にしていた古びた革装丁の本――常人には到底解読できそうにない複雑な図形が記されたページを静かに閉じ、鋭い紫色の瞳で向かいの男を見据えた。


「この霧、ただの自然現象と断じるには些か不可解ですね、ヴァルデン殿。大気中に観測されるアニマ粒子の濃度が、平常時の閾値を大幅に超過しています。私の仮説では、これはアニマ・フリューイダの循環システムにおける重大なエラー、あるいは…何らかの外部からの意図的な干渉の可能性も否定できません」


その声は、まるで精密機械のように冷徹で、一切の感情を排していた。彼女の言葉の端々には、かつて妹が魂の霧に似た現象で衰弱していく姿を見た記憶が、微かな影を落としているかのようだった。あの時、いかなる魔術も及ばなかった無力感が、彼女をこの不可解な現象の究明へと駆り立てているのかもしれない。


対する男、カイ・ヴァルデンは、リリアンの言葉にも眉一つ動かさず、手にしたエールをゆっくりと呷った。日に焼け、歴戦の傷跡が刻まれた顔には、深い思慮の色が浮かんでいる。腰に佩いた長剣の重みが、彼の存在感を際立たせていた。


「アニマ粒子、か。魔術師殿の目には、そう映るらしいな」カイは低い、腹の底に響くような声で応じた。「俺の目には、ただ…行き場を失った魂たちの、悲痛な叫びがこの霧となって現れているようにしか見えん。自然の摂理が乱れ、魂が安らぎを得られぬ時、このような異変が起こることは、古の伝承にも記されている。かつて戦場で、守るべき民が目の前で霧に飲まれていった光景を、俺は忘れることができん」


その言葉には、長年戦場を生きてきた者特有の、死と隣り合わせの現実から得た重みがあった。彼が語る「伝承」は、単なる言い伝えではなく、彼自身の骨身に染みた経験則なのかもしれない。


「伝承、ですか」リリアンは僅かに片方の眉を上げ、声に露骨な侮蔑の色を滲ませた。「それは実に…示唆に富む『感想』ですね。しかし、現象の解明において、そのような非科学的な憶測はノイズにしかなりません。重要なのは客観的なデータと論理的推論。このアニマの異常凝集は、放置すればさらなる混乱を招く。原因を特定し、制御下に置くべきです」


彼女の指先が、テーブルの上の水滴を神経質に弾いた。まるで、目に見えない数式でも解いているかのように。


その時、二人の間に割って入るように、テーブルの隅でフードを目深に被っていた小柄な影――ノアが、か細いが、不思議と聞き逃せない響きを持つ声で呟いた。その美しい顔立ちはフードに隠れがちだが、時折覗く大きな灰色の瞳は、まるで霧そのものを映したかのように潤んでいた。


「…制御、するの? 魂たちを?」


フードの隙間から覗く大きな灰色の瞳が、不安げにリリアンに向けられる。その瞳は、まるで霧そのものを映したかのように潤んでいた。かつて、自分を「異物」として扱った人々を思い出したのか、あるいは霧に消えた小さな命の記憶が蘇ったのか、その声には微かな震えが混じっていた。


リリアンは、その声の主に初めて意識を向けたかのように、軽く視線を動かした。「ノア…だったか。制御という言葉が不適切だったかな。正確には、アニマの過剰な励起状態を鎮静化させ、安定した基底状態へと移行させる、ということだ。無秩序な魂の奔流は、生者にとっても死者にとっても有益ではない。論理的に考えて、それが最善の処置であるはずだ」


「最善…」ノアはリリアンの言葉を繰り返した。「でも、霧の中にいる魂たちは、みんなすごく苦しそうだよ。寒くて、寂しくて、どこへ行けばいいのか分からなくて…叫んでる。それを無理やり『安定』させたら、その声は消えちゃうの? それって、本当に魂たちが望んでることなのかな…? 塔の方からも…何か、すごく大きな、悲しい声が聞こえる気がするの…」


その純粋な問いと、最後に付け加えられた「塔」という言葉は、リリアンとカイの双方に、異なる種類の波紋を投げかけたかのようだった。


カイは、ノアの言葉に深く頷いた。「その通りだ、ノア。魂には魂の意志がある。それを力で捻じ曲げ、管理しようなどというのは、人の驕り以外の何物でもない。我々生者にできるのは、彼らが安らかに大いなる流れ――アニマ・フリューイダへ還れるよう、祈りを捧げ、道を示すことだけだ。この霧は、我々がその務めを怠ってきたことへの、天からの警告なのかもしれない。そして、もし塔がその声の源ならば、それは聖域が苦しんでいる証拠だ」


「警告、ですか。ヴァルデン殿の言葉は、常に形而上の領域を彷徨っているようですね」リリアンは冷ややかに言い放った。「祈りで現象が解決するなら、魔術も科学も不要でしょう。アニマ・フリューイダという概念自体、観測可能なデータに乏しく、その実在性すら疑わしい。私が信頼するのは、検証可能な事実と、それに基づいた再現性のある技術のみです。この異常現象の背後に、もし『刻印の塔』が関わっているのだとすれば、徹底的に調査し、そのメカニズムを解明する必要があります。それが、たとえ聖域と呼ばれる場所であっても、です」


「刻印の塔…!」カイの声に、険が宿った。「あの聖域を、貴女のような者が土足で踏み荒らすというのか? 塔は魂の循環を守る最後の砦。それを解析だの介入だの…断じて許されることではない!」


「聖域、ですか。それもまた、検証不能な信仰の産物ですね」リリアンは臆することなく言い返した。「もし塔が機能不全に陥り、この災厄を引き起こしているのであれば、それを修復、あるいはより効率的なシステムに置換することも考慮すべきでしょう。感情論で思考停止するのは、知的怠慢に他なりません」


二人の間に、目に見えない火花が散る。酒場の空気は、彼らの言葉の応酬によって、さらに重く、張り詰めていく。

外の霧はますます濃くなり、まるで彼らの議論の行方を見守るかのように、酒場を静かに包み込んでいた。

三者三様の「魂」への向き合い方。

彼らの運命が、この霧深い夜に、静かに交錯を始めた――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る