【2 導かれて 前編】
「――よ。美代」
耳元で囁く声で目を覚ました。進学と同時に親元を離れた美代。当然、部屋には彼女以外誰もいない。
誰の声だったんだろう? 年齢も、性別も分からない。ただ、名前を呼ばれていたことだけは、覚えていた。
ピピピピ。枕もとで鳴り響いたアラーム音が、美代を現実へと引き戻した。スマホを手に取る。時刻は七時三十分を表示していた。
目覚ましより早く起きたんだ。とりあえず、首筋にべったりと滲んだ汗の不快感を洗い流そうと、美代は立ち上がった。ベッドの横に置いた、昨晩準備したリュック。いよいよ今日か。洗面所へと向かう彼女の足取りは、心なしかいつもより軽かった。
汗を洗い流した美代は、着替えを済ませてメイクにとりかかった。鏡の中の自分を見つめながら、丁寧にこなしていく。
サッ、と鏡のむこうで何かが動いた気がした。振り返ってみるも、そこには誰もいない。気のせいか――そう思いながらも、美代は鏡の中をもう一度見返す。なんだか今日は、いつもより冷房の効きが早く感じた。
準備が整ったのは、集合時間の二十分前だった。リュックのファスナーを閉じて一息つく。
プルルルルと着信音が静かな部屋の中に響いた。予定より早いな、と思いながらスマホの画面を確認する。そこに悠馬と表示されているのを見て、美代の口は、ふっと緩んだ。
「もしもし。もう着いたの? ――うん。丁度今終わったとこ。すぐ向かうね」
美代はカーテンの隙間から下を覗いた。太陽の光が白い車に反射している。
「道狭いから十五分前ぴったりに来てって言ったのに……」
それでも五分前行動をしてしまう彼に、「ばか」とつい声が漏れてしまった。急ぎ足で荷物を背負い、玄関のドアを開ける。まだ九時前だというのに、夏の暑さは体を焼いてしまいそうなほどだった。
「行ってきます」
美代はいつものように、誰もいない部屋に向かって言う。
――待ってるよ――
鍵をかけようとしたその時、部屋の中から声が聞こえた。
「え?」
思わずその手が止まる。恐る恐る部屋の中を確認しようとしたとき、ピロンと通知音が聞こえた。片手に持っていたスマホを確認すると、「後ろから車来ちゃったから早く来て」と悠馬からのメッセージ。
苦笑交じりに吐いた息をかき消すように、美代は急いで鍵をかけ、悠馬の待つ車へと向かった。
階段を降りると、悠馬が車の中から両手を合わせて、「ごめん」としているのが見えた。美代はそのまま後ろの車の運転手に軽く頭を下げ、助手席に乗り込んだ。
「ごめんね急かしちゃって。シートベルトした? とりあえず車出すよ」
他人を待たせていることに焦っているのだろう。美代が乗り込んで一息もついていないというのに、悠馬は車を発進させた。美代は慌ててシートベルトを締めて、ちょっと強めの口調で言った。
「こうなるから十五分前ぴったりに来てねって言ったの。私が下で待ってれば待たせることもなかったのに」
口を尖らせる美代をちらりと横目で見た悠馬は、肩を落として謝った。
「まぁ、こういうところも嫌いじゃないけど」
ぼそっと呟いた美代の声が聞こえたのか、笑みが戻っていく悠馬を見て、美代もつられて笑ってしまった。
美代の好きな曲を二人で歌いながら走っているうちに、他の三人と待ち合わせしている駅についていた。
「九時五分前か……」
車を降りながら、悠馬が言う。
「大輝がもう来てたら、今日は雪が降るかもな」
からかい交じりの言葉に、美代はクスっと笑い「そうだね」と返す。
待ち合わせ場所のモニュメントに近づくと、その陰に三人の人影が見えた。
「ねぇ、あそこ見て、悠馬。三人いるよ」
大輝が遅刻していないことが、なぜか可笑しかった美代は、少し高めのテンションで声をかけた。
「本当だ。これはマジで雪が降りそうだ」
悠馬は笑いながら、美代と目を合わせた。
「みんな、おまたせ」
美代が手を振りながら三人に駆け寄る。
「待ってないぜ。今来たとこだから」
どや顔で言う大輝を誠治が軽くこずく。
「そういうのは、本当に今来た奴が言う台詞じゃないぞ」
てへっとおどける大輝に、五人は笑いに包まれた。モニュメントの隙間から漏れた日差しは、いつの間にか薄くなり、五人の笑顔に静かに影を落としていた。
出発から五時間。悠馬の車は、三上山へと続く、曲がりくねった道を走っていた。青一色だった空は、いつの間にか雲で覆われ、薄暗くなった道は、さらに不気味さを纏っていた。
昼食前は騒いでいた大輝も、サービスエリアで特盛の牛丼を食べたせいか、今はぐっすりだ。静まり返った車内が美代の心をより一層ざわつかせる。
「そろそろ本格的に山道に入るな。運転変わろうか?」
昼食後、美代と運転を変わった悠馬が、伸びをしながら声をかける。
「起きたんだ。ちょうど今、起こして変わってもらおうとしてたとこ」
悠馬の声で少しばかり心を落ち着かせた美代は微笑みながらブレーキを踏んだ。外にでると、夏の暑さはすっかりと消えていて、半袖では肌寒いくらいだった。改めて助手席に乗り込んだ美代は、一枚のカーディガンを羽織り、シートベルトを締めた。
「おい、お前ら起きろ。山に入るぞ」
ハンドルを握った悠馬が、バックミラー越しに後ろで眠る三人に声をかけた。紗良と誠治は、「うぅ……」と少し掠れた声をだし、目を擦り体勢を整え始めた。しかし大輝だけは、何も聞こえていないようにぐっすりしている。
「おい、起きろって。村探すんだろ?」
誠治はため息をつきながら、何度も肘で彼の体を小突いた。しかし、まるで反応がない。
「仕方ない。もうしばらく寝かせてやろう」
悠馬もまた、ため息をついて車を発進させた。
車は山道を登っていき、道幅もどんどんと狭くなっていく。緑もより一層深くなり、悠馬はヘッドライトを点灯させた。
太陽はまだ頭上にあるはずなのに、闇を纏う森の中は、何かが潜んでいそうな空気をはらみ、美代の体を震わせる。
「この森の中のどこかに、村があるかもしれないんだよね」
少しでも恐怖を紛らわせたかったのだろう。息をするように、無意識に声が漏れていた。
「ただの噂さ。こんなところに村なんてあるはずがない」
そう答えた誠治の声は、微かに震えていた。まるで、その言葉を自分自身に言い聞かせているみたいだった。
再び車内に訪れた沈黙。ねっとりとした空気が覆いかぶさり、美代たちの心をすり減らしていく。
「音楽、かけるか?」
「かけて」
悠馬の問いに、紗良がかぶせる様に答える。みんなも同じ恐怖を感じている。そう思えて、美代は少しだけ安堵する。
「トンネルだ」
カーブを曲がった後、目の前に現れた闇への入り口。ポップな音をかき消すように、不安がまた、美代たちを襲う。
息を呑んでトンネルへと進入したとき、「あっ」と窓の外を見ていた紗良が声を漏らした。
「どうしたの?」
紗良が答えようとした――その瞬間。
「うわああああああああ」
野太い悲鳴が車内にこだました。車の屋根を突き抜けそうな勢いで、大輝は叫びながら体を起こした。
同時に、悲鳴に驚いた悠馬が急ブレーキをかけた。大輝の体は、勢いそのままに前のシートに激突する。
「いててて……」
ぶつけた個所をさすりながら顔をしかめる大輝。シートに座りなおすと、「ごめ」と舌を出し、おどけたように笑った。
「ごめ、じゃねぇよ。どうしたんだよ、大輝」
怒気を含んだ誠治の声が車内に落ちた。無理もない。あの瞬間、みんな心臓が止
まる思いをしただろう。美代もまた、震える手を強く握っていた。
「いや、まじでごめん。夢、見たんだよ」
車内に張り付く緊張感を感じ取ったのか、大輝はいつになく静かに語り始めた。
「夢の中で俺たち、村についてさ。その瞬間、村人たちが一斉に武器を持って襲って
きたんだよ。それで、殺されそうになって、叫んだら、ここだった」
大輝の語る具体的な夢の内容に、私たちが行こうとしている村は、本当に立ち入っていい場所なのかと、そんな不安が美代の頭の中を駆け回る。
「やめてよ、大輝くん。私たちだって、今から村に行こうとしてるんだから」
そう話す紗良の目には、うっすらと涙が溜まっていた。
「そういえば紗良、さっきはど――」
――おいで――
美代の言葉を遮るように、誰かの声が頭の中に響く。
「美代ちゃん?」
不思議そうに美代を見つめる四人。私だけ……? キーンと美代を襲う頭痛。
「いか……なきゃ」
無意識にドアノブに手をかける美代。風の音も、エンジンの音も聞こえない。聞こえるのは、自分を呼ぶ声だけ。走行中の車。ドアを開けようとした瞬間。
「美代!」
後ろに座っていた大輝が、必死に美代を抑え込んだ。
「何してんだ!」
悠馬の怒声で、ハッと我に返った美代。もう、あの声は聞こえなかった。
「ごめん……悠馬。大輝、ありがとう」
悠馬に視線を送ると、ほっとしたような笑顔の中に、張り詰めた不安が滲んでいた。目には涙が浮かんでいる。
先ほどとは違い、止めた車をすぐには出さず、悠馬は美代の手を握る。その温もりが、まだ震える美代の指先に染み込んでいく。
「美代、大丈夫か? 何があった?」
優しく問いかける彼の言葉に、今度は美代が涙を滲ませる。
「急に頭の中で……声が聞こえたの。おいでって。そしたら体が乗っ取られたように
なって……。怖かった、怖かったよ悠馬」
握られた手を胸に抱き、美代は堪えきれずに嗚咽を漏らした。
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