第1話 新たなる地平線

 止まった地獄でひとしきり笑い終えた“ヤツ”は、目元に残った涙を指で掬いながら、口を開いた。


「ごめん、ごめん。脅かすつもりはなかったんだけど、君の反応が良すぎて、ついやりすぎちゃったよ」


 悪質な冗談らしいが、場所が場所だ。軽く謝られた程度で警戒が解けるはずもない。ヤツは小さく咳払いをして、語り始めた。


「さて──まずはようこそ、“狭間”へ。どこの狭間かって? 一つであり、すべてであり、そしてすべてと一つの間……そんな場所だよ。無理に理解しなくていい。そういうものだと思ってくれれば充分さ。ちょっと話が逸れたね。さて、君は今、“身体が死んだ状態”、つまり魂だけで存在している。理由は一つ、ボクと話して、今後をどうするか決めてもらうためさ。本来、選択なんて無いんだけどね……最近は多くてさ、困ったもんだ。まあ、ボクらは一であり全でもあるから、忙しくもあり、暇でもあるんだけど……」


 その時、不意に顔がこちらへとグッと迫ってきた。思わず目を見開く。


 ヤツは口元に笑みを浮かべながら続ける。


「このまま天寿をまっとうするか。それとも……新たな試練を背負い、“違う場所”でさらにその先を目指すかい?」


「し、試練? 違う……先?」


 言われた瞬間には、うまく飲み込めなかった。“違う場所”? “先”? 何を言ってるんだ?


 ヤツは少しずつ距離を取りながら、自分を中心に軽くステップを踏むようにして回りつつ話を続けた。


「そう、君はもう死んだ。どうしようもない即死さ。本来なら魂を抜き出して綺麗に洗って、細かく刻んで……いろんなものに再構成する。まあ、リサイクルってやつかな。君たちの時間軸で言えば、1分1秒ごとに無数の命が死んで、そしてまた生まれてくる。うんざりするくらい、ね。……そういえば、知ってるかい? マンボウって数億個の卵を産むんだよ。ね? この世界の忙しさが、ちょっとは伝わるでしょ?」


「マンボウって……」


 意味はよくわからないが、要するに――死んだ自分は、ひとつの存在に生まれ変わるのではなく、細かく分解されていろんなものに再利用されるらしい。魚が出てくるくらいだから、虫や菌にもなるのだろう。いわゆる輪廻転生らしいが、スケールが桁違いだ。


「話が逸れたね。まあ、普通ならそうなるんだけど、今回はちょっと例外。君には“選ぶ”権利がある。ボクが勝手に決めることもできるけど、それじゃつまらない。申し訳ないけど……最近、同じことの繰り返しで飽きちゃってね。だから、たまのこの機会、楽しませてもらえないかな?」


「楽しむって……嫌な予感しかしないんだけど」


 超常的な存在の“暇つぶし”。冗談でも笑えない。“嫌なら刻むけど?”なんて選択肢を出されても、喜ぶのは相当な変態だけだろう。


 わからないからこそ、ひとつ問い返す。


「こっちに……何かメリットはあるのか?」


 強くは言えなかったが、“どうせもう死んでる”という事実が、ほんの少し背中を押してくれた。


 ヤツはその言葉に立ち止まり、うーん、と考え込み、困ったように答える。


「さあ? “ある”と言えばあるし、“ない”と言えばない、かなぁ」


 想定外の答えに、言葉を失う。あるのか、ないのかも分からない。じゃあ、どうやって判断すればいい?


 困惑するこちらを見て、ヤツはうなりつつ説明を加えた。


「そうだなあ、わかりやすく言うなら──君が今までプレイしていた“人生”というゲームを終わらせて、まったく初見の新作ゲームに切り替えるようなもの、って感じかな。初見だから、やってみないとわからない。神ゲーかもしれないし、クソゲーかもしれない。プレイヤーは君、ボクは観客として見守るってわけさ」


「つまり……異世界転生的なアレってことか?」


 ヤツは人差し指を立てて、にこやかに答えた。


「それ、それ! そんな感じ!」


 ようやく話が飲み込めてきた。確かに、メリットやデメリットで測れるものじゃない。ヤツ自身が「わからない」と言うのだから、少なくとも環境的に有利ではないのだろう。無双系のチート転生ではなく、地道な試練を前提とした再スタート。だからこそ──


「ゲームに例えるくらいだし、やっぱりこの世界とは“違う”のか? 能力的に、特に」


 ヤツはニヤリと笑う。


「いいね、その中二病っぽい質問。まあ……“何もない”とは言わないけど、詳細は始めてからのお楽しみ、ってことで」


 未練がないわけじゃない。むしろ、たくさんある。


 だけど、細切れにされて世界に還元されるくらいなら──


「転生しか、選びようがないでしょ!」


 そう叫んで、ヤツに手を伸ばす。


 試練を受けて、楽しませろ?


 ──上等だよ!


「お前の“試練”、むしろこっちが楽しんでやる!」


 ヤツは満面の笑みでその手を取り、言った。


「“更なる先”……魅せてもらうよ? ああ、久方ぶりの楽しみだ。特等席で、君のすべてを見せてくれ」


 そして、景色は一瞬にして“無色”へと変わった。


「さて、まずは身体を作り直さないとね」


 軽くそう呟くと、ヤツは両手でこちらの肩を掴んだ。


「さあ、“最初の試練”の始まりだよ」


「最初の試練って、なにっ!? い、はべっ!? ふへっががが!! あだ、がだばばっっ──!」


 痛いのか、熱いのか、寒いのか、叩かれているのか、潰されているのか、引き延ばされているのか、抉られているのか──もはや何も分からない。


 ただ一つ、これだけはわかった。


「えぐっ、がらはか、ぐそっ! ばだろがぎっ!? ばでぐうぅぅぅ──!?」


 叫ばなければ、壊れてしまう。


 視界はなく、意味不明な音が耳を埋め尽くし、全身の穴という穴から何かがにじみ出ていくような感覚。吐き気、寒気、熱、痛み、嫌悪……すべてが混ざり合い、無限の不快に溺れながら。


 やがて、“自分”はその先に立っていた。


 知らない地平線を、ただ見つめて。


「こ、ここは……?」


 一瞬か、それとも永遠か。思い出したくもない“あれ”を、自分は意識的に忘れることにした。


 遠くにうっすら山のような影が見える。森らしきものもあるが、全体的に見渡す限り“何もない”。


 ぼんやりとその先を眺めていると、背後から小さな音が。振り向けば、にこやかに拍手をしている“あのヤツ”がいた。


「おめでとう。無事に壊れず、身体を再構築できたね」


 言われて、自分の身体に触れる。


 最後に触った自分の姿とは、たぶん違うが──おそらく、問題はなさそうだ。


「これ、一応“生身”ってことでいいんだよな?」


「ああ、その通り。紛れもなく君自身の身体さ。潰れた魂を逆行させつつ、この世界の空気やら構成要素を取り入れて作った、正真正銘──異世界からの来訪者ってわけ」


「異世界の……来訪者……」


 改めて口にすると、まるで夢のように現実味がない。……でも──


「正直、こうならなくて“よかった”よ」


 ふう、と深く息を吐きながら、ぼそりとそう呟いた。その先に広がる“新たな地平線”に、嫌な予感だけが、じわじわと膨らんでいく――。

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