浮気相手にクリオネを送ったら

白雪花房

第1話


「まあ素敵。思い人からこんなもの受け取ったの、初めてよ」

「サプライズだろう? なんでったって今日は特別な日なんだから」

 キラキラと目を輝かせる妻。

 ゆったりとしたワンピースの背を、艶やかな髪が流れている。


 俺たちは揃って前を向いた。

 寒色の照明が灯った、広々とした室内。ガラス張りで覆われいることで、アクアリウムのような雰囲気を醸し出していた。

 奥に鎮座するのはカプセル型の水槽だ。SF映画に出てきそうなデザインをしており、今にもなにかを培養しそうな印象を受けた。

 クリアなガラスの内側には細かな水滴が上り、中を小さく透明感のあるものが、ふよふよと浮かんでいる。


「私が授かった命、神様からのプレゼント――大切にするね」


 妻は満面の笑みで頬を赤らめさせる。

 俺も胸がすく思いで、口角を上げた。

 互いに見つめ合い、離さない。


 ああ、夢を見ている気分だ。

 彼女を選んでよかった。

 これから先の未来も晴れやかな夢が続くと、信じて疑わなかった。

 そのために俺は家も、なにもかもを捨て、彼女に捧げると決めた。



 春、 浮気相手にクリオネを送った。


 事の始まりは去年の冬。

 当時付き合っていた彼女は常に攻撃的で、なにかあればすぐに当たってくる。

 新聞紙を投げつけ、皿を割り、挙げ句の果てには階段から突き落とされ掛けたことすらあった。

 恐ろしい恋人から逃れ、夜のバーへ入り浸る。

 酒を飲み愚痴を零す。

「さすがにそれは彼女がおかしいわ」

 キャバドレスを着た女性は眉を寄せ、親身に寄り添う。


 いつしか僕は彼女に惹かれ、家に帰らなくなった。

 相手の妊娠がきっかけで、当時の恋人を切り捨て、六月には式を上げた。


 白い薔薇で囲まれた会場。

 打ち上げられたふっくらとしたブーケに、舞い散る花吹雪。

 新たな人生が始まる予感がした。


 元恋人の縁も切れた。

 以降は般若のような女の顔も見えない。

 あっさりと引き下がってきたことには、なんの疑いも抱かない。

 あの女も所詮は俺を愛してはいなかったのだろう。


 体が軽くなった気持ちで、仕事にも打ち込んだ。



 ある日の昼間。

 街の片隅にある無機質な建物。

 LEDを点けてなお薄暗い部屋に、キーボードをカタカタと鳴らす音が響く。

 パソコンの前で一息入れようとしたところ、胸ポケットがブルって震えた。

そして仕事中。

 スマホを取り出し、受話器のマークが浮かんだ画面を見つつ、席を立った。

 廊下に立ち、耳元に画面を押し当てる。

「ごめんなさい。クリオネ、死んじゃった。流れていっちゃった」

 薄っぺらい液晶越しに、すすり泣きが聞こえる。

 まるでこの世の終わりかと思うほどの震えた声音。

 聞いていてぞっと冷たいものが背中を流れた。

 脳裏をよぎったのは元恋人の仮面の表情。

 クリオネの死がなにを意味するのか。

 俺はついぞ口を開くことができなかった。

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浮気相手にクリオネを送ったら 白雪花房 @snowhite

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