第1話 ゾンビ発生
八月が終わり、九月に入ってもまだまだ日差しは強く、やたらと暑い日が続いていた。
今年で女子高の二年生になった立花美空は、今日がたまたま午前授業だったこともあり、午後から近くの空手道場での稽古に励んでいた。小学生に入るころに知り合いの勧めで始めてもうかなり経つ。上達も早く、高校生で二段まで取れたのはこの道場でも美空一人だけだ。
いつもの基本と型の一通りの稽古が終わると、有段者同士の組手の稽古の時間となった。
(いやだなあ……私、型だけでいいのに)
長くつややかな黒髪を後ろにまとめ直してコートに入った美空は、相手に指名された女性を前に小さくため息をつく。
「ため息つくな、馬鹿者」
気付いた師範に一喝される。だが目の前の相手は美空より大きく、手足も長いスタイル抜群の主婦の女性だ。しかも主婦とはいえ、拳歴は美空よりはるかに長く三段の所持者だ。組手もかなりやり込んでいて、二段の美空より実力は上だ。またアザだらけになるなこれは、と思った。
「はじめ!」
師範の声が道場に響き渡る。
美空と相手の女性が気合を発してお互いに構えた。手にはグローブをはめ、顔と胴にスーパーセーフと呼ばれる防具付ける組手だが、防具の薄いところにもらえば骨折することもある。新学期が始まったばかりで怪我はしたくない。美空は慎重に相手を観察した。
相手の女性とは何度か対戦しているが、基本的に体格を生かして自分からがんがん攻めてくるタイプだ。回し蹴りが得意で、連続で繰り出す回し蹴りにコートの隅まで追いつめられ、体勢の崩れたところにとどめをもらって負けることが多いのは自覚していた。美空も回し蹴りは得意だが、間合いが違いすぎて、いきなり蹴りを出しても届かないのもわかっている。
リーチに劣る美空は今回カウンターを狙うことにした。右足を前に構え、左の胴をあけて誘いながら、相手の技の起こりを待つ。右の回し蹴りを誘い、カウンターで左の後ろ回し蹴りを合わせるつもりだった。
しばらく間合いの取り合いが続いたが、やがて相手の右足がふっと上がる気配を見せた。
(いまだ!)
美空は身を沈めると右の軸足を中心に回転し、左の足の裏を相手の中段に向け、下から突き出すような蹴りで迎え撃った。前に突っ込んできた相手のみぞおちにもろに入れば、防具の上からとはいえ息が詰まるはずだ。
だが蹴りの手応えは無かった。回り終わった美空を待っていたのは打ち下ろしの強烈な突きだった。相手のフェイントに引っかかってしまったのだ。逆にカウンターとなった突きを顎のあたりにもらった美空は、あっさりと意識を失い崩れ落ちた。
気が付くと、美空は道場のすみで寝かされていた。組手の相手をした女性が心配そうにのぞき込んでいる。
「だ、大丈夫? ごめんね……美空の後ろ回しのキレが、あんまりよかったもんだから、思わず手加減できずに打ち抜いちゃった。えへへ」
女性はそう言ってベロを出した。彼女は手に氷を詰めた袋を持ち、美空の頭を抱え上げると膝に乗せ、額に氷を当ててくれた。
(えへへ……じゃないって……)
美空は意識を失う直前の、きつい突きの衝撃を思い返して涙があふれ出てきた。たとえじゃなく本当に目から火花が飛んだのだ。
「美空! 泣くなよ!」
他の道場生の稽古を見つつ、美空の泣き虫をよく知っている師範が遠くから叫んでよこす。
美空は唇を噛みつつ涙を道着の袖でふいた。悔しくて立ち上がりたかったが、頭の下の膝のぬくもりとあたたかい手の感触が気持ちよくて、もう少し寝ていようかなと矛盾した気持ちになっている。
「こーんな可愛い顔に突き入れちゃうなんて、ちょっと罪悪感。もう立てそう? 頭くらくらするならまだ寝ていてね?」
美空の顔を手ではさんだ女性が、覆いかぶさるようにしてのぞき込んでくると、その柔らかくて重くたっぷりとした彼女の胸が美空の顔に押し付けられた。
(うわーやばいっ)
美空は道着のたもとからハンカチを引っ張り出し、急いで鼻にあてた。鼻の奥から流れ出てくるものをあわてておさえる。花の模様のついたタオル地の白いハンカチを持ち上げると、中心が赤く染まっていた。
久しぶりにやってしまった。
美空には母親以外の女性の胸や裸を間近で見たり触ったりすると、なぜか鼻血を出してしまうおかしな癖があった。初めてそれに気づいたのは、小学生のころに母に連れられて初めて行った銭湯だった。中学の頃からプールなどがあると、同級生たちと同じ教室で着替えるのもひと苦労で、彼女たちの裸を見ないよう、なるべく下を向いて着替えていたのを思い出す。
「あら大変、鼻血! 突きが入った時に防具の角が鼻に当たっちゃったのかしら」
女性が心配そうにさらに密着して顔を近づけてくる。女性の汗と香料混じりの濃厚な体臭がむっと鼻を包んでくる。
「大丈夫です! ちょっと外で休憩してきます!」
美空は跳ね起きると、道場の外にある水道に走った。
(あせったなあ)
水道のそばのブロックの上に血の付いたハンカチをたたんで乗せ、美空は顔を洗った。結んでいたゴムを外して髪をおろし、大きく伸びをすると、少し涼しさを含みはじめた九月の風が、その髪をたなびかせる。背の中ほどまで伸びた漆黒ともいえる濃い黒髪は、惚れ惚れするほどつややかだ。自分でも気に入っており、友人達のように茶色く染めたいなどとは全く思わない。
百六十五センチあるやや高めの身長も、細くしなやかな体つきのおかげでそれほど大きくは感じさせない。空手の稽古のたまものでスタイルはかなり良いほうだ。さっきの女性ほどではないが、細身のわりに胸も豊かだ。やや幼い顔つきが自分としては不満だったが、友人たちに言わせると美空の顔はかなり可愛いらしい。その化粧っけのまったくないその顔は白くすべすべで剥きたてのゆで卵のようだ。
その恵まれた外見のせいもあり、美空は中学に入った頃から、男からの視線をよく受けるようになっていた。可愛らしい顔だけではなく、色白で透けるような肌の手足や豊かな胸元あたりを、じろじろと観察されているような視線も多い。
美空は水を飲んで一息つくと、さっきの鼻血について考え込んだ。この癖は治らないのだろうか? 高校生になり多少物事が見えるようになってきた最近では、自分のそれは癖などではなく、実は【性癖】なのではと、うっすら気付き始めていたのだが……
美空は最近の学校での嫌な出来事を思い出していた。授業中に中年の男子教諭が、こちらをじっと見つめてくることがあるのだ。かなり執着を感じさせる目つきで、それがたまらなく嫌だった。このところ頻度も増え、教室の席に座っていても居心地がかなり悪い。美空の席の横をその教師が通り過ぎる時など、明らかに胸元をのぞき込んでいる。
美空は無意識にそっとその形の良い、ボリュームのある膨らみを包み込むようにして守った。
そういう男たちの視線が理由という訳ではないのだが、美空は異性としての男にまったくと言っていいほど興味がない。男が嫌いだとか、虫唾が走るとか、そこまでの気持ちが有るわけではないが単純に興味が無かった。
学校の友達も食べ物の話ならよくするが、男の話になると美空が興味を示さないのを分かっていて、無理には誘ってこなくなった。
(私……実は女の人が――)
考えないようにしていたその問題に思いをはせた時だった。
――バサバサッ
美空はすぐ後ろで何かの大きい羽音を聞いた。
(カラス?)
だが振り向いた時には何も見えなかった。道場に戻ろうと振り返って歩き出した美空は、血の付いたままのハンカチを置き忘れていることに気が付かなかった。もっとも気が付いたとしてもハンカチはどこにも見当たらなかったのだが。
道場に戻った美空は居残り稽古で、師範の勧めで中学から続けている棒術の稽古を少しやってから帰ることにした。基本の型と棒術の型を一心不乱にやっているときは、色々と余計なことを考えずに済むから好きだった。
稽古を終え、着替えて師範に挨拶をした後、道場を出た美空はいつもバスで帰るところを歩いて帰ることにした。強く打たれているので若干不安だったが、もうすっかり足取りもしっかりしているし大丈夫だろう。小腹がすいたため通り道の商店街で何か食べて帰りたかった。
まだ暑さは強いが夕方に近くなってきたせいもあり、道場を出ると風は少しさわやかさを含んでいた。
目当ての商店街までは、川沿いを歩けば十分程度だ。川に出ると、風はさらに爽やかさを増して、汗をかいて火照った体に気持ち良かった。そのせいか余計に空腹が増して、美空の腹が大きく鳴った。子供のようななめらかな頬と、形のよい鼻が赤く染まった。周りに誰もいなくて助かった。
(汗をたくさんかいたから早くシャワー浴びたいけど、やっぱり何か食べて帰ろう)
夕食までまだ時間はあるし、少し何か食べないともたない。美空はつぶやいて、街のほうへと少し早足で向かった。
地元にある商店街は、このあたりでは有名なかなり大きな商店街で、小さいころから親と一緒によく食事に来た。ある程度美味しい店もわかっている。近づくにつれて、あちらこちらの食堂やレストランからプーンといい匂いが漂ってきてたまらない。
(何食べようかな?)
たっぷりと汗をかいたし喉も乾いている。冷たい飲み物と、肉まんでも食べようかなと考えながら、平日とは思えないほど混雑している商店街を歩いていた。大学生などは、まだ休みがあるのだろうか? 私服を着た大学生らしき若者たちが、結構商店街を歩いている。
「お、今の子可愛くない?」
美空の横を通りすぎていった大学生らしき若い男性の二人組がささやくのが聞こえる。
悪い気はしないがこういう事は慣れているので、さっさと人ごみをかき分け、いい匂いがしている肉まんと、一緒に売っていたタピオカミルクを通りの店から買った。タピオカは美空が小さいころから商店街で売られている、白くて小さい粒のものだ。最近流行の、大きくて黒い粒のものはあまり好みではない。
風になびく黒髪を後ろでざっとゴムで束ねてから、歩きながら大きく肉まんにかぶりつく。顔立ちの幼さとはアンバランスに、やや長身でかなりの美少女の女子高生が、肉まんの汁を顔につけながら大股で歩きながら食べていると、やたらと目立つ。
細身ではあるが空手で鍛えられた体幹と、柔らかい肌の下に隠し持っている必要十分な筋肉は、美空が歩く様子に鞭のようなしなやかさを与えていた。まるで野生の鹿のような優美さと迫力を感じさせる。
さっきの二人組も、そんな美空の迫力に押されて、声を掛ける勇気までは出なかったらしい。
「でも、ちょっとデカいよな」
遠ざかりつつ聞こえた、小さいながらも笑いの含んだその捨て台詞に、ムッとして回し蹴りでも叩き込んでやろうかと思ったが足早にその場は離れた。
(そこまで言うほど大きいって訳でもないじゃん)
美空の顔が曇る。ちょっと悲しくなったのだ。だが肉まんをたいらげるのに忙しいので許してあげることにする。
もっとも、今までに声を掛けてきた男たち相手に、本当に回し蹴りを叩き込んだことなどはない。美空は実は気が小さい。空手をやろうなんて考える人間は、そもそも元から気が弱い人間のほうが多いと、師範もよく言っている。もしあの若者二人が声を掛けてきたとしても、実際は小走りに逃げただろう。
そんなことを考えながらもペロリと肉まんをたいらげた美空は、ふと空が暗くなるのを感じて空を見上げた、今まで晴れて青空が広がっていた空に、いつの間にか分厚い黒い雲が現れていた。
その美空の横顔を突然ゴオッと音を立てて突風が襲った。慌てて目を閉じた美空の髪に、ばらばらと雨粒が叩きつけられる。雨宿りのため近くの店の軒先に避難した美空は、なぜか急に不安になって空を見た。
(なんだか変な夕立)
その雨は長くは続かず二、三分で止んだが、空には黒い雲がまだ渦巻くように残っていた。
その雨になぜか妙なものを感じた美空は、しばらく軒先から出ずに様子をうかがっていたが、人々はすでに傘をたたんだり、濡れた服をはらったりして、何事もなかったかのように買い物を再開していた。
「帰ろうかな……」
美空はポツリと独り言を言うと、軒先を出て商店街を歩き始めた。
商店街の大通りをしばらく歩くと、少し先の通りの真ん中で人だかりができているのに気が付いた。中心で誰かがうずくまっているように見えるが、囲んでいる人々に隠れていてよくは見えない。
「どうしたんでしょうね、あの人? 具合でも悪いのかしらね」
同じように遠目から見ている年配の女が、友達らしき女と話している。
美空が近づいて、人だかりを覗き込んでみると、一人の髪の長い若い男がうずくまっているようだった。その髪と顔は先ほどの雨でぐっしょりと濡れている。
その男は真っ青な顔でブルブルと大きく震えながら、とうとう道路に横になって倒れこんだ。
一人の親切そうなサラリーマン風の男が、倒れた男の上にかがみこむようにして声をかけた。
「おい、大丈夫か?」
倒れた男は返事をせず、ただ小刻みに震えており、やがてそれは大きな痙攣を伴うようになってきていた。その顔は青黒く変化していて、血の気が一切無いように見えた。
「あの……救急車を呼んだほうがいいと思う」
ある若い女がサラリーマン風の男に向かって、後方から声をかけた。
「そうですね、携帯から電話してみます」
うなずいたサラリーマンがポケットから携帯電話を取り出そうとした時、倒れていた男の手がいつの間にかサラリーマンの腕をつかんでいた。男の震えは止まっていた。
ゆっくりと頭をもたげたその男の顔は、まるで死人のようで、美空は最近観たばかりの映画を思い出していた。
(先週、テレビの映画で観たゾンビにそっくりだ)
そう思った美空は目を見張った。上半身を起こした男は、サラリーマンの手首を自分の口まで持っていったかと思うと、まさに映画のゾンビのように、大きく口を開けて齧り付いたのだ。
何が起きたか理解できていないサラリーマンの手首から、みるみる血が噴き出し、雨に濡れたアスファルトにしたたり落ちて広がっていく。
「うわああ!」
叫び声をあげたサラリーマンの手首に食いついたまま、男が大きく頭を振った。美空の目の前にビシャッと嫌な音共に、血に染まった何かが落ちた。食いちぎられた肉片が飛んできたのだ。
しばらく呆然として、それを眺めていた美空が顔を上げると、男は地面に倒れたサラリーマンの首筋に顔を埋めて貪り食っていた。サラリーマンはすでに絶命しているように見えた。
見回すと、人々は大混乱におちいっていた。
「うわあ! 逃げろ!」
「警察を呼べ!」
人々が逃げまどう中、美空は足が固まってしまい動けない。
目の前のゾンビと化した男は、死体の腹部から何かロープのような物を引っ張りだしては貪り食っている。
(あれは腸だ。腸を食べている)
冷静に状況判断している場合じゃない。
「に……逃げないと」
美空は呟いた。しかしまだ足は動かない。
男のゾンビは死体から顔上げると、ゆっくりと回りを見回し、美空を見つけてゆっくりと立ち上がる。そのまま彼女に向かって、倒れ込むように手を伸ばしてきた。
その瞬間、すっと腰を落とした美空の右膝が上がり、そこから放たれた前蹴りが、カウンターでゾンビの下腹部の急所に強烈に食い込んだ。空手を始めてから、何万本と撃ちこんできた前蹴りが無意識に出たのだ。並の男であれば、間違いなく悶絶して、しばらくは立てないはずである。
しかし、ゾンビは少し怯んで後退りはしたが、すぐさま動き出した。
(効いてない。そうかゾンビは頭だ)
なぜか頭は冷静だった。美空は気弱を自認しているわりにホラー映画が大好きで、中でも特に好きなゾンビ物の映画や海外ドラマをいくつも観てきた。その中で得た知識がよみがえる。
脳だ。脳を破壊しないとゾンビは死なないのが伝統だ。
ゾンビは、低い姿勢のままこちらに手を伸ばしてきている。美空は一歩下がると、そのまま右足を軸足にして、得意の左回し蹴りをそのこめかみに放った。
地面を踏む軸足から腰、蹴り足と、十分に力が伝わった蹴りがゾンビのこめかみに当る寸前、美空は上半身を逆に切った。蹴り足の膝から先が鞭のようにしなって飛んでいく。力で押し込む蹴りではなく、当たった瞬間、相手の体の奥に威力が浸透するタイプの蹴りだ。当たると吹っ飛ばされることなく、相手はその場にガクンと崩れ落ちる、師範直伝の回し蹴りだ。
バキンと板が割れるような乾いた音を立てて、ゾンビの頭が揺れた。
(手応えあった)
ゾンビの動きが鈍り、ゆっくりとその場に座り込んだ。だがその目はまだ美空を見つめており、のっそりと立とうとしている。
どうやら映画のように脳を破壊して倒すには、美空の蹴り一撃では無理なようだ。師範なら一撃で倒せるのかもしれないが、まだその域には程遠い。それに無意識に一番蹴りやすい、足の甲を使って固い頭を蹴ってしまった。本来足の甲は急所でもあり、競技試合以外の実戦では、絶対にそこで蹴ってはいけないと言われていた。にも関わらず、思わずとっさに使ってしまったのだ。
幸い怪我はしていないが、多少美空の足にも痛みが残った。こんな蹴りは何発も使えない。
ようやく逃げることを思いついた美空は、目の前のゾンビに背を向けて走り出した。背を向ける間際、食われて死んでいたと思われたサラリーマンの死体が、のっそりと頭を持ち上げたような気がしてぞっとした。
商店街の広場までたどり着いた美空は、さっきの現場からそれなりに離れたのに、まだ人々が逃げまどう様子に違和感を覚えた。立ち止まって辺りを見回す。
いつの間にか、商店街のあちらこちらで、同じような情景が繰り広げられていた。ざっと見ただけで三、四体のゾンビらしき男女が、のっそりと歩き回り、一体は倒れている女性の死体を貪り食っていた。
「本当にゾンビが出ちゃった……どうしよう」
美空は泣きながらあたりをさらに見回す。
だが、悠長に観察している場合では無さそうだ。
「しっかりしろ、私」
食われて死んでいると思われた女性の死体は、すでに動き始めていた。新たなゾンビが誕生したのだ。それと同時にその女性を食べていたゾンビも顔を上げ、さらに新たな獲物を求めてさまよい歩き始めていた。
このままでは次々とゾンビが増殖し続けることになりそうだ。映画のようにゾンビが世界中を闊歩し、世紀末となった情景が頭に浮かんでくる。警察や自衛隊が動き始めるのはまだ先だろうか。今はとにかくここから逃げて、生き延びないとならない。
美空は狼狽するのをやめ、深呼吸して頭を切り替えた。状況判断と頭の切替えの早さは、空手の試合においても、美空の最大の武器でもあった。
本当にゾンビが出るなどあり得るだろうか? などと疑うことももうしない。今、自分は確かにゾンビ発生の瞬間に立ち会ったのだ。
(そうだ、お母さんと慎吾)
美空は、家にいるはずの母親と、もう学校から帰っているはずの小六の弟を思い出した。とにかくまずは家に帰ろう。父親は美空が生まれた時からいないので、美空が二人を守るしかない。働きながら一人で子供二人を育ててくれている気丈な母だが、さすがに今はどうしているか気が気ではない。家の近くでゾンビが出ていなければいいのだが。母は今日仕事が休みで家にいるはずだ。
美空は、今まで存在を忘れていた携帯電話を取り出し、母の携帯電話と家の電話にかけてみた。しかし、電波は生きているようだが、回線の混雑のためか一向につながらなかった。
美空は家に向かう前に、目当ての物を探すため、商店街のとある店に向かって走った。
途中、たまに手を伸ばしてくるゾンビはたやすく回避できた。動き自体はかなり緩慢で、それほど脅威ではなかった。これ以上増える前に、目当ての物を見つけて家に向かわなければ。
美空が向かっているのは、時々空手用品などを購入していた武道用品店だった。いくら空手が使えるからと言って、素手でゾンビと取っ組み合いになるのは危険だし、考えただけで身の毛がよだつ。棒か槍のような物があれば、ゾンビに触れずに少しは楽に戦えるかもしれないと思ったのだ。家にたどり着けても、母たちを守り切れずに、皆で仲良く食われてしまっては意味がない。
武道用品店にはゾンビも店員の姿もなかった。急いで店内を見回し、道場で普段から振りなれている、六尺の樫の棒を手に取った。少し考えて、ヌンチャクもワンセット束ねて制服のスカートに差し込む。ずっしりと重い本物のヌンチャクだ。何度も師範から借りて練習したことがあるし、威力も十分で役に立ちそうだ。
非常時とはいえ、お金を払わずに黙って品物を持っていくのは気が引けるが、あいにく持ち合わせもなかったので、名前と連絡先と、一言お礼を書いたメモをカウンターに置いた。
(こんなことしている場合じゃなかったかな。急がなきゃ!)
ふと、外に意識を向けると、警察のパトカーからと思われる放送が、繰り返し流れていることに気が付いた。
「緊急事態です! 現在、この区域で原因不明の病気の患者が、無差別に人を襲う事態が発生しています。大変危険です! 住民の皆様は、今すぐ家の中や、近くの丈夫な建物内に避難し、鍵をかけ、絶対に外に出ないでください! 繰り返します――」
遠ざかっていくパトカーからの警察官の声も、こころなしか震えていたようだ。とはいえ、警察が動き出していることが分かり少しほっとした。しかし、この区域とは一体どの辺りまでなのか。美空は恐る恐る店の外に出てみた。
外の状況は、あまり変わっていないようだ。叫び声をあげて逃げまどう人や、ズルズルと内臓を引きずりながら徘徊している何体かのゾンビ。心なしか、ゾンビの数は増えているようだ。まだ小学生ぐらいの、ランドセルを背負った、血まみれの少年のそれが目に入る。片手を食い千切られており、腹がぽっかりと空洞になっている状態でのろのろと歩いている。その姿が弟と重なり、美空は吐き気を必死で抑えた。
空は少しずつ暗くなり始めている。夕闇の中でゾンビ達に襲われたらと思うとゾッとした。急いで家に帰りたいが、この状況で路線バスが動いている可能性は低いだろう。美空は少し考えて、家に向かい大股で走り出した。
「ひいっ! 誰か助けて!」
美空は近くで聞こえた叫び声に足をとめ、左の路地に目をやった。その少し中ほどで、若い女性がゾンビに襲われて倒れていた。
エプロンをした、食品店の店員風の女性が、今にも首筋に食いつかれそうになっており、必死に腕を振り上げて防いでいた。
美空は何も考える余裕もなく走りよると、今にも食事を始めそうなゾンビの頭に向かって、手に入れたばかりの棒を振るった。ほとんど無意識だったが、しっかりと地面を踏んだ足から順に腰、肘が回る。
遅れて走り出ていく棒の先に、すべての力が集中するのが分かった。そのまま、棒を引き絞るような気持ちで叩きつけた。
鈍い音がして、ゾンビの頭が揺らぎ、動きが止まって崩れ落ちた。だが、少しするとなおも頭をもたげて、手を伸ばして女性の方ににじり寄る。
「うわああっ!」
美空は無我夢中で叫ぶと、ゾンビの胸のあたりを蹴り飛ばした。仰向けに転がったゾンビの眼に向かって、棒を思い切り突き立てる。
気だけがはやり、なかなか思うように突き通せない。先が丸い棒は頭蓋骨の固い骨に阻まれ、何度も滑った。ようやく、棒の先がゾンビの目の奥にめり込むのを感じ、体重をかけて押し込んだ。
嫌な音と共に、中から何か液体が流れ出た。ゾンビの動きがようやく止まる。
棒を引き抜くと、その先に灰色と赤黒い色をした、何かが混じりあったような物がこびり付いてきた。
美空は、棒を放り出し、胃袋からこみあげたものを激しく地面に吐いた。
(人を……人を殺した)
映画でゾンビが殺されるのを見るのとは訳が違った。そもそも、本当にゾンビなのかも分からない。ただの病気で、実はまだ治療すれば元に戻る『人』かもしれないのだ。
美空は急に恐ろしくなり、地面に手をつくと、胃の中が空っぽになるまで吐き続けた。
「あ、あの……ありがとう。大丈夫ですか?」
女性が美空に声をかけてきた。
ようやくまともに息が出来るようになった美空は、その声に顔を上げた。
「大丈夫です……多分。あなたも怪我は無いですか?」
美空は口を拭って答えると、その丸顔の女性に近づいた。
「一体、何が起きたの?」
女性は呆然としつつも、自分の体を見回した後、ゾンビに目をやると、その気味の悪さに身をすくませつつ立ち上がった。
「私にも分かりません。でも……多分これは、ゾンビだと思います」
美空が倒したゾンビを顎で指しながら答えると、女性は目を丸くした。
「ゾンビ? あの死人が動くとかいう、あのゾンビ?? そんなことって……つっ」
女性は小さく声を上げると、左手の先を持ち上げた。少し血が出ている。
「痛い。ちょっとだけ怪我したみたい。そういえばさっき、その倒れているやつに、少しだけ噛みつかれた気がする。必死だったから、あんまり覚えてないけど」
美空は、その女性の言葉にはっと息を飲んだ。
(今、噛まれたって言った?)
今までに観たゾンビ映画で、奴らに噛まれて助かった登場人物はいない。噛まれた直後に、仲間から噛まれた手首の先を鉈で切断された人物一人を除いては。
噛まれた女性の手は、すでに青黒く変色し始めているようには見えないだろうか。
無意識に美空は後ずさりした。今にもその目の前の女性がゾンビと化して襲ってくるような気がする。
「わ、私行かなきゃ……母と弟が家で待って……」
美空は、言い訳するように口ごもった。すぐにでもその場から逃げ出したい気持ちと、必死に助けた女性を、その場に残していく罪悪感との板挟みで、どうしたらいいのか分からなくて泣きたかった。
だが、優しそうな丸顔の女性の口からでた言葉は、意外にも気丈なものだった。
「うん、行ってください。私もお店に残して来た父と祖母が心配だから、何とか一人で戻ってみる。あなたまだ学生でしょう? 怖かったでしょうに、見ず知らずの私を、あんなに必死になって助けてくれて本当にありがとう。忘れないわ」
彼女は小さくぺこりと頭を下げた。
周りを警戒しながら、足早に去っていくその背中を見送り、美空はいつの間にか流していた涙を拭いた。彼女があのままゾンビに変化しないで、無事に店に辿り着いてくれることを願った。
(さあ、今度こそ帰ろう)
美空は前を向いて、再び家のほうに向かって走り始めた。
商店街を出て、美空の自宅マンションが建つ住宅地に着くまで、比較的人通りの少ない川沿いの道を選んで走って帰ったこともあり、商店街で見たような騒乱には出会わなかった。途中一度だけ中年の男のゾンビらしき姿を見かけたが、襲われるようなこともなく、あっさりとやり過ごすことができた。
もしかすると実はそれもただの浮浪者で、ゾンビの発生は恐れるほどは広まっておらず、あの商店街が特別だったのかもしれない。
警察も動き始めていたことだし、あの商店街の周辺だけの出来事として終わる可能性もあるかもしれない。もちろん当分は大変な騒ぎになり、テレビも新聞もニュースでもちきりになるだろうが。
もしそうなら、美空がさっき女性を助けた時の行動はどうなってしまうだろう。仮にも元人間だったゾンビを棒で突き殺したことが、後から問題となったりはしないだろうか。誰かに見られていたとも思えないが、もし見られていた場合、あれは正当防衛になるのかどうか。美空は急に不安になった。
しかし、川沿いの道路を離れ、自宅のある小さな住宅地に近づいたところで、その不安も無用なものとなった。住宅地からは、いくつもの悲鳴らしきものが聞こえてきた。美空は走る足を速めた。
道中の静けさが嘘のように、住宅地の中は大変な混乱となっていた。悲鳴があちらこちらから聞こえ、所々では家から煙らしきものも上がっていた。道路には走って逃げている人々もいれば、血にまみれた衣服の残骸らしき物が、ところどころ散らばっていた。近くの住宅からは、ヒステリックに叫ぶ犬の鳴き声も聞こえてくる。
いたるところで、ゾンビがうろついているのも確認できた。道端で死んでいる住人の腹に食いついてる奴もいる。
近づいてくるものの気配にハッとして顔を正面に向けると、一体のゾンビが美空に向かってくるところだった。なんとなく見覚えのあるその男のゾンビを、美空は棒の一振りで吹っ飛ばした。一瞬ひるんだ後、さらに手を伸ばしてくるゾンビの頭に、再度強烈な一振りを叩き込む。
(今の確か町内会長のおじさん? し、死んではいないよね……)
罪悪感に苛まれつつも、後を見ずに家のあるマンションに向かって走った。
美空は自宅の部屋のある、マンションのロビーに入った。オートロックもなく、古いタイプのマンションの入り口には、すでにゾンビは何体もうろついている。
一機しかないエレベータと、その隣の階段に辿り着くには、彼らを全てやり過ごさなければならない。しかも、すでに気づかれてしまっているようだ。ゾンビ達はゆっくりと美空に向かって歩き出していた。三、四体もいるゾンビを全部相手にするのはさすがにゾッとする。
美空は少し考えて、外を回ったところにある非常階段に向かった。そのあとをゾンビ達がゆっくりとついてくる。
非常階段のドアは、細い鉄のチェーンと小さな南京錠で鍵がかかっていた。だが、おそらくもう十何年も交換してないのだろう、それは錆と腐食でボロボロになっていた。
固い棒をチェーンに通して、てこの原理で力いっぱい引いてみると、幸い二、三回でそれはちぎれて下に落ちた。
非常階段を部屋のある三階まで一気に駆け上がる。途中ゾンビはいなかったが、三階に着いたところで、これまた見覚えのある中年の女ゾンビが出迎えた。このゾンビをどうにかしないと、部屋には辿り着けない。
ゾンビに少し慣れてきて、段々面倒になってきた美空は、はすに構えた棒でゾンビを押し返そうとした。だが、細い小柄な中年の女のゾンビとしては、異常に力が強かった。気を抜くと押し倒されそうだ。どす黒くそまった顔と目がこちらを見つめながら、口を開けて美空に噛みつこうとしてくるのが不気味で気持ち悪い。
美空はクルっと体を入れ替えて、非常階段のほうに押していき、そのまま女ゾンビを非常階段から転がり落とした。同じ階の住人だったかもしれないし、頭をたたき割るのはさすがに気がひける。
その出来事以外はフロアは意外と静かだった。ただ人の気配は感じられなかった。すでに皆どこかに逃げるか、部屋にじっと隠れているのだろうか。
美空は自室の部屋の鍵を開けて中に飛び込んだ。
「お母さん! 慎吾!」
慌ただしく呼びかけるも、部屋は電気も消えており、母と弟の気配はなかった。慌てて部屋のドアを閉めて鍵をかけると、電気をつけて部屋の中を見回す。部屋の中に、ゾンビが入り込んでいたような形跡はなく、ひっそりとしていた。小さなダイニングのテーブルの上には、いつもなら米が炊きあがっているはずが、スイッチの入っていない炊飯器が置かれている。これから夕食の準備をするところで何かがあり、母は慎吾と、もしかしたら自分も探しに外に出たのだろうか。
相変わらず電話も通じない。テレビをつけてみたが、非常放送のような模様と、危険なので外に出ないで自宅に留まっているようにとのテロップが流れているだけだ。美空は膝を抱えて泣き出した。どうしていいか分からなくなってしまった。外はもうかなり暗くなっていた。
「お母さん……」
美空は落胆のあまり、床に座り込んでしまった。
そのまましばらく泣いていたが、ベランダから何かを叩く音と、何か声が聞こえるのに気が付いた。
慌てて立ち上がり近づくと、隣の部屋のベランダから音と声がしているようだ。聞き慣れた若い女の声だ。
「立花さん? 誰かいるの?」
ベランダ同士の仕切りの板を叩きながら、誰かが叫んでいた。
隣には塔子という、一人暮らしの女子大生が住んでいた。高校受験の時、何度も勉強を教えてもらったり、母が仕事の時などにたまに食事に呼ばれ、部屋で一緒に映画を観たりと、割と親密な交流があった。
美空は急いで窓を開けてベランダに出た。
「塔子さん! 美空です、無事だったんですね!」
美空は嬉しさもあり、半泣きの状態で声をかけた。
「美空? よかった! ベランダからそっちの電気が付いたのが見えたの。そっちに行っていい?」
返事をした塔子の声も嬉しそうだ。
「塔子さん、今は廊下に出ないほうがいいです! 私、今からこの仕切りの板を壊すので、ちょっと離れていてください!」
美空はそう叫んだ。
「分かった。離れたよ」
その塔子の返事を聞いた美空は横を向き、右膝を深く抱え込むと、強烈な後ろ蹴りを繰り出し、固いかかとを仕切り板に叩き込んだ。元々割れやすい素材の板は、鍛えられた美空の蹴りの前に、たやすく割れて穴が開く。美空は肘を使って残りの板を壊し、人が通れるサイズまで穴を広げた。
空いた穴から、茶色の髪を後ろで結び、白いシャツとロングスカートに身を包んだ塔子が現れた。ほっそりと小柄だが大人びた雰囲気の、なかなかの美人だ。
「塔子さん!」
美空は泣きべそをかきつつ、入ってきた塔子に抱きついた。
「すごい。さすが空手屋さんだ。てか重いって!」
塔子は微笑みながら美空を受け止める。こんな時なのに、塔子からは香水のいい香りがして、汗をかいている自分が恥ずかしく思えた。そしてその抱擁に安心してまた涙が出てきたのだった。
二人は美空の部屋に戻ると、テーブルに座り、お互いに何があったか情報を交換した。塔子は、大学の講義が今日は休みだったらしい。部屋でテレビを見ていたら、テレビの急な特別放送でこの状況を知り、とりあえずそのまま部屋にこもっていたらしい。たまにベランダから外を見て、ゾンビ(塔子は病人と思っていた)が歩き回っているのを見て、また外の廊下でずるずると何か引きずる音がするのに、肝を冷やしていたそうだ。実家の家族や友達にも電話が通じず、困っているのは美空と同じだった。
「へえ。じゃあ、あのゾンビ? に食われて死んじゃうと、その人も同じになっちゃうんだ。映画みたいね。確かそんな映画を、一緒にDVDで観たことあるよね」
塔子は自分の部屋から持ってきたポテトチップスを、のんきに食べながら聞いた。おとなしそうな見た目と雰囲気に反して、意外と肝が太い女性だったようだ。美空も今まであったことを話した。ゾンビを棒で突き殺したことはさすがに省略する。
「はい。でも多分、噛まれただけでも駄目なんじゃないかと思います」
美空は答えた。噛まれてすぐにゾンビ化したところを見たわけではないが、ゾンビのお約束でもある。
だがそもそもの始まりは何だったのだろう? あの商店街の男のゾンビが発端とも思えない。おそらくウイルスか何かの発生で、あちらこちらで同じような事が同時多発的に起きていたのだろう。美空は商店街で急に振り出した夕立を思い出していた。あれが何か関係あるのだろうか?
大学で医学部に所属する塔子も、美空の話から、ウイルスのような何かだろうという見解だった。
「で、お母さんと、慎吾君を迎えに来たんだよね」
塔子は言った。
「はい、二人がどこに行ったか分かりますか?」
美空はあまり期待せずに聞いた。しかし、意外とはっきりとした答えが返ってきた。
「お母さん、慎吾君を探しに小学校に行ったはず。出かける時に、反対側のお隣さんに、そんなようなことを言っていたのが聞こえたから。美空が戻ってきたら、そう伝えるように言っていたよ。だいぶ焦っていたみたい」
塔子のその答えに、美空は顔を曇らせた。と、言うことは、途中もしくは小学校で、何かしらあって戻ってきていないのだ。
「でも、迎えに来た後はどうするつもりだったの?」
塔子の問いに、美空は困った顔をした。
「いえ……そこまでは考えてなかったです。とりあえず戻るのに必死だったから。お母さんたちは、私が守らなきゃって」
美空は答えた後に少し考えた。でも答えは一つしかない、小学校に行こう。待っていても何か分かったり、状況が変わったりするとも今は思えない。
「私、今から小学校に行ってみます」
美空は決心を口に出した。
「いやいや、せめて明日の朝まで待とうよ。もう外も真っ暗だよ? 危ないって」
塔子は慌てて止める。だが、朝まで待ったら手遅れになるかもしれないのだ。もうすでに手遅れになっているかと思うと、居ても立っても居られない。
「でも……お母さんと慎吾が、今どうしているかと思うと、とてもじっとしてられない」
うつむいた美空の目からぽとりと涙が落ちる。さっきから泣いてばかりだ。泣くな! と師範にまた怒鳴られそうだ。そういえば師範はどうしたろうか?
「でも、お母さんと慎吾君も、無事だとしたら絶対どこかに隠れたりしていると思うな。今の私たちみたいに。こんなに暗くなった今、外に出て行って、美空に何かあったらそれこそ二人を助ける人は、もう誰もいなくなっちゃうんだよ?」
塔子は美空の手に自分の手を重ね、優しく言った。
「でも――」
「でもじゃない」
少し怖い顔になって、塔子はテーブルを指の関節でコツンと叩いた。勉強を教えてもらっていた当時からの、怒るときの彼女の癖だ。
「明日しっかり二人を探せるように、まずは体を休めなきゃ。ご飯も食べてないんでしょう? 電気もガスも今のところ大丈夫みたいだし、今のうちに何か食べる物作ってあげるから、お風呂に入ったり、その制服も動きやすい服に着替えたり、必要な物も準備して明日に備えよう。私も明日一緒に行くから」
塔子は、最後はまた優しい声に戻ってそう言った。
塔子の言うことはもっともだった。美空は仕方なくうなずいた。
風呂場のシャワーからは、まだ熱いお湯が出た。これもいつまで続くかは分からない。美空はシャワーを浴びてさっぱりすると、ジーンズと動きやすいシャツに着替えた。さすがに、この状況でパジャマに着替える気はしない。塔子が隣の自宅の部屋で食事を作ってくれている間に、必要そうな物も準備しておくことにした。
大き目のリュックに、少しの着替えにタオル、1Lのペットボトルに詰めた水、チョコやクッキーなどの軽めの食料を入れた。サバイバル経験など無いので、その他に必要な物が思いつかなかった。せいぜい、包帯と絆創膏、消毒薬、懐中電灯程度だ。一応歯ブラシも入れておく。遠足の準備のようで、自分でも少し可笑しくなった。
武器になるかとナイフのような物を探したが、カッターナイフしか見当たらない。仕方なく台所の包丁入れにあった、牛刀のような丈夫な出刃包丁をタオルで包んでリュックに入れた。明日になれば警察の活動がもう少し活発になっているだろうか。外の様子も多少はましになっていて、そんな物を使う必要が無ければいいのにと思う。二人を探すのもいくぶん楽なはずだ。
思いつくだけの荷物を準備すると、さすがに少し疲れが出て和室の畳に転がって目を閉じた。そういえば先ほどの会話で、塔子は美空と一緒に行くと言っていた。
だが、美空は断るつもりだ。年上で精神的にも頼りがいのある塔子だが、ゾンビと向かい合って、戦ったり、対処できたりするとは思えなかった。本音ではついてきて欲しい気持ちはある。だが、万が一今日より事態が悪化していたら、塔子の命にかかわる。事態の収拾がつくのをここで隠れて待っていてもらおう。家族を見つけたら、後で迎えに来てもいい。
「ご飯できたよ? ああ、寝てたのか。やっぱり疲れてるんだよ」
その時、ベランダから顔を出した塔子が言った。
「寝てはないです。ちょっと考え事してました」
美空は、そう答えると立ち上がってベランダに向かった。
すっきりと片付いていて、女性らしい塔子の部屋のテーブルで、二人は塔子の作った食事を食べた。こってりとした肉野菜炒めと、白米と味噌汁がやたらと美味しい。
「これもいつまた飲めるのかな。買い置きなくてこれが最後だし、買い物できないときついなあ」
塔子は、肉を口に放り込んでから缶ビールを飲み干すと、缶を振りながらそう言った。
「明日には、警察や自衛隊が何とかしてくれているといいですよね」
美空は、心底そう願って、炊き立ての白米を頬張りながら答えた。だが、パトカーとそこから流れる放送を聞いたのは、商店街にいる間のたった一度だけだ。
「そうだといいねえ。でも、その割には外が妙に静かよね。パトカーとか救急車とかが走っている様子もないし。まあ、考えても仕方ないか。今日はもう寝ちゃって、明日の朝早く出て小学校に行こう」
塔子は言う。
美空は食べる手を止めた。明日は自分だけで行くつもりだと、今この場で言うか、塔子が寝ている間に、置き手紙してこっそり出ていくか迷っていたからだ。
美空が決心して箸を置き、口を開こうとした時だった。
「一人で行くとか言わせないからね?」
塔子の言葉に、美空はウッと声を詰まらせた。見事な『先の先』だ。
「言いますよ! 今、外に出たらどうなるか分からないんですよ?」
美空は口をとがらせて答えた。
それからしばらく説得の挑戦が続く。外の詳しい状況や危険さ。ゾンビの恐ろしさと、食われた人間の姿の凄惨さ。また、やむを得ない状況でゾンビを殺したことも話した。
だが、何を言おうと、のらりくらりと受け流す塔子。まるで、組手稽古での師範のようだ。どれだけこちらが強く撃って出ても、事もなげに力を逸らしてしまう。塔子が空手をやったら絶対強くなる。と、美空は思った。
結局、説得は失敗に終わった。
二人はその夜、非常時に備えて、行動しやすい衣服のまま、美空の部屋で布団を並べて眠った。一度だけ廊下で、何かがゆっくり歩いているような気配と、ドアを引掻くような音がした気がするが、疲れていた美空はそのまま眠りについた。そして、美空は夢を見た。母と弟を迎えに行くが、すでに二人ともゾンビと化しており、美空に向かって手を伸ばしてくる夢。
夢の中の母と弟は、うつろな目で美空にしがみついてくる。何度振り払っても、二人は執拗に、美空の柔らかい身体に歯を立てるべく、緩慢だが恐ろしい力で組み付いてくる。夢の中とはいえ、家族である二人を棒で殴り倒し、脳を破壊する気力などとても出なかった。疲れ切って力が抜け、もう動けなくなった美空を引きずり倒し、その首筋にとうとう母のゾンビが食いつき歯を立てる。
みるみる血が噴き出して床を濡らす。その足元からずり上がってきた弟が、異様な力で柔らかな美空の腹部に指を食い込ませると、そのままゆっくりと突き破る。恐怖と痛みで目の前が真っ赤になったところで、美空は初めて叫び声を上げた。そして家族にじわじわと食われながら、いつまでも喚き続けた。
「――そら――美空!」
その呼び声にハッと目を覚ますと、月明りでぼんやりと明るい部屋の中で、塔子が美空の身体に手をかけてゆすっていた。
「大丈夫? ひどいうなされかた。すごい声でずっと叫んでたわよ?」
塔子の心配そうな声かけにも、返事も出来ない。あまりにもリアルで凄惨な夢の衝撃に、美空は体を震わせるだけだった。
美空は、無我夢中で塔子にしがみついた。塔子の腰にしがみつき、声も出さずに泣きながら、何とかショックが遠ざかるのを待つしかなかった。塔子も美空を抱きしめた。
「よっぽど酷い夢だったのね……もう大丈夫……」
塔子がかすれたような声で囁くと、掛け布団を引き寄せ、美空を抱きしめたまま横になった。そのまま、美空が眠りに落ちるまで抱きしめてくれていた。
眠りに落ちる間際、ささやき声と共に、何か柔らかく温かい湿ったものが、美空の涙の残るまぶたに軽く触れ、しばらくそのまま押し付けられていたような気がしたのは、果たしてそれも夢だったろうか?
美空は怪訝に思いつつも、それが心地よく、今度こそ深い眠りに落ちていった。
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