マリアたちの乳房ー融合する私たちー

稲子 東(トウゴ ハル)

第1話 マリアたちの乳房ー融合する私たちー

 法が社会を秩序づけたから? それは逆かな? 社会形成のために法を必要として以来と言った方が良いのかな。言い方を変えるね、法を操る権威者が登場してから力のない多くの弱い人たちが身を守るために、つまり、一般大衆がその威光とルールに追従してきた。その結果として、様々な身分と差別が顕在化してきたという事実をどうして誰も人類史の途中で問い詰めてこなかったのかな。社会って、どんな世界を構築しようというちゃんとした目標を持ったことがあったのかな。何の制約も柵もなく幸せに暮らしていた人々の生活はそれ以前からあったんだよね。社会的権威だとか威光だとかに関心を示さないそれらと無縁な人々は切り捨てられたというわけ? 今更、法の枠組みを修正して、世間基準から外れた人たちを仲間に入れて体裁を取り繕うとしている現代社会。そして、いかにも自分は正義なのだ、慈悲深いのだと彼らはそっくり返っている。そんなことを高校生の日に考えた自分がいた。

 私は自分が何者か定かではない時期を長く過ごしていた。肉体を持つということ。この三次元的空間に存在するだけで、息苦しさを常に感じていた。その芽はすでに幼稚園に入園する以前から始まっていたように思う。もっと言えば、記憶にはないけど生まれ落ちたその瞬間からだったかもしれない。多くの柵に囲まれ、多くの鎖に繋がれ、慣習に押さえつけられていた小さな芽が中学入学のときから如実に私の心身の内側から滲み出し、その後、洪水となって溢れ出し、それは大きく醸成し、発酵し、大きく花開いてしまった。ただし、本当に限られた人にしか私の本当の姿を晒したことはないはず。自分という「私」に違和感を長い間持ち続けていた。でも、私は幸せなことにやっと本物の「私」に出会えたかな。


 いつもと変わらない朝がやって来た。窓から入る日射しが僅かに開いた遮光カーテンの隙間から入ってくるのだが、今日の私の眼には眩しく、強く感じた。お互いのルームウェアのフリルが擦れる音がベッドの上の二人の目覚めを確認していた。

「おはよう」と、いつものように優子に朝の挨拶をしながら、自分の髪を額からかき上げ、後ろでゴムを使ってゆるく縛る。

「おはよう、アキ」と、彼女は上半身を起こす。彼女のウルフショートの前髪から覗く瞳が優しく輝いている。

 私もベッドの上で座り直し、優子の方を向く。私たちは、お互いにしばらく無言で見詰め合う。まだ、私は微睡みを引きずっている。

「した、っけ?」と、心地良い疲労感を抱えた私の身体が唐突な問を彼女に向けて発せられた。が、優子は唇の端を上げて、伸ばした手を私の首筋に当てて、異なる返事を返した。

「新しいパスポートが発行される日ね。」

「うん、本来の性に、ね。」

 優子の不思議で、危うさを湛えた神秘的な微笑み。それは少し邪悪さが漂う聖母の微笑み。いつものように彼女の顔、上半身を眺め、ベッドの上で強く抱擁し、キスをする。お互いの舌を濃厚に絡ませる。すると、それをわざと邪魔するかのように、隣の部屋から四つになるおませな愛娘の美雪が顔を出す。私たちは正式には婚姻を結んでいない。今度、東京都のパートナーシップ証明を貰い、シングルマザーである優子と美雪と家族になろうと計画している。

「ママたち、がっこうにおくれるよお。もう、あさごはんたべたから、ジジとわたしはようちえんにいくね」と、美雪は私たちに自らのこれからの行程を的確に告げるのもすでに毎日の習慣となっていた。

「ゆうママ、アキラくんはもうすぐおばさまといっしょに日本にかえってくるよね。はやくあそびたいなあ。」

 私たちは、今、リアルに女子大学院生カップルだ。経営学研究科博士前期課程の二年目に入った。優子と私は、学部入学時からの付き合いだ。彼女は、父から継いだ渡辺ビルディングのオーナーであり、お店スナックYの経営者で、私はそのお店の雇われママをしている。私はそれ以外に、実家の小規模な商事会社の常務に就任してしまった。それが私たちのリアルな日常である。


 大学に入学して間もない頃、まだ新しい環境に順応していないうちに様々な学校関係の手続きをこなしていくと、体力的にも気力的にも下降していき、私は注意力散漫になっていたように思う。ちょうどゴールデンウイークに世間が突入する前頃だった。そうだ、単位の履修登録の期限が迫っていた頃のこと。私は自分の財布など貴重品をごっそりと何処かに置いてきたようだった。それらをどこに置き忘れたのか全く思い出せず、取り敢えずキャンパスの中で紛失したのかもしれないと思い、これまでに使用した各校舎の教室を再び訪れて机の下を覗いたり、果ては学校内の花壇や草むらの中、人が座っているベンチの下をのぞき込んだりしていた。さらには芝のサッカー競技の行われる何面かあるグラウンド周辺をもウロウロしていると声をかけてきた女子がいた。彼女は、私の探し方がどうも気になっていたようだ。先程から同じシルエットの彼女の影がちらちらと視界に入ったり、自分のフレーム、つまり視界からフェードアウトしたりしていた。

「どうしたの?」

 私は、彼女の姿形、服装、そして独特などこか人を包み込むような穏やかなオーラ、それでいてどこか冷たい鋭利さを感じ取ったので、てっきり彼女は上級生に違いないと思い込み、敬語でその問に返した。

「はい、自分の不注意から財布を落としてしまったようです。それを探しているところです。お声をかけていただいてありがとうございます。たぶん、もうすぐ見つかると思います。」

「あなたは、自分がどこで失くしたのか覚えてないの?」

「覚えているような、いないような。ええ、本当は記憶にないかもしれせん。」

 彼女は呆れたように、私に対して次のように断定的に言った。

「それじゃあ、見つかるわけないじゃない。しょうがないなあ、一緒に探してあげる。」

 これが、優子さんとの最初の出会いだった。彼女は、本当に親身になって探してくれた。私が学生食堂だというとそこへ一緒に行き、食堂の調理師さんに尋ね、購買部で教科書を買うときだったと言えば、購買部の店員のおばちゃんに尋ねてくれた。私は、そのときも彼女を上級生であると勝手に思込んでいたので、恐縮しっぱなしで、何もできない幼稚園児のように母親に付いていく子供といった有様だった。

「どこにも無いわね。本当に、財布を持って出てきたの?」

「はい、自分としては間違いないと思うのですが……。」

 自分でも情けなくなるくらい、彼女の時間を潰してしまった罪悪感がすでに私の心の底から湧き出していた。

「じゃあ、さあ。あんた、これからどうやって過ごすわけ?」

「さあ?」

「さあ? じゃないよね。」と、彼女は少し咎めるような眼差しを私に送ってきた。それに対して、「はい」と心許ない中身のない答えをするしか私にはすべがなかった。

 私は関西のとある地方都市から、上京してきた。したがって、私は親から仕送りをしてもらった分と、これからバイトを探し、その稼ぎを豊かな生活と娯楽費等に当てようと考えていた。今回分にはゴールデンウイークの帰省の旅費も含まれていたので、大きな額を失ったことになるかも。彼女の助言通り、まず、私は学校の学生生活課に行き、続いて最寄りの交番へ行き遺失物の届け出を済ませた。このときも私が主導的に動くのではなく、彼女が、私の言動の鈍さを補う形でテキパキと働いてくれた。私の頭の中は、独り暮らしの開放感と身の自由さに大きく気を取られていて、日常的な事物への配慮についてはうまく機能していなかったらしい。

「本当に、今日は大変お世話になりました。あのう、夕食でも奢らせてください。」

「あんた、何言っているの? あんたは、財布を落としたって、言ってたでしょう。」

「ああ、そうでした。」

やはり、私の思考回路はうまく機能していないと認めざるを得なかった。

 私は、とにかく、彼女の名前と連絡先を聞いておいて、後日、このお礼をしようと咄嗟に考えた。

「あのう、では、後日、今日のお礼をしたいので、あなたのお名前と連絡先を教えてください」と、私は曇りのない、すなわち下心のない素直な表情で彼女に感謝への返礼をしたい旨を告げた。すると、彼女は、次のように提案した。

「じゃあ、その代わりに、これから付き合ってくれない。私の恋人役を演じてくれないかな? それで、チャラでいいよ。」

「エエッ?」と、困惑した顔で私は、自分の瞳を大きく見開いて彼女の顔を見入った。

 そのとき、私はまじまじと彼女の顔を見たのである。彼女は、私から見れば女優のように目鼻立ちがすっとしていて恰好いいし、小顔。スタイルもモデル体形ではないかと思われるほどスレンダーだ。うむ、胸は豊かとはいえないかな。服装も、彼女の特徴を良く表わしていた。白いカットソーにデニムのジャケットを羽織り、ボトムスもデニムのスキニーパンツを履いていて、美脚が際立っていた。スニーカーも白く青い紐が印象的なものだった。一点、私が気になっているのは身長だった。私の身長は百六十二センチしかなく、これまでの人生でもコンプレックスを抱いていた部分である。一方、彼女は私の身長より高く、どう見ても約百七十センチ以上はある。だから、彼女の顔を見るときは少し見上げる状態となった。こんなにも身長差があると、傍から見れば滑稽なカップルだろうな、と私は自然と想像した。

「その恋人役ですが、私では不釣り合いかと思うのですが」と、私は彼女の申し出を断ろうとした。

 彼女は、私が気付いたであろう身長差を察知したのか、少し目線を降ろして言った。

「そんなことないよ。身長差に何の障害があるの。そんなカップルなんてこの世に沢山いるし。そう、恋人役をやって、今日のあんたの不運を一掃するって考えたら、面白いと思わない?」

 私は、彼女の提案が奇抜だとはいえ非常にユニークだと思ったので、経験してみようと頭を切り替えた。まさに単なる好奇心からそれを受け入れることにした。何か自分の学生生活を大きく変えてくれる期待を私は秘かにそこに持ったことは間違いない。

「私は、渡辺優子。だから、ユウコって呼び捨てで呼ぶのよ。じゃあ、呼んでみて。」

「ゆーこさん」

私の音程は突拍子もなく上擦っていた。それもそのはず、いままでに女性を呼び捨てにしたことはなかった、かな?

「馬鹿。ユウコって、甘く、優しく、愛情をこめて呼ぶんだよ。」

「では、ユ・ウ・コ」と、何度も声に出すのであるが、音程やイントネーションに対して彼女に幾度もダメ出しをくらい、その度に厳しく直された。それも場所を移して、ある喫茶店のテーブルを挟んでのことだった。これがどんなに恥ずかしいことか、私が彼女の名前を呼ぶたびに、周囲のテーブルのどこからともなくクスクスと笑い声が聞こえてきていたからだ。私は思い切って、彼女にこれから行う役柄の理由を質問した。

「なぜ、あなたの恋人役をやらなくてはならないの?」

「決まっているじゃない。今日の私の時間を消費させたお返しよ。」

「それは分かりますけど、なぜ恋人役を演じなくてはならないか、ということです。」

 すでに、辺りは薄暮の時間となっていた。彼女は腕時計に目を走らせ、「行くよ!」と言うとスレンダーなボディが私の視界を遮った。私は彼女に促されて、付いていくしかなかった。耳触りの良い恋人役をあてがわれたが、状況を説明されない中での訳の分からないままの本番へ。ワンテイクで終わる一場面へ。

 都庁に程近い、新宿の中央公園のポンドの水が流れるそばの階段を上がっていくと、前方のベンチに誰かが腰掛けているのが眼に入った。その姿はどうみても小柄で、女性のシルエットだった。私たち、優子さんと私は、恋人つなぎの手を揺らしながらそのベンチの方へ少しずつ歩み、近づいた。私は、少し心の何処かでホッとしていた。ある青春ドラマみたいに、恋人役で行ったらそこに反社会的勢力の屈強な大男がいて「俺の女に手を出したな。落とし前をつけんかい」などといちゃもんをつけられてコテンパンに殴られる、という最悪のシチュエーションではないなと安堵した。

「真希、元気してた?」と、優子さんのカジュアルであるが、どことなく冷めた声かけ。

 マキと呼ばれた女性は立ち上がった。そして、彼女は私の顔を舐めるようにじろりと見た。

「優子が言っていた恋人って、コレ?」と、マキという名の女性が半ば呆れた調子なのだが、棘のある声色で言い放った。「コレとは失礼な」と私は内心、穏やかならぬ心持ちだ。

「優子、あなた気でも狂ったの? こんな可愛い子が好みだったの? あなたという人を見そこなったわ」と、真希は言い終わるなり、私の左頬に強い平手打ちを一発放った。

「痛い!」と、私は思わず大きな声を発した。そう、心底痛い一撃に憎しみが込められていたようだった。多分、生まれてこの方、私は誰にも頬を打たれたことはないはず。これが初体験。

 真希という女性は上体をくるりと反転すると、その後、私たちに背を向けて駅に通ずる地下道に向かって少し前屈みになってから、小走りに去っていった。優子さんは、どこか安心した表情を浮かべた様に私には思えた。しかし、私の左頬は痛みと熱を帯び始めていた。自分がそう感じているのだから、それは間違いない事実だった。

「ありがとう。えーと、誰だっけ?」と、優子さんが自分の失念を隠す様にお道化た笑顔で尋ねた。

「アキラです。加賀美明です」と、私は仏頂面をして不機嫌に彼女の人をおちょくっているが、憎めない笑顔に応えた。確かに、相手の名前を告げられただけで、自分の名前を名乗っていなかったことに今更、自分の天然さと阿保さ加減に気づき、自己嫌悪の感情にも囚われていた。

「アキラね。面倒くさいから、アキでいいよね。」

「いいですけど。なぜ、私が殴られないといけないですか?」

 そうだね、と言いたそうに優子さんは包み込むような瞳で頷いて、私を知り合いの店だというスナックへその事件の後に無理やり引っ張っていかれた。私は東京に出てきて間もないので、まだ大都会の、それも新宿という怪しげな多様な人種が屯する街の酒場にはまだ入ったことがなかった。チェーン店ならいざ知らず、やはり、大都会の名の知れぬ繁華街にある某お店には田舎者はなかなか独りでは入る勇気がない。優子さんが古びた木製の扉を開けると、すぐに声がかかった。

「お帰りなさい、優子。」

「ただいまー、パパ。」

「お店では、『ママ』でしょう。いつも言ってるでしょう。あれ、その子、どこかで見たような……。」

 私の頭は混乱していた。カウンターには中年のママ。オカマのマスター? パパはママ? 一体どういう関係なんだ? 私の頭の中は軽くパニックになっていた。ママは赤いティアードドレスを着て、口紅の濃さとまつ毛が特徴的に際立っていた。ただ、結構目鼻立ちが整っていて、どこかそのママと優子さんは似ていた。この二人は親子関係?

「この子、アキって言うの。アキにご飯食べさせてあげて」と優子さんはママに頼むと、店の奥のスタッフオンリーと書かれたドアの向こうへ一度消えた。

「確か、あなた、一度ここに来たよね。」

 ママは私のことを記憶しているようであったが、私には皆目見当もつかなかった。

「そうだ。オムライスの娘、じゃない?」と、ママの私に対する表情が優し気になるのがよく分かった。しかし、私の思考はそこまでのことを思い出せず、このようなお店に入ったこと自体も上京して一度もなかったはず。ただ、ママの笑顔とオムライスが記憶のジグソーパズルのパーツとして、一瞬であるが光ったような気がしただけだった。

「あのう、私、帰っていいですか?」と、私は今後の自分の人生の展開が大きく変わるのではないかという期待から反転して心細くなっていた。この怪しげな現実状況から退散する道を選ぶことにしようと決心したのだ。

「帰る? それは無理。優子に叱られるからね。アキって言った? どういう関係? それにあんたどうして頬が赤く腫れてるの? あんた私の娘に手を出したね。」

「そんなことしてません」と、私は痛む頬を膨らませて否定した。

「あの娘は、皆に好かれるからね。それに、私に似て、世話好きなところがあるのよね。」

「それはよく分かります。」

 私は、優子さんが私の貴重品探しを学校で手伝ってくれたことを掻い摘んで話した。

 確かに、他人の探し物に半日とは言わないまでも、紛失物の届け出まで付き合ってくれる人間が、この大都会にいるとは私は思ってみたことがなかった。あるテレビ局のニュースで、「日本は、失くしたものが出てくる国」ということで、世界一安全な、優しい国ということを報道していたことを田舎にいるときに目にしてはいたが。

 優子さんが、扉を開けて再度、私の目の前に立った。彼女はエプロン姿で現れた。

「アキさあ、可愛いわね。うん、可愛いよ。ねえ、ママ、この子をお店で使うってどうかな?」

「そうねえ、優子が言うんだから、いいかもね。あなた……、絶対、以前にお店に来たことあるよね。そのときと髪型変わってない?」と、ママの自らの記憶への念押しの発言とともに彼女の提案に同意する明るい表情がそこにはあった。

 私は、とにかく、この自分を置き去りにしている彼らの自己中心的な不思議な空気感からの離脱を図ろうとしていた。この得体のしれない時空からの一刻も早い脱出計画の構想はますます膨らんできた。私が以前このお店に来たことは……。そこまで私は思いを巡らせているとき、優子さんとママがカウンターの向こうで後ろを向いた時だった。

「失礼します」と私は言葉を発すると、素早く頭をぺこりと下げ、スナックのドアを開けた途端だった。大柄な人物と勢いよくぶつかった。私の前に大きな壁が立ちはだかった。

「馬鹿野郎、どこ見てんだよ。」

 そこにはプロレスラーと見まごう、二メートルはあるかと思われる中年の筋骨隆々男が立っていた。私は、その男に首根っこを掴まれて軽々宙に浮かされ、再び、店内に逆戻りをさせられた。

「あぶねーよ。ちゃんと、前をみて歩け」という男の言葉に、「はい」と、私は弱く返事をするしかなかった。このお店からこのままでは逃げられない、万事休すと心の中でつぶやく私がいた。

「優子ちゃん、この子は?」

「アキっていうの。友達だよ。」

 えっ、いつから友達だよ、と私は自分の耳を疑った。

「いつから付き合ってるの?」

「今日のお昼頃からかな?」

「優子ちゃん。また、拾ってきたの?」

「まあ、そんなところかな。」

 私の心臓はバクバクしていた。でも、勇気を振り絞って、その会話に介入した。

「私、帰らせてもらっていいですか?」と。

 私の申し出は聴きいられなかった。優子さんはにこやかに笑って、「さあ、ここにお座り」と私に声をかけ、カウンター席の布張りの止まり木に軽く手を置いた。すでに、キッチンでママがフライパンを器用に操り、肉野菜炒めらしきものを作っていた。私は自分の飢餓感に逆らえなかった。もう自分の食欲はその匂いに対抗できるほどの忍耐力は持ち合わせていなかった。私の前には生ビールの大ジョッキが運ばれていた。さらに脱走計画の最大の難関と思われる障害、つまり先ほどの大男が私の隣にどっしりと構え、私を見張っていた。大都会では何が起こるか分からない。私はこのまま監禁され、家族に身代金要求される事態もあるのではないかと考えていたが、その男は巨大な体格に似合わず、つぶらな瞳で私の顔を覗き込んできた。

「アキさあ、お前、確かに可愛いよ。うん、惚れちゃうかな。」

 唐突な発言が、私を驚かせた。やはり、この店内には何か怪しい空気が漂っていることは自分なりに感じていた。身代金要求でなければ、私はこの場で、全財産を奪われ身ぐるみ剥がされて大都会の塵なって消えゆくのか? それともドラム缶に詰められて東京湾の魚の餌に。あるいは東南アジアに詐欺奴隷として売り飛ばされるのか? そう、彼らは「ヤ」のつくような職業=反社会的勢力の一味で、この店は彼らの隠れ家。弱者を虐め、貪り食う輩なのか? 私の妄想は劇画的エンターテインメントを含みつつ極端な暴力的マイナス思考へと偏ってきていた。

「さあ、お食べ。アキ」と、優子さんがママの作った料理を私の目の前に差し出してくれた。私の腹はしつこいほどこの時分は鳴っていた。私を取り囲む彼らから温かい笑いが漏れた。その笑いは全く恐ろしげではなく、純粋な混じりけの無い無垢な笑いとして私には受け取れた。このお店に連れて来られて初めて不思議な安心感を得ることが出来たような気がする。彼らはそれぞれがジョッキを持った手を掲げて、「乾杯!」とママが音頭を取ってお互いにぶつけ合って何度も鳴らした。何の乾杯? 私を歓迎してくれたことの証? 様々な思念が自分の頭の中をエンドレスに駆け巡り出した。私の胃袋にビールのアルコールがじっわじっわっと染み渡ってきた。その酔いが進むにつれて何だか楽しく幸せな気分になってきた。

 この店は、ママが経営しているそうだ。優子さんはその娘さん。大柄な男、彼はリアルプロレスラーで、リング上では、ハカイダー一号・二号の一号さんで、その業界では有名人らしい。私は格闘技をほとんど見たことがなかったので、彼が名乗っても、全く無反応だったのが彼にとっては気に入らなかったらしく、食後にコブラツイスト(技名は後で教えてもらった)をかけられた。その後もビールをお替りしろと、いう命令が彼からかかり、私はジョッキを何杯かあけることになった。やっと、十八歳成人になったばかりなのに。でも、お酒は確か飲んではいけないはず。

 優子さんは、私を最初に、一般教養課程オリエンテーションの時間で見かけたという。

「あのう、優子さんは何年生ですか?」と、私は初めて酔いに任せて彼女に尋ねた。年齢が自分より上だと思っている女性にやっと緊張感なく訊いた。彼女は軽く紅を開けて歯を見せて笑った。

「何年だと思ってるの? アキと一緒だよ。ハハハッ。私も、今年入学したフレッシュな一年生。よろしくね。」

「えー、同学年というのは本当ですか? それは嬉しいのですが、どう見ても優子さんは年上で、落ち着きがあるように感じられるんですよね。」

「もうそんな言葉遣いは止めない? 変だよ。」

 優子さんはそう言うのだが、私にはその発言自体の真意を掴めないでいた。ただ分かることは、彼女は絶対的に私より年齢が上だということ。それは姉のいる自分なら女性の身体から醸し出される雰囲気や妖艶さから判断できる、と勝手に思い込んでいる。

「ユウって、言ってくれた方がいいかな」と優子さん(同学年だと分かったが)は言うと、私の頬に顔を近づけてきたかと思うと、唇を付けた。

「おや、優子。この子に気があるの?」と、ママのちょっと意外そうな表情。

「おい、アキ。今度はウエスタンラリアットをお見舞してやるから、表に出ろ!」と、ハカイダーさんが、新参者へ彼女が示した親し気な仕草への嫉妬心を露わにした。

 超ヤバイ、というのが私の偽らざる心境であった。ここはもしかすると私が踏み込んではいけないと、うすうす感じていた世界かもしれない。しかし、私自身の中の誰かが何を思ったのか。

「私は、もしかすると、優子さんのこと好きかもしれません。」

「あー、こいつ調子に乗ってませんか? ママ」と、ハカイダーさんがママに同意を得ようと声をかけた。

「アキは飲み過ぎたのよね。ウフフ」という声が聞こえた直後から、私の記憶は定かではなくなっていった。しだいに眠気が襲ってきたことだけは確かであったが……。自然に自分の瞼が降りていくのが分かった。


 次に、私が目覚めたのは、優子さんの声を聴いてからだった。

「アキ、学校に遅れるよ。行こう。」

 私の顔の至近距離に優子さんの整った美しい顔があった。ただ、私は彼女の顔が一瞬誰であったか忘れていたことも事実であったし、自分がどこで眠ってしまったのかということも全く覚えていなかった。私は咄嗟に、「ごめんなさい」と、彼女に向かって反射的に返すしかなかった。

 お店のボックス席になっているソファーの上に私は横になっていた。私の身体の上には毛布がすっぽりと掛けられていた。当たり前であるが、昨日の服装のままで。

「パパ、アキと学校行くね。」

「いってらっしゃい。お二人さん」と、化粧気のないスッキリした親父ママの顔が、もしかしたらハンサム、カウンターの向こうから声をかけてきた。昨日の派手なママの姿は見当たらなかった。

 学校へ行く電車はしっかりと混んでいた。当たり前である。東京という大都会の通勤通学時間帯は殺人的だということを引っ越してくる前からよくは知ってはいたが、いざ自分がその渦中に巻き込まれると、殺人的というよりも悲壮で残酷な生き地獄がそこには展開されていた。優子さんと私も混雑した車両の中に乗ったのではなく、押し込まれた。彼女の顔は私の少し斜め上にある。私はそれを若干見上げていた。彼女の頬のラインが綺麗だと、思っていると、彼女の視線が私の瞳に下りてきた。

「本当に、嫌だよね。朝の電車は……」と、独り言のように彼女は漏らした。

「そうですね」と、私も彼女に同意した。彼女の口紅が眩しいくらい近くにあって、私は初めて眩暈を起こしている自分に気付いた。瞼を閉じたら、何かむかむかと気持ち悪くなってそのまま俯き加減になり、その瞬間に自分の額が彼女の胸元に触れた。

「アキ、気分悪いの?」と、優子さんの優しい言葉が自分に向けられたのを嬉しく感じた。

「二日酔いかも……」と、口に出してから私は本当に益々気持ちが悪くなってきた。電車のドアが開くや否や、二人は飛び出し、トイレを探して駆け出した。当然のヴォミット。個室から事を済ませ出てくる私を見るなり、大笑いをする優子さんの顔がなぜだか魅力的に見えた。

「アキ、青白くなって益々色っぽくなったね」と、それが優子さん流の心遣いだと私は感じていた。私にはこれといって記憶になかったが、どうも今日から私がお店を手伝うことが決まったみたいだった。一番の疑問符は、なぜ優子さんが私を気に入ったのか。何が彼女を私に近づけたか。


夕刻、「いらっしゃいませ」という私が、スナックYのカウンターの中にいた。ママは、検査入院を明日からするとのことで、優子さんの気に入った子が、ママの代わりをすることと前々から話があったそうだ。と言っても、私は貴重品を失くし、そこに彼女が介入してきたという厚かましくも偶然な出会いがなければ接点はまったく持たないで済んでいたはず。さらにこの出来事が発端となって、私が彼女の変てこで痛みを伴う依頼に乗っからなければこのお店とも関わらずに済んだものを。また、確かにママに夕食をご馳走になり、イヤイヤ、その前に、私は何らかの不穏だと思われる空気に違和感を抱いて離脱を試みたところであったが、それを阻止され、後は私の歓迎会風に至極飲まされ、時間が竜宮城のごとく飛んで行ったということ。いつバイトの約束を彼らと取り交わしたのかなあ? まだ、一連の運命めいた流れが自分の中でしっくりこなかった。ママの検査入院も二日間ということだから、単発バイトに違いはない。それが終わったら、ココからおサラバしようと、私は早速もって考えていた。ただ、優子さんの醸し出す魅力と彼女に漂う空気感から離れることが、既にできないであろう自分がそこにいたことは確かだった。

 彼女、優子さんがお客さんのお相手をしていた。私のやることは、まずはお客さんの注文を聞き、好みの飲み物と突き出しを配膳することだった。その後の諸々のことは、彼女任せ。確かに、カウンターの中にいると、お客さんと必然的にいろいろと会話をしなくてはいけない。上京したての大学一年生が、一体、お酒を飲む客の相手ができるのだろうか? 実は、私はこの歳でもお酒は基本的に好きである。でも、そんなに飲める方ではないかな。まだ、コミュニケーション能力が未熟であることは確かだと自分自身は思っていた。とくに初対面の人とは何を話題にすべきか困ることが多かった。でも、そのことについての注文は彼女の口からは一切出てこなかった。ただ一点、優子さんからこう忠告された。

「お客に年齢聞かれたら、二十歳って言うんだよ。そうしないと、法律に引っかかるからね。飲酒は二十歳からだからねえ。」

 したがって、カウンターに座るお客さんには、にこやかに「私、二十歳です。見習いです」と、最初に言うのが決まりとなった。

「あなた、絶対、二十歳には見えないよ。でも、言われれば、そうかなあ?」と、ある有名商社勤めという常連女性客がにこやかに私に絡んできた。しかし、客にはそのような従業員の年齢は問題にならない。客は自分が愉快にお酒を飲みたい、楽しみたい、普段の憂さ晴らしがしたいだけである。

「そうだね。確か、優子ちゃんは二十歳だったよね。もしかしたら、あなた、優子ちゃんの何?」と、こちらの恋バナ的話題の方が彼女の好みであった。

「そんなことありませんよ。私は、ただのバイトです」と、私は嘘ではい自分を演出していた。

「そうかな? だって優子ちゃんは魅力的だと思わない?」

「ええ、絶対的にそう思います。」

「そう思うということは、よ。あなたには下心があるってことだよね。」

「下心だなんて。私はただのバイトで、彼女の同級生ですよ。」

「おや? だったら益々怪しいよね。いつから付き合ってんのよ。白状しなさいよ」と私に向かって言うと、商社勤めのアラサー風美人女子は、ちょうどお皿を下げに来た優子さんに声をかけた。

「優子ちゃん、元気してる?」

「誰かと思ったら、千恵子さんだ。今日はお友達と来なかったの?」

「ああ、美幸ね。今日さあ、彼女は彼氏とデートですって。私という彼女がいるのにねえ。そうそう、今、バイト君と話をしていたんだけど、優子ちゃんはこの子と付き合っているの?」

「はい、その通りでーす」と、優子さんは店内ではお道化たキャラ調子で答えていた。

「バイト君ね、あなたとの関係をさっき否定したんだよ。」

私は慌てて、「優子さん、冗談はよしてください」と口をはさんだのですが。

「アキ、恥ずかしがらなくてもいいじゃない」と彼女は言うと、カウンターの上に上半身を伸ばして上体を反らすようにして首を伸ばしてきた。私の目の前に優子さんの顔。眼を覗かれたと思った瞬間、彼女の温かく薄い唇の感触が自分の唇に伝わってきた。

「ああ、ごちそうさま。優子ちゃん、いい子を見つけたんだ。ずーっと、優子ちゃんには恋人はできないものと思い込んでいたわ。ごめんなさい。」

 アラサー商社女子は、ロングヘアーを肩に追いやり、白い首筋を私に向けた。

「アキちゃん、お姉さんに嘘ついちゃ駄目だよ。最初っからお見通しだったんだから。そうだ、ちゃんと馴れ初めを教えなさいな。」

 彼女は少し圧力をかけて私にそう尋ねると、「私のボトル取ってちょうだい。アキちゃん、今日は振られたアラサー姉さんに付き合いなさいな」と語気に力を込めた。私はこのような場合、どうしていいのかという対処法も知らず、彼女に付き合う羽目になった。その後、いつアラサー女子が帰ったのかも、お店がいつ閉まったのかも記憶になかった。

 酔いが醒めてきたとき、私は優子さんのフルーティーな匂いを近くで嗅いだような気がした。

「アキ、お客さんの失恋話を聞くときは、少しはお酒をセーブすることも覚えてね。まともに付き合っていたら体がもたなくなるよ。分かってる? アキは私のモノだからね。」

 次に、ぼやけた瞳に入ってきたのは円形の物体。それがシャワーノズルと自分で気付くか気づかないうちに、顔面に熱めの温水の粒が浴びせられた。私は一度、瞼を閉じた後、大きく目を見開いた。そこには全裸の白い肌が眩しい優子さんがいた。私は優子さんに支えられて風呂椅子に腰かけている自分の身体を認めた。私は驚いて立ち上がろうとしたが、足が覚束なくて、おまけに濡れたタイルの床が滑りやすく、後ろに上体が崩れ落ちそうになった。私は仰けに反り、後方へ重心のいく体を立て直そうと、両の手を彼女の方に伸ばした。彼女は私を抱くようにして自らの両腕を私の背中に回した。彼女は私をしっかりと捕まえると、「アキ、私の言うことを聞いて」と、抱き合ったままの状態の耳元で密やかに囁いた。彼女は私が想像していたより力強く私の上半身を自分の胸に引き寄せていた。私の痩身の薄っぺらな胸に彼女の柔らかな乳房がぴったりと密着していた。

 次の朝は、優子さんの「おはよう」と言う挨拶から始まった。私たちは昨夜、確かにシャワールームでお互いの身体を洗い流した。私自身は女性と交わったことはなかった。これは大嘘。これまでに女性と交わろうという卑猥な欲求と欲情に埋没したことはなかったといった方がいいかもしれない。私は女性が感じているように自分も感じたいと望んでいたからだ。したがって、自分の未成育なモノが勃起する状態にはエロ雑誌を見てもピクリともしないといった方がよかった。優子さんの形良い自分の掌にすっぽりと収まる張りのあるそれでいて柔らかな乳房、それ自身が私の理想とする乳房の形状にぴったりと当てはまったことに気づいたときだった。私は彼女が感じるままに自分も感じてみたいと心の底から切に思った。私の掌が彼女の乳房を緩やかに圧迫したとき、「あっ」と彼女の口から息が漏れ、私の掌の中で乳首が固く縮こまりながら圧倒的な存在感を誇示していた。彼女に同調したい、同期したいという気持ちがさらに自分の行動を大胆にし、彼女の感触を自分のものとしたくなった。私の小さな貧弱な性器、彼女にはどう見えたのかがとても心配。それが久しぶりに硬直してきたが、女子のクリトリスにしか見えないかもしれない。それくらいの大きさ。睾丸の袋は私には見当たらない。睾丸は股間に二つの丘を造り、女子の大陰唇に見えるかも。そのすべての性器をすっぽりと彼女の掌が覆い、私のⅠラインは包み込まれ、彼女の指が秘所を愛撫していたように私の肌が覚えていた。

「おはよう、アキ。朝ごはん食べたら学校に行こう」と、優子さんの穏やかな声に促され、私は彼女が用意してくれた、多分ママの普段着かな、黒いシャツに袖を通し、黒いチノパンに脚を入れた。自分のどこかで、自分の本当の居場所がここかもしれないな、と直感する私がいたことに内心少し驚いていた。


 二日目の深夜に、あるクラブの若いホステスさんがやってきた。

「あら、ママがいないじゃない。どうしたの?」

「ママは、明日帰ってくると思います。体調が悪くて検査入院してます。」

「そうなんだ。いつも、ママが私の相談事にのってくれるのよ。親身になってね。あなた、女子? オカマ? どっちでもいいけど、私の話、聞いてくれる? あなたも同じ業界にいるなら、苦労しているでしょう。」

 その日は、私は心の片隅で、また自らの他愛もない妄想の中で、今後の自分のバラ色の学生生活を描いていた。今日のバイトを済ませれば、明日からは普通の学生生活にカムバックすることができる。純粋に学生生活を謳歌するのだ。あの昔の青春時代ドラマみたいに。それはケーブルテレビで見たことのある「俺たちの〇〇」青春シリーズのことであるが。人生の猶予期間を愉快なそして濃厚な仲間たちと悩み、楽しむことができると。この店のオカマなママとその娘優子さんがいて、どう見ても訳ありで個性的なお客が集う場所から脱出するのだと、私は自分の絵空事にほくそ笑んでいた。このような想像を働かせること自体、私の気持ちのどこかが満たされた状態であることは否めなかった。妄想自体がすでに完璧で愉快な妄想となり、このお店の環境そのものが私をすでに取り込んでいた。

 その日は、お客さんが少ないこともあって、私はその女性の話し相手になることになった。優子さんは、ボックス席に陣取っている常連のオヤジに水割りを作り、注文のつまみの調理をするために、カウンター脇のコンロを使っていた。私は、クラブの女性と話をしていた。

 クラブ勤め女子は年のころは同じくらい。派手な赤い服装、ボディコンシャス女子は私に話を切り出すのを躊躇っていた。

「やっぱり、ママの方がよく分かるわよね。あなた、若いんですものね。」

「こう見えても、結構、いろんなことをやってますよ」と、口から出まかせを言った。どうせ今日で、この牢獄、いうなれば監禁状態からは釈放の身だ。あることないこと、とにかく、お客が退屈しないように相手をすれば良いだけだ。これは昨日の数々の客相手のコミュニケーションで学んだこと。自分でもこの呑み込みの早さは社会で活かせるかもと自己評価し、自負できるかなと少々図々しくなっていた。私は開き直った気持ちで彼女の話し相手になることにした。

「私の彼氏、優しくて、何でも気配りできて、綺麗好きで……。でも、私を抱いてくれないの。いつまで経っても私を笑顔で見詰めるだけ。」

「いい彼氏さんですね。」

「確かに、いい男よ。でも、オネエだったみたい。」

「オネエ?」

「だから、ママにオネエの気持ちを聞いてみたかったのよね。あなた、分かる?」

「私は、そうじゃないんですけど。でも、どこかでその彼氏さんの気持ちを推察することはできると思います。」

 私は第三者が見れば、完全にと言うのもおこがましいが、その系統に入るだろう。

「スイサツ?」

「そうです、推察です。他者の気持ちになって、あるいは様々な事情をくみ取ってその人の気持ちになってみることですか、ね。」

「へえー、あなた、見かけに似合わず、学があるのねえ。私、中卒だからさあ。じゃあ、彼氏の気持ちがあなたなら分かるというの?」

「分かるというのではなくて、推し量るということです。」

「また、難しく言う。」

 すると、常連客の勘定を終えた優子さんが、彼女の隣にやってきた。

「ノリ、久し振り。元気してた?」

「ユウちゃん。ウン、元気はゲンキだけど。今、この子に男心を……。違うなあ、オネエ心をスイサツしてもらおうと思っていたところなの。」

 ノリという呼称は、多分ノリコさんだと私は彼女の名前を推理してみたが、私に向かって、彼女は推察の催促をしてきた。

「ねえ、あなたのスイサツによると、どうなのよ?」と、ノリが首を傾けながら尋ねた。

「私も、聞きたいなあ」と、優子さんの深い緑色の輝く瞳が私を優しく促した。

 私は少々恥ずかしくなって、それを払拭すべく咳払いをしてから、次のように持論を展開した。

「オネエ系の人は、美しいものに敏感なんですよ。だから、ノリさんのことがまず、大好きなんです。だから、大好きな女子には優しく、またすべての希望を叶えてあげたいと思うんですよ。したがって、あなたの思うことを前もって、つまり気配りの権化的に、あらゆることに気を利かせてくれる。でも、どこかで、大好きな人、愛する人は神聖な存在だと思うんです。もしですよ、あなたがその彼氏さんに『もう、消えなよ』と言ったとします。」

「あっ、言っちゃった!」と、瞬時にボディコン女子のノリさんが言葉を発した。

「えー、もう言っちゃったんですか?」

「そう、あれから姿を見せないし、メールも電話も来ない。」

「それは大変ですよ。そのオネエの彼氏さん、自殺を覚悟してるかもしれない。」

「やめてよ、冗談は。」

「いえいえ、冗談じゃないですよ。その後、ノリさんは彼氏に連絡してみました?」

「まだ……」と言って、彼女はその後の言葉を無くして力なく俯いた。

「早く連絡してください。もしかすると、もう自宅で首を吊っているかもしれませんよ。」

「止めて。脅かすつもり?」と、彼女は顔をすくっと上げて、少し怒ったような眼差しを私に向けた。

「本当ですよ。オネエの方は繊細なんですよ。繊細がゆえに、私たちに愛想良さをいつも振りまいて、みんなを和ませてくれているのですから。ノリさん、絶対、今、連絡を取ってみてください。」

 彼女は、携帯を取り出すとメールを打ち始めた。それも少し強張った真剣な表情で、親指を動かし始めた。

「へえー、アキはオネエの気持ち分かるの?」と、優子さんの表情が緩んだように私には思えた。「ええ、まあ」としか、私は答えようがなかった。分かるというのではなくて、あくまでも彼氏さんの気持ち、男の気持ちとオネエの気持ちの入り混じった複雑な感情を推し量ったことによる、単なるザレ事の類のつもりだった。

 ノリさんは、口を付けていなかったハイボールのコッップをグイッと飲み干した。

「もし、生きてたら、スナックYに今から来いって、送っちゃった。もし、死んでたらどうしよう……」と、彼女は言うと、大粒の涙を流し始めた。彼女は優子さんの肩に寄りかかってワンワン泣き始めた。もう、お客は彼女ただ独りだけ。私と優子さんは彼女に付き合うしか手立てはない、といった雰囲気のお店の空気だった。それから、一時間以上経った頃、お店の扉が勢いよく開いた。すでに正規の閉店時刻をとっくに過ぎてはいるが、お客がいる間は閉店しないことは最初に優子さんに告げられていたし、お客様第一主義を通しているママの絶対命令だった。

 大きなストライプの入った派手なスーツを着た優し気な中肉中背の中年紳士の姿が現れた。ノリさんの化粧の崩れた顔がその男性に向けられた。彼はそそくさと彼女に近寄っていくと、光沢ある絹のハンカチを取り出した。彼女の頬に手を伸ばして、言った。

「ノリコ、お化粧が台無しじゃない。」

「オウウッ……、タマチャン……」と喉を詰まらせながらノリさんは言うなり、さっきまで止まっていた彼女の涙腺が、再び緩んで号泣し始めた。彼ら二人はしっかり抱き合ったまま、しばらく彫像のように身動きしなかった。聞こえてくるのはノリさんの泣き声だけ。ただし、その泣き声は、迷子が親に会えたときの不安から開放され、安堵から表現されるのものによく似ているなと、私は思った。

 その後、彼らは何度も熱い抱擁を交わすごとに溶け合っていくように、私には見えた。それが私にはドギマギする原因でもあったわけなのだが。長時間に渡る接吻が何度も繰り返されていた。じっと私が見入っていると、私の目の前が急に暗くなった。優子さんがそっと私の両方の目の前に手の覆いをした。

「アキ、そんなに見ないの」と優子さんに忠告された。私は彼らの仲を修復したれっきとした恋愛相談マスターなどと、自分の気持ちの中でその偉業に浸っていたので、失礼なことをする彼女に少々腹を立てた。優子さんは私をカウンター奥のスタッフ扉裏に私を連れていき、いきなり私の、ワ・タ・シの唇を強引に奪った。私は唇を優子さんに奪われた。私の今という時間が止まった瞬間だった。たぶん昨夜も味わった経験だと自分で反芻しようとしていたが、またそれとは異なる情感かもしれない。やはり彼女の唇は柔らかく、暖かだった。その感触をずーと保持していたかったが、次の行動へ私を彼女は導いた。彼女の舌が思いっきり私の口内に忍び込んできたかと思うと、私の舌を手繰り寄せて絡めてきた。私はどうしていいか分からず、というより、成り行き任せで自分の舌を彼女の舌に絡め、彼女が私の舌を吸ってきたように、私も彼女の舌を吸ってみた。お互いの唾液が交じり合い、その唾液が様々な味と思惑をお互いの体内に浸透させて、私という存在を、彼女という存在をどこかで証明しているような感覚を持った。独りでは、自分だけでは決して体験することが出来ない、優子さんと私の融合ゾーンの幕は本格的に開かれていった。私は優子さんと同化したいと再び願った。


 私は次の日もお店から、当然のことのように、優子さんと一緒に大学の講義を受けに行った。彼女のこの日の服装は胸元が開いたオバーサイズシャツにニットの赤いカーデを羽織り、いつものようにボトムスはデニムのスキニーパンツを履いていた。彼女の小振りの張りのあるピップにはパンツルックがよく似合うと、私は内心で再び思い、憧れていた。私は彼女の美脚が強調されるパンツ姿が大好きな自分にもしっかり気がついていた。でも、誤解のないように言うと、まだ、この時点では、優子さんとの関係はできていなかったことは断っておきたいのです。大学構内では、お互いがトイレの個室に入る以外は、ずっと優子さんと一緒に行動していた。もしかすると、私の心身は完全に彼女に取り込まれてしまっていたかもしれない。昨日、自分自身が本心とは異なり、夢想していた異世界からの逃亡や離脱をどこかで完全に放棄している私がいた。「私の居場所はここ」と、彼女の居る世界の住人になろうとしている無垢で素直な私がいた。

 今日の最後の講義が終わった後、私と優子さんは学部教務課に最終確認の単位登録用紙のチェックを受けに行った。私が先に手続きを済ませ、彼女が職員と用紙の確認をしているときだった。

「あれ、明君じゃない?」と、ある女性に爽やかな声をかけられた。

「あれ、サヤ。どうしたの?」

「『どうしたの?』じゃないわよ。学期が始まってから探してたんだから。」

「えっ、どうかしたの?」と私は再度、事情が呑み込めないまま尋ねた。入学式が終わったら、同じ高校の同期が集まって宴会をやろうぜ、という計画があったことは確かに記憶にある。同じ高校からはこの大学には毎年十数人が入学していた。したがって、高校の先輩後輩の縦の繋がりも横の密な集まりも含めて、学期ごとに何回か不定期に催されていた。

「明君さあ、最近、ラインしても既読は付かないし、電話しても出ないんだもの」と怒っているサヤがそこにはいた。彼女とは幼馴染で、長い付き合いがあった。高校三年では彼女は理系女子となり、クラスは異なったが、私にとっては何でも相談に乗ってくれる親しい女子だった。それもそのはずで、彼女の兄と私の姉は恋人同士で、何かと私たちを出汁にして、彼らは秘かにデートをしていたのである。あるときも、自分たちがアミューズメントパークにデートに行くところを、「妹(弟)が遊びに行きたいと言っているいので、付き合いで行ってやる」的な理由を付けて彼らに呼び出され、現場では彼らは二人の世界に浸りっきりという状態に。取り残されたサヤと私は必然的にカップル。我慢して彼らの恋の成就に付き合っていた。サヤと私とは幼馴染という関係であるが、それだけではない濃密な関係性も深く深く築いていたのは事実だった。

「うん、実は財布を無くしたの。」

「財布? 携帯は?」

「あっ、……」と私はそのとき初めて、すべての貴重品とともに携帯も所持していないことに気が付いた。ただし、学校の諸手続きのためにジーンズの後ろポケットに学生証だけ入れていたのだ。そうだ、私は竜宮城を訪問した浦島太郎状態に完全に落ち入っていたのかも。私は優子さんといるのが至極当たり前な自らの環境だとすでに思い込んでた。優子さんに掛けられた魔法? その甘い幻想の世界に自分はどっぷりと浸かっているのだ、という意識が私の中に浮かび上がってきた。そして、自分が自らのアパートにこのまる二日間ほど帰っていないことに思い至った。もしかすると、持って出たと思っていた財布も何もかも家の中のテーブルの上に置いたままという可能性が出てきた。そう、アパートの鍵は?

「アキ、帰るよ」と、優子さんがポンと軽く私の肩を叩いてきた。そして、私と話をしていたサヤを一瞥した。何か天敵を見るような眼光だと、私はフッと思った。

「ああ、優子さん。こちら同じ高校出身の遠藤沙也加さん。こちら渡辺優子さん。」

 優子さんはいつものお客さんに見せるようなにこやかさを全く表情に現さず、無表情のまま彼女から目をそらした。サヤは、そんな優子さんの横顔に冷静に笑顔を送った。サヤは、ちょっと私の耳に手を添えて尋ねた。

「明君には、私がいるものね。」

「う、うん」と、曖昧な返答しかできない気弱な自分がいた。「今度、連絡するよ」と、私はサヤに言葉を軽く投げると、すでにその場を離れて行こうとする優子さんの後姿を足早に追いかけた。

「ごめん、優子さん。」

二人、つまりカップル。背の高い女子と少々低い中性的男子が並んで歩くの図。彼女のミディアムウルフの髪から漂うフルーティーな香りが私の鼻を擽った。自分のショートボブヘアーも彼女と同じ香りに染まっていることはすでに承知していた。私は確かに安心感を纏っていたかもしれない。彼女と私はこの数日、濃密な空間と時間を互いに共有し、共生しているのだから。

「今日で、アキは帰っちゃうの?」と、大学の正門を抜けるときに優子さんの顔が曇るのを間近で見た。そんな彼女の表情を見るのは初めてだった。私は彼女の質問には答えずに、こう言った。

「ううん、今日は、この二日間のバイト代をママからもらわなくてはね。ちゃんと労働に見合うだけの報酬は頂きますよ。」

 彼女は、改めて尋ねた。

「アキは、いなくなっちゃうの?」

「いなくならないよ」と、私はきっぱりと強く彼女に本心を告げた。

「一緒に、優子さんとお店に帰るよ。スナックYにね。」

「良かった。もう、アキは私のところからいなくなっちゃうじゃないかなって、不安になっちゃった。」

 優子さんとは二日間という短い付き合いである。が、その時間では測れない濃厚で稠密な関係性を私たちは持ったと思っている。男としての、女としての繋がりではなく、同類の雰囲気と肌感覚を共有し、同化していったように思う。私は優子さんになりたい、と心の深淵部から沸々と湧き出す熱水のように熱く思った。美しく、それでいて芯のある強い女。でも、私にとって、先ほどの質問はその点では意外だった。彼女がこんなにもしおらしくか弱そうな一面を露わにすることがあるのかと、不思議で複雑な気持ちにもなった。

「今の、遠藤さんって言ったけ? アキと親しそうだったから……。」

 私は優子さんをこの場で、強く抱いてやりたいと心から切に思った。が、私の理性ではなく、単なる外見上の問題としての身体的格差、そう身長が足りないのでこれでは優子さんにぶら下がっている図になってしまう。ただ、それだけのことが突発的な素直な自分の行動を塞いだ。

 新宿のお店まで、優子さんは私の手を離さなかった。ずっと私たちは恋人結びをしたまま。そこには彼女のそこはかとない悲壮感さえ感じられた。お店のドアを開ける前に、彼女は一言、私の耳元で弱々しく囁くように告げた。

「私、友達がいないの」と、優子さんはポツリと漏らした。今にも泣きそうな震えた声の調子であったように思う。

優子さんは、ドアを開けると、元気よく明るく大きな声でママに挨拶をした。

「ただいま、パパ。元気だよね。」

「元気に決まってるじゃないの、と言いたいところだけど、どうも再検査が必要だとお医者様から言われたわ。仕方ないわね。まだ、私も優子を置いてあの世に行けないもの。」

「縁起の悪いこと言わないでよ、パパ。」

 そう言うと、優子さんは愛おしむ様に両手を広げ、すでに今日の付き出しの調理をしている濃い化粧と艶やかな着物姿のパパに抱きついた。

「大丈夫。それにアキもちゃんといるじゃない」と、ママは落ち着くように彼女の背中を叩くと抱擁し、その後、私に目を合わせて、「次はあなたの番よ」と言いたげな動作で態勢を変えた。

「はい、ママ。私もいますよ」と、私は元気よく返事し、検査入院から帰還したママに抱きついた。なぜだか自然と体が動いた。ママの優しい息遣いが耳元を擽った。

 優子さんが着替えてくると言って、その場を離れたとき、ママから小声で言われた。

「優子はアキのこと本当に好きみたいだね。入院中、ラインが何度も入ったのよ。アキはよく働いてくれるとか、ノリと彼氏のヨリを戻したとか、嫌な客にもきちんと応対していたとか。数えれば切りがないわよ。アキ、優子を頼んでいい?」

 私は彼らに会った初日に、止まり木に座ってウトウトしているとき、隣に陣取ったママにひそひそと囁くような口調で、しばらくの間、話されたことを思い出してきた。ママによると、自分がオネエだったことが起因して、小さい頃から彼女がいじめられていたとのこと。さらに、産みの母親は別の男と家出をしたとのこと。彼女が引きこもりになった時期があるとのこと。でも、文学が好きで、明るく振る舞うように健気に努力していることなどをママは時間に追われて捲し立てるように私に語った。そして、「あの子ね。人に大怪我させたことあるの」とママが言ったところで私は爆睡したように思う。

笑顔に戻ったいつもの明るい表情の優子さんがバックヤードから姿を現した。

「あら、今日は珍しくスカートを履くの。どういう風の吹き回し?」

「いいじゃない。パパが元気で病院から戻ってきたお祝いよ。たまには女子らしくしてやるかと思って、ねえ。」

 彼ら父娘の楽しそうな会話だけを、二人きりという境遇の家族の明るい空気だけをずっと感じていたかったような気が私はした。「アキ、優子を頼んでいい?」と言う言葉の重みが私の中で時間の経過とともに増長し出した。あの日、優子さんの過去を私に伝えてほしくなかった。一期一会の関係性。ただそれだけの薄っぺらな、付箋のように用事が済めばお払い箱となる文具のように、私は彼らの居住地から消えるはずではなかったのか。お店に入った瞬間から、自分の知らない異世界、都会の片隅の多くの人々の営みがあまりにも身近に迫りだして、どこかで私は息苦しささえ感じ始めたのも確かだ。その日は、ママの退院祝いだと言って、常連さんやあのノリさんと彼氏も参加して、盛大に宴席は盛り上がっていった。当然、私はカウンターの前でお客さんとお喋りをし、お酒を数種類ちゃんぽんして飲んで楽しく場に溶け込み、浸りきっていた。

 宴たけなわ、このときママは私の前のカウンター席に座り、常連たちのにぎやかさを頼もしそうにこやかに振り返りながら眺めていた。

「アキ。優子のこと、続きを話してもいいかしら。」

 そのとき、優子さんはボックス席に陣取る常連さんたちと陽気で元気な姿で戯れていた。厚化粧のママの顔と私の顔の間隔がぐっと狭まった。ブランド化粧品の匂いが、その濃さが、ママの話の信憑性を表すように私には感じられた。

「優子は、一人っ子なの。彼女が中学校のとき、とても親身に相談に乗ってくださっていた若い男の先生がいたわけ。でも、男って、幾つになっても、家庭を持とうが持たなかろうとスケベ心が絶対あるじゃない。私もそこに早く気が付けばよかったんだけど……。ある日、なかなか優子が戻ってこないわけ。夕方お店が開店してもまだ、帰ってこないから学校に電話したの。すると、優子はその男の先生と早くに下校したって言うのよ。私は慌てたわ。ハカイダーさんたちに、お店を見てもらう段取りをしてドアを開けたら、優子が乱れた制服姿で立っているのよね。手には血の付いた小さなナイフを持っているわけ。」

 そこで、ママはお医者さんから止められているアルコールを、ウォッカのショットグラスを口に運んだ。一度、私に、「この話はやめた方がいい?」ってママはすまなさそうに訊いたのだが、私は、この世界で生きている優子さんに寄り添ってあげたくなって、この世界の住人になるべく、ママに話の続きをお願いした。もう私にとって、彼女は自分そのものなのだ。彼女のすべてが知りたかった。

「そう、血が付いたナイフを持っていたわ。護身用の優子のナイフだったの。それは私が以前に持たせたもの。だって、この界隈をはじめ、新宿って物騒だからね、持たせていたの。夏だったから白いセーラー服の胸元も浅黒く染まっていたわ。優子は口を堅く噤んだまま何も言わないの。何度も、何度、聞いても何も言わないの。そこへ、お巡りさんがやってきて、事情を聴きたいと、私に言ってきたわ。そして、分かったの。あの親身になったふりをしていた男教師が豹変して、優子に迫ったのよね。彼女は怖くなって、自分の身を守るためにナイフを取り出して、相手が怯んだすきに逃げようと思ったけど、相手もしつこかったみたい。揉み合いになり、相手のお腹を刺しちゃったってところね。それから学校に行かなくなったわ。その後、通信制の高校に通い、大学受験資格を取るって決意して私を手伝いながら頑張ってきたの。だから、本当の友達はいないかも。それに、あれ以来、若い男性と接することもなく、同じ年頃の人たちとも口をあまりきかなかったんだ。でも、なぜか、優子はあなたを拾ってきた。これは、常連一同、驚いたわよ。フフフッ。あー、喋っちゃった。アキ、私は独り言をブツブツと呟いたみたい。それをあなたは聞いてしまった、ということね。アハハ」と、ママの最後の笑い声はどこか乾いていて寂しそうだったが、どこかで私に優子さんというバトンを渡したかのように安堵の笑みを浮かべているようにも私には感じられた。ママは笑みを絶やさず、私の顔を覗き込み、それから私のサラサラの髪に鼻を近づけると、「あら、優子と同じ匂い」と漏らした。ママは、「優子を頼んでいいわよね」と念を押すと、常連客の輪の中にさっさと混ざっていった。

 私は自分が填まった世界から抜け出せそうもないと観念する自分を意識した。優子さんは、自分と同化すべき運命的な結びつきを持っている女性であると勝手に思いこんだ。

 この日も、私は早々に酔っぱらって自分のアパートに戻ることはなかった。週末の都会の明かりは深夜になっても、未明になっても、まだまだ消えることがないのもこのころ知った。翌週には、優子さんはパパの再検査のために病院に付き添うことになっていた。私自身、やっと、自分のアパートに戻ることが出来たのはそのときだった。


 私は自分のアパートの門扉の前で、誰かに後ろから思いっ切り抱きつかれた。すると、その彼女は私の後ろ頭に向かって話しかけた。

「アキラさん、どうしたんですか? この三日間ほど、見かけなかったですけど。おや、シャンプー変えました?」

「あ、そう、忙しくてお泊りしちゃった。そのときに使わせてもらったシャンプーの匂いじゃないかな」と答えてから。まだその声の主の名前を思い出そうとしていた。彼女は私の前に回り込んできた。

「桃花ちゃん、元気してた?」と、やっとのことで上京してきた日に言葉を交わした彼女の名前を記憶の引き出しから取り出した。

「元気なはずはないじゃないですか。アキラさんがいなくて寂しかったんですから」と、親し気に私の手を取って彼女は少し甘えん坊のように言った。

「ごめんね。これから学校に行って、奨学金の手続きをしなくちゃいけないの。また、それが終わってからでいいかな。」

 当然、私は彼女に口から出まかせ、まさにでたらめを言っていることは承知していたが、この場の甘酸っぱいチェリーの唇の持ち主から離れたかったからだ。私は桃花ちゃんとは友達であったはずだ。

「じゃあ、夕食を一緒に食べませんか」と、私が振り返って自分の部屋に急ごうとするその後ろから彼女は自らの提案を投げかけてきた。私は、軽く手を上げて彼女の顔を見ずにその場から立ち去った。

 自室の前の空間は、何か私を拒絶しているようにも感じられた。それは、時間の経過を確実に表すものだった。鍵のかかってないドアを開けると、自分好みの調度品の配置が目に入ってきた。ここが自分の住処であると思ってみたが、どこかよそよそしい空気感が漂っている気がしてならなかった。

「あった!」と、私は口に出さずに心の内で叫んだ。あの異次元的世界への誘いがあったとき、私は「もしかすると……」と、断続的には考えていた。完全に自分の持ち物一式は部屋の中なのだと。ただ、すでにお話しした通り、優子さんに声をかけられた瞬間から、現実の時空とは異質な場所へと自分の足場がスライドしていったのだ。その魔力は今でも効力を持っていて、さらにその効力は増幅されて私を縛って離さないでいた。だから、心底、早く優子さんに会いたい。優子さんのそばにいてあげたいとの思いは時間とともに膨張していった。

 携帯は着信を示すライトを幾度も点滅させていた。さらに、ラインの夥しい数。不在着信の数。ラインは高校の同期からのメールがほとんどだった。どれも、故郷を離れて、自由を謳歌する飲み会の誘い。直近の着信記録があった。「アレッ、おかあちゃんからの着信だ」と気が付いて、急いで母へかけ直した。電話の呼び出し音がやけに長く感じた。母の携帯は繋がらない。姉の番号もいくつか見つけた。私は姉にかけてみた。すぐさま、聞きなれた女子の大きな声が耳に飛び込んできた。

「明、この阿保。今まで何処におったん? お父さんが大変なんだから。お父さんが倒れたんだから。お父さんが入院したんだから、早く帰ってきなさいよ。」

 お姉ちゃんは、私に父の病を伝えるために言葉を捲し立てた。お家の非常事態なのだと。確かに、さっきまで私は異なる次元にいた。その間にこの世では事態が急変していたのだ。ゴールデンウイークに入るから、もう学校には行かなくてもいいでしょうと、やはり、姉は私の帰郷を急がせているようだった。事の重大性を鑑みても、私、長男である自分が帰って父の病状を把握しなくてはならないのは歴然としていた。やっと、現実社会での自分の次なる行動が見えてきた。私は慌てていたことも手伝って、優子さんに自分の帰省を告げずに、西へそのまま戻って行った。

優子さんにこれ以上、心配の種を増やしてはいけない。ただ、そう思ったからだ。

 西に移動距離が長くなればなるほど、車両内は静寂とは裏腹に関西弁の響きが新幹線の中で増えてくる。私は慌てて新幹線に飛び乗ったので、これが新大阪止まりだということに、車内アナウンスを聞いてから知った。京都を過ぎると、もうじきに私の故郷。いつもと変わらない雑然とした人混みの駅で、餡子色した電車に乗り換えてしばらくすると小さな駅に着く。そこが私の実家からほど近い駅であった。私はその駅のタクシー乗り場で家族から聞いた病院名を告げた。タクシーが静かに走り出した。

「どないしたん? お嬢ちゃん。」

「父が倒れたみたいで、東京から呼び戻されたんです。」

「へえー、さぞかし心配やなあ」と、やはりお喋り好きな運転手が声をかけてきた。というわけで、どうも関東と違って、関西の人間はお喋りで、自ら何でも首を突っ込んで遠慮なく相手のテリトリーに土足で入り込んでくる習性がある。こんなこと、すでに多くの全国民が知ってはいるが、本当にこればっかりはやはりその地に住んでみないと分からないのだが。そして、地元の人間はそれがごく普通のこととばかり思っている。

 私は、どうして優子さんの魔法にかかったか、少し分かった気がした。彼女が関西人に似てお節介なところ、世話焼きなところがとても居心地がよかったのだ。基本、その彼女の行為に私は甘えたのだ。だからこそ、私はその彼女の住んでいる世界にある程度、違和感なくすんなりと入り込んでいったのだと。「優子」と、彼女の名前を小さく私は呟いた。

「やっと来たな。この阿保が!」と、小さな病院の玄関口で姉に怒鳴られた。

「このボケ!」も、姉のどぎつい言い方も私には快く耳に届いた。

「どないやねん。お父ちゃんは?」と、私は姉の隣に立っていた母に尋ねた。

「軽い脳梗塞や、とお医者さんが言うてたけど。まあ、世話無いわ。」

 すでに、母は父の容態が深刻ではないことを把握してホッとしているようだと、私には感じらた。まだ、腹の虫がおさまらないのは姉の方だった。

「なんべん、電話したと思う? あんたがおらんかったら、この加賀美家はどうなると思う? 私は嫁に行くのに」と、さらにヒートアップする姉の口振り。分かっています。遠藤さんのお兄ちゃんと結婚するんやろ。このとき、私の姉と遠藤さんの兄は大学四年生で、ふたりとも関西地区のエエとこの企業の内々定をすでに貰ったって聞いてたで。

 私は、父の着替えを取りに向かう母と一緒に実家に戻った。

「お父ちゃん、大丈夫みたいやね。良かったよ」と、私は少しばかり肩の荷が下りたという安心感を表現するように口角を上げた。

「でも、後遺症が残ると大変やでえ。ウチとしては」と、母の心配顔がフッと浮かんだ。

「まあ、ゴールデンウイーク中はゆっくりしていきや、明。」

「うん、お父ちゃんがちゃんと喋れて、お父ちゃんのつまらへんダジャレを聞くまでは帰らんから」と、私はそういう風に母に告げたが、本心は、早く東京の、今の現実から遥かに遠い、東京副都心の異次元世界に舞い戻りたい気持ちで一杯だった。

 母は、戻ったタクシーに無理を言ってもらってしばらくの間待ってもらい、用意が整うと病院に取って返した。私は独りでぽつりと実家に残された。まだ、私の使っていた部屋はそのままである。そんなにこの部屋に空白の時間は溜まっていない。部屋の洋服ダンスを開けた。私の数々のカラフルな衣装が掛かっている。こんなに揃えったっけ? そのタンスの奥のミカン箱程度のプラスチックのブルーケースに手を伸ばした。そのケースに触った途端、「あった」と思わず私は口にした。私はどこかで自分の気持ちが湖面の波がすっと消えるような心持ちとなって、いつになく安心した。実は、東京に向かうときに持っていこうとセレクトしていた下着と衣装をセレクトしてあった。この衣装ケースは高さもあって使い勝手が良かった。それに少し嵩張るものも難なく入れることが出来た。その中には当然、デパコスもポーチに纏めて入れてあった。私は中のお気に入りのキャミを取り出すと、手触りを確認し、その絹布に頬ずりをした。この優しい柔らかい感触。絶対に男物の生地には使われていない肌に優しい嬉しい触り心地と着け心地、履き心地もじんわりと自分の素肌が記憶している。

「駄目、感じる……」と、私は心の中で女子的な数オクターブ高い甘い声を出した。

 私は、誰もいない家の中で、そして、自分の部屋で一人きりの状態を満喫した。私は上京するときに、この箱を忘れてしまったばっかりに、思う存分、自分のしたいことが出来ない状態でいたような気がする。自分の我が儘勝手なことを、本来の自分に戻ることを、私はこれから行うことを自分に誓った。ただ、突然に家族が帰ってくるか宅配の人が来るかなど心配の種が尽きない状況なので、手っ取り早く済ませなくてはいけないかも。

 私は、まずは大都会東京の埃を自分の素肌から洗い流したかった。まずは、本当(?)の「自分」に現状を回復したかった。シャワーを浴びるために浴室に向かった。実家では、浴室にはすぐ洗濯をするために脱衣籠が洗濯機の脇に置かれている。その状況は変わっていない。姉の下着類はいつもバスタオルで覆い隠すようにしてあった。これもなんら変わっていない。ということは……。私の手はその姉の下着類を包んだ丸くなったバスタオルをそっと開いた。彼女のショーツ、キャミが私の眼の中に入ってきた。私はその姉の下着に手を伸ばした。私は愛しく懐かしい彼女の匂いを嗅いでみた。「お姉ちゃんだ」と分かる爽やかな酸っぱいローズの香りと彼女独特の舐めてみたくなる甘肌質を思い出しながら自分の鼻腔で捉えた。もう、この時点で私の下半身の先端から透明な液が溢れてきたみたい。私は自分のシャツを脱ぎ、トランクスを下ろした。男子が興奮すると勃起するようには、私の小さな性器は機能しない。それは縮こまったまま。男の欲望を叶えるという行為は私にはない。姉の身体が感じる様に自分も感じたいだけ。女子として。

 私はしばし自らの欲望を抑制し、その欲情から身を遠ざけるためにシャワーを全身に浴びせた。その間にも自分の欲情は高まってくる。姉のあられもない裸体を弟なら何度か見ていると私は思う。私もその一人の弟であったが、色情を秘めたむっつり男子であったかといえばそうではない。私は幼少のころから姉の身につけている下着や洋服が、さらには彼女が七五三のお祝いで着た華やかな振袖の艶やかさがとても羨ましかった。もっと言えば、姉が年頃になり女性らしい膨らみを彼女の身体が強調してくると、私の執着は彼女の身に着けているものから女性自身の体と心へ引き付けられていった。弟が小学校低学年までは裸体の大部分をさらけ出して姉という生き物は家の中を闊歩していた。それが、弟が小学校の高学年になると、急に「あんた、私の裸、見たでしょう」といって、スケベな弟のレッテルを貼り出すのである。下手をすると、「変態」という称号を彼女から貰うのだ。

 いつのころからか自分の身近に特別な異性がいることに気付き、私は執拗に彼女に関心を持ってしまった。でも、家族であるからいつしか無関心を装うしか手立てはなかったのが実情だ。自分の中に幼い頃から発芽した想い。それは心身ともに姉に、姉の成長とともに、彼女の身体と心を自分のものとすること。決して姉を襲い犯そうとするものではなく、彼女が思い感じている肌感覚と内面の諸感情を自分も共有したいという感覚である。

 私はある光景を忘れていない。お姉ちゃんが夜中に、薄明るいオレンジ色の豆球の下のベッドで身を丸めていた姿。ドアが少し開いていた。私はおトイレに行こうと静かに自分の部屋のドアを開けて一歩を踏み出した。向かいのドアの明かりが線状に漏れていた。見ようとは思ってはいなかったが、微かにお姉ちゃんの呻き声が聞こえた気がして、様子を伺うために隙間から覗き見をしてしまった。ベッドの上で身を丸めて頭を窓の方に向いているのだが、ショーツを纏っていない白桃のようなお尻がそのままこちらを向いていた。彼女の手が股間にあった。指までは見えないが、どうも姉は自慰行為をしている、ということが私には分かってしまった。「ううっ、あっ」と抑えた喘ぎ声とともに姉の身体が急激に硬直し、それからふうと力が抜けたようだった。私の目は彼女の行為に釘付けになったことはもう語らなくてもいいかもしれない。彼女はしばらくすると、上体を起こし、自分の襞をこちらに見せるようにして、何枚かのティッシュペーパーをまとめて箱から取り出すと、自分の秘所を覗き込むようにして拭っていた。私は、身動きできず、その場でパンツの中をねっとりと濡らしていた。その後、姉を見るたびに、一時期であるが、自然な生理的現象として、自分の小さな小さなモノが時折であるが、寒椿の小蕾のように固くなった。まさに条件反射的な反応だった。私はシャワーを浴びながら、浴室の壁に自分の白濁した液体を発射する代わりに、先端の僅かな割れ目からどくどくと女性で言うところの愛液が泉のように溢れてくる体の感覚を味わっていた。

 タオルで身体の湿り気を奇麗に拭き取り、姿見に自分の全裸を写してみた。私の身長は一六二センチ。一方、姉の身長は、なんと私より三センチ高い一六五センチ。何と私の方が男のくせに低いのである。姉は中学校ではバトミントン部。そして高校入学と同時にあの格闘技系スポーツであるラクロスをやり始めた。髪型はロングヘアーを素敵な高めポニーテールにして、身体には女性らしい筋肉と脂肪が程よくついているナイスバディ。弟の私が彼女の身体をよく知っているのだから、間違いはない。だからこそ、彼女の恋人である遠藤さんの兄に私は今でも少しだけ嫉妬している。私は姉の身体と心を手に入れたいと思っていた。その代わりと言っては何なんだが、私が彼の妹である遠藤沙也加さんを奪って、私自身が彼女の女性としての身体と感覚を自分のモノにしようなどということはある時までは考えてもみなかった。私は姉より、線が細く肩幅も姉より狭く、痩身で華奢だった。だから、小学校入学時から、すでに姉にからかわれていた。「あんたさあ、女でも通るわ。女装してもええんと違う? もしかすると、似合うでえ」とも。私の髪型はいつもショートボブに近い形状を保持していた。母の友人の美容室が私の顔を見て小さい頃から整えてくれていた。また、それが自分らしいと私自身が思ったからだ。前髪を垂らしてシースルーに、髪を内側にカールさせたら本当に女子に見えるかもしれない。友人からは私はそのように見えるらしいことは、小学生高学年になってさらに言われる頻度が増すようになって、意識する度合いは益々増していった。

 遠藤さんには昔から何度も女性的な雰囲気を持っていると私は言われていた。幼い頃は姉と同じようなおかっぱに近い髪型をしていたこともあり、また彼女とは幼馴染で幼稚園の頃には一緒に遊んでいて、最初の頃、「あんたのこと女の子だと思ってたわ」と呆れた顔で言われたこともある。それからも遠藤さんはそんな私に好意的に接してくれて、確かに彼女と時間を過ごすことがとても楽しく好きだった。もしかすると、彼女なら私のことを理解してくれると幼心で感じていたのかもしれない。

対外的に私の性癖の一端が他者に認識され、大きく波のように流布されるようになったのは、それは高校一年の文化祭で開催された女装コンテストのときであったように思う。「加賀美君、とっても可愛いし、色っぽい」と騒ぎになったことがある。さっき言った通り、私はお姉ちゃんより身長が低く、女子でも私くらいの背丈の女子は沢山いる。髪型は切りっぱなしのショートボブ風、顔も姉に似て小作りで、肩幅は狭い。骨格も女子に近いかも。一つ付け加えておくとすれば、私の肌に男らしい毛や髭もほぼ皆無と言っていいほどなく、肌は白くツルツルしていた。そこには、姉の私への美の指導があったことは欠かせないが。このとき、遠藤さんたち女子友達の推薦で、わがFクラス代表としてそのコンテストに参加する羽目になったのだ。

「ねえ、明君。出番が来たね」と、自分事のように喜んでくれる遠藤さんがいた。

 私にはその全校が注目する女装コンテストへ参加することに大きな躊躇いがあった。小さいときから私の中には、女子が住んでいたと思う。改めて言うよ。だから、姉の服装に幼少の頃から、羨望と憧れを持っていた。姉の振袖姿、誕生会でのフリル袖の洋服やプリーツスカート。さらには、当然、姉のスクール水着など、身につけるすべての下着にまで私の好奇心と執着心が徐々に湧いてきていた。その風船のような膨らみはあるとき急激に大きくなった。

 私は中学一年生になった。姉とは三つ違いだから、そのとき彼女は高校一年生になっていた。もう、姉の活き活きした姿を直視することが出来ない状態になっていた。この姉をじっと見るという動作は、普通であれば年頃を迎えた男子には姉という存在は、一女子であるから彼女の色気は精神的・肉体的に耐えられないくらいの求心力と魅力を持った存在としてみえるようになるはずだ。しかし、私の場合は事情が異なっていた。私の中の潜在的女子はすでに成長し、私の外見上の「男」という囲いを破るべく、羨ましく女子としての姉の一挙手一投足を自分のものとしたいという衝動に駆られていた。隠ぺいされてきた「女」としての本質がいつ男子という外壁を破壊するか、自分でも日々不安になっていた。

 一学期末テストも終わり、後は夏休みを迎えるという少々湿気を帯びた暑いある日曜日の朝、両親は田舎での親類の法事に出かけ、姉も遠藤さんの兄と午前中からデートで家を空けたことがあった。私は寝起きに汗をかいた肌をボディーソープで洗い流すためにシャワーを浴びた。「気持ちいいわ」と、独りで無意識のうちに呟いた。自分が持ってきた替えのTシャツとトランクスを洗濯籠の隣の棚に置いていたが、脱衣籠の中にある姉の黄色いバスタオルの覆いを一瞥した。

 次に私が自分を意識したときには、私は姉の下着を身につけていた。脱衣室の姿見に映る自分の濡れた髪、シースルーカットの髪の隙間から見える身体は女子のそれだった。私は、無意識のうちに姉のミント色のセットアップのブラとショーツを纏っていた。不思議と自分は興奮していない。自分の男を表す小さな小さな塊はおとなしく、むしろ縮こまって、ミント色に黒のドット模様の小さなショーツの中で嬉しそうに畏まっていた。私の耳に、「素敵じゃない」と、ある女子の声が聞こえてきた。その女子は私を誘った。「そうね。あなたは素敵な真っ白い肌をしているから、美脚を強調しよう。絶対、ミニが似合うはずよ」と。私は、まだ濡れている髪をバスタオルで拭きながら、ダイニングに移動し、冷たいコーラをコップ一杯飲み干すと、姉の部屋に誘い込まれた。このとき、自分が自分ではない気がずっとしていた。そう、その女子に体ごと乗っ取られていたと言った方がいいかもしれない。「どれにする、このミニいいんじゃない。」さらに、「このノースリーブのワッフルシャツと合わせたら?」と、私に提案しているのか、その女子は自分が気に入った服をチョイスして手に取って、体に合う服を物色している。彼女は私に命令しているの? 私の身体は、思考は、どこかに座礁しているみたいで、彼女の判断と行動が先行している。私は何ら抵抗できない状態でいた。

 ノースリーブのパステルピンクのシャツと白いフロントZIPミニタイトスカートを身に纏った女の子。気付くと、私が姉のドレスミラーの中で佇んでいた。

「あなたの髪、ワックスを付けたみたいでいいわ。それで片耳を出してみて。そうそう、いいわ。お得意のポーズを取って頂戴。」

 私はその女子に言われるまま、彼女が指示したようにポーズを取ってみた。

「いいわあ~。」

 耳に届いた声は、紛れもなく私の高音の声だった。私とその女子は一体化していた。その日、だれも帰ってこないことをいいことに、そのままの姿でパスタを湯出て簡単な昼食を作り、私は彼女と一緒に過ごしていた。お昼のバラエティー番組を居間のソファーに腰かけて、足を組んで、眺め、ハーブティーを口にしてみた。その後、「少し疲れたね。部屋に戻ろう」と、女子は私に声をかけてきた。私は「うん」と返事をして、自分の部屋のドアを開けてゆっくりと椅子に座った。突然、ふわりと身体から力が抜けて、机の上に両腕を交差させて、その腕の上に自分の顔を横向きにして右頬を置いて眠ってしまったみたい。どれくらい時間が経ったのかは定かではないが、階下から微かに姉の声がしたように感じた。私はまだうつらうつらと微睡みの中にいた。

「おかえり」と、姉に分かるように大きな声で返事はしたが、体を動かす気にはなれなかった。自分の心と身体が充実感で満たされ、その大気の中にいた。

「明かあ?」と、至近距離で姉の声がした。声の方向へ自分の首を伸ばして見た。彼女は私の真横に立っていた。

「あ、おかえり。お姉ちゃん」と、私は普段通りの対応を取った。私はデートから帰った彼女の方に目線を移した。お姉ちゃんはスカイブルーのタンクトップとオフホワイトのデニムショートパンツ、腕にはシアーカーディガンを掛けていた。「お姉ちゃん、今日はどうやった? 楽しかった?」と、いつものように彼女のご機嫌を伺った。私の目の高さは、お姉ちゃんの豊かな胸を下から眺める位置にあった。彼女はちょっと不思議そうな表情を私に向けていた。

「ちょっと、立ってみい」と、姉の指図通り、私は眠気の残る身体をコントロールできず、よろけつつ机の縁に手をかけて立ち上がった。

「ふーん。小さいときから、思ってんけど、明は女に生まれた方が良かったんとちゃうか?」

 この姉の発言が私を完全に微睡から覚醒させた。私の中の女子は眠ったまま。私は現状を把握し、すぐに言い訳を用意しようとしたが、もう後の祭りであることは確かだった。私は姉の眼を見るのが恥ずかしくなって、黙って俯いた。私はそのままの状態で、椅子の後ろへ回り、姉から距離を置くように足を運んだ。

「お姉ちゃん、ごめんなさい。」

 その言葉さえ、彼女には女子の声と聞こえたらしかった。

「明、早く親にもカミングアウトした方が、良いんとちゃうか?」

「あのう……」と、私はその先の言葉を見つけることが出来ないでいた。そのとき、あの私の中の女子が目を覚まして、「自分に素直になって頂戴な。私はあなたなの」と語気を強めた。

 姉はまじまじと私の格好を観察している風であった。私の身体は自分では身動きができない状態が続いていた。金縛りとは違って、身体を動かそうとすれば動くのだが、怯えが私の心身の一切を支配しているようだった。姉が私の肩に優しく手を置いたと思うと、「ええやん」と納得したように言って、私の顎をくいと上げた。私の頬はとても赤くなっていたに違いない。彼女は私がスカートと素足の肌の境界線に置いて組んでいた両手を外し、彼女の掌が私の両手を包んでいった。

「明。もっと、女らしくしてみい。」

 私にそんなことが出来るわけはない。

「そうそう、そういう感じや」と、姉が私のポーズを褒めたみたい。

 私自身、自分の意志で動いたという意識はない。あの女子の仕業であることは間違いない。私は自分の身体が彼女にコントロールされていることを感じた。絶対に、私が望んでそうしているのではないと、心の中で強く思うことで自分事から切り離そうとしていた。

「今日はなあ、お父ちゃんもおかあちゃんも帰って来いへんから、安心しい。お姉ちゃんがあんたの悩みをとことん聞いたるわ」と、姉は年長者らしい雰囲気を漂わせながら言うと、私の腕を引っ張って、階下のダイニングに連れていった。そして、彼女は冷蔵庫に冷やしてあった缶ビールを二缶取り出すと、その一缶を私の前に置いた。私は黙ったまま、姉とテーブルに向かい合わせに座った。姉が缶ビールのプルを開けた。私も真似をして開けた。姉が缶を片手で掴み、慣れた手つきで口に運んだ。彼女は美味しそうに喉を鳴らした。飲み慣れない飲み物。当たり前である、中学一年生の私は苦く黄色い液体を口に少しだけ含んだ。その仕草を見ていたお姉ちゃんが大笑いをし出した。

「アハハ! 明の飲み方はまるで乙女のポーズやな。私より、よっぽど女らしいわあ」

 私は気が付かなかったが、両手で缶を包むように抱えていた。私は慌てて、テーブルの、もともと缶が置かれていた水滴の輪の跡が残る場所にその缶を慎重に戻した。

「モジモジといじらしくしているところも、内気な女子やなあ。」

「そんなこと、あらせん」と、私は姉に逆らって怒ってみせたが、そのまま女子のトーンが私の口から突いて出た。

 その夜、私がお姉ちゃんに語ったことを覚えている。自分が語ったのではなく、あの女子が私に言わせていたと思うことで、自分が「変態」と呼ばれることを回避しようとして

いたみたいだ。

「お姉ちゃん、本当に、お父ちゃんとおかあちゃんには言わんといて。これは何かの間違いなんや。僕はこんな恰好は好きじゃないんよ。女装家でも変態でもないんよ。」

「イヤイヤ、LGBTQやで。れっきとした性同一障害やな。体の性と心の性が一致してないということや」と、断定的に物知り顔のお姉ちゃんは言い放った。

「もう、言い訳はええから。そうなら、明の良き姉として弟をサポートしたるわ。でも、私とカズ君が結婚するまで、親にコンフェスするのは待っててくれへんかあ。」

 もう、私の言い訳は、自分の考える反対のベクトルとして姉は受け止めていた。否定すればするだけ、私が正真正銘のLGBTQであることを証明しているようなものとなった。本当に、まだ、このときは自分にそのような気持ちがなかったと思いたいが、ずっとそのような自身の違和感と内に眠る女の子の存在に気付いていたことは確かだった。姉との会話の中での否定の数が重なるたびに、自分がそのような人間であることの証を示され、意識し、自覚する以外になくなってきたようだ。私は性的マイノリティの一人なのだと。

「お姉ちゃんなあ、嬉しいんよ。ホンマに明が妹なら、もっと昔から楽しかったんと違うかなあって思うことがあるんよ。」

 すでに、姉は高校一年生にもかかわらず、缶ビール二本目も飲み干そうとしていた。私は、やっと一缶の三分の一を飲んだところだ。何だか気持ち大きくなって、気分が良くなってきたのは自分でも分かってきた。よくお父ちゃんの顔が赤く染まると、彼は楽しく饒舌になっていく。私もお腹と頬がとても熱くなってきた。その酔いのピークと自分の気持ちの高揚感が同調しようとしていたかも。

「お姉ちゃん、ごめんなさい。こんな弟で、ホンマは超変態と思ってない? 私は自分らしく、生きたい。ただそれだけなんよ。」

 完全に私の中の女子が私という存在を凌駕しようとしていた。もう私は心中の女子に抗うことはできず、同調、同化するのを抑制、停止することは自分には出来なくなっていた。私は私自身の内に住んでいた女子となっていた。実は「私」もその「女子」も同一人物であることに間違いはないはず。

 姉は女子の精神的・肉体的心得、さらには生理的事情を語り、遠藤さんの兄、つまりカズ君との惚気話や自分の数々の悩みを切々と語り始めた。突然、姉は私の後ろに回り込み、脇の下に腕を通すと、両の掌で私の胸を包むと、その後、むぎゅっとブラを潰すくらいの力で鷲掴みにした。私はボルテージの高い悲鳴を自然に発した。

「嫌あ!」と。私は脇を固く締めて防御態勢をとったが、すでに姉の手はそこになかった。

「一度、これ、やってみたかったんよう」と、姉が爽やかな調子で喋った。

「お姉ちゃんのスケベ」と、ぷんぷんと怒った女子の私がいた。

「明、ブラの中に何を仕込んだん?」

「小さなタオルハンカチを三枚ばかり重ねて包んでみたんよ。」と、私は自分の胸に視線を落として、先ほどの姉の力で歪んだ胸の膨らみを補正しながら応えた。

「へえー、考えるもんやねえ。感触もまあまあ、良かったでえ。」

「お姉ちゃん、カズ君にやられたことあるんちゃう?」

「バーカ。そんなもん訊くもんとちゃうやろ。アハハ」と、お姉ちゃんはアルコールも入っていて赤くなった顔をさらに濃く染めて、私の背中を思いっきり照れ隠しの反動として叩いた。私は姉に自分の本性を認めてもらえたのは嬉しいが、不安になった。その不安は、姉に見つかるまでの不安や怯えではなく、新しい自分へ向けての不安と言ってよかった。

「ああ、頭が疲れたわ」と姉は言うと、ゆっくりと居間へ移動していった。私はそのふらつく後姿を見送った後、彼女を追いかけて行った。

私は、居間のソファーでダウンして横たわっている姉を抱きかかえようとした。もちろん、彼女の部屋に連れていくためである。私はその行為に移る前に、確かめたくなった。お姉ちゃんの身体を優しく触ってみた。このときほんの一瞬の躊躇いもあったが、その自分の行為に罪悪感を持つはずはなかった。私も女子である。女子が女子の体に障っても咎められないはず。私は彼女のタンクトップの谷間に恐る恐る手を差し入れた。そして、右の乳房、左の乳房を交互に触りながら指を胸のカーブに合わせてみた。ふくよかな姉の胸は自分を誇るように熱く呼吸をしていた。「これが欲しい」と、私は喉の奥から呟いた。私は、姉を負ぶって二階へ上がっていこうとした。耳元ではお姉ちゃんの気持ちよさそうな寝息を聞くたびに自分の芯が心地よく震えていた。また、背中に彼女の二つの乳房の圧力を感じ、両の掌全体で彼女の大きなお尻の柔らかな感触を、私の全身で彼女の肌の温かさを感じていた。私は、階段が上りづらいことを実感した。それは姉の体格がしっかりしていて体重が重いということばかりではない。今、私はタイトミニスカートを履いている。脚の可動領域が狭まっている。女子としての淑やかな仕草とともに僅かばかりの不自由さを心地よく感じていた。

 私は姉を彼女のベッドに静かにそっと横たえた。

「お姉ちゃん、パジャマに着替えよう」と、私は優しく彼女に声をかけた。すぐに彼女が返事をしてくれたら、私はこのまま姉を放っておいて自室に戻ろうと考えていた。しかし、彼女は「ううん」と言った後、横たえた身体を動かさなくなった。そうだ、姉はデートから帰ってからシャワーさえ浴びていない。それにお化粧も落としていないことに私は気が付いた。本来なら、姉のことに頓着しない自分だが、姉が私の病を性的マイノリティと宣告してから、自分の感覚が微妙に揺らいでいくのを心身で感じていた。私は仕方なく姉の着衣に手をかけた。姉のタンクトップを脱がせるために彼女の上半身を起こし、脱がせていく。私にとっては同性として当然の行い。インナーカップから外れた姉のふくよかな白桃のような乳房が弾んで目の前に現れた。居間で彼女のモノを触った感触をもう一度確かめたい衝動に私は駆られた。私は彼女を背中から支えて、姉にやられたように両脇から彼女の両の乳房を緩く掌で包んでみた。

「これが欲しいの」と、私の喉の奥が再び呟いた。姉の乳房は私のもの。彼女が肌で、心で感じる様に私も感じてみたい。姉とすべての感覚を同調、同期させたい。私は上半身に何も身に着けていない姉をベッドの上に横たえ、彼女の姿を、今度は上方から眺めまわし、次に彼女のショートパンツを剝ぎ取るために腰を浮かせた。私は自分の動作を一時中断し、視線を姉の裸体へ移していった。年頃の女性のウェストの引き締まりとヒップへの曲線が私を誘っていた。私はそろりと自分の指を多少湿り気のある姉の首筋から胸へ、乳房の膨らみから鍛えられた腹筋と腹部のお臍の窪みにも這わせていった。姉の前リボン付きのフリルの白いショーツに私の指がかかった。私は姉のすべてが欲しいと切に願った。彼女のショーツの両側を引っ張っていった。ショーツの布地は巻かれる状態となり、姉のお尻に手を回し、静かに足元まで持っていって彼女の素足から剥した。姉のアンダーヘアへも指を伸ばした。少し硬い陰毛の感触が生々しく私の心をぞわぞわと震わせいった。私の指先が彼女の襞を認め、その形状をはっきりと確かめようとした。私は未熟児として生まれ、陰嚢が垂れ下がっていない。その痕跡となるような二つの丘が股間に張り付き、その形状はまるで彼女の大きな襞のように見える。「私のⅠラインと一緒」と、私の這わせている指が私に言い聞かせるように囁いた。姉の湿り気のある皮膚から何かしらの液体がじわっと私の指の腹に纏わりついてきた。

「あっ」、と言う形状に姉の唇が動いたような気がした。その微かな喘ぎ声を耳にすると、私の中に小さな罪悪感が芽生えた。私は姉が欲しいと。男子の欲情を絡めた暴力的なものではなく、精神的な充足が欲しかった。姉と同化したいという願望を持つ私が確実にそこにはいた。

私は自分のノースリーブのシャツを脱ぎ、スカートのフロントZIPを下げた。足元にスカートがストンと落ちた。私はブラとショーツ姿になった。自分の履いているショーツは前面下方からクロッチにかかる部分の上部が濡れていたのを認めた。私の小さな小さな陰茎部分は貧層にみすぼらしく縮こまったままでいた。自分のモノの先からカウパー腺液が十分に滲み出たのかもしれなかった。女子のラブジュースと同様に体が何かを期待して、感じていた証拠かもしれない。男としての欲情が湧き出ることは私にはさらさらなかった。

私は全裸にした眩しい肉体を持つ姉の横に寄り添った。大胆な行動かもしれない、と私は自分のこの行為を客観視した。私はどうしてこのような暴挙に出たのか。

「お姉ちゃん、私、お姉ちゃんが感じる様に感じたい」と、彼女の耳に唇を微かに付けて囁いた。姉はゆっくりと瞼をあけて、首だけを私の方に傾けた。彼女の微笑んだ顔が、私の感情を昂らせた。姉はゆっくりと口角を上げた。

「ア、キ、ラ。奇麗だよ。」

 姉は身体を私の方に向き直し、右太腿を私の腰辺りに巻き付けた。彼女の両腕は私の首に巻き付いてきた。私は完全に彼女に取り込まれ、拘束された。姉の怪しい光を放つ瞳が、私をじっと見詰めて、私は上目遣いに至近距離の彼女の艶やかな紅に目をやった。私の額に姉の唇がふわりと押された。

「私の妹、だね。私さあ、妹とこんな風にじゃれ合ったり、ショッピングに行きたいなあ。」

「うん、お姉ちゃん。私もお姉ちゃんと遊びに行きたい。買い物もしてみたい。」

姉の腕に、腿に力が込められていった。私は潰されそうにどんどん絞められていった。

「明、好きだよ」と姉は言うと、次に、「明にキスしていい?」と彼女は尋ねてきた。私は無言で小さく頷き、顎を少し上げて姉の紅へ近づけた。スポーツで鍛えている弾力のある彼女の素の肉体が益々私を締め上げた。姉のじっとりとした肌が私の肌と密着して、私自身の感覚がマヒしてきたことが実感できるほどのリアル。姉の唇は私には壊れそうなフルフルした甘いプリンの味がしたように思う。

どれだけの時間が経たのか。私は、私の欲しいと思っている姉の柔らかくふくよかな乳房の谷間に鼻先を付けていた。クンクンと子犬が鼻を蠢かす様にして、姉の匂いを嗅いでいた。忘れかけていた酸っぱいローズの香り、私にはそう思えた。そうしているうちに私は今までの人生で経験したことのない睡魔に誘われた。姉のロングヘアーが揺れて、「シャワー浴びてくるね」という声を聴いたところまでは目で追ったように覚えている。

 翌朝、私は姉のお気に入りのストロベリー柄のノースリーブパジャマを身に着けていた。


 姉の私を見る目が、私に接する態度が、特段に優しく温かくなったような気がしていた。しばしば朝の忙しい時間などは、以前であれば、姉は私を無視してバタバタと登校の準備をすることが多かったが、最近は必ず声をかけてくれるようになった。さらに、私を家の中で見つけると、軽くハグをしてくれるようになった。私も笑顔で彼女に愛情を込めて挨拶するようになった。それらの姉と私の行動を観察している母は、「最近、あんたら仲いいなあ。何か気色が悪いわ」と言う回数が多くなっていった。一方で、母は姉と私の仲が良好であることに一番ホッとしているようだった。

 姉と私は二人きりになると、彼女は「明、自分らしく過ごそう」と声をかけてくれるようになった。姉は私のために洋服などを気軽に貸してくれた。恥ずかしい話であるが、私は姉から彼女が捨てるはずだったお古の下着を譲り受けた。もう私の心はゴム毬のように、否、スーパーボールのように弾み、天空まで駆け上がっていた。男物とは異なる肌触りと自分をギュッと包んでくれる肌感覚がたまらなく私の精神を本当に至極安定させてくれた。その中でも姉が仕舞い込んでいた数年前に着用していたA七十のブラジャーの肩ひもに腕を通して、自分の胸周りに回して後ろのホックを留めたときのジャストフィット感に、私の心臓が一時的に破裂しそうなくらい高鳴ったが、それが落ち着くと私自身の胸に以前存在していたかのような自らの膨らみを感じ取っていた。

「今度、一緒に明の下着と洋服を買いに行かへんか。」

 姉は私を屋外へ女子として連れ出そうと秘かに画策していた。

 身内の、それも血のつながった家族である姉という絶対的理解者を得てから、姉と接していると私自身の女子スイッチが入る回数が次第に多くなってきた。特に両親が家にいないときは、私は姉とファッション誌を見てお喋りをし、スキンケアやスクールメイクなどを丁寧に教授された。

 秋も深まり、肌寒い季節が到来した。その日、両親は結婚記念日を彼ら二人で祝うため、紅葉を愛でながら温泉に浸かりに金曜日から二泊三日のデート旅行に赴いた。その週末、姉から映画鑑賞と買い物の誘いを受けていた。その内実は、姉のステディであるカズ君がバレーボール部の遠征試合で留守にするから時間が空いたとのことであったけれども。

 土曜日の午前中に、私は姉からナチュラルメイクを施された自分の顔を鏡の中に見かけた。見かけたというのは、気恥ずかしさが私の諸々の感情を熱くして、自分の顔が女子だということを改めて強調していた。そうだ、今日はこれから姉と映画館へ行き、その後食事をしてショッピングを楽しむのだ。私は初めて女子として公の場にデビューするのだ。

服装はといえば、姉のタートルネックのミディニットワンピースの色違いを着ることになった。彼女が初秋に母親とショッピングに出かけ、気に入ったのでと理由を付けて二着買ってもらったものだという。そのニットワンピは見るからに温かそうだし、スリムなフォルムなので姉の女性らしくなった体型にはフィットしていて色香さえ感じられる。それは姉の身体を美しく包み込んでいた。当時の姉の身長はすでに一六〇センチ。私はそれより約五センチは低く、痩身なので着てみると少し生地の弛みとスカートの裾が長めに自分目線では見えてしまっていた。秋冬モデルの色合いのワンピは、ネイビーとグレーの二色で、姉がネイビー、私がグレーを着用した。そして四〇デニール黒タイツに脚を通した。

「似おうているよ、明。」

「ほんま?」

「ほんまや、よう似おうているよ。その微妙なオーバーサイズ感が超かわいいわ。これじゃあ、明が男の子って誰も気づけへんよ。」

 私は、姿見の前でパリコレのモデルのように上半身に勢いをつけて軽やかにターンしてみた。「ああ、気持ちいい」と、私と内なる女子が、というよりもすでに私とその女子は融合してしまっていたから、私の心の声は本心からのものだといってよかった。初めてハート型のイヤリングを私は付けた。姉にそこまでしなくてもと私は少々躊躇ってみせたが、「中学女子なら、当たり前や」と押し切られた。鏡の中の女子がさらに笑みを増して私の瞳を覗き込んできた。ショートボブの髪を耳に掛けるとイヤリングが揺れて私を快く擽った。最後に、姉がヘアーミストを噴霧した。スウィートローズの香りらしい。姉は最近、この香りを纏っていたのは知ってはいたが、私も姉のような存在に近づいていくのを嬉しく感じていた。足元は姉のファッションセンスのいうところの底盤の黒のショートブーツ。当時は、私は姉と同じサイズの二十三センチ。私のブーツは言わずと知れた姉のお古であるが、前日に丁寧にクリームを付けて磨いておいたのだ。

 姉が時折利用する小さなイタリアンレストラン。三宮から北野坂の通りをちょっと入ったところにあるそのお店に私たちは入っていった。スタッフに奥まった四人掛けテーブルへ通された。姉は席に着くなり、こう言った。

「今日は、明の女子デビューの日だもの。私が予約しておいたんよ。それにもう一人、サプライズゲストを用意したんよ。」

「えっ、私たちだけじゃないの?」

「いろいろ考えたんよ。理解者を増やした方があんたも心強いと思わへんか。」

「私、お姉ちゃんに分かってもらえただけで、すごーく幸せだと思っていたんよ。一体、誰を呼んだん?」

「あ、来たわ」という姉の視線の先に目をやると……。そんな……。

「亜美ちゃん」と声をかけ、爽やかなオーラを纏ってその場の空気を突き抜けるボイスで、スタッフの後ろを付いてきた女子がこちらに手を振ってきた。彼女はテーブル脇に立つと私の顔を確認するために少し屈むと、唇を動かした。その形は私には、「かわいい」と言っているように感じられた。私は私で、この少女は知っている顔と気づいた。次の瞬間、「わあ、これはお姉ちゃん、あかん。こんな事したら、私の今後の学校生活はどうなるの?」という不安感が自分の心の泉から溢れ出していた。絶対間違いない、目の前にいるのはおめかしをした遠藤さんだと、私は確信した。お姉ちゃんは口が軽すぎるんや。私、このまま気絶するかも。

 彼女はベージュのトレンチコートを脱いだ。トップスはⅤネックの黒セーターで胸元の赤いバラの蕾がほころんだ刺繍が鮮やかに目に飛び込んできた。さらに、その赤に合わせる様にボトムスは台形ミニスカート、脚は私たちよりデニールが細い少し肌が透ける感じのあるストッキングで包み、靴は厚底と思われる紐ブーツを履いていた。学校で見かける清楚な遠藤さんとは違う人に見えたというのが、私のこのときの彼女への印象だった。

「沙也加ちゃん、これが問題の明や」と姉が言って、首を縦に振った。遠藤さんは改めて確かめるように私の瞳を覗き込んだ。

「明君、可愛いすぎ。私はずーっと思うてたんよ。明君は絶対、女子やと。もっと早く言うてくれたら、私たちもっと分かりあえたかも。いやいや、これから女子として生きていくんでしょう?」

 私は自分の感情の起伏について行けず、非常に焦っていた。なぜなら、私自身、まだ本物の女子にはなれないことはよく分かっている。周りにコンフェスして、女性らしく着飾り、そのように振舞うのも親元を離れてからと、まだ遠い将来にと考えていたからだ。

「私ね、身近にLGBT的な人間がいるとは思わへんかった。でも、こんな近くにいたんやね。そんな人たちは少女コミックやアニメ世界の住人だとどこかで思っていたもの。そんな主人公に憧れがあったのは事実。この際、言うね。私、沙也加は男子にはほとんど興味ないんや。」

「ほんま?」と、不思議そうな姉のキョトンとした顔がマジマジと遠藤さんの方へ向けられた。私は、まだ一言も口を開いていない。

「そうや、亜美ちゃん。確かに亜美ちゃんとうちのお兄ちゃんみたいな幼馴染から恋人同士に発展していくっていう筋書きは、大好きや。見ていて安心していられるもん。王道の乙女の恋愛が成就する典型的なパターンと思わへんか。幼いがゆえにお互いの気持ちが行き違ったり、男と女の性ゆえに大喧嘩したり、泣いたりって。ほんまに亜美ちゃんとお兄ちゃんを見ていて、いっぱい学ばせていただきました。ウフフ。」

「そんな目で、沙也加ちゃんは私たちを見てたん?」

「そうね、典型的なジュニアのカップルの成長物語やね。」

 ランチの皿が運ばれてきた。私は遠藤さんの発言を姉よりも目上女子の発言として受け止めていた。すでに男と女の恋愛事情に精通し、自分はその世界からは一歩引いて他人の恋愛を眺めて評価するオトナ女子というふうに。

「まあ、ええわ。カズ君と私の健全な愛はこの際、脇に置かせてもらうわ。沙也加ちゃん、何とか明の力になってくれへんか。」

 私は空腹だった。だって最近、姉が自分と同じようにダイエットを要求したりするので、満腹感を実感する機会が極端に減っていた。彼女らの会話が途切れるのを、また、私自身の発言が許されるまでたっぷり時間がかかると判断して、出されたパスタを丁寧にフォークに巻き付けて、無意識に口に運んでいた。それを観察していた遠藤さんが小声で囁くように言った。

「あ、き、ら。女子的唇や。色気あるなあ。」

「そうやろう。最近は明が女子になる時間が増えよって、益々、ほんまもんの女子に近づいてきてるんよ。ちょっと前に、お父ちゃんはあまり気にせんけど、おかあちゃんはなんか気が付きよって、私に耳打ちするん。『あんたら仲いいのはええけど。明が最近、女っぽくならへんか?』って。」

「そうそう、私もね、二学期になってから明君が色っぽくみえる頻度が増したんよ。それにイケメン問わず男子達がそんな明君に言い寄ってるような……。怪しい雰囲気のときあるよね、明君」と、遠藤さんが突然、私の方を向いて問いかけてきた。私は、口を開いた。

「あのさあ、さっきから聞いてたけど」と前置きをしたかった。自分の口から発した音程を聴いた女子二人が大笑いを始めた。姉と遠藤さんはテーブルの上でお互いの手を取り合って、何度も頷いていた。

「完璧に女子や!」と、周囲の昼食時の喧騒を破るような大合唱であった。

 その後、私の女子デビューを記念して三人でアドベンチャー映画を見たりカラオケに行ったり、さらに二人は私を下着専門店に連れて行き、私に会うインナーを品定めしたりした。私はこのようにして戸外での女子生活の幕を切ったのだ。遠藤さんのご両親は三ノ宮で大きなスーパーを営んでいて、朝から夜まで家を空ける時間が長かった。なので、月数回程度の割合で私は自分の荷物を抱え、その中身はすでにお分かりの通り女子になるための一式であるが、遠藤さんの家にお邪魔することとなった。遠藤さんの兄であるカズ君とお姉ちゃんとともに出かけることもあった。男一人と女子三人の構図である。前を歩くのは高校生カップル、その後ろを付いていくのは仲のいい妹同士の女子二人。

 遠藤さんとの距離は当然のことながら極端に縮まっていった。学校ではよくお喋りをするので仲のいいカップルと思われていたらしい。私自身もその方が、都合がいいことに時間の経過とともに途中で気づいた。ただ私の身体は小学校卒業時とあまり変化はなく中学二年の夏を迎えていた。男子の多くが声変わりをし、肉体的にもがっしりしてきたように思う。みるみる身長が十センチ以上伸びた者もいた。私はあれから数センチ程度伸びたが、百六十センチには届いていなかった。喉に違和感を覚えた時期が少しばかりあったが、声変わりもしていない。どちらかといえばと高音ボイスをそのまま保っていた。肉体はそのまま女性らしいすべすべした白い肌と痩身。男自身も変化はなく、ショーツのクロッチ部分で縮み込んで、優しい布の圧の中で自らの居心地の良さを堪能していた。したがって、体育の時間の着替えなどは周りの男子達の騒ぎの中で、恥ずかしく身を屈めながら素早く着替えをしていた。たまに私に悪戯をする男子もいて、シャツを取り上げて背中をパンと強く叩いて、肌に浮かび上がってくる赤い手形を残す凶暴な輩もいた。そんな私が彼らに抵抗できる力などあるはずもなかった。私がしょげていると、必ず遠藤さんが鋭く気づいてくれて、「手を繋ごう」と下校時に申し出てくれる。もちろん恋人結びである。彼女は周囲からのヤジにかまわず私を暴力的男子から匿ってくれた。私の関心はもちろん女子のみにあった。

「明君、いい匂い。このミストは持続性あるんやね。一度、亜美ちゃんに教えてもろうたけど、メーカーさん忘れちゃった。それにしても男子は暴力的で、横暴で、汗臭くて嫌い。」

私は自分を取り戻すために遠藤家へお邪魔するのが大好きだった。そして遠藤さんの部屋がお気に入りだった。なぜって、純な女子の色と香りがするから。それも姉の整理の行き届かない部屋と比べて、壁紙も淡いピンクでメルヘンチックな雰囲気が漂い、彼女と話をしていると不思議なお花畑の世界へ連れて行ってくれた。私は彼女に恋愛感情などは持っていなかった。純粋に私たちの間に隠し事などなく、友情関係が保たれていたと思う。その頃の私はいつも相当の覚悟を決めないと外出できなかったが、彼女と二人でおめかしをして神戸近郊にウィンドウショッピングに出かけるようになっていった。そして、次第にそのことが日常事へ変化していった。

自分にとって素敵な時間がどんどん積み重なってきた。そんな中二の夏休みの出来事。私たち、つまりカズ君と私の姉、そして遠藤さんと私の四人は両家の許しを得て、電車を乗り継いで、山陰の遠藤家の親戚のお宅に数日間ほどお邪魔することとなった。その離れは二DKの造りになっていた。多分、二組の兄弟姉妹に分かれて過ごす設定であろう。私たちは各自、無造作に荷物を置いて、ご厄介になる家へ挨拶に行った。私はその前に着替えを済ませた。白Tシャツとジーンズという姿から、ジーンズを脱ぎ、シャツの上に赤いのキャミソールワンピを合わせた。その後、まだ日が傾かない暑い陽射しが照り付けている白い砂浜へ皆で勢いよく駆け出した。そのとき、遠藤さんは黒のタンクトップとオフホワイトの短パンのコーディネート。先日二人で購入したお揃いの白のウエッジヒールストラップサンダルを履いていた。波打ち際へ真っ先に到着したカズ君が思い切り水飛沫を上げながら青い海へ入って行った。それからすぐに振り返ると屈んで、両の掌を海水に付けて乱暴に何度もすくい上げて私たちにその塩水を掛け出した。私たち一人ひとりもそれに対抗すべく、お互いに距離を取って海水を掛け合ったり、水を含んだ砂粒を蹴り上げたりした。見る間に私たちはびしょ濡れになってきたが、私自身、こんなに無邪気で開放的な気分になれたのはいつ以来なんだろうかと考えた。考えたといっても、純粋に水かけっこは楽しかった。その中で一番最初に根を上げたのは、言わずと知れたこの私だった。学校でも体力のない方に入る。姉はスポーツ万能で、ラクロスをやっているので体力がある。カズ君はこのときすでにレギュラーでバレーボール部のウィングスパイカー。遠藤さんはといえば、私と同じ書道部であるが、すでに私より発育が良い。

「お兄ちゃん、明君と先に帰って、シャワー浴びるね。」

「ああ、沙也加。そうしいや。俺たちはもう少し砂浜を散歩してから帰るわ。」

 彼女が私に手を差し伸べた。すでに習慣化しているように、私も彼女と指を絡めながら手を結んだ。お互いの掌の中に微細な砂粒がへばりついて、その感触がお互いの肌の距離感を意識させたように思う。お互いの服から海水の滴がポタポタと落ちて砂浜へ戻っていった。松林を抜けようとした途端、遠藤さんが私を強く引っ張った。私はその引力でこけそうになった態勢を立て直そうとした。私の身体は反転し、引っ張った遠藤さんの身体に飛び込む形となった。彼女の胸が私のぺたんこの胸と合わさり、私の視界のほんの少し上に彼女の瞳が入ってきた。ここまでの至近距離はいままでに経験したことがない。彼女が私を両腕に取り込み、身動きできない状態が続いた。彼女の栗色の瞳が閉じられると、私の唇に彼女の唇が降りてきた。私は目を見開いたまま、自分の身を彼女に委ねていた。彼女の唇が熱を帯びて、その皮膚が私の唇に溶け込むような錯覚に落ちて行った。しょっぱく溶け込む遠藤さんと私。「何?」と考える暇などなく、私も彼女の背中に、腰に手を回した。彼女の乳房の膨らみが私の胸を圧迫し、彼女の腹部が私の腹部と合わさり、下半身も隙間なく密着していった。私たちの脚も交差し、彼女の太腿が私の股間を押していた。立ち眩みがしたのではなく、その後、目を閉じていた分だけ平衡感覚を失ったのだと感じた。私の身体は彼女の身体の体型をなぞっていた。私は遠藤さんと同化、シンクロし始めた、と私の内部の女子が歓喜しているようだった。私は女子になりたい。強く強くその願望がより大きな塊として膨張してきた。

「明君、好きやで。」

「私も、遠藤さんのこと、好き。」

「まだ、『遠藤さん』言うの? 明君、私のこと『サヤ』でええよ。」

 私たちは離れの浴室に一緒にいた。サヤは私の濡れた衣服脱がせ、下着も下げた。私は彼女のインナーカップ付きのタンクトップを優しく脱がした。中二の彼女のバストはすでに女を主張する真っ白な張りのある乳房を持って現れた。「私の乳房」と、私は呟いた。サヤは「うん」とすぐさま頷いた。私は彼女の二つの乳房を両の手で優しく覆った。彼女の息を長く吐く音が私の耳に届いてきた。その感触は私の掌を通して、腕へ登っていき、私の平らな胸の内側へ強力な流水を作って溶け込んでくる。「ああ」と私が息を発し、目を閉じた瞬間に彼女が私の背中に両腕を回し、再び私は強く包み込こまれた。交差する頬、その耳元で、サヤは密やかに囁いた。

「明君と一つになりたい。」

 その言葉の次に彼女に何を言われたのか覚えていない。ただ、シャワーの温めの流水の中でお互いの身体を指でなぞり、掌で肌の感触を探り、全身を合わせることで融合しようとしていたことは覚えている。私とサヤは本当に同化し、同期し、溶け合ったのか? 私の身体は彼女との接触で、ある境目を超えた辺りから体内で、マグネシウムがパチパチと弾ける花火のような高熱を発していた。私たちは姉カップルと別々の部屋で夜の闇に溶け込んでいった。私自身であるサヤの身体と接して私は深海への光の届かない眠りに陥っていった。もうこのまま目覚めたくなかった。

 私はサヤと同じ高校に行かなければならない一心で勉学に励んだ。そこは県内屈指の進学校であり、すでに姉とサヤの兄であるカズ君が一緒に通っていた高校である。彼らは私たちが入学する年に、二人仲良く同県内のキリスト教系名門大学に進学を果たしていた。

「やったよ! サヤ。」

「当たり前やん。明君には私が付いてるんよ。出来ないわけないやん。」

「うん、ありがとう。本当にサヤと別々の高校になったら、自殺しようって、考えたんよ。」「それは大袈裟やんか。だって、いつでも会えるやんか。」

「そうじゃなくって。いつでも一緒に居たいやん。サヤと私は一心同体でしょう。これからもサヤとずっと一緒におられるよ。永遠に一緒に居たいやん。」

「それって、『結婚して』っていう意味かな?」

 この会話は高校受験発表日の彼女との会話。私は本当に嬉しかった。なぜなら、模擬試験判定がいつもCランクで、最後の判定ランキングでやっとBランクに上がったばかりだった。もし、同じ高校に行けなくなるということは、大袈裟かもしれないが、私にとっては自分の心と体を失うくらい悲痛なこととして感じていた。それは悲観的妄想の中に自分をどんどんと追い込んでいき、まさに自身の肉体的女子を失うことを意味していた。二人でお互いの肌を触れ合った瞬間から、私はサヤの身体を、感覚をこの私自身の女子が手に入れたのである。月に何回かの彼女との濃密な女子として過ごす時間が私の正気を保つ安全弁であった。もう、姉の身体は彼女の兄であるカズ君のモノ。姉は処女ではなくなった。すでに周知の事実である。姉は経験するにしたがって、それは彼から愛される回数を経るにしたがって、女性としての肉体と香りを身に纏い、周りに幸せのキラキラしたオーラを振りまいていた。私にもより優しく彼女は接していた。私の密やかな心情を知る弟想いの姉は、あの頃の熟れていない果実ではなくなった。私が最初に触れた姉の乳房は確かに豊かな美しい曲線を描いていたが、まだ初々しく恥じらいの感触が私の掌に静かな波のように伝わってきた。ある日、姉は半裸の無防備な胸に私の顔を埋めて、語った。

「明、あんたのことが好きよ。でもね、もう私はカズ君のモノ。明がいかに女子でも遠慮してくれへんか。あんたがほんまもんの女子やったら、私に共感してくれへんか? なあ、明。私な、カズ君の子供が欲しいんや。」

 そのときの私は、姉の気持ちを汲むことはさすがにできなかった。ただ、世界で一番の理解者であった姉が自分のモノではなく、彼のモノであることをまざまざと見せつけられた瞬間であり、当時の私の理解の許容を完全にオーバーしていた。その大きな空白を埋めてくれたのが間違いなく、サヤであった。私が女子としての感覚と感触を実感できる肉体。そして、私の乳房を提供してくれるサヤ。彼女の成長は私そのものの成長と重なる。ただ、彼女の身体の時間的進化が私を次第に追い越していくという感覚をその彼女の纏っている時間軸に連れ添って感じていたことも事実であった。

 サヤと私は高校入学後も行動を共にすることが多く、完全に仲の良い男女カップルだと周囲には思われていたに違いない。私は中学と同様に、高校でも詰襟の学生服を着てスタートした。学生服を着ていることで、自分が現在のところ男子であるという自覚と意識を持って生活していた。すでに中学時代から私の髪型は姉の行きつけのカットハウスでマッシュショート風に整えられ、耳を出していた。サヤのセーラー服が私にはいつも眩しく輝いて映っていた。一方、サヤのミディアムヘアは鎖骨辺りで内側にワンカールして、胸元の肌の白さが際立って奇麗だった。その彼女の肌は私の肌。その彼女の制服の胸の膨らみは私のもの。その彼女の紺色のスカート膝元からさらりと伸びている脚は私の脚。その彼女の……。サヤのすべては私。友人の誰もが私たちの真の関係は知らない。

「明君、私のこと好き?」

唐突なサヤの問いが私の背中に飛びかかってきた。

「どうしたん、遠藤さん」と、私が男子であるときは絶対に下の名前では彼女を呼ばない。

「明君が男子のときも、私のこと好いている?」

「うん、大好きや。いまさら、どないしたん?」

 下校時の帰り道を二人で歩いているときだった。そして、彼女の家の玄関灯はまだ灯っていなかった。サヤの私の掌を握った手に力が籠もり、公道から遠藤家の門の中に引きずり込まれた。私が逃げないようにと思ってか、重いカバンを彼女は足元に置くと片手で家の鍵をその中から取り出して、慌てる仕草でドアを開けた。サヤに私は強引に家の中へ引っ張られる態勢になったから、私のつま先は玄関口の小さな段差を越えられず、倒れ込むように彼女の上に被さっていった。私の身長はやっと彼女の背丈に追いついていたが、痩身であることに変わりはなかった。彼女の胸に私の身体は受け止められた。どこか潤んだ瞳を持つサヤの顔が、表情が尋常ならない雰囲気を漂わせているように私には感じられた。私の頬は彼女の両手で優しく、しかし力強く固定された。無言で、私は彼女の唇に吸い寄せられていった。その後、彼女の唇は私の外耳をなぞって行った。私は自分の意識を半ば失っていたように思う。

「明君。明君の身体にもっと女を抽入してあげる。それとも、私が欲しい?」

 サヤは私の学生服を脱がし、下着を放り投げた。彼女は自らセーラー服を解き、インナーを脱ぎ捨てた。彼女の息遣いは荒く、その熱量に私の身体も熱を帯びてきた。いつもなら、私が女子に変身する直後にしばらくお互いに全裸になった状態で、私は彼女に身体を包んでもらう。その彼女の体温と石鹸のミルキーな匂いで私は彼女の肉体を自分の肌に取り込み、女子としての装いを纏っていく。優しい眼差しのサヤに見守られながら女子同士の関係になっていく。

 サヤの指示通りに私はベッドの上に胡坐をかいた。いつもの儀式が完全に抜け落ちてしまっていた。サヤが背中の肩甲骨を私に見せながら、後ろ向きに私の前に熟れた張りのあるヒップを下ろした。彼女は両腕を背伸びするように高く頭上に掲げた。

「明君、掌で私の乳房を包んで」と、彼女が最初の命令の言葉を発した。通常は、私が変身衣装の一式を持ってここにやってくる間に、私の心はゆっくりとした時間の経過の流れの中で女子グラデーションを増していく。今日はそのような儀式なしに私は彼女の透き通る柔肌に、すでに私の掌より溢れ出す豊満に育った乳房に私は触れようとしていた。私は女子に成りきっていない曖昧な「性」を持ってた?

私の掌は一度彼女の膨らみを軽く包み込もうとした。彼女の乳首の突起がすぐさま私を驚かせた。彼女の息がフーっと漏れた。私の指がその硬くなった先端を先ほどの力よりきつく摘まんだ。両の乳首は小振りな薔薇の蕾のような硬さだと、私は勝手に思い込んだ。私は彼女の乳房をアンダーバストから押し上げ、しっかりと揉み上げた。明かりの灯っていない部屋は夕日で橙色に染まっていくのが分かった。私たちの肌もオレンジ色に変わっていった。彼女の表情は見えないが、彼女が目を閉じて何かを忍耐している様子が伺われた。私はいったい何者? 彼女の忍耐しているものこそ、サヤが伝えたいもの?

「あっ……。」

 サヤは慌てて自分の左手で自らの口に蓋をした。その後も彼女の喉元が幾度となく脈打ち、今度は彼女の右手が私の右手首を掴んだ。私の右手は彼女の手に導かれて溝内から腹部へゆっくり滑っていった。下腹部の小さな坂の表面を私の指がなぞっていった。彼女のアンダーヘアに私の指がかかると、彼女は握っていた手首から自分の手を解くと、私の手の甲に自分の手を重ねてきた。

「明君、触って」という次の指令をサヤは口にした。彼女は私の掌を自分自身の大切な場所へ促した。じんわりと彼女の襞が私の手に彼女の温もりとしっとりとした汁の感触を直に伝えてきた。私の心に入り混じった感情が噴出し始めた。それは私自身が彼女の何者なのかという問いであった。私はサヤの友達。間違いなく彼女の友達。学校では仲の良い異性の友人として。月数回の女子会のときには同性の友人として。今は、私はサヤの何?

私の中指の第二関節辺りを折るように彼女の中指が押してきた。私の中指と人差し指が順番に彼女の愛液に先導されながら、彼女の内の襞へ潜り込んでいった。サヤのもう一方の腕が私の脇腹を通過していった。その手は私の背後に回り込んで私の左腹部から背骨辺りに巻き付いてきた。

「あ、あ、あー」と、無防備になった口元は箍が外れたように大きく開かれ、彼女は反り返るように私に凭れかかり、私は逃げ場を絶たれたまま彼女との肉体の、肌の密着度をさらに増していった。気付くと私の右肩に彼女の後頭部が押し付けられ、開かれた真っ赤な唇が彼女の黒髪とのコントラストで女の色香を醸し出しているように私には思われた。私の感情の中のどこかで、私はその女性の怪しいエロスを自分が獲得できないもどかしさを持ったことを白状しなければならない。私は女性に成れないの?

 その瞬間、私はいままで経験も、想像もしない感触を自分の下腹部に感じた。発育不全の小さな男の子の股間に凄まじい稲光を感じ、小さいながらもいきり立つ忌むべき小人サイズの男根が彼女の柔らかいボリューミーなお尻の皮膚をズンと圧迫していた。その間に、私の指腹は襞上部の硬い半球状の出っ張りを幾度もグラインドし、彼女の息遣い、いいえ、喘ぎ声に呼応するようにリズミカルに刺激を続けていた。自分の意識とは裏腹に……。

「あーん。あ、あっ」というサヤの艶やかな喘ぎ声が、突然、私の腕の中で途絶えたと思った矢先だった。サヤが腰を浮かせたと思うと、先ほどまで彼女のお尻の表皮を突き破ろうとしていた私の大きなおできにも似た肉片(自分で初めて見る形状)は、サヤの秘所の肉襞の中へ挟まり、呑み込まれていった。私は咄嗟に、心の中で、「ダメ、ダメ」と叫ぶ自分の姿を見つけると同時に、深くサヤと繋がっていく安堵感をいつしか感じ始めていた。彼女と本当に融合していく女子ではない、別の誰かを私自身の中に実感していた。

 サヤの翼、つまり彼女の肩甲骨が私の目前で尖った。私の中の誰かが彼女の両肩を押さえつけ、自分の獲物だと主張するかのような荒々しい動作を取った。私の肉体が未曽有の感触と感覚と体内の血の想像もつかなかったゴーと唸る激流によって、自らの精神的制御能力を全く失っていた。

 どれだけの時間をこのようにサヤと結合し、融合していたかは私自身まったく覚えていない。

「私、男の明君も好きや。あんたと付き合っていると、私は女子として負けたような気がしてたの。艶やかな黒髪ショート、赤ちゃんのようなもっちりとしたきめの細かい美肌、男なのにどうしてすね毛が生えてこないの? 骨格だってそう。女子より女子的雰囲気を纏っている。それに女子に着替えると幼げ女子に成ってしまう。でも、今回、明君が男子である証拠を私は掴んださかい。うふふ」というサヤの曖昧な釈然としない分析と愚痴を、私の耳元で一頻り囁いたのを覚えている。でも、私は今後、金輪際、絶対、男子になるつもりはないことを決意した。「絶対、サヤの誘惑に乗らないようにするから」と、ベッドの横に寝そべるサヤの横顔を怒った眼差しを向けながら私も小声で宣言した。彼女は私の正面に向き直り、「どないしょう。もし、明君の赤ちゃんができたら?」と言って言葉を切ってから、「そしたら、男子として私と結婚しいへんか」と続けた。私は自分の行為を制御できなかったことが悔やまれるし、私は本当に女子に成りたいという願望が猛然と強くなってきた。今まで、サヤと肉体を合わせるときは男子としての機能は皆無と言っていいほど働かなかった。サヤの身体の感覚を受け取るために自らの精神を研ぎ澄まし、自分の体内に取り込んでいく。すると、彼女のあらゆる女子細胞が自分の中に充満していくことに喜びを感じていた。そう、私たちが股間を重ね合わせるときでさえ。

 その後の学校生活の中である変化が起きた。サヤの学校での私に対する態度である。男子である私に甘えるような仕草が多くなってきた。一方で、女子会のときにはこれまでと同様に年長女子のように私に優しくしてくれるのであるが、何かその行為の中に女子の厭らしさを感じ取ることが、時折、あった。

 最近は自分の中で芽生えそうになったオス的要素を払拭するために、極力、部屋では女子になっていた。学生服をハンガーに掛ける。トランクスを脱ぎ、シャワーを浴びるとすぐに自室へ戻り、ショーツ、ブラ、Aラインワンピの姿になる。もちろん、夕食になるとジャージ姿に着替えて階下のキッチンに足を運ぶ。その後は姉以外の人間の入室はさせない。

「お姉ちゃん。最近ね、サヤが冷たいんよ。」

「そんなことない感じや。今日も沙也加ちゃんとあんたの後姿を見たけど、べったりやったね。どこから見ても、ほんまもんのカップルやで。カズ君と私たちよりイチャイチャしてへんか?」

「うーん、私が男子のときは、彼女、すごく甘えてくるねんや。」

「ちょっと待っちい。明さあ、沙也加ちゃんに何かしたんと違うか?」

「えっ、何もしとらんよ。」

「そうかあ? 男として何かしたんとちゃうか。もし、あんたの中に男が残っているとしての話だけど。それに、明、最近は部屋ではずっと女子してへんか。こないだなんかはドキッとしたんよ。Tシャツの下にブラが透けて見えてもうて。」

「あんときはすぐに注意してくれて、ありがとう。あのままやったらお父ちゃん、おかあちゃんにバレてしもうたかも。」

 姉は、話しを戻した。サヤの男子の私に対する態度について。

「あのね、これは私の意見だけど」と断って、「女はね、弱い繊細な生き物やねんな。当然、子孫を残したいという本能はもっとると思う。これは意識するか、しないかの差はあると思うし、当たり前のようにジェンダーが叫ばれる前から、自由に自分のしたいことを我儘放題やっていくんなら、男は要らへんと思っている女もいるわな。『お一人様、ぼっち』って言葉も定着したかもしれへんけど、本当に人間って、独りで生きていけると思う? 生きていけへんと私は思う。私かて、もしカズ君がおらんかったら、とっくの昔に息絶えていたで。もうあんたが知っている通り、私はもう処女やない。私はカズ君のモノやし、カズ君は私のモノや。そうお互いにお互いを独占しているということ。生物的に有性生殖のつがいということや。人類はつがいを作ることによって、いかに環境が変わろうとも生存を続けてきたわけや。だから、自分たちのDNAを受け継ぐ子供はお宝やね。昔から子宝っていうやつやね。自分が好きになった人の後継者を儲けることは女にとっては重要な意味を持つんよ。そう、だからこそ、女は愛する男と一緒になりたいし、ずっと添い遂げたいと思うやん。女が男に甘えるんは、『あんたは私の男や』という意識を十分に植え付けることやし、周囲に『これは私の男や。手出さんといて』と宣言していることやし、『男として頼りにしてるで』と激励、鼓舞する意味もあると思うんやわ。明、沙也加ちゃんを男として押し倒したんやろう。そう言えば、沙也加ちゃんは言うてたわ。『亜美ちゃん、生理が遅れているんよ』って。」

 私は心の底から驚いた。

「私は悪くないよ。サヤがね、私が男子の姿をしているときに誘ったんよ。学校帰りに……。」

「本当は、男の子としての明が欲しかんたんと違うか? 沙也加ちゃんは。」

「でも、私は……。」


 私の高校の文化祭では、恒例のイベントが毎年開催されていた。N高校名物の女装コンテストである。入学当初から、男女問わず、私はみんなの推薦を受けていたのだ。とうとうクラスでその推薦枠から逃れられない状況となっていた。ホームルームでは、ほぼほぼ決まりかけていた出場をサヤが私の身を案じて回避してくれたかにみえた。でも、一転して、サヤ自身が、「明君の女装が見てみたいわ」と意地悪な言葉をクラス内で発してしまったのである。もしかすると、彼女の中に女になった私への反抗心みたいなものがあるのではないかと、後になって勘繰った。サヤは男子としての私に優しく、女子としての私に敵対心さえもっているように思われる節も垣間見られた。いつか一度言われたことがあった。

「言いたいんよね、あいつに。」

「あいつ、って?」

「女子の明君にさあ。あんたは私の愛する明君を奪わないで、って。」

 女装コンテストに参加するとなると、学校で忍耐し続けていた女子モードに突入し、どっぷりと浸かってしまう自分が、完全に男子に帰還できなくなるのではという不安があった。男子である明に帰ってこれなくなるのではと、私は心底、心配していた。でも、もう逃げる手立てはない。サヤに言われた通り出場しよう。そして、女子としての私を人目に晒し、女子として恥をかかせることで、サヤは男の明を奪還するつもり?

 当てがわれた更衣室から、私はサヤやその他の女友達の前に姿を現した。

「わあ、私、加賀美君に負けそう!」と、女子たちから喝采を私は浴びた。

「加賀美君、あとは、ヘアメイクと化粧次第で、絶対、グランプリ取れそうやな。私たち協力するよ」と、クラスの女子たちは私を本物の女にすることに真剣そのものだった。ある女子は私の首辺りまで伸びてきた髪を内側にカールするようにヘアアイロンで巻いて整えてくれた。そして、化粧は苦手と言いながら、いつも二人だけのときには私に引いてくれるように、最後に、サヤは私の唇にフレッシュピンクのルージュを指でなぞって暈してくれた。私の服装は、トップスはオフホワイトでパフ袖に胸元に大きなフリルが付いたブラウス、ボトムスは赤いミニのフレアスカート。脚には素肌の色を強調するような透明感あるパンティストッキング、靴は黒のアンクルストラップハイヒールを履いた。私は彼女たちに促されて、学校体育館のステージをランウェイするために、舞台袖からスポットライトの光の輪の中に歩み出た。

「気持ちいい!」って、私の口から、女子の弾むような声で私自身に話しかけた。私は、誰もの期待を裏切らずに審査員の満票でグランプリを獲得した。女子たちからはホンマモンの女子と絶賛された。発表で名前が呼ばれたとき、私は瞳を閉じると同時に、両手で顔を覆った。その仕草も女子だったと、後でサヤに言われた。彼女からすれば、素性の良く分かっている女子がただ周りに自分は可愛い女であることを認めてもらいたくて登壇しただけでしょう、って言われたような気持だった。どこかに棘のあるサヤの言葉に聞こえた。クラスの女子たちが舞台上の私に駆け寄ってきてくれて、強く抱き合って祝福してくれた。皆に「私は女子」と告白したように、どこかで私は晴れ晴れした気持ちに浸ったのは間違いない。非常に楽しく、今までくぐもっていた心が澄み渡る青空のような気持ちになったことに疑いがなかった。学校生活でも自分の内側が求めていた「性」の通りの外見にこのとき成れたわけだから。肉体はともかく、心が自分の素顔を曝け出したのだから。私はどこか浮かれていたことは確かだ。私はうれしくて女子のままの姿で誰とでも記念撮影をしたことも覚えている。そのとき、クラスのイケメンが「お前が本当の女子なら、俺、結婚申し込むで」などと戯言を言っていたことが強く印象に残ってしまった。それもいいかな、って。


 シャワーを浴びてから、私は自分の高級下着の入っている小箱からインナー付きのネイビーブルーのキャミを、それにお揃いの色の赤い前リボンのついたショーツを身につけた。その後、タンスからグリーンのノースリーブワンピを取り出して身につけると、ダイニングの椅子に腰掛けた。自分の真の姿になって、田舎で飲むビールは格段に美味しかった。でも、なぜかかつて姉と初めて飲んだ苦いビールの味が僅かだが舌先に沁みたような気さえした。しばらくすると、玄関チャイムが鳴った。ラインで知らせがあった通り、姉が母を病院に残して家へ帰ってきたのだという確信があった。私は、その姿のままで玄関に彼女を迎えに行った。

「おかえり、お姉ちゃん。」

「明、もう飲んでるんか? 私も付き合うでえ」と、姉は私が元の姿になったのを確認しながら明るい声で言った。彼女は上がり框で、私の身体を力一杯抱擁し、かつてのようにおでこに軽くキスをしてくれた。自分たち以外に誰もいないとき、姉はいつのころからか必ずそうしてくれるようになった。私は、父が倒れて入院することになったとはいえ、このように一か月半程で田舎に戻れたことは自らをリセットし直すには幸いの時期であったと思った。この一か月半、否、もう少し時間が経過している。その間に様々なことが起こった。途切れ途切れの記憶が思い出される。私の女子としての充電が事切れかけていたような。思い出した。急な上京で、アパート入居の条件にあった女子に限るという物件を勝手に契約してしまった。そのおかげでというのは憚るが、ある程度の女子としての身を整える下着や服装は東京で買い揃えてはいたが。ただ、このように気心の知れた姉と一緒に過ごす時間を持てることに幸せを感じていた。

次の日の午後、母が姉と交代で病院にいくまで、私は女子としてのんびりと自宅で過ごしていた。久しぶりの心身の充足感が私の中で満たされていった。


 東京に帰る予定の道すがら、私は新神戸駅で新宿のママからの電話を貰った。自分の連絡先を書いた紙片はママに渡してあった。

「どこをほっつき歩いてるの? 優子の様子が変なのよ。あなたがいないって、ヒス起こしてんだから。そうそう、アキ。あんたね、優子の携帯の番号知らないでしょう。」

 私はママに言われて、そのことに今更ながら気づいた。いつも優子さんとは一緒に過ごしていたので、彼女に連絡を取る必要とそのような機会がなかったのだ。私は急いで手元に書き留めた優子さんの番号に電話した。しばらく呼び出し音が続いた後だった。

「アキ?」と、半信半疑の彼女の不安を帯びた声の調子が伝わってきた。

「優子さん。元気?」

「私、アキがいないと、駄目だよ。死んじゃうよ。」

 優子さんがこんなに甘える女だったのか、と思うほどの切なさを帯びた声の揺らぎがあった。

「田舎のオヤジが倒れて、神戸に帰っていたんだ。ごめんね。連絡できなくて。」

「早く会いたいよ、アキ。いつ帰って来る?」

「今日の夕方には、お店に顔を出すからさ。」

 優子さんの安心した「うん、待ってる」という返事で、私も安堵して携帯を切った。


 夕刻の東京駅は多くの人々が往来している。未だ東京駅の構造に不慣れな私はどのルートで新宿へ向かうのが最適かということをググっていた。東海道新幹線のホームに降り立つと、私はある鋭い視線を感じて、その方向を見た。モデル体型をした黒いスリーブのレースドレスを着た女性が私に近寄ってくるところだった。その女性は紛れもなく優子さんだった。私を少し見下ろす瞳が揺れながら濡れていた。彼女は私を上から抱え込むようにして抱擁した。唇を私の唇に合わせた。苦しくなるくらいの時間の間、それは瞬間だったのかもしれないが、彼女の長い滑った舌は私の口内を駆け巡るほど居座った。それから、優子は微笑み、甘い優しい声で「おかえり」と、私の耳朶に唇を付けながら囁いた。

 荷物を持ったまま、スナックYに優子さんとともに私は向かった。もう、私は自分のアパートに帰れないことをはっきりと悟っていた。でも、できれば早くアパートのタンスにしまいたい品々がバッグの中にはあった。それを持っているだけで安心感があったが、一方で、自分の本性が暴かれてしまうのではないかと、早く中身を人目に付かないように隠しておきたかった。不安が自分の心の中で膨張し始めた。今はまだ、自分のその姿と本性を優子さんやママに見せたくない、覗かれたくないと本心から思っていた。もし、私の正体がバレたとき、私は彼らに何て言って申し開きをしたらいいか、思い浮かぶ言葉を何ももたなかった。真の私を見せるってことは……。。

「パパ、アキが帰ってきたよ。」

「おかえり、アキ。とっても心配していたんだから。私の再検査の日取りを決めて、帰ってきたらあなたがいないじゃない。優子が、『アキ、探してくる』って言って出て行ったかと思うと、個人情報保護の観点から、学校がアンタの田舎を教えてくれないって職員と優子が喧嘩したらしいことをブツブツ呟きながら帰ってくるじゃない。そうそう、遠藤さんって、お友達もあなたを探していたわ。優子ったら、警察に行ってアキの捜索願を出すって言い張って。全く聞く耳を持たなかったんだから。おまけにね、私があなたから預かった電話番号のメモをどこに置いたか分からなくなってたの。」

「えー、そうだったんですか?」と、私は優子さんの言動に半ば厭きれるばかりだった。私は、どこかで彼女の底知れない執着に怖さを感じざるを得なかった。僅かばかりの怯えとともに、それだけ自分のことを思ってくれる愛情の押しつけがましさと温かみをもそこには感じていた。私は男子として彼女に愛されている? すでにお伝えした通り、人の事情とはお構いなく、自分のお節介を押し通し、貫いていく行動力とコミュニケーション能力はどこか関西人のパワーと近似していると、私には思えてならなかった。否、それ以上に彼女の精神は正常と異常の壁を越え、危険領域に突入しているかもしれない。だからこそ、私は優子さんが、とっても愛おしい存在として、僅かな接触時間にもかかわらず、離れたくない人、離したくない人、失いたくない人となっていた。

「アキ、またしばらく、カウンターを任せてもいい?」と、にこやかなママ。

「どうしたんですか?」と、私。

「悪性かどうか調べるんだって」と、優子がママの言葉を補った。

「そんなに検査しなくてはいけないんですか?」

「判断材料が少ないでから、調べるんじゃない。大丈夫よ。念のためってとこかな」と、明るくママがその場を取り繕った気が私にはした。

「どうせなら、このお店を回しておいた方が経営上いいじゃない。それにもう、アキと優子がいれば営業できたという実績もあるしね。アキ、優子を誘惑してもいいのよ。早く孫の顔でも見たいわ。」

「はい、頑張ります」と、私は朗らかにおちゃらけて応えた。

「言ったわね、アキ。じゃあその気になるかしらね。アハハッ。」

 優子は仕込みの用意をする手をリズミカルに動かして、楽しそうに鼻歌を奏でていた。私は、そんな未来も悪くないかな、って思いつつ、彼女の真面目に作業する高い鼻の横顔を眺めていた。優子さんがそれに気づいてか、顔をこちらに向けた。彼女の口元が「好き」と動いたように感じた。これまでの人生、と言ってもまだ二十歳になっていない自分が、女子としてではなく、こんなに異性に愛されたことがあるのだろうか? 決してない。やはり、これは現実ではなく、夢の世界の出来事であって、私自身が一度瞼を閉じて、次に開けると、私はどこか知らない寒風吹き晒すみすぼらしい公園の一角のベンチに座ってぼろ布を纏っているのではないかと、妄想してみた。実際そのように、私は瞼をしばらく閉じてから開けてみた。優子の笑顔が私を包み込んでくれていた。さあ、今日もママと優子さんと一緒に働こう、という気持ちが私の身体の細胞を活き活きとさせた。その瞬間は、私は加賀美明という、あくまでも男子だったと思う。そう自分では思っていたつもり。


 次の日は、午後からの授業を優子さんと一緒に受講した。ほとんどの講義が同じ学部ゆえに被っていた(そのように、彼女に操作された? 私にとってはそのような些末なことはどちらでもいいこと)。講義を聴くときの彼女は真剣そのもの。集中力も半端なかった。分からないことがあると、講義が終わるとすぐに先生の許に駆け寄り質問をしていた。彼女にとって学ぶとは、どういうことだろうか? 今度、じっくり聞いてみたくなった。唯一、異なる授業は必須の語学で受講するレベル分けクラスで異なっていた。その一コマ分はどちらかが待っていなくてはいけない。そのような状況が一週間に二回ほどあった。そのようにぽっかりと穴が開く時間。ということは、その時間以外はいつでも私は優子さんと一緒であるということ。それ以外、他者は誰も私たち二人の間には入れないということ。

入学して前期日程も半分程度を消化していくと、多くの学生は授業で、サークルで、バイト先で友人を見つけることになるのだが、私の場合、もしかすると友人であり、恋人である人は唯一、優子さんだけ。周りの語学クラスのメンバーや学部で顔を合わせる多くの同期生は、すでに私たちをパートナーだと認識しているようだった。別に、これはこれで困ることはなかったのだが。

 私の日常生活は、学校とお店に集約されてきた。ある程度の服や着替えはすでにお店の二階(後で、知ったことだか、お店の入っている五階建てのビルはママの所有で、テナント料収入が結構あるということ)の居住スペースに運び、私自身も優子さんの部屋の隣を当てがわれていた。早い話が、事実上の引っ越しであった。婿入り的、マスヲさん的な引っ越しと言われても仕方のない状況かもしれなかった。私はそこでは未だ男子として生活していたつもり。女子を渇望していた自分がしばらく迷子になっていた。

 朝起きて、ダイニングに行くと優子さんとママがニコニコして待っている。その後、彼女と学校へ急ぐ。昼食を学食のカフェテリアですませ、午後の講義を受ける。その後、買い出しとお店の開店に合わせて仕込みをする。お客さんがやってきて本格的に営業となる。私のバイト代も通常の夜の仕事と比較すれば破格の賃金をママは出してくれていた。お店の営業自体はトントン、ボチボチという営業的利益ではないかと。ママや優子さんの集計作業の様子を横からPC画面をたまに覗いたりする。営業時間に交代して夕食を取る。お客さんが引けないときは、朝までなんてこともある。これはママの顧客友人優先主義の方針からだ。日々、そのように回転していく一日を何処かで、ドラマや映画の中に、さらに小説の世界に描いていた身にとっては、この生活のサイクルに、私の心の核が愛おしさを感じるようになっていた。マンネリは感じたことはない。夜の男女の身体的・法律的問題は日常茶飯事、社会問題・事件がらみで刑事の聞き込みが幾度かあったりした。きりっとした背広姿の弁護士事務所や会計事務所の方々、そうかと思えば、得体のしれない反社会的勢力風の方々も結構顔を覗かせる。また、ダンディで個性的な芸能関係の方々、スマートなメディア・IT業界人の来店もちらほら。時には、荒くれ客もいるにはいるが、ママが実は有段者の空手家でもあったりして、あっさりそのような酔客も大人しくなったりと、楽しく暑苦しいほど目まぐるしい濃厚な時間が過ぎていった。


 私が同大学の高校同期会に欠席を続けていたら、私生活では理系で授業に忙しいはずのサヤが気を利かせてくれて、スナックYを貸し切りにしてパーティーを催す計画を立ててくれた。その間にも幾度となくサヤからはラインがあり、私に「会いたい」と告げられてはいたが、私自身がそれを意識的に拒絶していた。私の心身の内側で何かが変容している感覚を彼女は嗅ぎ取っていたかもしれなかった。

 その会合は、参加者のそれぞれの近況報告が終わると、自由な談笑の輪をいくつか作るようになった。気心の知れた皆に、私は優子との関係をしつこく問い質されていた。オードブルからメインの肉料理が出そろって、アルコールも程よく皆の緊張感を解き放ち、日頃の精神的ストレスを各々が取り除いていく空気感が店内に大きく広がっていった。皆の宴の高揚と寛いだ時間が緩く漂っていた。私もお店の作業に余裕ができてきた頃に、サヤが宴席の間を忙しく立ち働いていた優子さんを獲物よろしく捕まえた。彼女たちの声が聞こえてきた。

「優子さん、明君とどういう関係?」と、彼女は見るからに険しい顔で尋ねた。優子さんは微笑んで、サヤに同じ質問を返した。

「遠藤さんは、アキとどういう関係?」

「私は、幼馴染で、同級生です。それだけです。」

「嘘!」と、少し棘の付いた張りのあるトーンで、優子はサヤに言葉をドンと矢のように返した。

「本当です、ってば。ただし、明君のお姉様と私の兄が付き合っていて、もしかすると、親戚になるかもって、関係かな。」

「それだけ?」と優子さんはさらに畳みかけて詰め寄ると、サヤの瞳をじっと凝視し始めた。サヤはそれに圧倒された形になり、彼女はあることを口走った。

「もう、見るからにあなたと明君は関係があるから安心していうけど、私、明君と高校のとき付き合っていました。今でも彼のことが好き。それに彼の秘密も誰よりも沢山知ってます」と、サヤが言い終わるところで、優子さんの平手がサヤの左頬にバシッと弾けた。サヤはあっけに取られて、優子さんの顔をじーっと睨んでいたように私には思えた。優子さんの気持ちがプッツンと、また切れたみたいと私は咄嗟に気付き、彼女たちの間に滑り込んで、事態が大きくなるのを止めようとした。すると、サヤはキッと結んだ唇からとんでもないことを優子に喋り出した。

「私、あなたより明君のことをよく知ってんだから。私、あなたより先に明君のこと好きだったんだから。私、明君と……。」

 サヤは頬に涙の跡を付けながら、優子さん目掛けて拳を振るい上げた。私はとっさにその腕を掴んで止めようと試みるも、長身の優子さんに強引に押しのけられて、ボックス席の隙間の地べたにドカンと大きな音を立てて倒れていった。その場の友人たちも彼女二人を止めるために立ち上がろうと動き出した。

 サヤと優子さんは、取っ組み合いを始めた。先にソファーに倒れ込んだ優子さんの上からサヤが優子さんのブラウスの襟を鷲掴みにし、首を大きく揺らした。優子さんはサヤの胸元をドンと突いて、彼女との距離を空け、上体を起こして立ち上がった。お互いに肩を掴み、睨み合う。私はフロアにまだしゃがんだまま足を投げ出した状態だった。その後、私は、隣のクラスで学級委員長をしていた秀才の同大学法学部の安藤君に優しく抱えられて起き上がった。

「お前、高校のときもモテていたさかいなあ。男だろうが、女だろうがな。これって、三角関係っていう構図やな」と、含み笑いを堪えながら私に厭らしく囁いた。

 サヤの友人である小林さんが止めに、さらに井上さんが止めに入ろうとするが、脇のソファーにそれぞれ放り出されていった。私の中の誰かがむっくりと起き上がってきた。

「ヤー、メー、テーェ」と。

女子の嫌々を最大限に誇張した大音量が店内に響き渡った。その場になじまない女子の声で、皆の動きと思考が一旦止まったようだ。

「明君!」と、サヤの虚を突かれたときに口にする驚きの声掛け。ああ、サヤは私に注意喚起した?

「アキ?」と、優子さんの大きな疑問符付きの問い掛け。優子さんに私の本当の姿を知られたら、私は彼女とどうやってこれから暮らせばいい?

 私は自分のエプロンをたくし上げ、熱く火照った顔を隠した。スナック内の空気が落ち着いた? 私は耳だけを立てて、その雰囲気を感じ取った。

 幹事役の生田君の声がしてきた。

「宴たけなわですが、そろそろお開きの時間も近づいてまいりました。従いまして、まずは、ご好意で頂いた食べ物はフードロスしないようにきれいに食し、まだ飲み足りない、食い足りない方は自腹で会計してください。スナックYは朝まで営業しているとのことなので、思う存分、お暇な方はママのご厚意に甘え、引き続き楽しみましょう。」

 サヤと優子さんはボックス席のテーブルを挟んで、さらに周囲の気配を払いつつ、お互いを睨みつけていた。誰も彼女たちに声をかけたがる者はいない。ただ、眼前の戦況を注視する第三国といった面々がその膠着状態が続いているのを遠巻きに、その戦場の戦況変化を、固唾を吞んで見守った。

「やる気?」と、サヤ。

「やる気?」と、相手の言葉を繰り返す優子さん。

 私は、その様子を探るために、聞き耳を立てながらあと片付けの準備に入り、皿を洗いつつ見守っていた。周囲の友人たちは、その趨勢を気にしつつ、数名単位で静かに飲み交わしていた。少人数でゆっくりとママの差し入れのスコッチを傾けながらの会合に移行していた。

 しばらくサヤと優子の空間には険悪さが漂っていた気配がしていたが。

「やる前に、教えて上げるわ。あんたのために」と、サヤが関西のぶっきらぼうな言葉の言い回しになっていた。

「私のため?」と、優子さんが目前の戦意を削がれた形で訊き返した。

 サヤが自分のスマホを取り出して、優子さんに何か画像を見せていたようだ。二人の顔が正面を向いたかと思うと、笑いをこらえる仕草をみせた。彼女たち、二人は朗らかな声を出して笑い始めた。そして、彼女らは思い思いに私に軽く手を振ってみせた。私は、心配になったが、カウンターの安藤君や伊達君たちが私に話があると言って、私の身柄を拘束していたので、すぐに彼女たちがどんな画像を眺めているかを確認できる状況にはなかった。

「俺さあ、当時、加賀美の女子に惚れたんだよな。今も惚れているかもしれない」と、伊達君が私の唇をじっと眺めながら語った。男の厭らしさ?

「ああ、僕も、一瞬で虜になったね。そうそう、あの当時、ファンクラブも出来たよね。」と、アルコールに弱い安藤君が次第に饒舌になっていく。嫌な予感を私は抱いた。。

 カウンターでの会話は、当然、奥のボックス席に陣取っている女子たちにも聞こえていた。

 すると、サヤが私によく聞こえる声で、こう言い始めた。

「明君、私、お姉さんに、つまり、あなたのお姉ちゃんの亜美ちゃんに相談受けたことあるよねえ~」と、切り出した。私の胸が張り裂けるかもしれないくらいの焦りで血の逆流する音が耳内でザーという音を立てていた。サヤのそばで優子さんは私に口を細めて、キスする仕草をした。私は、「あのう……」と言った切り、続ける言葉を、言い訳を探そうと藻掻いていた。何か体裁のいい理由を早く見つけなくっちゃ。

 私は頭の中が真っ白になっていくのを感じた。この間にも、優子さんは私が世間からすると「ド変態」であるということを認識する? どこまで、彼女はサヤから私のことを聴いたのか? サヤどこまで私のことを優子さんに話したのか? 段々と自分の意識が遠のくのを感じていた。久しぶりに大勢の友人と過ごし、友人・知人の常識的空気を纏った彼らのまともな顔を拝んだせいだろうか。また、自分の新しく歩み出した東京生活の様々な疲れが黄色い蜂蜜のようにドロンと身体に纏わりついてきたせいだろうか。さらに留めは、サヤが優子さんと何らかの繋がりを持ってしまい、私の居場所がどこかちぐはぐなパッチワーク的精神状態になってきたことが起因しているのだろうか。私の顔からスーッと血の気が貧血状態のように、その後、引き潮のようなザッザーっと移動する血流を感じたのは記憶の片隅にあった。

 私が次に気が付いたとき、私は自分の知らないベッドで眠っていた。目を開けると、私の横に優子さんが寝そべっていて、私を幼子でも見るかのようにとても優しい瞳で眺めていた。私の瞼が開くのを待っていたようだ。優子さんは早速、私に声をかけてきた。

「アキ、無理しなくていいんだよ。」

「無理って?」

「もっと素直になったら?」

「素直って?」

「自分、によ。私ね、初め見たときはアキのことを女子だと思ったの。だって、ベンチの下や草むらでお財布を探している後姿や仕草が女の子そのものだったから。だから、私はあなたに声をかけたの。振り返ったアキの顔が童顔じゃない? まだ、そのとき、私はあなたがどちらか分からなかった。声を聴いても、『この子、どっち?』って言う感じ。私ね、アキの中性的な部分を醸し出している空気が好きなのかも。私ね、男は好きじゃないから。それにお店を手伝ってくれたとき、飲み過ぎてつぶれたじゃない。あなたから男物の服を脱がしたとき、『何て、奇麗な肌しているの』って、感心しちゃった。だから、あなたを私が洗ってあげようと思ったの。そのときアキの目が覚めて、あなたの指が優しく私の乳房を覆ってくれた。私ね、アキの感触を待ってた気がするの。そして、さっき分かったのよね。あなたが女子だって。私、『やっぱり』って思った。あなたは気が付かないかもしれないけど、東京に来てから男子のフリをして無理していたみたい。本当のアキの姿を見たいなって、思った。」

 そこまで優子さんは子供を窘めるような愛情と母性を醸し出すような語りを終えると、私のボブ調の髪を梳きながら、私の胸元に目を移した。私は彼女に髪を愛撫され、反省する子供のように恥ずかしかった。彼女の指が私の頬の形状をなぞりながら上唇の中央部分に辿り着いた。柑橘系の香りを感じながら、頭の芯で、私は優子さんの何だろうかと考えた。彼女が視線を下ろすのを見て、私も自分の視線を下げた。内側の私が「あっ」て、嬉しそうに微笑んだ。

「着せてあげたの、このパジャマ。気に入ったかしら。でも、アキには少し大きいかな。いいよね、オーバーサイズでも。それにね……」と優子さんは言うと、私の手をお臍の下へ導いていった。小さな布片の上部ゴム付近に私の指先が当たった。

「ほら、ちゃんとしたショーツよ。これは新品よ。安心して。」

「ありがとう」と、彼女に素直な感謝の言葉を私は返した。私は、安心して優子さんのさほど大きくない胸の膨らみの谷間に鼻先を埋めた。優子さんの乳房の温かさ、肌のフルーティーな香りが私を、突然、深い眠りに誘っていった。


 次の日から、私の日常生活に必然的変化が生じた。私は女子としての姿で通すことを優子さんに促された。私たちは各々パジャマのまま、つまり私は昨日着せてもらったオレンジ色ノースリーブワンピタイプのパジャマ。優子さんはブルーのタンクトップと短パンのセットアップ。私は彼女とともに素顔のままで並んで洗面台の前に立った。鏡の中の彼女の笑顔につられて私もその中で微笑み返した。その後、鏡の中の私たちはお互いの横顔を見せてキスをしたみたい。洗顔とスキンケアを終えると、私たちは手を繋いでキッチンへ急いだ。男物のブラウンストライプのパジャマを羽織った化粧気のない、それでいて野暮にならない親父ママが手際よく朝食の準備をしていた。

「昨日は賑やかで眩しいくらいの青春色のパーティーだったね。私の入る幕はまったくなかったじゃない。おかげで暇して、あのイケメン幹事君とお話ができたけどね。」

「ママ、ごめんなさい。大騒ぎになってしまって。」

「アキさあ、良く似合ってるよ。やっぱり女の子だったのね。優子の眼力というか、優子の好みの女子というか。やっと、自分らしく生きること、生活することに決めたのね。アキ、優子のことよろしくね。」

 私はママの前でどんな表情をすればいいかとても戸惑っていた。昨日までは自分の男物のTシャツと短パン姿で、親子が何気ない会話をしているこのキッチンに遅れて顔を出している居候という身分だったから。もう、気を張って男子らしさを演じなくてもいい。私が私らしくいることをこの親子は認めてくれるんだ。そう思うと、私は胸に熱いものが込み上げてきた。

優子さんに椅子を引いてもらい、私はちょこんと座って脚を揃えた。

「ますます可愛くなったね、アキ」と優子さんは言うと、私の頬に軽く唇を付けた。

「あんたたち、朝からイチャイチャしないでよ。私もパートナーをこれから探そうかな」と、ママが笑いながら場の雰囲気を和ませてくれていた。

 私が「いただきます」と言って、オレンジジュースのコップを口に付けたとき、優子が私に向かって話を切り出した。

「アキ、私はアキが大好き。私は、最初からあなたの持って生まれたものが見えたような気がしたの。私と何処かで繋がっている人だと、直感したの。パパも言っていたはずだよ。私が若い男性への恐怖心をずーっと持っていたこと。心の傷からなかなか抜け出せなかったこと。結構、一杯、パパはアキに喋っちゃたでしょう。ああ見えて、ママは立派なパパだから。私には本当に友人と言える人がいないみたい。パパも、アキの中に私の感覚に近いもの感じていたような気がするんだ。だから、すぐにパパは安心してアキを雇い入れたんだよね。もしかすると、パパの方がアキを観察し、あなたの心の中をちゃんと分析していて、パパは当然のことのように、アキの素顔に賛成してくれると思うの。」

「ありがとう、優子さん。」

「感謝の言葉っていらないよね。私はアキのすべてが好き。確かに、この世界では男と女という区分しか常識的にはないっていうこと。でも、分かっているわ。今の世の中、当たり前のようにマイノリティの存在も認められてきた。ジェンダー論も賑やかだけれど。パパもそう。私にとってはどちらでも構わない。一人ひとりが、お互いが相手のことを思いやって、相手の存在を認めてくれる世界を一緒に作る仲間であることを意識できれば、誰だってこの世界で、この社会でもっと楽しく生きて行けるはず。私はアキが好き。会ったときから、その気持ちは変わらないし、本当にアキと一緒になりたいの。もっと深く、もっと濃厚に、私たちのすべての細胞が分かち難く結びついて、もっと溶け合ってみたい。そう思っているの。アキは男でも、女でもいいのよ。女だけれども、男だって構わないわけよ。どっちのときでも私を、私という存在を愛してほしい。ただそれだけなの。」

 朝から饒舌な彼女を見るのはこれが初めてだった。ママは眦に指先を持っていって、溢れ出た涙の欠片を拭っていた。

「うん」と、私は素直には飲み込めない感情を僅かに抱えながら頷いた。非常に直情的に行動するけれども、どこかで繊細に相手に対する思いやりも内包している彼女の言動。また、物事に対して直接的で偽りのない素直さを持っていながら、理屈っぽい自分の芯を誰にも譲らない部分も持っている優子さんが、自分の思考の想定外にいる彼女が私は好きだ。彼女は、私を途轍もない包容力と寛容さと愛情で受け入れてくれる人。本当に自分にはなくてはならない人だと思っている。優子さんに会えて、というよりも拾ってもらえて、やっと、私らしく太陽の下で、この大都会の中で生きることを決断してもいい時期かなと、私は思い始めた。私は優子さんと融解し、完全に融合したい。私の感覚と心身が彼女を希求していた。

 

 その後、朝の準備にちょっと時間がかかるようになった。私は心から素直に、女子として生活をすると決めたからだ。何と私の洋服類・下着類はすぐに整えることができた。私が田舎の姉である亜美とサヤの許に預けておいた衣服類すべてが、優子さんの計らいで届けられた。

 朝、目覚める。顔を洗う。スキンケアをする。今日の下着を選ぶ。すでに日常的に胸に装着できるシリコンパットはママの関係業者から入手してもらった。それをインナーカップに収める。この瞬間が私は好き。だって、胸の膨らみ、それが小さかろうが大きかろうが、その乳房の膨らみこそが私の女子を強調するからだ。それにそれがここにあることで、女であることを改めて自分で意識できるから。一方、私のオトコは恒常的に小さく小さく縮こまり、股間に単にドットのようにへばり付いているだけ。男のその小さな突起物の先端はパンティーのクロッチ前方部分にしんなりと収まる。日頃履くショーツはヒップハンガーもいいみたい。どうしてもラインの目立つパンツを履くときはタイトなガードルを履いたりしてる。スカートのときはまったく自分自身の下半身を気にしなくていい。だから、私はフレアやプリーツ、ギャザースカートが好きで、スカート丈もあまり気にしない。でもミモレ丈くらいが好きかな。ミニはやっぱり勇気がいるかな。女子としての仕草も、声のトーンも微調整をするだけ。というよりも真の私を曝け出せば簡単にすむこと。最新のメイクと色調は、優子さんにアドバイスをしてもらったり、手伝ってもらう。中・高校のとき、家では姉にしてもらっていたし、中学時代からナチュラルメイクはサヤにしっかり仕込まれた。だから、あの文化祭では女子としてはっちゃけてしまったことは、私の一大事件。男としてのホルモンが少ないせいかはじめからすね毛などはないが、その他のムダ毛処理もお姉ちゃんに習っていた。そういえば、エチケットとして持参する小物の数も男子よりもはるかに多くなる。

 いつもドレッサーの前で優子さんと並んで外出前に、最終的な身だしなみチェックをお互いにして整える。

 彼女と手をつないで、学校へ行く。もうお話ししたように、私は一六二センチ、優子さんは一七四センチくらいだから、並んで歩くと、身長差のある女子二人という光景。構内でも、相変わらず一緒。ただし、これまでと異なることは、ぎこちない小さな弱そうな中性男子と颯爽とした長身のモデル風女子ではないこと。言い方を変えれば、臆病でシャイな男子と姉御肌の強そうな女子というカップルではなく、二人の身長差のある仲のいい女子同士だということ。加賀美明という男子の姿がこの学校の日常生活から消え、その代わりに優子の脇には明るい快活で楽しそうな可愛い女子、「アキ」がいるということ。

 学生の集うカフェテリアで、私は優子と遅いランチを摂っていた。今日の私の服装は、ガーリープラスエレガントさを自分なりに表現したくて、ノースリーブの小花柄のティアードワンピを纏っていた。靴はロ―ヒールのパンプス。優子のトップスは胸元がレースのカットソーといつもの青いデニムスキニーパンツ、足元は白いスニーカーで、彼女らしいボーイッシュでありながら女性的躍動感を醸し出すコーディネートだ。

「優子、明君」と声を掛けられた。サヤだった。彼女の服装は、オーバーサイズのブルーのTシャツとカーキー色のカーブパンツ、ブルーのスニーカーだった。お陰様でというべきか、サヤは理工学部所属なので、構内でまともに顔を合わせる機会は少ない。理工学部の研究棟はキャンパスの西端にあり、私たちの経済学部校舎が本部施設の東端にあるからだ。でも、頻繁に私宛にサヤからずっとラインが届くことは優子さんも承知していた。また、優子さんの方にもしばしば彼女からラインが届いていることも私は知っていた。

「あっ、いけない、明君じゃなくて、アキで良かったよね。」

「そう」と、彼女の方に振り返って、私は人差し指を軽くて振ってみせた。

「アキは、この方がやっぱりしっくりくるね。ねえ、今度、皆で女子会しよう。」

「いいわね、私も行っていい?」と、優子さんが私よりも先にサヤに返事をした。

「ねえ、最近、優子さんとサヤ、仲良しになったんと違う?」と、私は訝しそうに尋ねた。。

「しょうがないでしょう。私にとってアキは幼馴染み。そして優子は私の大学になってからの親しい友達。アキは私の元カノでいいのかな。共通項は皆、女子であるということ。それにあの会合以来、優子は、私たちの高校同期会の特別会員だものね。」

 優子は突然、嗚咽し、涙ぐんだ。

「ありがとう、サヤ」と応えると、私に優子さんは抱きついてきて、「嬉しんだけど、なぜか涙が出ちゃう」と自分の心情をサヤに披露し始めた。彼女はこれまでに、友達を持ったことがなかったこと。彼氏、彼女と呼べる人を持ったことがなかったこと、自分には青春という言葉は無縁だとずーっと思っていたことなどをサヤに告白調に伝えていった。サヤは優子さんの隣のチェアに座り直すと、俯いている優子さんの頭を撫でていた。私はその慎ましい光景を、頬杖を突きながら眺めつつ、「みんな、いい仲間」となんとなくセンチメンタルになりながらその温かい陽だまりのような空気感に浸っていた。

「アキ、幸せそうやね」という言葉がサヤと別れるときに、彼女の口から私の耳元に囁かれた。そのとき優子さんはすでに背を向けたときだった。私は何か小さな不安、胸騒ぎを感じた。

 サヤからのラインには、「明君と会いたいねん」というメッセージが数十回あったが、私は既読スルーを決め込んでいた。そうしている私の所業をサヤは許していたのは確か。


 平日は講義が終了すると、優子さんと私はすぐにお店の仕込みに取り掛かる。最近、ママが病院通いをしており、よく疲れた様子でいることが多くなった。なので、二人でお店を回し、ママの言いつけ通りに丁寧な接客を彼女と私でこなしていた。

「アキちゃん、本当に綺麗になったね」とほめてくれる常連の小父さん。「本当のところ、優子ちゃんとの関係はどうなのよ」と詮索好きで遊び人風の若者などもママが不在となっても足繫く通ってくれていた。優子と私の男女間の詮索は常連客の間ではすでに下火となり、一見さんや通い始めた客は、私のことをれっきとした女子として扱っていてくれた。「ねえ、この後、俺とお店が退けたら飲み直さないか」と誘われるたびに、優子さんがウルフカットの裾を靡かせながらその客の横にやって来ては、こう言うのだ。それもジーンズの後ろポケットの光るものをチラッと見せながら。

「私の子猫ちゃんに手を出さないでよ。いつでも、相手するよ。」

 そのときの優子さんは低音ボイスで、凄みを利かせて上目遣いに相手を睨むのである。すると、そのような客は分かったという風な仕草をして、こう言うのだ。「アキちゃん、姉さんがいないときに誘うわ」と言うが、その後、私自身が誘われた記憶はほとんどない。私はこのとき非常に有頂天になる自分がいることに気づいていた。なぜなら、優子さんが全力で私のことを守ってくれるからだ。その凄みが私のことを一途に愛してくれていることなのだとジンジンとお腹に染みわたっていくのだ。そんな日は、私は店の看板灯の明かりを消すと優子さんに抱きついてしまう。優子さんは無言で私の唇を力強く奪う。私も彼女の唇を思う存分に味わう。歯止めが利かなくなる。素肌を合わせたくなる私がいる。優子さんはボーダーのTシャツを剥ぎ取り、ブラのホックを私が外してあげる。私は襟元の詰んだタンクトップはそのままで、スカートは脱ぐ。優子さんの背後に回り、彼女のうなじに舌を這わせる。彼女が首を私の方に傾ける。彼女の小さいが柔らかく張りのある乳房を私は後ろから腕をまわして優しく包み、その後で少し力を入れて確かめる様に掴む。「私の乳房?」と私が尋ねると、優子さんは「そう、アキの乳房」と応えてくれる。私たちはこのときに交わることはない。ただ、ただお互いの感覚がシンクロしてしっぽりとした時間を共有するのである。身体が互いのオルガズムを増幅して、優子の感覚と感触は私に乗り移り、独りの女として濡れていく。性交ではない交わりが私たちの愛を育んでいった。もちろん真面目に学業してます。


 前期の試験期間も終わり、夏休みへ突入する前日、スナックYにまた同期の有志が集った。もう、皆が私の事情と私の心を知っているので、何も心配することはなかった。店でも、私はママの後継者としての地位を築きつつあった。最近では、ママの体調が優れない日も多く、私が表看板娘で、優子は店内では通常は陽気で気さくな姉さんで、何か事が起こればお店の用心棒的存在として動いていた。まあ、このお店の常連客には格闘技系の方々もお見えになるので、然したる心配は無用。そんなこんなで、商店街の会合にもママの代理の優子さんに付き添って、同席する機会も増えていた。最初に異世界と呼んでいた空間は、すでに自分にとっては呼吸のしやすい泳ぎやすい必須環境になり代わり、自分自身を丸ごとその環境が母親の体内の羊水のように受け入れてくれていた。聖母マリア様のような包容力と寛容さを持ってこの世界は、私という存在自体を包み込んでくれたと、私はそう実感していた。それもこれも優子という女神のおかげである、と思っていた。

「さて、我々にとっての大学生活最初の前期が終了し、テストの出来、不出来はさて置きましても、これから夏休みに入ります。我々の高校同期会も前回からこの店のママの娘さん渡辺優子さんを特別会員として迎い入れ、それと言うのも優子さんが私たちと同じ大学で、えーと、優子さんは加賀美君の彼女?でいいかな。そのご縁から寛ぎの場所と安価で美味しい料理とお酒が飲めるという特典を利用して、現在の会合が開けるわけです。」

 幹事の生田君は、躊躇しながら、続けた。

「まあ、加賀美君が将来的には女子になることは、このメンバーであればよーく分かっていたので、大きなショックを誰も受けなかったわけですが、あの通り。美しい」と、彼は私を指差した。パープルのタンクトップに、白いショートパンツの私。白肌の美しい脚を私は見せびらかしたかったかも。

「あのう、加賀美。僕と結婚してくれない?」と、彼は場を盛り上げる。

「おい、プロポーズかあ?」という野次が数名の男子から飛んだ。

「おい、生田。優子さんに、ぶっ飛ばされるぞ!」と、あの安藤君の冷やかし。。

「では、加賀美。後ほど個別で話をしよう。えー、従いまして、前期終了記念の会をこれから、このスナックYのご好意によりまして、朝までエンドレスでやっちゃいます。いいですか? グラスの用意は? 今回、ご発声をママにお願いしてあります。」

 生田君は、汗をぬぐいつつ、マイクをママに丁重に渡した。

「はあーい、皆さん。本当にありがとうございます。優子をこの会の会員に加えて頂き、私、泣きそう。優子にこれだけ沢山のお仲間ができたことこそ、奇跡なの。その奇跡を作ってくれたアキに感謝するわ。そして、今いる皆さんに、とっても感謝!」と言って、ママは小さなピンクのハンカチで目頭を押さえた。そして、「みんなの青春に、みんなの将来に幸あれ! 乾杯!!」と言って、自分のグラスを軽く掲げた。

 会場のグラスたちが割れんばかりの音を立てた。そのとき、ママがよろけた。ママのグラスから少量のビールがぽとぽとと床に零れた。私はママの横にいたので、ママにすかさず手を差し伸べた。

「ママ、大丈夫? 上で、横になる?」と、私は問いかけたが、ママは目をつぶったままだった。優子さんはサヤの隣に立っていたが、すぐに私とママの許に来た。

「パパ、大丈夫?」

「駄目みたい、優子」と言うと、ママはカウンターに手を掛けてはいたのだが、その手が離れて、その場にうずくまるように崩れた。

「アキ、救急車を呼んで!」と、優子が叫んだ。

 結局、優子さんがママに付き添って病院に行き、私がお店のことをすべて任されることになった。有志会はママと優子さん抜きで、純粋に同期会へ移行した。私はママのことが心配ではあるが、まずはこの会のお客様である同期の皆のお相手が先であるという使命感を持っていた。そう、ママは「お客様ファースト」だと、いつも繰り返し語っていた。

 サヤが優子さんの代わりとしてサポートに入ってくれた。

「サヤ、ありがとう。助かるわあ。」

「私、あなたの知っている通り料理何かできへんから。心配よね。ママのこと」と、ママのことを気遣い、私の心中を察してかサヤ優しく微笑んでくれた。

 会がお開きになる時刻に、優子さんから連絡が入り、このまま手術に入るから遅くなるということが告げられた。数名が、また、残りの酒をちびちびやりつつ、私もママから頂いたジュラ島のシングルモルトスコッチをそのメンバーに提供していた。

 カウンターを挟んで、私とサヤが対峙していた。二人とも、忙しさの中でもアルコールをたんまり摂取して、そのエネルギーを活動の熱量に変えていたので、濃いお酒が疲労を和らげつつ、心地いい酔いを進ませていた。

「アキ、ご両親にちゃんと今後のこと伝えた?」

「まだ。でも、おかあちゃんは私のすることは知ってるみたい。お父ちゃんには面と向かって言えへん。」

「もう、我が遠藤家ではあんたのことみんな知ってるもの。あんたのことが亜美ちゃんとお兄ちゃんの結婚の障害になるわけまったくないんよ。本当は、加賀美家でも周知のことやで。」

「えー、どうしてそう言うん? やっぱりお姉ちゃんがもうすべて喋ってしもうたかな。」

「アキ、私は正直言ってあんたが女子としてここにおる事に何の不思議も感じん。もっと、早くに記憶が元に戻って、こうならんかったと思うほど。そしたらもっと前から楽に息ができたんとちゃうか?」

 サヤはショットグラスに口を付けていた私の頭を両手で捕まえて、自分の額に引き寄せた。サヤは上体をカウンター越しに前面に倒していた。すでに私たちの距離は思いのほか縮んでいた。お互いのおでこが触れた。懐かしい感触を私の身体が覚えていた。もしかすると、サヤもこの感じを自分の中で想起させているかもしれない。彼女との女子会の日は、私の着替えが終わると必ずサヤが私を抱きしめてから、そっと私の額に唇を押し当ててくれた。その後、お互いの額をぴったりと合わせたのだ。「明君、あなたは女子。」その呪文がサヤから囁かれると、私の心身は日常的重圧から解放されてフワッと軽くなった。

カウンターを挟んでいるが、すでにサヤの両目が私のニセンチ先にあった。彼女の唇がその距離をさらに縮めてきた。私の口紅とサヤの口紅がスコッチの味と合わさった。

「ええ味しとる」と、獲物を食らったようなサヤ。彼女のお茶目ぶりは相変わらず。

続けて、サヤは私にトーンを下げて尋ねた。お互いに神妙な顔つきをしていたと思う。

「こんなとき卑怯やと思うけど、一つ質問。アキ、優子と寝た?」

「寝るには寝たけど……。」

「私が訊きたいのは、彼女とあんたの関係。特別な関係になった? とくに男明君が優子と交わったかどうか」と、彼女はきっぱりと語句を定義して問い質し、さらに言葉を続けた。

「私に、まだチャンスある?」

「何のチャンス?」

 サヤは、私の眼の奥をじっと覗き込んだ。そして、彼女は声をさらに潜めた。

「アキと復縁するチャンス。あらせんか?」

「……。」

私は、サヤの想像もしなかったセリフに自分の思考回路がバグを起こしたようだ。確かに私の幼馴染で、私の人生で最初のよき理解者で、女同士の付き合いを初めてしてくれた大親友とでもいう存在。そして私の感覚を受け入れてくれた最初の友達で、もしかすると私の初めての彼女で恋人。そのサヤの口から出た発言は、私を驚かせた。もう彼女との関係は私の中ではほんのりと暖かい陽射しの小箱に自分では封印したつもりなのに。

  

 男として彼女との初セックス(?)以来、サヤは学校では私に男子らしさを少しだけ求め始めた。あの下校中の彼女の行動と私たちの交わり以降は、私は非常に注意深くなった。用心には用心を重ね、彼女を遠藤家の門柱の向こうに突き放つように押し込むと、「また、明日ね」と言って小走りに走ってその場から幾度か逃げていた。二人の女子会のときはいつもの親友サヤが私を招き入れてくれるのだが。

 高三になってからサヤとは別々のクラスになった。最初はその事実だけでも私を困惑させた。さらに、理系クラスと文系クラスの教室分けの後の学校で、サヤが、「私たちの学校での関係をお休みしいへんか?」と私に告げたのだ。ますます私の不安が頭を擡げてきた。「学校での関係?」って何?

サヤ曰く。

「明君は学校では私の恋人って、誰もが思っているやん。それが何だか嫌になってきたんよ。それは私が女子だからかもしれへん。男の明君がおると思うと私、甘えが出てしまうん。なんか知らんけど明君に頼りたくなるんよ。これではいけへん。私は宇宙へ行きたいんよ。明君、昔から一緒に夜空を見て私が話したこと覚えてるよね。そうあんたがよく知っている通り、私はK大学理工学部宇宙工学科に行って、明君と宇宙へ行く。それが夢っていつも話してたよね。ここは一念発起して、『目指せ! K大理工学部』ってことで、男の明君との関係を断ち切り、勉強に精を出すんよ。分かってくれる?」

 絶句する私は、底知れぬ暗い闇へ落ちていこうとしていた。

「でも、安心して。女子明君なら、私の周りでうろちょろしてもかませんよ。所詮、私と同じ女同士。そんな扱いしかせえへんし。全く気使わんでもいいし。」

 明るくなる「男子」の私の表情をサヤは見てから、こう言った。

「その笑顔が私を惑わせるんよ。また明君と一つになりたいって、思ってしまうんよ。女子明君のときは、ただ、ただ明君と心身の感覚と感触をシンクロさせるだけで、それはそれで私、もっと言えば、明君とすべてが同調してるって、女同士、レスビアン的感覚が私を天国へ連れて行ってくれるんよ。でも、男明君はそうはいかへん。私の頭脳システムの正常値を狂わせる何かが私の内部で心地よく密やかに小刻みに震えてくるの。あの日以来……。だから、クラスが別々になった機会に、男明君と付き合うのはお休みにする。そう宣言するために、このカフェに寄ったんよ。ああ、これが男明君との最後のデートや。」

 笑顔の似合う気の強いサヤが突然、顔をぐちゃぐちゃにして、号泣し始めた。

「どうしたの?」

「悲しいやん。こうして男と女として下校時にデート出来ひんこと。」

「そうかあ。」

「やっぱり、明君は男子のときには女子の繊細な心の機微が働かへんなあ。それって、あんたが本当には女子にはなれへんということやな。」

「そんなことあらせん」という言葉が突いて出たとき、私の声が乙女であることを自覚して口をつぐんだ。私は正真正銘の女子になりたいだけだ。すでに私自身の心身は共に女子であるはずであったが。私には一つの決意めいた心の蕾の小さな花弁がゆっくりと動き、綻び出した。


その夏、多くの友人連中は受験予備校の夏期講習へ通っていた。私も親に頼み込んでやっとのことでサヤと同じ予備校の文系難関受験クラスへ通うことを許してもらった。もちろんサヤと同じ大学へ行きたくての心底からの行動である。よく遊びに出かける三ノ宮駅からほど近いところにその予備校はあった。

 私は男子でいるときはボーっとしていることが多い。特に、サヤに学校内での恋人休業宣言を申し渡されてから益々多くなった。そして、自分自身の内側に自分の存在について尋ねることが多くなった。ちょっとでも自身のことを考え出すと、例えば、「どうしてこんな格好をしているの」などと思うだけで、恥ずかしくて顔を赤らめて現状から逃げ出したくなる。学校での授業は好きな科目は頭にすんなりと浸透してくるが、嫌いで苦手な科目は誰もが経験するように睡魔が猛然と私を襲ってくる。休憩時間にはサヤがどこか怪しく私の秘密のすべてを握っている優越感を漂わせて、実は甘えてくる。周囲はそのような私たちを公認の中として完全に放っておく。その点ではこの環境に満足していた。男子でいることで、周りの女友達は「可愛い明君」って呼んでくれるのは良いが、私は彼女たちを羨ましい眼差しで見ている。セーラー服女子、JKという最大の価値を持つ旬な彼女たち。私の眼差しが彼女たちのどこに注がれているか。それは彼女たちの身体、胸の膨らみ、お尻の形、髪質、肌質、匂い、一挙手一投足、彼女たちの諸感情の振幅の揺れへ向けられる。その観察動向を悟られないようにすることに私は苦心する。「私の方が、あなたより肌質はいいの。ケアは女子らしくちゃんとやってほしいわ、工藤ちゃん」って、口に出して言ってやりたい。「どうしてこの娘、ちゃんとナチュラルメイクをしてこないの。私の方があなたより上手いのよ」って、井上さんに指摘して指導してやりたい。その点、「私の彼女であるサヤは素敵」などなど。進学校であっても女子としての最低限の自身の身体へのケアと身だしなみはしてほしいと思ってしまう自分がちょくちょく顔を出す。だから、男子でいる間は、普段の学校生活の様々な出来事を無感覚に流す様にしていた。でも、もう学校での男子という「私」にほとほと疲れてきた。

 サヤが提案した。夏期講習の期間中は朝に私の家で着替えて、本当の自分の姿になってほしい。つまり、気の散る男明君ではなく、女子明君になってから一緒に予備校へ通おう、と。その当時、私はバストの膨らみを除いては劣等感を抱かなくなっていた。それに私はやっと身長がサヤに追いついた。服のサイズは彼女とそんなに変わりはしない。ただ私の痩身はそうは変わらず、まるで中学生長身女子という体型に近かった。致命的な胸にはパットを入れてかろうじてAカップを保っていた。このカップサイズだけでも私は有頂天になってしまう。何度も言うように、女の証がここにあるからだ。すでにこの頃には自分の家にも、サヤの部屋の洋服ダンスと整理ダンスにある程度の私の下着と洋服が備えてあった。サヤが当日のコーディネートを決定する。この日の服装はインナー付のキャミの上にロゴ入りのオーバーサイズTシャツを、ボトムはネイビーブルーのアンクルパンツ。靴はスニカーシューズ。そう、冷房で冷えないようにだ。そして、カーデをバックの中に。

 サヤと私は予備校に着くと、それぞれのクラスへ入室する。今度会うのは昼食時だ。サヤは理系難関校クラスで、私は文系難関校クラスに別れる。ざっと三十名くらい入る教室で、予め座席指定となっている。個人情報保護の観点から、氏名ではなく、予備校入校番号が発行してあり、その番号がドアに掲示してある。座席を確認する。教室は前後に入り口があるが、後ろからゆっくり歩みを進めた。もしかすると、同じ高校の知り合いがいるかもしれないからである。「今は、いないみたい」と、内心で呟いてホッと胸を撫で下ろした。でも油断はできない。私は一番窓側の二列目の席だった。私の隣はまだ着席していないみたい。すべてのデスクは個人用で独立している。男女がアトランダムに配列されているみたいだった。私は講習会用のテキストを大きめのトートバッグから取り出そうとしていた。すると、誰かの太腿が私のバックの端に引っかかった。

「あ、堪忍な」と、長身長の短髪男子が身を屈めながら、私のバッグから零れ落ちた電子辞書を拾い上げながら謝った。

「ありがとうございます。」

「ほんまに堪忍。ちょっと電源入れてみてんか。壊れてたら弁償せなあかんさかい。」

「ええよ、かまへんよ。」

「いやいや、そういわんと。点けてみい。」

 しつこい男子、と私は思いながら、バックを横のフックに掛けてから電源を入れた。

「ほら」と言って、私は明るくなった画面を彼に見せて納得させようとした。

「ああ、良かったで。一度、どっかで会うてへんか? 俺、太田幸司。コウちゃんて、呼んでや。」

 私は一瞬、ポカンとしてしまった。この男子は何を言っているの。誰もあなたの名前を聞いてないし。それに興味ないから。何か変てこな怒り、憤りに近いものを私は感じていた。よくサヤと一緒に歩いていると、私たちに男子が声を掛けてくるが、私は彼女にいつもその応対を任せていた。彼女は慣れたもので、いつも男子を退散させていた。「良い顔すると男はつけ上がるから」と、彼女は私に注意したことがある。

 私は、その彼の呼びかけには答えず、テキストにある過去問に目をやった。廊下側の隣の席の彼は、「まあ、ええか」と小声で少し落胆したように零した。それからすぐに窓側の私の前の女子が息を切らして駆けてきた。その彼女の後から一時限目の英語の講師が威厳のある雰囲気を漂わせながら入ってきた。私は、前に座った彼女の横顔が少々気になった。確か一年生のとき同じクラスだった山本香さん? 彼女は私に気づいていない、と思う。私自身、当時から比べて髪も伸びて、ゴムで留めなければすっぽりとうなじも隠れる長さ。学校では最近、後ろ手に小さく束ねている。メイクも上手になっている。さらに右耳を出してサヤとお揃いのシルバーのイヤーカフを付けている。変装しているといえば、私は純粋な女子から見れば、女装家、あるいはオカマ。あの女装コンテスト以来、先輩後輩、同輩に関わらず、「お前、服装が違うぞ」、「ちゃんと化粧して来いよ(私、スキンケアはちゃんとしてます)」などなどの周囲からの雑音が日増しに多くなった。少しでも本性らしい空気を彼らが嗅ぎ取ると、男子も女子も私にセーラー服を着せようと取り囲む。実はそれが私自身には嬉しかったのだが。従って、昼休みに襲撃を受けて、午後の授業を女子として過ごしたこともこれまでに幾度かあった。先生方も誰も目にとめず、そのまま放置された。そんな日はどこからともなくサヤがやって来て、「明君、一緒に帰ろう」って積極的にフランキーに誘ってくれた。それがとっても嬉しくて、ある日、私は自分で自分の感覚と感情と身体的微熱が抑え切れずに、同校卒の先輩にあたる姉から彼女が以前着ていた制服を借りて、その姿のままで登校してしまったこともあった。もちろん、父と母が勤め先に出かけた後、私は完全に身の回りを整えて学校に向かった。そう月に一度、月経周期の間隔で私の心身はそのように揺さぶられた。周りの反応? もう気にしない、って感じで。もう男子に戻りたくないの、と思いながら。


 隣の男子の顔は真剣そのものであった。さっきまでのふざけたチャラいオーラは失せて、きりりと鼻筋の通った横顔は秀才的な風貌に変わっており、私は少々戸惑った。先程までの彼に対する評価を訂正しなければいけないような気持になっていた。私もピーンと張りつめている教室の空気に染まっていった。教科の切り替わる小休憩に、前の彼女に声をかけた。本当は関りを持つことは避けようと思ったのだが、小さな火種は先に消しておきたかった。

「コウちゃん?」と呼びかけ、自信なげに彼女の背中を親指で突いてみた。

 いきなり、隣の男子が私の方を見た。

「覚えてくれたんや。ありがとう、おおきに。」

「いや、あんたのことやないし」と、私はぴしゃりと言ったが、彼が自分のことを「コウちゃん」って呼んでと言っていたことを思い出した。

「俺やないんか」と、彼は言うと同時に、前の女子が振り返った。

「ああ、アキラくんじゃない。久しぶり、元気にしてたん?」

 やっぱり覚えていたのかと私は観念した。このエリアのショップで何度か鉢合わせをしていた。すでに中学生の頃からその状況にあり、最初は無視して回避を試みたのであるが、度重なり、サヤと私の関係を知ってしまったが、彼女にとっては私たちのことは関心の外にあるようで、学校では私の実体についても沈黙を守ってくれていた。実は時折、三人揃ってカフェでお茶をした過去もある。というわけで、昼食時間になり、自分の持ち物をバックに詰めて、サヤとともに三人での会食となっていった。しばらくして、私の隣の彼とその友人とおぼしき男子とファストフード店で会った。私が独り言のように、「アレ? 隣のコウちゃん」と彼の方をぼんやりと見詰めて呟いた。

「ははあーん、明君、あの男子って大学付属高のエリートたちやね。」

「えっ、どうして知ってるの? サヤは付属に知ってる人いた?」

「おるよ。去年、あんたとあそこの文化祭行ったやん。アイツ、舞台でギター弾いてたやんか。エリート校にカッコええ男子おらへんと思ってたから衝撃やったで。」

「全然、覚えてへんし。」

「サヤ、あの彼ね。アキラくんのこと気にしてるんよ。休憩になると、アキラくんの横顔をちらちら眺めてるんよ。アキラくん、知ってた? 彼、私のタイプやわ」とは、香ちゃんの弁。

 私にはそのように見られているという意識も、覚えもなかった。というより、彼が私を見ているという事実を認めてしまうと、勉強に集中できなくなる、身が入らなくなるのではという心の動揺を感じていたので、どこかに覆い隠そうとしていた。これって、三年の新学期にサヤが私に宣言した内容と被るの? 

講習期間中、そのファストフード店で頻繁に見かけるうちに、彼らから誘いを受けた。

「ここで会ったのも何かの縁や。一緒に食べへんか。」

 それ以降、私は講習期間中が楽しくて仕方なくなった。受験勉強と男子の友人ができたからだ。これで私も本当の女子。そんなウキウキした気分も長続きはしなかった。講習会最後の日、私たちは彼らと夏期講座の打ち上げと銘打って、カラオケボックスに繰り出した。誰か、多分、男子の誰かがサワーやカクテルを頼んだのだ。皆で本当に大きな声で私たち青春してます、って威張りたいくらいの盛り上がりだったと記憶している。私は、あのコウちゃんに肩を抱かれていた。男子の腕が自分の肩を巻き込んでいる。私は逃げるつもりはさらさらなかったが、本当に男子の腕の力を実感していた。私の酔いがそうさせたかは分からないが、なぜか目を閉じて彼の肩に自分の頭を傾け、そこに置いた。暖かい、でも汗ばんだ男臭が私の鼻孔を擽るのを心地よく感じていた。私の目の前から照明が少し暗くなったと思った瞬間に、彼の厚めの唇が私の呼吸を止めた。小さなグループラインが立ち上がった。彼との関係は合格するまでは進展しないことになった。お互いに受験勉強に専念するという共通の信念のもとに。本当? どこからかコウちゃん同士が付き合っているという噂話を聞いて、私はサヤの胸の中で嗚咽した。

「明君、男は信じられへん。でも、私は、明君が大好きや。合格したら抱いてや。」

そんなサヤの囁きを耳元で聞いた記憶があった。

年末に緩く切ないグループラインは破綻していた。私の両親とサヤの両親、それに婚約直前のお姉ちゃんとサヤの兄であるカズ君は、受験生である私たちを家において、年末年始の温泉旅行へ出かけて行った。私たちは受験勉強に真面目に取り組みながら、サヤと私は暖かい部屋で寄り添っていた。彼女の舌が私の耳の輪郭をなぞっていった。彼女のキスが私のお尻に印を押した。私は彼女のさらに豊かに熟した乳房が憎らしい。もう私の掌には収まらない。巨大なマシュマロの丘は私の指を飲み込むほどに厭らしい。少し食さないと、私の可愛い胸の膨らみには似合わない。彼女の胸の丘の曲線をアンダーから何度も何度も舐め上げた。彼女の乳輪の形に唇を合わせ、彼女の乳首を思い切り吸い上げた。彼女の艶めかしい吐息が漂う。彼女の太腿と私の太腿が深く交差し、濡れていった。抱き合って私は彼女と一日中肌を合わせていた。私は男子に恋はしないと……、誓った。


「もう一度、言うでえ。私は、アキが好きなんよ。アキと関係を持つチャンス。もし、優子とまだなら、あんたを彼女から奪えるやんか。」

「ねえ、サヤ、スゲー酔ってへんか? 自分が何を言っているのか、分かってる?」

 彼女は、数名残っている仲間たちに大声で宣言した。

「私、沙也加は、明君のこと、今でも好きです。今、優子がおらへんから、卑怯やと思うけど、私自身、こんな自分のこと嫌いになりそうやけどな。私にとって、優子とは明君を通して、素敵な友達になったけど。あー、自分で何をゆうてるのか分からんようになってしもうた……。明君と結婚したいんよ。」

 サヤは、カウンターを乗り越え、私を目がけてダイブしてきた。私は同じ背格好の彼女を受け止めると同時に、流しの縁に頭を打ち付けた。

「大好き!」と彼女は勢い任せに言いながら、私の唇を再び奪い、私の偽物の胸にサヤは自分の顔をグイグイと押し付けてきた。

「何? 略奪愛かあ?」と、安藤君は伊達君とその修羅場を見て大笑いをしていた。

「ここだけの話にしとこうや」と、生田君が自分のつぐんだ唇に一本指を立てるジェスチャーをして言った。

 サヤを私は肩に抱えて、奥まったソファーへ腰かけさせた。サヤのⅤネックサマーセーターの胸元の大きな谷間の影が深く私を誘っているかも。どこかでサヤと肌を合わせたい衝動が沸々と湧き上がっている自分が淫靡な瞳をしているのではないか。自分の唇の赤みが増しているのではないかと。その光景が誰かに見透かされているのではないかと不安になってきた。私は彼女を座らせ、私もその横に彼女を支える様に腰を下ろした。すぐさまサヤの体重は私の方に寄りかかり、私が少しだけ彼女との距離を置こうとした動作が彼女の頭を私の膝に落ち着かせた。懐かしいサヤの寝顔。いや、私の寝顔だったはず。サヤは私と一心同体だったはず。中学校以来、サヤの体調が私の体調。彼女の女の子の日が近づくと一緒にPMSの症状を発症し、仲良くお休みをとっていた。それだけ彼女と感覚と感情、体のすべてを共有していたはずの私たち。私とサヤの良好な関係を崩した奴。間隙を縫って、あのとき現れた男の明。あいつが諸悪の根源。あるときから彼を完全に封印してきた私。そういう私に一抹の不安をサヤは与えた。サヤが恋しているのは私じゃなくて、男の明君なの。もう、どこを探しても彼はいないんだよ。サヤが見た通り、私はアキなんだよ。誰が見たって、誰が触っても私はアキなんだから。それは彼女も既に分かっているはず。だから、あの日以来、女子として私は彼女と交わっていた。それでいいでしょう、サヤ。サヤはいけないことをラインで言うから。「明君、約束通り、私と契って。男の明君がほしいんや。我慢できんようになったから。ほんまに何とかしてや、気が狂いそう。」

 サヤの寝顔が私の寝顔に見えてきた。彼女の黒髪に私は自分の細い指を櫛のように通してみた。サヤの髪の一本の毛先から足の爪先まで、私は彼女のすべてを知り、同調していたはず。かつてのサヤと私の結びつきが少しずつ呼び覚まされてきた。私は、可愛そうな私のピンクの唇にオレンジ色の唇を乗せた。サヤの眼が瞬時に開き、甘える潤んだ彼女の瞳は私を即座に束縛した。私の身体がワイヤーにでもまかれたような金縛りにあい、サヤの腕が私の上半身を引き寄せ、私たちの唇と唇が大きく開いて、私の舌先は私の舌の温かみを確かめていた。ソファーの影での出来事は続くの? 私の指はサヤのミニスカートを押し上げ、内腿の滑らかな柔らかい皮膚の上を登っていった。彼女の掌が私の胸のカップを強く押し上げようとした。

 スナック専用のピンクの固定電話がけたたましく音を立てた。宴の余韻を残して眠りについている者を揺り起こすような衝撃だった。サヤと私も心臓が張り裂けるような恐怖を確かに感じた。

 優子さんからの電話だった。

「パパ、もしかすると、助からないかもしれない……。」

 とても悲しそうな弱弱しい彼女の声が私の鼓膜に微かに届いた。

「これから、私もそっちに行くね」と、私は即応すると、「サヤ、後、お願い」と続けた。

 お店の前で、運よくタクシーを拾った。病院までは十分程。その僅かな乗車時間が思ったよりも長く感じた。救急の受付でママの本名を言うと,外科病棟を指示された。エレベーターの場所が分かりづらい。待ち受けていたエレベーターに素早く乗った。七階で降り、その階のナースステーションに駆け込んだ。「渡辺孝之さんはどちらですか?」と尋ねた。七〇七号室に私は駆け込んだ。薄明りの下で、彼女、優子の姿、彼女の背中を認めた。素顔のママ、渡辺孝之さんが静かに眠っていた。やさしい声を出すように私は努めた。

「優子さん。」

「アキ、来てくれたのね。みんなは?」

「みんな喜んで、楽しく騒いでた。ママが大変な時に、ありがとう。」

「いいの、お店だものね。それに、アキがいてくれるから。」

「ママは?」

「パパは、大丈夫みたい。でも、癌が進行しているって、先生が言ってた。だって、最悪なステージにあるんだって。だから、今回は応急処置的手術だって……。」

「今は、ママぐっすり寝てるよね?」

「ええ、麻酔が効いてるから」と、優子さんは言うと、立ち上がって、私に被さってきた。とても疲れて眠たそうな表情をしていたように、私には思えた。私の顔を見降ろしながら、キスをした。いつものように彼女の舌は私の舌にしつこく絡みついた。ディープなキスはすでに私たちの習慣だった。

「コーヒー飲んだ?」と、優子さんが尋ねた。

「うん、残っている皆にコーヒーを出してから来たの。サヤもママのこと大変心配してたよ。」

 優子さんは、私の胸元に鼻を付けた。犬のように彼女の鼻先が私のタンクトップの表面をなぞりながら入念に嗅いでいた。

「サヤ、まだいる?」

「いるよ。いろいろと手伝ってもらったの。」

「サヤにお礼をしなくちゃ」と言うと、優子さんは再び、ママのベッド脇のチェアに腰掛けた。そして、優子は息を殺して泣き出した。

 私は優子さんの背中から彼女を抱きしめた。密着するには、自分の胸元の膨らみが邪魔だと、初めてほんの少し思った気がする。

「優子さん、愛してる」と、私。優子さんは左手を伸ばして私の右肩を、右手を伸ばして私の左肩を包んだ。まだ、彼女は静かに頬を伝う涙を流しているようだった。

「私ね、アキしかいないんだよ。さっき、サヤのパヒュームの匂いがしたよ。サヤとは何もないよね。サヤは、すごく私にとって大切な友達だよ。でもね、サヤは今でもアキのこと好きで、諦めてないよ。ラインでいつもアキのことが話の中心になるの。彼女はいかにアキが素敵な女子か褒めているの。アキのあらゆる事を知っているって、自慢するの。それも事細かに。いつか私、アキを奪われそうな気がして、心配で堪らないの。」

 私は、ドキッとした。先ほどの私とサヤの出来事を、サヤの言葉と行動、私との行為を熟知しているかのように、優子さんは自分の不安定な心情の中味を吐露した。ママの容態がますます彼女の様々な心の不安要因を増長しているかもしれなかった。

「優子さん、一緒になろう」と、私は本心から彼女に告げた。

 私たち二人は、病院からママの着替えを取り繕うためにお店に戻った。お店のカウンターのシンクのところで、私が出かける直前まで身に着けていたエプロンをしたサヤがお皿を洗うなど、後片付けをしていた。

「おかえり、優子」と、サヤがとても優しく穏やかに彼女に声をかけた。

「ただいま。ご免ね、そこまでさせちゃって」と、サヤの献身的姿に私はお礼を口にした。

 優子さんはサヤの声掛けに一言も反応しなかった。私は、次の優子さんの行動を危ぶんだ。察知したというのではなくて、もし私が優子さんだったら何を考え、次にどのような行動に出るかを繋がっていく私たちの親密な感覚の中で、僅かばかりの思考の断片が気付かせてくれた。優子は小さなポーチから銀色の楕円形らしき物体を取り出した。優子の手の中でそれはLEDライトの冷たい照明の下で鋭く光っていた。サヤが手を洗い終わって、カウンターの中からこちらに出てきたと思ったときだった。

「サヤ、アキを獲らないで!」と優子さんが絶叫すると同時に、彼女はサヤを目がけて突進していった。私は咄嗟に彼女たちの間に身を滑らせた。私のお腹に何かがずぶりと入っていく違和感。でもまだ痛みは私の脳内に到達していない。時間が歪んだのか静止映像が私の前のヴィジョンに映し出されていった。その後、私の腹部辺りに鋭い痛みが走った。

 優子さんのウルフカットの髪が猛獣のように逆立っているのを、私は目撃したと思う。サヤはまだ、何が起こったか把握できないキョトンとした顔だったと思う。私の意識ははっきりしていたと思っていたが……。

「ギャーア」という、優子さんの叫び声が店内に響き、木霊した。

 私は仰向けに背中からサヤに身を任せて、彼女とともに床にゆっくりと倒れ込んだ。私はサヤの上に乗っかり、彼女を押し潰していた。少し、意識朦朧としながら私は立ち上がろうとした。サヤは尻もちをついた状態から、カウンター席の背凭れに手をついて起き上がろうとしていた。私のパープルのタンクトップのお腹辺りが深紅に染まり始めた。

「キャー!」と、ナイフと血を認めたサヤの悲鳴がお店の中に衝撃を走らせた。

「サヤ、私は大丈夫。アクシデントだから、ね」と、私はお腹に力が入らないから、息を吐くように言葉を薄く彼女に向けて発した。

 優子さんは、その場に跪いた状態のままで、自分の顔を血の付いた両手で覆っていた。優子さんの口は堅く閉ざされているようだった。彼女はもしかすると、呼吸をすることを忘れているかもしれないと、私は彼女がとても心配になった。私は、優子さんをちゃんと抱かなくてはいけない。今、抱いてやらないと、彼女が壊れてしまうと思うと、自然と感情が高ぶり自分の頬に涙が伝ってきた。私は力を振り絞って、跪いて息をするのを忘れている優子さんの頭を血がこびり付いた片手で、自分の方に引き寄せようとした。私のお腹から滲み出た深紅は白いショートパンツの内腿へと流れ、広がっていった。

「一緒だよ、優子さん。」

 私はもう自分が息苦しくなっているのを感じていた。優子さんが大きく息を吸う呼吸音を耳にした。その後、優子さんの心臓の鼓動を耳のそばで聞いたような気がした。優子さんが私に言葉にならない何かを囁いたかも。でも、覚えていない。時間の感覚も私には定かでなくなってきた。

「うわあ、あ、あー」と優子さんの壮絶な悲鳴を、私は、腹部に増す痛みとともに暗闇に引きずり込まれる直前に聞いたはず。


 よく眠った気がして、私は目を覚ました。白い天井が自分の居場所を知らせていた。私は病院の寝巻に着替えさせられていたことにもすぐに気付いた。起き上がろうとすると、お腹に違和感があった。息苦しく思って、自分の視線を下に降ろすと、ぐるぐるとお腹に包帯が巻かれていた。優子さんが私の手を握って寝息を立てていた。病室のスライド扉が開いたかと思うと、サヤの姿が現れた。私はそっと空いている手を彼女の方に軽く上げた。サヤは足音を立てずに静かに歩み寄ると、私に小声で伝えた。

「アキ、心配しないで。うまく話をしておいたから。」

「サンキュー、サヤ」と私も囁くような小声で返した。私は、本当に、本当に、すごく彼女に感謝したかった。私は意識が薄れていく中で、多分、サヤに懇願していたのだと思う。どれだけの寛容さを持って彼女が私たち二人を扱ってくれたか。感謝しきれないほどの恩恵をサヤは私たちにくれたのだ。

 それからサヤは優子さんが深く眠っているのを確認すると、私に「話半分に聞いておいてよ」と前置きしてから私に言った。

「ああ、ホンマにアキは幸せ者やな。優子も幸せ者や。こんなカップル、今迄、見たことないでえ。もう涙がでるよ」と、本当に彼女は頬を濡らし、話しを続けた。

「でも、私は明君が今でも好きや。これだけは、変わらへんよ。何かあったら、次回も私を呼びや」と言ってから、次に、サヤは優子さんの肩を揺さぶり始めた。

「起きて、優子。アキが目を覚ましたよ」とサヤは声を掛けると、私に手を振ってさっと病室を後にした。優子さんはサヤの後姿を一瞥しただけで、無言で握っている私の手を強く握りしめた。その彼女の握力は痛いほどの愛情を私に注いでいるかのように思えた。


 私はこの夏、田舎には帰らなかった。もう、田舎には帰らない決心をした、と自分の中で誓ったと言ってもいい。ママの入院、その後の経過による長期の入院も見込まれることに事態は進んでいったからだ。もしかすると、これも自分の両親へ対する自身の心情のカミングアウトを遅らせる端緒として自分が捉えていたかもしれない。

 ある日、少し体格的に細くなったママは一時退院してお店に帰り、短時間だけれども優子さんと私を前にしてダージリンティーを飲んでいた。三人でたわいもない話をしていたように思う。その会話の最後だった。

「アキ、優子を頼むね。優子、アキを頼むね。二人にお店を託したわよ」と、ママは告げた。その後、ママは私たち二人にいつものようにお店を開けてと注文をつけ、独りでタクシーに乗り込んで病院に帰っていった。私たちはママの言いつけ通り、スナックYを、お店を愛する常連を含めて、来ていただくお客さんために開店準備に取り掛かった。しかしその日の午後から首都圏に台風一五号が最接近する報道がなされていた。近くのデパートや企業も終業時刻を早めていた。娯楽施設も同様な措置を取っていた。なぜなら、JRを含め各私鉄も計画運休の前日アナウンスを行い、運転終了時間を繰り上げたからだ。しだいに、外の雨脚は激しさを増してきた。強風というより、暴風がお店の扉と窓を壊れんばかりに揺さぶった。お店は開店時間を過ぎても誰も来る気配さえなかった。

「優子さん、今日は誰も来ないよね。」

「そうかも。じゃあ、お店閉めようか。」

 私たちは、店頭の明かりを消した。カウンター席に並んで座った。ショットグラスに注いだスコッチを口に含みながら、台風が大都会を揺さぶっている大気を感じつつ、久しぶりの二人(確かに、いつも一緒だけれども、お店に関わる仕事や生活面の雑事が多いので、ぽっかりと何もしない空いた時間はなかなか持てなかった)の落ち着いた時の中にいた。   二人ともすでにくつろいだ服装に着替えた。私自身、何だか久しぶりに一息つける時間を手に入れた感覚になっていた。優子さんはいつもの定番であるボトムズのスキニージーンズではなく、ノースリーブの黒いⅠラインキャミワンピに身を包んでいた。

「優子さん、見て、見て」と、私は彼女に刺されたお腹の傷跡をロゴの付いたオーバーサイズTシャツの裾を捲くって、見せた。別に彼女を責め立てるつもりは毛頭なかった。

「私の柔肌にあなたは傷をつけたのよ。分かっている。どうしてくれるの?」と、私は茶化して、軽い調子で彼女にこの話題を振った。私自身、決して彼女をいたぶっている感覚は持ち合わせていなかった。優子さんは、しげしげとその傷跡を見て、そこに人差し指を軽く置くとなぞり始めた。彼女は私からTシャツを奪い取り、自分の唇をその傷跡に当てた。彼女の舌先が、一度、私の傷跡に当てがわれた。

「私のモノ。アキは私のモノ」と、呟きながら、優子さんは顔を私の腹部から私の眼の高さまで上げてきた。ゆっくりと優子さんは自分の腕を私の背中に回すと、私の唇を彼女の舌先が味見した。彼女の手は私のブラのホックを外すと、速攻でそれを剥ぎ取り遠くへ放り投げた。私の上半身は生まれたままの姿。いえ、女の姿。私の胸には精巧な人工乳房が装着してあり、その私の小さな乳房が震えた。彼女にTシャツを強引に脱がされるとき、コットンの布地がきつく擦れて、私は初めて自分の乳首の先端に痛みを感じたように思えた。その乳房はママからの私へのプレゼントだった。


彼らにカミングアウトして間もない頃、ママが私に言った。

「私なんか時代が時代だけに、中途半端なまま来ちゃったけど、アキは若いものね。焦らずに女になりなさい。『もう私は女』って粋がっているけど、まだまだかも。私ね、あなたに一つプレゼントしたいのよ。今、胸に安物の質の悪い人工乳房かモコふわパッド入れてるでしょう。そんなんじゃなくてもっと女らしいお乳を私があげるわ。本物そっくりな乳房、ほしくない?」

「でも、ママ。それって高価でしょう。」

「気にすることないわよ。あなたがあなたでいられ、優子がそんなあなたを愛しているんですもの。確かなものにしてほしいの。やっぱり、豊満な方がいいわよね。Cカップ以上がいいかな?」

「ママ、私は優子さんの乳房が好き。」

「え、あんな貧乳がいいの? 親がそう言っているんだもの、間違いなくあの娘は貧乳の部類よ。でも、確かに形がいいのは認めてあげるけど。」

「私、優子さんになりたいんです。優子さんと最近は少し融合できたかなと思ったりします。」

「優子とユウゴウ?」

「厭らしい意味じゃなくて……。」

「そんなの分かっているわ。あなたたちのお互いの愛し方はそれでいいと思う。本当のところはよく知らないけどね。じゃあ、優子の胸の正確なサイズと画像を私に送ってくれる。」

「はい!」と、私は明るく元気よくママに返事をしてしまった。

「変な感じね。娘の乳房を欲しがるなんて。私も私ね。確かに作ってあげるといったけど、その胸のパーツモデルが自分の娘とは。まあいいか。」

 それから私はママとの会話の経緯を説明し、優子さんの乳房の画像とサイズを入手し、ママに送った。優子さんは私の行為に何の疑念もさしはさまず、「アキは私のものだものね」と言ったことを私は覚えている。私は私で、これで優子さんと心身ともにもっと浸透できると喜んでいた。


私を止まり木から降ろし、その場に立たせると私のビキニショーツもするりと脱がせた。私は恥ずかしくなって、膝頭を合わせた。アンダーヘアから覗く小さな小さな突起部分を隠すためにも。

「優子さん、ダメだよ。感じちゃうよ。」

「アキと一緒になりたいの、そのままのアキと一緒になりたいの」と。優子はそう言うと、私のモノを隠している太腿に掌を捩じり込んで、股間を持ち上げる様にした。すっぽりと彼女の掌に覆われた私のⅠライン。私は全裸。私の男性自身と思われるものは微動だにしない。むしろ益々萎縮して、周囲の肉片に吸収されていく。通常の生活でもそうだが、私自身が「女」を自覚している間は特に男性としての残存物は股間に消えていく。その様だから動物の雄としては不適格であることに間違いない。私は「女子」として、優子に股間を愛撫されている。そう感じると、透明な液体が愛液よろしく流れ出す。ベッドではお互いの蜜が溢れ出すと足を交差させて、互いの股間を貝合わせよろしく一つにする。強くお互いを敏感に感じながら私たちは溶解していく。私はそのつもりでいた。ただ、愛し合う場所が全く違う。愛を確かめ合う柔らかいベッドの巣はここにないよ、って私は優子さんにアドバイスしたかった。もうすぐ場所を快適なところへ移すつもり? そうであるに違いない。

 彼女の局部への愛撫は続き、彼女の透き通る瞳が私を獲物として認識している、と私は少しだけ心地よい恐怖心を抱いた。彼女の瞳がすーっと視界から消えると、太腿を広げた私の局部がすっぽりと熱い感触の中に入っていった。

「え、え、えー」と、私は今までに経験したことのない感触を下半身に感じ、消えた優子の姿を追った。彼女はいつワンピを脱ぎ捨てたのか。彼女の美白の背中が艶めかしく私の眼に飛び込んできた。優子のウルフカットの髪が私の股間を覗いている。否、違う。私のⅠラインをすべて飲み込んでいる。彼女が私の膨らみのすべてを嚙み切ろうとしている。

「優子さん。あ、あ、ダメ。」

 確実に優子さんの舌が私の小さな突起の先端を蕩ける様に舐め尽くしている。確実に彼女の唇が私の股間のIライン部分を塞いでいる。私の性器すべてを彼女は口内に収めている。彼女の唾液が私のモノすべてをドロドロに蕩けさせている。私の未踏の領域へと、彼女は私を軽やかに誘っているように思えた。生噛みをしていた優子さんの前歯の先端が私の根っこに鋭い牙を入れてきた。

快感と苦痛。喜びと恐怖。相対する感情の波が岩を砕くように激しく合流していく。

「あっ」と、私は息を言葉にしただけ。優子さんの牙が私の男の残存物としての股間の膨らみを喰いちぎろうとしている。そう思った瞬間に、私は見降ろしている優子の後頭部を掴み、さらに彼女の口の深部にまで自分のⅠラインにあるすべてモノを押し込みたくなった。私の思考回路が正常に動いている気配は毛頭ない。猟奇的? 狂気的? だって、優子さんと私の関係だって常識は全く通じない。「千切れる」と私は心の中で叫んだ。そう、このまま優子に男の小さな証を食べてもらえたならどんなに楽ちんな気持ちになれるか。そう、女になれる。

 どれだけの時間がここまでに流れているか見当が全くつかない状態だった。私は、戸外の暴風雨の騒めきだけを耳の底に残していた。

 ドンと突風で、お店のドアが音を立てた。私は目を開いた。優子さんが立ち上がっていた。彼女の唇の端から赤い滴が顎の先端に向かって一筋流れていた。優子さんの優しい潤んだ目が私に上から接近した。私の両の乳房を彼女は両手で覆って、「私の乳房」と彼女は私の耳元で囁き、耳朶を彼女の大きな口が加え込み音を立てて吸い上げた。その後、また彼女は身を屈めるとアンダーバストから私の胸の曲線をなぞるようにして全体を密着させて、いつも緊張している乳首まで舐め上げた。私の乳首が入念に愛撫され続けていた。その光景を見て、皮膚全体で感じている私がそこにいた。私は優子さんに侵される。侵され……、たい。彼女ともっと一つになりたい。優子さんが止まり木に太腿を大胆に開き、秘所を私に向けていた。桜色の大きな襞へ私の唇が接吻する。彼女はカウンターを背に大きく仰け反る。私のさほど長くない舌が彼女の奥部へ吸い込まれていく。

店の外で安普請の看板が、トタン類の軽い板が無残な悲鳴を上げながら、そして飛ばされる大きな物音とそれがアスファルトに接し、ガラガラと転がる音。

優子さんの左脚が私の腰に纏わりついていた。私の腕が彼女の右脚を拘束していた。私の下半身が彼女の熱く深いⅠラインを押し分けて密着していた。彼女の悩ましく艶めかしい表情を注視している自分がいた。私はもしかすると恍惚という感覚を味わっているかもしれない。私は完全に優子さんに浸透し、優子さんは私の中に溶けて染み入った。

戸外では今なお、羽のある竜が、ゴンズイ玉のように、大群で幾度も幾度もビル群の間隙を繰り返し通り抜け、数頭の竜が建物にぶつかりアスファルトの地面に叩きつけられる。嵐は街中を混沌の渦の中に巻き込んでいた。

どれだけの時間を過ごしたのか。私たちはカウンターに顔を俯せて、向き合いながらお互いの髪の毛をそれぞれがかき上げていた。私のシアーカットの隙間に向かって彼女が優しく息を吹きかけた。私も真似して彼女に口を尖らせて甘い息を吹き返した。目の前の私の微笑みがとっても嬉しかった。

「アキ、ベッドに行こう。」

「うん、行こう。」

 私たちは全裸で止まり木から片足ずつ床に足を付けて降り、手を取り、向き合った。

「ああ、アキさあ。生理になったの?」

 私は慌てた。自分の内腿を流れた血痕を発見した。と同時に、股間に痛みがあることに気づいた。

「私も一緒だよ。私たち周期が一緒なんだね。」

 優子さんはそういうと自分のシークレットゾーンに指を触れた。彼女の人差し指と中指の先端に、経血と思しき濃い赤とそこには白濁色の液体も混じっていたように見受けられた。

 優子さんと私はシャワーを浴び、ベッドで寄り添い微睡ながら、続きの密やかな時を楽しんだ。もう、台風が過ぎ去った静かな朝の日差しが遮光カーテンの隙間から注ぎこんでいた。多分、その陽光は洗い流された街を眩しく照らし始めているに違いないと、私は思いながら優し気な表情を浮かべて眠っている優子の心臓の上に掌を置いた。


 夏休みに帰らないことを母に告げた次の日、姉が開店時刻を待っていたかのようにお店にやって来た。

「ふうーん、けったいな店やな。新宿の店ってこんなんやな。」

 これが私の親愛なる姉のお店に入って来るなりの第一声だった。

「お姉ちゃん」と、私はすぐに姉の存在を認めた。というよりも、その前に気配を感じていたと言った方がいいかもしれない。昨日の母との電話で、お父ちゃんの最近の具合を聞き、私は安心した空気をすでに嗅いでいた。したがって、急ぎ帰省する理由は見当たらない、というのが私のストレートな結論だった。しかしながら、どうも別の動きがあるのではないかという気配が田舎で蠢いているような気がしてならなかった。というのも、同大学の高校の同期の多くが田舎に帰り、地元民がお互い様々な情報交換をしている状況を鑑みると、私が本来の「私」になってしまったということは、周知のこととして覚悟しなければならないと感じていたからだ。

 私の最近のお店での服装は、タンクトップとショートパンツ、あるいはミニスカートが多かった。少々エアコンで冷やされたときには、綿のシャツワンピやシアーロングカーディガンを羽織ったりしていた。これがお店では、一番動きやすいユニフォームだと、自分では思っていた。

「お姉ちゃん、何しに来たん?」

「様子見や。」

 姉と話をしていると、優子が奥のテーブル席を整えている手を休めて近づいてきた。彼女は誰が来ても怯むことはない。優子はもしかすると私を奪いに来た女だと思って、私を守りに来たのかもしれなかった。時折、お店にファッションモデル関係や芸能関係とおぼしき業界人がやって来て、私たち二人に誘いをかけてくることがあった。私はにこやかな笑顔を作って、優子が近づいてくるのを待っていた。

「お姉ちゃん、優子です。私の恋人です。」

「ああ、あんたが、沙也加ちゃんが言うてた『ユウコ』さんね。ベッピンさんやねえ。」

 西特有の褒め殺し的、先制パンチを姉は噛ましていた。そに対する有効なリアクションは優子にできるはずはなかった。彼女はまだ警戒心を解いていない気配がしたのだが。

「優子です。よろしくお願いします。お姉さん」と、突然、これまで見たことのないような親し気な笑顔を姉に返す彼女を見た。

「じゃあ、取り敢えず、ビールねえ」と、姉は言うなり、カウンター席に腰を落ち着けた。

「ああ、お姉ちゃん。それって、おっさんやでえ」と私が返すと、「かまへんや」という言葉が軽々と今度は勢いよく返ってきた。姉は店内を一通り眺め回した。

「あんたら、沙也加ちゃんから聞いたけど、同棲してるんか?」

「同棲?」と、私はその言葉の意味を知ってはいるが、自分たちがその状態にあることはまったく意識したことがなかった。ただ、優子には私が必要で、私もすでに優子抜きには人生を考えられない。心理的用語だと「共生依存」にあたるかもと思ってみたりした。私自身にしては初耳的な響きを持ってその言葉、つまり「同棲」を脳内に捉えた。

「うーん。あんたらはどう見ても女同士の雰囲気やしねえ。言葉を変えれば、LGBTQのレスビアンのカップルと言ってもいい空気感を持っているしなあ。」

 その姉の感想を遮るように、私は彼女に尋ねた。

「お姉ちゃんは一体、何しに来たん?」

「さっき言った通り、様子見や。もう、お父ちゃんもおかあちゃんにも当たり前やけど、あんたらのこともバレとるでえ。」

「お姉ちゃんが喋ったんとちゃう?」

 私は、少しばかり、自分の言葉遣いを修正しようとしていた。優子にとっては、やはり姉と私の言語とイントネーションは異世界語ではないかと思ったからだ。私自身が上京してきて早々、関東地方の言葉に人情身を感じなかったことを思い出したからである。さらに、お姉ちゃんがサヤのことを話題に出したことが、少し気がかりだったからだ。あのナイフ騒動の終結からサヤとは病院で別れてから会っていないからだ。彼女は住み慣れた田舎で今頃は過ごしているに違いない。私はジョッキを姉の前に差し出した。脇から優子が突き出しと割り箸を揃えてテーブルの上に速やかに置いた。

「優子さんは、アキラとどういう関係?」と、お姉ちゃんは不躾な質問をしてきた。優子のノースリーブのブルーのワンピが慌てて、姉の方に振り返った。その後、優子はゆっくりとした落ち着いた口調で応えた。

「私の大切な人です。」

「そうかあ。じゃあ、結婚を考えとるんか?」

「お姉ちゃん、話が飛躍してへんか?」と、私は姉の質問の唐突さを和らげようとした。

「そうかあ、飛躍でもないけど。だって、おかあちゃんからすると、『独り息子が帰って来いへん』ことは、それは、それは一大事やで。その一方で、『男ん子はカミさんができたら、あっち行ってまうわ。もうこっちには帰って来んよ』とも漏らしてるけどな。そう、おかあちゃんからすると、独り息子が変態で、なおかつ、カミさん候補がいて、彼女のお店を手伝っていることは大事件やで。」

「お姉ちゃん、止めてくれる。優子が困ってるから。」

 私は姉の嫌味を持った話しぶりを止めさせようとした。

「優子さん、あんた、アキラと結婚したいんか?」

「アキと結婚します。」

優子の返事は間髪入れず、即答だった。

姉は笑いながら、一旦席を離れて、ドアの方に向かった。そして、店のドアを開け、誰かを見つけて声をかけた。

「沙也加ちゃん、この二人は関係持ってるでえ」と、夏の夕日差しの暑い中、ドアの前に立っていたと思われるサヤに姉は声を掛けた。すると、サヤが、薄笑いか、苦笑いか判断のしようがない表情を浮かべながら久々にスナックYの店内に足を踏み入れた。

「もう、しょうがないなあ。遅かったか。まだ、付け入る隙はあると思っていたんやけどなあ。」

「沙也加ちゃんが訊いてくれ、と言うもんやさい。御覧のとおりや。」

 思惑のバレた姉とサヤは並んで、カウンターに腰掛けた。サヤは、優子に声をかけた。

「優子、私はあなたに謝りたかったの。ご免なさい。私があなたなら、私もあの時そうしたかもしれない。私って、つくづく馬鹿やって実感したんよ。もう、明君に振られていること承知の上で、復縁を迫ったんよ。」

「分かってる。アキの胸元からあなたのベルガモットのパフュームの匂いがしたから。」

「アハハ、バレていましたか。そりゃあ、すぐに分かるわよね。もっと巧妙に誘惑せんといかんかったね。」

「サヤが悪いのは当然として……。」

「えっ」と、サヤの少し驚いた様子。私も、次の優子の言葉を身を固くして待った。

「サヤが悪いのは当然として。アキ、あなたも悪い。あんなに香水の匂いが移るなんて、

ちょっと接触するくらいではあんなに付かないはず。染みないはず。サヤ、白状して。どこまで、アキを誘惑したの。アキ、あなたはどこまで本気だったの?」

 完全に彼女の攻撃の矛先は私に向かっていることは明白だった。

「優子、私……」と、言い淀んでいると、サヤが口を開いた。

「私が強引に誘惑したの。私が強引に復縁を迫ったの。明君は悪くない。」

「本当? アキ。」

 サヤが目配せをしたように私には感じられた。サヤの心の声が聞こえたような気がした。

「明君、ここは私に任せてくれる」と。

「優子、私に明君を一日だけ貸してくれる?」

「それは駄目」と一言。優子の口調は厳しかった。

「私のアキを取らないで。一日なんて絶対ダメ。一分一秒でも私からアキを取らないで。」

 優子はそこまで喋ると、声を詰まらせた。次第に彼女の表情が曇ってきた。口がへの字に湾曲し、目をパチパチと早く瞬きをし始めた。それから大きな声で泣き出した。

「えーん」と。まるで、幼児が泣くときのように何の躊躇いもなく、何の恥じらいもなく彼女は大泣きをし始めた。私は慌ててカウンターの調理場から羽根式の低い扉を開けて彼女の許に急いだ。優子の感情の発露はいつも突然やってくる。直情径行という言葉があるが、直情ではなく超直情なのである。一度自分が偏向的に思い込むと手が付けられないのは、私はすでに三か月以上も彼女と一緒に暮らしているからよく分かる。私はその場にしゃがみ込もうとする優子を抱きかかえ、ボックス席のソファーに座らせた。私は彼女がいつも私を包んでくれるように彼女の肩から背中に手を回した。私の胸元で彼女は声をまだ上げていた。私は左手で優しく愛おしい彼女の黒髪を梳いて、右手でポンポンと背中を数度叩いた。

優子の動揺していた気持ちがちょっとずつ収まってきたようだ。

「何か、あんたらの間であったんか?」と、好奇心旺盛なコテコテ関西の姉が姿を現した。話す筋合いはないとは思いながら、私の「私」を最初に相談した血を分けた姉なので、掻い摘んで事の経緯を話した。

「そんな修羅場があったんか?! 三角関係というやつやね」と、さも週刊誌ネタになるというようなハイエナ的臭覚を姉は働かせ、根掘り葉掘り内容を詮索し始めた。私は、この話はこれで終わり、というように終止符を打つつもりだった。サヤは立ち上がると、姉の尖った唇に蓋をすると、私の中で落ち着いている優子のそばで暴言を吐いた。

「この泥棒猫! 明君は私のものだからね。あなたにいつもラインしていた通り、文面で説明した通り、あなたより明君のこと……、明君のすべて……、明君の身体のこと、明君の気持ちもすべてあなたより分かっているんだからね。優子、あんたに、明君の何が分かるって言うの?」

 私は優子の呼吸が荒くなってきたのを自分の懐で感じていた。次の瞬間、私の身体がふわっと浮いたように感じた。私は後ろに仰け反って、テーブルを後ろ手に受け止める格好になった。私の前を優子の長く白い脚がブルーのスカートの裾を翻しながら、サヤと対峙するように踏み出した。「危ない」と、私の心がこの空気感に警告を発した。私はもちろん身を固くした。姉は口をポカンと開けたまま、目を見開いていたように思う。

「私に、アキをちょうだい。」

「……」

 時間にしてどれくらいだろうか。涙目の優子と鋭く光るサヤの瞳が空間にじっと静止したままビッグバンの瞬間を待っているようだった。

 そのとき、お店の電話がその大気を揺るがせるほど、けたたましく鳴った。優子が受話器を取った。次第に優子の表情が厳しく険しくなってきた。受話器の向こうの声はこちらまで聞こえないが、ネガティブなニュースであることはすぐに推し量れた。

「パパが、パパが危ない、って」と言いながら、優子は力なく受話器を元に戻した。

「優子、病院にいくよ」と、私は急ぎ彼女に声をかけた。私はサマーニットのカーデをハンガーから剥がすように取ると、優子とともにタクシーを拾うべく、彼女の手首を強く握って表に飛び出した。その前に、私はサヤに向かってに頭を下げてお願いした。

「また、お店をお願い。」

「分かった。亜美ちゃんと留守番してるから、安心して」という返事が、私と優子の背中に投げつけられたのを確認した。

 二人で病室に飛び込んだ。が、ママの姿がベッドになかった。

「パパ、パパはどこ?」と、優子のパニック体質がここでも表面化し始めた。せわしなく声を出す彼女。私たちが渡辺家の家族だと察した看護師さんの一人が、告げた。

「渡辺さんは緊急手術に入りました。その内容はあなたがたに伝わりましたよね。落ち着いてください。」

 そういうとその看護師さんは、過呼吸気味になっている優子をベッド脇のラウンドチェアに座るように促した。私は少し屈んで、優子を後ろから力を込めて包んでやった。この日の彼女の肩幅は元気なときの凛々しい彼女のものではなかった。彼女が弱々しく自分の幼女のように感じられた。私が守ってあげる。彼女がそんな存在に思えてきた。

優子と私は場所を変えて、廊下の長椅子に身を寄せ合って座っていた。私の右腕は小さく丸くなった優子の肩を抱えたままだった。もう二時間だろうか。体内感覚で私はそう感じて、目を固く閉じて、不安から逃れようとしている優子にお店のことで姉に電話する旨、伝えた。サヤに任せたのだが、先程の一件があり、彼女の名前を出すわけにはいかなかった。私が立ち上がろうとすると、優子の腕が伸びてきて私のカーディガンを弱く引っ張った。

「大丈夫、お店に電話するだけだから。」

「……、うん。」

 優子の微かな声を聴いた。カーディガンの裾が伸びていた。彼女の三本の指がサマーニットの荒い目に引っかかっていた。彼女の瞳が小刻みに震えていた。私は彼女の肩を改めて抱きしめ、片手でサヤにラインした。

「ママが緊急オペ。お店は大丈夫?」

「安心して。亜美ちゃんが良い調子! 私も楽しい。」

 お姉ちゃんが良い調子? サヤも楽しいって? 一体お店はどうなっているの。でも、まだ帰れない。とにかくママのオペが終わるまでは動けない。もう三時間ぐらい経ったろうか。それ以上の時間がすでに霧消しているかもしれない。時間の感覚は私たちにすでになかった。優子は目を閉じ、身を固くしている状態で、極度の緊張感に疲れたのか寝息を立てていることに私はしばらくしてから気付いた。私はずっと肩を抱き、私の胸元で彼女は生きている証の温かい呼吸をしていた。私の喉元に彼女の息がかかると少し擽ったい。なぜかどこかで優子は私の子どもかなと錯覚してしまいそうになった。今まで、こんな感情になったことはなかった。いつも頼りないのは私。アドバイスをくれるのは優子。励ましてくれるのは彼女。いっぱいの愛情を私に注いでくれるのは彼女。そして、私は優子と一つ。本当のところ私は良く分かっていた。優子と私の関係性。

優子が言うことは、もう一人の「私」が言っていることって。否、優子が自分に言い聞かせていること。アハハ、私も思考が堂々巡りをし始めてきた。

「渡辺さん、お父さんの手術が終わりましたよ。お父さん、大丈夫ですよ。」

 優子と私は長椅子でお互いに寄りかかって眠ってしまっていた。すでにママは元の病室のベッドに移されていた。そこにはなぜか穏やかなママの顔があった。それはママの術後の状態がいいのか、あるいは、ママの命が助かったという私たちの安心感がそうさせるのかは不明だったが。

 優子はベッド脇の椅子にゆっくりと腰を下ろした。私は彼女の両肩を持ってその動作が終了するのを助けた。彼女の表情が緩んだように、私には感じられた。

「パパ、大丈夫?」と、優子は呟くと、ママの右手を自分の両手の中に包んだ。ママのごつごつした皮膚を彼女の白く長い指が隠しているようだった。今なら、お店の状態を確認できると私は判断した。

「優子。私、一度、お店を見てくるね。それで閉めてくるね。」

 優子の耳には届いたのだろうか。私の方に顔を向けて、微笑んだ。

「アキ、パパは私が付いているから、大丈夫。」

 彼女の関心事は、ママの、つまり彼女のパパの容態に傾注していた。私も彼女に笑みを返し、「すぐに帰ってくるね」と返事をした。私は急いでお店にタクシーを飛ばした。

 お店の扉を恐る恐るゆっくりと開けた。私の眼に飛び込んできたのは、ハカイダーさんと腕を振り上げている姉の陽気な姿とハモる歌声だった。未だに関西エリアではプロレス中継が人気で、姉もNプロレスの大ファンだった。店内は常連さんで盛況を呈していた。

「あ、アキちゃん。お帰り」と、ノリコさんの陽気で呑気な声が私を見つけて飛んできた。

「明君、ママは大丈夫?」とは、サヤの質問。

「ママに何かあったら、お前のせいだぞ」と、ハカイダーさん。

「さあさあ、アキも一緒に飲もうよ。」

 飛び交う自分勝手な、酔客の発言の数々。もう収拾がつかないって感じ。こんなこと久しぶりと私は思っていた。私は一旦、エプロンを被りながら、ママの容態を報告した。

「皆さん、大変ご心配、ご迷惑をおかけしています。ママの緊急手術も無事に終わって、今は優子が付き添っています。また、私もすぐに戻ります。」

 多くの常連さんは、口々に「良かった!」を大声で連発した。

「俺たちの祈りが神様に届いたんだよ」と、爆音でハカイダーさんが怒鳴るように安堵の感情を露わにした。サヤによると、私たちが出かけた後、ハカイダーさんたちプロレスラー数名と一部の常連客がやってきたが、事の次第を姉が話すと、「死神からママを引っ攫うには俺たちが、ママのサポーターの俺たちが結集して、ママ救出総決起集会を開かなくてはならない。そうすれば、死神も恐れをなして退散するであろう」という算段となり、彼らが友人や知人に連絡を取り合い、このような盛大なママ奪還パーティーになったとか。

 私の目頭がICコンロに電通するがごとく、すぐさまぼわっと熱くなってきた。私は久しぶりにハカイダーさんに愛情深く羽交い絞めにされた後、大勢の掌に載せられて、天井すれすれにまで胴上げされた。もう私の顔はぐちゃぐちゃになっていた。どうしてここにいる皆は暖かいの? どうしてママは愛されているの? どうして私はこんな素敵な人たちに囲まれているの? どうして優子は私を拾ってくれたの? どうして……。

 その日の記憶は途中からフェードアウトして、いつサヤと姉がお店の後片付けをして、奇麗に掃除してくれたかの記憶がない。私は、再び、病院に戻り、帰り際にママの瞳が開いて、私たちを穏やかに送り出してくれたのは覚えている。優子と抱き合って眠りについたことは確か。


 ママが退院する日まで、優子と私は交互にママの病室へ着替えなどをもって訪れた。ママは二度の緊急手術で胃と十二指腸を三分の二ばかり切除されたことになる。さすがに食が制限されてこれまでのような迫力がなくなっていた。でも、ママは笑顔を絶やさず、私たちをいつもベッドの上で迎えてくれた。その間にも常連さんたちが顔を出してはおふざけを言い合っていた。

「ママの素顔って、結構、イケメンじゃない?」

「当たり前じゃない。だって、私は美人の娘の父親よ。」

「それに、優子さんにいいお嫁さんを見つけたわね。ね、アキちゃんは絶対、ママの後継者としては打ってつけよ。アキちゃんは物知りだし、経験も豊富だし、お客様への対応も天性のものね。それに第一、ママのこと大好きだものね。」

 ノリコさんはその後、順調にオカマの彼氏タマチャンとお付き合いをしてるようで、あの日から毎日ご機嫌だった。私はにこにこしながら、彼らの会話の合間に相槌を打っていた。私は、優子のお嫁さん。私の心をその言葉が気恥ずかしく擽った。とても嬉しい反面、私はやはり優子の庇護対象者なのかな。

 ママが退院した日、優子が私に「パパを見ておいて」と言って、今日の食材を近くのスーパーまで買い出しに出かけたときだった。

「本当に、アキ、感謝しているわ」と、ママが食卓の椅子に座ったまま頭を深く下げた。

「ママ、そんなこと止めてください。私は何もしてませんよ。」

 私は恥ずかしくなって、ママに背中を向けて、急須にケトルからお湯を注いでから、振り返った。ママはまだそのままの格好をしていた。

「ママ、止めてください。そんな姿勢をしていると疲れちゃいますよ。」

 ママはゆっくりとした動作で、顔を上げた。ママの頬に涙が伝っていた。何の涙か私には皆目見当さえつかなかった。ママは鼻で息を一杯吸ってから、言葉を続けた。

「ありがとう、アキ。優子と一緒にいてくれて。もう私たちは親戚との付き合いがないから。天涯、親子二人というところかな。但し、私の所有している財産を狙っている遠い親戚はいるかもしれないけど。これまでに、優子がこんなに執着した子はいなかった。あの娘が自分のものだと思っている友人や知人が、少し時が経つと知らないうちに消えていくの。原因は分かっていたわ。優子ね。もうアキなら良く分かっていると思うけど、あの子ね、精神的な障害とまではいわないけど、執拗なまでに愛着を持つものを見つけると、そのすべてを所有したがるのよね。それは、普通の人にとっては相当な重荷でしょう。それだけじゃなくて、相手からも同等な愛を引き出そうとするよね。もし、自分の愛情に見合うだけの相当量が相手から返ってこないとなると、あるいは、相手が自分の思っている以上なことを要求すると、相手を傷つけ、殺しかねないよね。さらに、自分の相手を取られるという恐怖心からかな、相手の周囲の人間が自分の敵じゃないかとか思い込み、その人間に対して抗戦的になったりする。そのいい例が、優子がサヤさんを襲った事件?」

「ママ、それをどうして知っているの?」

「ある筋から入手したのよ。」

「まさか、優子がママに告白したとか?」

「優子が私にそんなこと言うわけないじゃない。あの子は行動的に見えて、内に秘めて溜め込むタイプなんだから。それでいて、私に似てお人好しなところがあるし、『この子とは友達になれそう』と思うと、結構何でも包み隠さずお喋りしてしまう性向もあるわね。ということで、学部横断的なあなたの高校の同期生会で、優子を特別会員にしてくれたじゃない。あの日、あの子は静かに見えたかもしれないけど、すごく楽しそうで、珍しく人に気を使っていたのよ。確か、後で聞いた話だけど、サヤさんと取っ組み合いをしたとか。そのサヤさんとは、実は『とっても気が合うみたい』って、優子が彼女のこと気に入ってたわ。確かに、あの二人は気が強そうだし、それにと言っちゃあ変だけど。あなたという共通項が存在したわけね。だから、あなたも知っている通り、あの二人は随分とアキのことでラインの応酬をしていたこと、あなた知ってる? 知らないでしょうね。それにね、優子とアキはいつも一緒だったというけど、一つだけ語学クラスが違ってたって言ってたわね。その時間に、二人で話もしたそうよ。」

 ママの口から私が知らなかった事実も出てきた。「え、あの僅かな時間に彼女たちは会っていたの? いつも私が優子に声をかけるときは、すでにサヤは消えていたというわけ?」という私の疑問の心の声が飛び出してきた。

「もう、分かったわね。ある筋というのは、サヤさんから直接聞いたわよ。『私、親友に命を奪われそうになりました』って。」

 え、いつから優子とサヤが親友になったの?

「で、そんな神妙な顔をしないで、続きを聞いてくれる?」

「はい」と、私は言うのが精一杯だった。呼吸をするのも忘れるぐらいドキッとしていた。

「ここからが本題だよ。私、そろそろ引退するね。人生五十年って、信長が言ったと思うけど。私はその五十年を当の昔に通り越しちゃった。それに不摂生がたたってこの様じゃない。余命は転移している癌次第だってお医者さんにも言われたしね。あとの余生を楽しく生きていきたいのよね。出来れば、孫の相手でもしながらね。これは冗談だよ。これは前置きで……。」

 ママは少し喋るのに体力を使ったように私には見えた。ママは、一度、胸に手を当てて深呼吸をした。

「もし、優子と一緒になりたいなら、サヤさんとの関係を清算してきて。少しだけだけどあなたとサヤさんの関係を聞いたわ。相当、深い仲だったみたいね。サヤさんが、『ママ、私、ママの娘さんから、優子から明君を返してもらいます』って宣言するのよ。さて、どうする? 俗っぽく言えば、大衆週刊誌のゴシップ第一面を飾れる愛の死闘が繰り広げられるってわけ。アキの態度次第だよ。私は、もう優子を止められなし、もし、あなたがいなくなったら優子は壊れることを覚悟しなくてはいけない。」

 ママが再び深く長く息を吸った。

「あなたのお父さんも春に脳梗塞でお倒れになったでしょう。優子にそれとなく言っとくわ。アキも父親の病状が心配って言っていたわ、と。それなら優子も今、自分が私のことで心配し、介抱してくれているから、少しの間なら納得してあなたを田舎に帰してくれると思うの。私の言うこと、分かってくれる? 娘を思う親の率直な気持ちだよ。私ね、優子にね、生前贈与して人生のメインロードから引退したいのよ。」

 私の気道が勝手に締まっていくような感覚に襲われた。

「私の希望を言っていい? 私は、優子を幸せにしてくれるアキが必要なの。」

 玄関戸の開く音がした。優子が微笑んで、ダイニングの扉をすっと開けた。

 私は数日後、田舎へ帰る意思を優子に伝えた。


 私は自分に素直になってからは、ずっと女子で暮らしていた。さて、すでに私自身のタンスの中には男物の下着も衣装も数点しか残っていない。残っているもので帰省中の男性としての衣服を整えたかったが、どうもうまくいかない。

「優子、これでどう?」と、私はロゴTシャツとジーンズを身につけてみた。

「うふふ。アキ、そんな古いロゴじゃ、田舎者丸出しって感じ。」

「酷いじゃない。」

「その前に、インナーからメンズに変えないといけないよ。そのままではねえ。」

 優子は口元の笑いを押さえるかのように、立ち上がると私の頭を撫でながら忠告した。彼女は私を自分の胸に包み込み、収めた。優子と離れたくない、と私は切に思った。

「ちゃんとご両親に正直にカミングアウトしてね。それに家族皆の健康具合をちゃんと確かめてから帰ってくるのよ。あなたにとっては大切な家族でしょう。私にはパパとあなたしかいない。早く帰って来てね。」

 私は、彼女の胸の谷間のフルーティーな匂いを鼻に吸い込みながら、心穏やかに甘える子猫のように小さく頷いた。

結局、私が東京にいない間はママが期限付きで復帰をするというイベントがお店で催されたとか。


新幹線が新神戸駅に近づいてきた。トップスはギンガムチェックのポロシャツとボトムスにはベージュのノータックチノパンを私は履いていた。男物の下着も悪くはないが、どうもいつものすっきりしたフィットした肌感が身体にない。とく気になるのが自分の胸元。あるはずの膨らみが今日はない。これだけで自分としては生きてるというテンションが相当下がる思いがしていた。下半身のメンズトランクスの感覚も心許ない。髪はすでに肩にかかるので、高校時代にやっていたように華やかさのない黒いヘアゴムで束ねていた。これから加賀美家の長男として帰省する訳であるから、それなりの男らしい格好をしておいた方がいいだろう。そう判断するのは当たり前か。暗いトンネルを潜り、駅ホームに列車は静かに滑り込んだ。

私は列車のホームドアが開くと、小旅行用のキャリーバッグを一旦抱えてから、フロアに降ろした。取っ手を伸ばし、ゴロゴロと音を立てながら駅改札口を抜けようとしたとき、目を疑った。改札口出口の柱に寄りか掛かっている赤いタンクトップとデニムの短パン姿のサヤ。彼女がこちらに向かって腕をまわしながら大きく手を振っていた。私は彼女にいつ田舎に帰るのかも、それに合わせて待ち合わせ場所をも約束したという記憶はなかった。

「明君、お帰り。宝塚のトップ娘役の人が男に変装している感じか?」

「そうかあ、サヤ。こんなところで、どないしたんや。誰かと待ち合わせをしとるんか?」

「あんたや。明君を待ってたんよ。」

「私?」

 私の脳裏を悪い予感がゾゾっと走った。

「私の明君、ちょっと付き合ってんか。」

 私は彼女の後に大人しく従った。キャリーバッグの取っ手を私から奪い、勝手に先になって引いて行った。私の予定ではすぐに地下鉄に乗って三宮経由で自宅駅に向かうつもりだった。そして、親のお小言を承り、早々に東京へ帰るつもりでいた。サヤは地下鉄ではなく、駅前に車を待たせてあると言っていた。ホワイトグリーンのシトロエンの扉が開き、助手席から姉の姿が、運転席からサヤの兄カズ君が降りてきた。私は姉と母には帰省を告げていたので、少々であるが合点がいった。「そういうことか」と思い、姉を一瞥してから、彼女のフィアンセに挨拶をした。

「カズ君。久しぶり。元気にしてたあ。」

「明、お前、前より奇麗になったんとちゃうか。どうみても、その格好には無理があるわ。男ん子なら、そんなメイクせんよ。」

 私は、自分ではメイクは抑えたつもりでいた。ということは、私はこの道中の人々からどんな目で見られていたのだろうか。現代では問題ないよね、と私は秘かにこれまでの車内の時間を振り返っていた。

「ありがとう。私、そんなに奇麗になった? 東京の水が合うのかなあ。」

「明君、もう諦めたらどないや。あんたね、それじゃあ言葉遣いも、雰囲気も女子のままやて。大学構内でもすでに有名人やし。もう、あんたは男の子に戻れへんのよ。」

 サヤはそう言うと、私たちを急かせて車に乗り込ませた。私のキャリーバッグは車のラッゲジスペースに置かれた。サヤと私は後部座席に並んで腰を下ろした。彼女との距離はゼロ距離となった。すでにサヤの左肩が私の右肩に凭れかかっている。彼女の指が私の右手の指に絡んできた。「あっ」と私の心が咄嗟に叫んだ。私の毛穴の数まで知ってるサヤの感覚が私にもう一人の「私」の存在を知らしめようとしていた。サヤは私の頬にシャロ―キスをした。「私の明君。明君の私」という囁きが、そのキスをした唇がすぐさま耳元に触れ、はっきりと聞こえた。鮮明にサヤの心身のパーツが私の脳内に再び読み込まれてきた。もうじき、私の脳内のスクリーンに映像が映し出される。「駄目だよ」って、もう一人の私が警告してきた。もう一人の「私」は、東京生活をしている私。地元の私はサヤから卒業したはず。その間にも、前席の姉カップルは陽気に私に近況を報告し続けていた。車はカズ君が購入したとか。さらに、姉ら二人とも内定をもらい、学生時代最後のバカンスを楽しもうとサヤと私を誘ったとか。これから有馬温泉へ直行だとか。

 サヤの露わに出ている肩口から石鹸の香りがした。以前嗅いだことのある香り。そうだ、彼女が高校時代に愛用していたものだ。レールデュサボン? 彼女の少し汗ばんだ腕が私の肌に触れた。私の体内に浸透圧でサヤの濃厚な粒子が入り込んでくる感覚を持った。彼女は絡めた指を自分の口元に持ってきた。

「私の好きな桜色のネイル。」

「うん、私も好き。これはサヤが教えてくれたやんか。」

私の脳内画面の読み込みマークが消え、サヤの心身の細部が浮かび上がってきた。サヤは私のその人差し指の先を最初に口の中に含んだ。彼女の舌が繊細に私の指先を舐め上げた。私は彼女の横顔をチラ見した。次に、彼女の唇が私の耳朶を咥えた。地元に帰った空気感とサヤと私の記憶の残存が目くるめくように蘇ってきた。彼女は私の金色のイヤーカフを咥えると、静かに口で器用に取り外した。このイヤーカフは優子に貰ったもの。実は、高校時代には、シルバーのイヤーカフをサヤに恋人の証として貰った記憶があることを、サヤと付き合っていた「私」が密やかに脳内で躊躇いがちに囁いた。銀色のカフはどこに消えた? あの事故のとき? 東京の私が、「優子、ご免なさい」と呟くのを私自身が聞き流した。サヤはそれを短パンの後ろポケットにねじ込むのを私はちらりと見た。

 車は約三十分程度で順調に有馬温泉に着いた。ホテルの駐車スペースに車を止めると、私たちはそれぞれ自分たちの荷物をラゲッジスペースから取り出した。私のキャリーバッグはサヤが引いてくれて、代わりに私はサヤのディバックを肩に掛けた。このホテルのチェックインカウンターにカズ君と姉は仲良く夫婦然として向かって行き、宿泊の手続き終えると、振り返ってこう言った。

「さあ、着いたで。後は別行動や。カズ君と私は婚約者同士やし、お二人さんも好きにやってくれや。そうそう、明、お母ちゃんが言うてたよ。『もうあんたらも大学生や。分別あるから、沙也加ちゃんとゆっくりして来いや』って。」

 同じ階の隣同士の部屋に分かれた。サヤと私は部屋を見回した。十畳ほどの落ち着いた和室に大きめのテラスが張り出し、その横に露天風呂が付いた豪華な部屋だった。

「ここの一泊料金高そうやな。サヤ、ここは誰が予約したん?」と、率直な私の感想と質問。私は世間話などして、自分の気持ちを少しでも落ち着かせたかった。というのも、もうこの日は両親に会わなくて済んだことで、早く元の自分に帰りたい気持ちになり、内心穏やかならずふわふわとした感情に苛まれて、焦っていた。

「そうねえ。私たちの両親からのプレゼントらしいねん。亜美ちゃんとお兄ちゃんは婚約祝い。私たちは大学合格祝い?」

「そうかあ~」と、私は歯切れの悪い言葉尻になりながら、彼女との安全な距離を保とうとして、テラスに足を向けた。すでに暦の上では晩夏といいながら、ガラス戸を開けると、熱く湿り気を帯びた外気が身体に纏わりついてきた。

「明君。私ね、明君と昔みたいに融合したいんよ。神戸は私たちの故郷。今日ぐらいリラックスして一緒に過ごそう。東京のことは忘れて。」

 私の背後からサヤの白い腕が私の首に絡まってきた。早速、彼女の舌先が私の耳穴へ挿入された。

「あ、あっ」と、私は堪らず小さな喘ぎ声を出した。それは自然な私の身体の反応。

「今日は、明君はおっぱいを付けてへんけど、気分は?」

 私はサヤの厭らしい聞き方にちょっぴり腹を立てたい気分になった。私がすでに日常としている女子としての生活から切り離されていることを承知の上での彼女の問い掛けだったからだ。サヤは私のポロシャツをたくし上げ、平たい私の胸をサヤは両の掌で覆った。私は目を閉じて後ろ手にサヤのヒップを両手の指を大きく開けて包み込み、優しく撫でた。

彼女の口が大きく開けられて、私の外耳を潰しながら自分の口内に取り込んでいった。

「ダメ」と、私は抵抗しようと弱々しいが、拒絶の言葉をやっとのことで発した。チュルルというサヤが私の耳を吸いつくそうとする怪しい音が、私の全身の機能を益々麻痺させていった。

「私の明君。私はあんたのすべてを知っている女よ。もう抵抗できひんな。」

 私は自分の息が荒くなっているのを感じていた。自分の本能が疼き出す瞬間が自分では止められなくなるときがあった。果たして何が自分の本能なの?

「明君、あの学校から下校した日を思い出して。あんたは制服を着ていたんよ。まだ男のふりをしている。私は明君が男だろうが、女だろうが基本構わん。でもね、実際、あのとき私は女としてあんたを誘惑したんよ。女子のときの明君のちっちゃな性器は、女子の勃起した大きなクリトリスくらいで、明君とお互いのIラインを擦り合わせるとき、お互いの硬い部分がコリコリ合わさって心身が何処かへすっ飛んでいかんように抱き合ってたね。それに明君の睾丸は普通の男子みたいに袋をぶら下げんと、皺はあるけど股間に縮こまっていてその膨らみが妙に女子の大きな襞の厚みに似ていて、私の襞に沿って密着するんよね。それだけで私たちは溶け合っていたよね。ドロドロに。でも、あんとき明君のペニスが普段よりちょっとだけ大きくなった。『僕は男です』って空威張りっぽく主張するみたいに。背後から私の胸を握っていた手が私の腰を強う抑え込んで、明君のほんの少しだけ威張った性器を私のヴァギナにぐっと入り込ませた。それまで私たちは、というよりも明君は私になりたいって言って、私の身体と気持ちを全身の肌と神経で受け止めて感じてくれていた。最初は、私はあんたの何?って思ったこともあったけど、明君が可愛そうな性分化疾患やから、本人の性自認の方に戻したらんとあかんと思うて、それが私に課せられた使命やと感じて、亜美ちゃんに協力してたんは事実。でもなあ、途中からそんな明君が私の一部、ちゃうちゃう、明君が私になるって言ったのと裏返しで、私がそんな明君になったんと思う。私が私を好きになって、愛して、女同士の契りじゃなくて、それを越えた結びつきを私は欲しくなったんよ。明君、分かる?」

 私は彼女の告白めいた内容を呪文のように視界のすべてを霞に包まれた感覚で聞いていた。その呪文はサヤと私の間に存在した記憶を鮮明に詳細に再生し始めた。


 あれは姉からサヤを引き合わせられた日から間もない頃、確かにサヤに懇願した。

「お願い。私を女子にして。だから、遠藤さんのすべてを見せて、聞かせて、触らせて。感じさせて。私に遠藤さんの身体と心を貸して。そうしたら、私、遠藤さんになれる。そうなれば正真正銘、女子になれるかな?」

 私は、サヤから普通の女子生活を奪ったかも、って受験期に思ったことがあったかも。周囲から見れば、サヤと私は中学でも高校でも仲のいいカップルって思われていて、誰もが私たちの領域に近づかないようにしていた気がした。私は別に男の友人を欲しいとは今まで思ったことがない。だから、周りには淡白な友人関係を求めていたのも本心だ。しかし、サヤはどうだろうか?


 私はサヤの魔法にかけられていた。私は全裸にされていた。サヤがあのときのように美しい背中の流線型を私に向けて、静かにスローモーションのような速さで私の股間に彼女の柔らかくボリュームのある曲線が降りてきた。私の手は彼女の乳房の形を探り、硬くなった乳首を私の指先が愛撫していた。彼女の背中が波を打つ。強く彼女のお尻が私の股間を圧し潰す。大きく彼女の上半身が反って、私に思い切り寄りかかる。私の左腕が彼女の両乳房を潰す様に巻き付く。右手の指が彼女のお臍から下腹部へ下り、Ⅴラインに沿って襞の上部のクリをリズミカルに刺激し始めた。自分が分からなくなってきた。私は周りが素直に観察してくれる通りの可愛い頼りのない女子のはずなのに。今、私は異なる性、獰猛な獣に変貌している? 私の感覚と感情は肉体との関係をどこかで拒絶、拒否しているのか。

 分からないことだらけ。自分の意識とは別の意思が私の身体に潜んでいるとしか思えない。そのスイッチは私のどこに隠れているのだろうか。サヤは知っているはず。私の体もそのことを知っているはず。でも、実際、私は触れられ、刺激を与えられるまでは正気を保っているはず。何かの不安が、恐怖が私を襲ってくると、私は多分、身を守るために防御の態勢を取るのだろう。例えば、私は女なのに心身の隅っこに隠れている男の残骸が私の中で怒り狂うように、高々と剣を掲げる。男は怖いのである。自らが抹殺されることに対する強大な意思に怯えるのである。私は女なのに、私の小さな小さな男子が成長するその瞬間に私自身の変貌に耐えきれず、記憶をデリートするのかもしれない。

 私はサヤに抱かれて、明日の晴天を約束する橙色の光線の中で、露天風呂に浸っていた。サヤが私を後ろから抱えている。彼女の脚は私の両足首をロックし、思い切り私の脚は両側へ押し開らかれている。私が彼女を力で凌駕したのとは異なり、包み込むように彼女の左腕が薄い胸板に巻き付き、一方、彼女の右手の親指と人差し指が私の小さく固まった性器を弄んでいた。私は女としてサヤに愛撫されている。お湯の茶褐色のとろみが肌に纏わりつき、それが彼女の愛撫の隙間を柔らかく埋めてくれる。彼女の指は私のすべての触覚を覚醒させていく。そのことはサヤの身体の触覚を刺激することと同義。

「明君は、私ね。」

「サヤは、私ね。」

 中学二年生から高校二年生までの四年間で、このように密やかに呼び合うことを何度したことだろうか。その後に続く言葉。

「大好きなんよ」と、二人でハモってから唇を合わせた。

 もう私の心身が過去の刻まれた記憶と触覚を完全に呼び覚まされ、サヤの魔法から逃れなくなりそう。そう感じていた。でも、この魔法を解かなきゃ。サヤの呪文を打ち消さなきゃ。私は幻霧の中で、正確にいえば湯気の中で、私の中の男という幻影をもう呼び覚まされたくなかった。私は女子としてサヤと交わりたかった。

 エアコンの利いた部屋でお互いの髪を、身体を久しぶりに丁寧に拭き合った。私は自分のキャリーバッグを探した。サヤはもう私を許してあげるといった瞳で、玄関戸の上り口を見やった。私はそのキャリーバッグから本来であればブラを何枚か収納するブラケースを取り出した。内心、「優子、本当に許して」と、二度三度と心の内側で繰り返し許しを乞うていた。特殊な接着液をシリコン乳房の内側に伸ばし、自分の胸のいつもの位置に合わせた。精巧に作られている人工乳房は私の身体の温もりで自分の肌の色に染まってくれる。ママの特注は現代の最先端技術の結晶だった。自分の着替えを終えてサヤは私の支度を興味深く眺めていた。サヤは自分とお揃いの色違いのノースリーブワンピを私に手渡した。

「私から離れてから、少しは自立したんやね。私、やっと分かったんよ。あのときの私の掌に残った感触って、これやったんね。」

「そうかな」と返事をして、私は恥ずかしそうに彼女に背中を向けた。

「知ってるで。その貧乳の原形って、優子やろう。彼女が自慢してたもんな。」

「えー、優子が自慢してたん?」

「そう、明君は知らんかもしれへんけど、私たちはあれ以来、あんたを巡って火花を散らしてたんよ。」

「あれ以来って、いつから?」

「履修登録期間に、学務課ですれ違った後からやね。明君、あんたのお父ちゃんが倒れた騒ぎ覚えてる? 優子が血眼で『アキがいなくなった』って学校中、新宿街を駆け回ったこと覚えてるよね。そのとき、彼女は私を見つけて執拗にLINEを教えろって、恫喝寸前。仕方なく教えたら、どっちがアキを知ってるか、どっちがほんまにアキを好いてるか勝負が始まったの。それ以来かなあ、優子とLINEするんが日課になってんな。今日は、『明君、返さへんで』と入れとこ。そういう所、私たち、三角関係のわりに変くない?」

 ただただ私はびっくりした。これまでの優子とのことは、逐一、サヤが知っているということ? すぐには私の心は穏やかにはならなかった。平常を保とうとしたとき、ドアホンがなり、姉とカズ君が「夕食いくで」と、声をかけに来た。

 私たちは手を繋いで、彼らの前に登場した。もちろん、二人ともお揃いのワンピを着て。

「やっぱり、良う似合うわ。明、明日はお父ちゃんとお母ちゃん会うねんけど、それでいいんちゃう。」

「お姉ちゃん、そうするわ」と、二つ返事で私はあっさりと答えた。私の気持ちはもう揺るがない。そう覚悟を決めた。すでに両親とも私のことは承知済みだというから。


 次の日、カズ君の車は姉と私を自宅の前で降ろし、サヤはウィンドウを少し下げてから声をかけた。

「明君、もう怖いもんないよ。頑張りやあ。」

サヤが助手席のそのウィンドウを閉めると、窓越しに彼女は微笑んでから手を振った。

 姉に従って、私は玄関を跨いだ。この日の私は、トップスにグリーン系のノースリーブタートルニット、ボトムスはホワイトプリーツスカートを履いて、清楚な感じを演出しようとしていた。姉も「それでええよ」って、褒めてくれたから。

「只今、戻りました。」

「おかえり」と、両親の陽気な返事が返ってきた。すぐにダイニングに行くと、母がにこりと微笑んでから私をハグしてくれた。彼女は私よりも身長が十センチほど低い。いつも優子は私をこのくらいの高さから見ているのかなとちょっぴり思ってみた。母の頭が私の目線にあった。彼女の柔らかい手が私の背中に触れた。

「お母ちゃん、大袈裟やで。」

「そんなことない。私の大切な子や。本当に奇麗になったね。どう、バイト先のお友達はよさそうな人やけど。仲ようやってる? そうだ、お父ちゃんが倒れて帰って来たでしょう。その後、あんたが元に戻ったって沙也加ちゃんに聞いたから、こっちに残っとった服やらを送ったけど、事足りた?」

 母の口を遮らないと、質問が止めどもなく溢れてきそうだったので母に声をかけた。

「お母ちゃん、優子はいい人よ。私はとっても幸せなんよ。」

「そう、良かったわあ」と、母の言葉が終わったとき、ダイニングキッチンの扉をガラガラとスライドさせて、父が左足を少し重そうに引き吊りながら顔を出した。私は、父と昔から上手くコミュニケーションが取れへんことを引き摺っていた。どうしてだか、父という異性には、(違うで、年配の同性にどのように話を切り出したものか、)皆目見当がつかない状態が自分の中に飛び出してくる。だから、父とは小さいときから、彼に言われたことをすぐに実行に移すか、あるいは、拒否してその場で固まるかの二択的な行動をとっていたように思う。私の口から最初に出た言葉はこうだった。

「お父ちゃん、ご免なさい。」

 私は深々とお辞儀をした。しばらくその姿勢で固まっていたが、私が顔を上げると、父は歯を見せて、私の姿の上から下までざっと眺めたような気がした。

「明、元気そうで何よりや。さあ、座ろ。」

 そう言うと、私の田舎でのテーブルの定位置を指し示し、彼はゆっくりとした動作で私の斜め向かいの自分の席に腰を下ろした。私は無言でしんなりと椅子に浅く腰かけた。

「あの……」と、私は勇気を振り絞りカミングアウトしようと自分のお腹に力を集中させた。もう一度、私が切り出そうとした矢先に父が話し出した。

「ありがとう、顔見せてくれて。前回はわしが倒れているときやったから、結局、お前の顔を拝めんかった。少々、心配しとたんやで。上京する前に、明が女やなかったさかい。皆でごっつう心配して、天変地異が起こらんか心配しとったんよ。」

 父の話のスタートが想定外で、私は単純に拍子抜けした。もう私が女子なのは、口の軽い姉のことだから、両親に伝わっているとは想像していたのだか、父も私の姿をみても険しい表情をみせず、和やかに馴染んだ顔にみせる親しみの籠った暖かい眼差しだった。父の「上京する前に……」とは? 

 

私の記憶に思い当たる場面が呼び出せないでいた。私は大学の合格を知って、すぐにサヤの許へ駆けて行った。彼女はさもあり何という平然とした態度で、「私たち、一緒に暮らそう」って言い始めた。彼女と二人で暮らすことに異論はなかったが、私は東京という土地をそのときまで全く知らなかったといっていい。日本の中心で清濁が混在している俗物大都会のイメージ。その一方で。夢を持った若者が若者らしく好奇心旺盛に暮らせる街という古い青春ドラマのイメージが先行していた。私は父に、「東京って、どんなとこ?」って訊くと、「おもろいところやで」という発言の後に、「でもな、怖いところやで。わしなんか東京へ行きたくないもんな。仕事では仕方なしに行っとるけどな」と。そんなやり取りを覚えている。当時、関西エリアから出たことのない私にとって、そうなのだ、大阪会場、すなわち地方会場で東京の大学試験を受けたのだから。従って、上京するということに抵抗感を感じていたのは事実。もう決めてしまったこと。

 当時は私の中の妄想が泉のごとく溢れ出してきた。それが止められなくなったのも思い出した。私は女子。サヤも女子。二人で暮らしていたら、強盗が、強姦が襲ってくるかもしれない。でも、独りより二人の方が安全に決まっている。それでも非力な私たちは襲われるかもしれない。私は男という風に装った方がいいかも。その方が防犯上は良いに決まっている。良いけど、サヤは私に迫ってくるだろう。「明君、合格したら……」という約束事をさせられた。あの一度の過ちから、サヤは私の中の男ん子をちょっぴり目覚めさせた。あのとき、私は知らない間に彼女の中に白い液体を抽入したかも。それは成人男性器から普段発せられられるもの。彼女は男としての私をご所望。彼女と私は同性同士の幼馴染の親しい友人関係のはず。彼女が男子を好きになるなんて、私の思考にはさらさらなかった。その男子というのが、「私」なの? サヤの態度が少し変質したことに私は気が付かざる負えない。私が男子でサヤと一緒のときは絶対に誘惑に乗らないこと。また、彼女自身も私が男ん子だと、気が散ると白状したこと。私はずーっと女子でいることで、未成熟な残存する男の証を自分の意識から抹殺したく思ったこと。また、サヤが姉に「生理が遅れているの」って告げたとき、正直に心臓が止まるかと思ったこと。幸いにして、遅くにその実印は無事に到来したのだが。その到来とともに、私は彼女とは裏腹に精神状態に不具合を感じていた。今までのサヤと同期していたPMS症状や精神的不安定さや生理痛をも彼女と融合することで疑似的にでも自分のものとしていた私の心身がどこかで不整合をきたし出したようになった。サヤの身体は成人女性なら当たり前だが、私の痩身な肉体には不釣り合いな乳房に成熟していたことも。もしかするとそれが彼女との融合関係から私を剥離させる要因の一つになったかもしれない。いつだったか忘れたけど、「私、女子のままでいる」って周囲に私自身が宣言したかもしれない。その後、周りのみんなが私に優しくなっていき、私自身、とっても日常生活がし易くなってきて、大きく深呼吸できる空気感の中で楽しく快適な残りの高校生活を送っていたような……。そうそう。私、すでに一度、高校のとき男ん子を止めてたわ。

サヤの要求が怖なって、東京という皆目見当がつかない土地が恐ろしいなって不安に取りつかれたとき、私の中で突然、「男」明になって、異郷の環境の変化に対抗しようとした? なぜ私は多摩川縁のアパートを借りて、独りで生活しようとしたの? うまく自分の中で自分自身の状況を昇華できへんけど。そのときから思考基盤のブラックボックスが覗けへんようになって。あ、覗けへんからブラックボックスっていうんや。「私、アホか」と、自分自身に突っ込んで……、情けない。

 私は高三の初秋の朝、サヤとセーラー服を着て、登校した。そのセーラー服は姉のお古だったけど。姉が同校で着ていた制服。なんとなく覚えている。普段着もインナーもその頃から女物の比率が大きくなってきた。でも、私の体の、心のどこかに小さな頼りない弱い男の子がいてごく稀にだけど、「僕、恥ずかしいよ。こんな格好でいていいの?」って、小声で尋ねることがあった。私は戸惑って、動揺して、家の中で両親がいると女の私が遠慮して、私の男の子が逆にちょっぴり安心したりして。私は一体全体どうかなっていたの? 精神的病に落ちっていたの……。私の心臓の鼓動がだんだん早くなってきたような気がした。


「明、わしが謝らんといかん。」

 今度は父が座ったままの姿勢で、テーブルに額がくっ付くくらいに頭を伏せた。

「沙也加ちゃんとすぐ一緒にならへんか、と言ったのがいけなんだか。大学卒業したら、一族の会社を継げ、と強要したのがいけなんだ。わしホンマに反省しとる。」


 父は私の大学合格が発表された日、ご機嫌で家に帰ってきた。父は明治時代から続く神戸の小さな貿易商の母の実家に娘婿として入籍した。従って、立場上は母がその会社の社長で、父が専務として会社を運営していた。実質は父が国内はもとより、海外にも商談に直接かかわることが多かった。会社の規模とすれば従業員二十名程度と小振りである。なので、私がその後継者に指名されることは、薄々察しは小さい頃からついていた。そうだ。私は一度、サヤの家に行き、サヤに一緒に暮らそうと提案され、一度帰宅してその思案をしながら母の合格記念だというお祝いの手料理を少しずつ頬張っていたところだった。

「聞いたで。明、おめでとう。」

「今日は商談がうまくいったみたいやね」と、母が父の苦労を労う様に声をかけた。

「これで、商売の方は安泰や。おまけに明がええところに受かったさかい。加賀美家は万々歳や。明、目出たい席や。一杯やらんか。」

 父はそう言って、お銚子を差し出した。

「ほんまに、お父ちゃんとお母ちゃんには苦労かけっぱなしな子供で、ご免な。」

「そんあことあらせん。ここまで頑張ったんや。もう一踏ん張りして、卒業したら商売を学んでもらうで。そいで、そやそや、亜美が和彦君と結婚することは決まっとるし、遠藤さん家と親戚になるやさかい、大手スーパーとも提携できるで。加賀美家の栄華が来るで。」

「父さん、まだ早いって。いつ私がカズ君に愛想尽かすか分からせんし。」

「そんなことあらせん。和彦君はお前にゾッコンやさかいな。お前を彼は離さへんよ。」

 姉はまんざらでもない表情を浮かべていた。その姉も父と調子を合わせて私のお猪口に注ぎ始めた。するめの天ぷらを私も齧りながら。でも頭の中では先ほどサヤに提案された懸案が名案を見出せないままくるくる回っていた。彼らのお喋りは気を紛らわすにはちょうどいい雑音として私は聞き流していた。

「そうや、明。沙也加ちゃんも同じ大学行くんやし、一緒に住んだらどないや。そうすれば色々と生活経費が節約できるで。名案やな。亜美はどう思う?」

「ええんとちゃうか。女同士やし。広めのマンションかなんか借りてシェアすればいいやない?」

 私の耳に自分の頭を悩ませている問題が自分の父と姉から飛び出すとは思わへんかった。

「いいねえ、私から遠藤さんのお家に提案しよか?」と、母までその話に乗っかってきた。

 私はアルコールの性もあったのか、声を少し大きくして一言だけ賑やかな家族に返した。

「ええ加減なこと、言わんといて。」

 私のイヤリングが首を強く振ったのと呼応して、私の心をさらに乱していった。

「私ね、これ以上、サヤに迷惑かけたくないねん。私がいたせいで、もしかするとサヤは本当の意味で女子らしい生活を送れへんかったかも、って思うときがあるんよ。」

「その点は、問題ないんとちゃう」と、姉が反論した。「沙也加ちゃんは、あんたと幼馴染みやし、あんたの身体のことも知っているし、あんたの性自認についても理解あるし、あんたをここまでの可愛い女子に育ててくれたんよ。逆に、これからはあんたが沙也加ちゃんの面倒をみるのが筋と違うやろか」と、姉は落ち着いた口調で私の疑念を払しょくし、受けた恩をちゃんと返礼しなければいけないと諭しているようだった。

「ほんまに明は沙也加ちゃんの世話になりっぱなしや。そうそう、どうや。沙也加ちゃんともう結婚したらどないや。一度に姉弟で合同結婚式と披露宴したらこっちとしては嬉しいで。嬉しさ倍増、費用半分やで。ハハハッ。」

 私は単純で突発的な父娘の発想についていけないものを感じた。

「何言うてん。そんなら、これからサヤに会ってくる。」

 私は二月末日が迫っている寒風の中に飛び出した。黒いタートルネックシャツの上に裏起毛のチャコールプルオーバーパーカーとデニムスキニーといういで立ちで足早に彼女の家に向かった。

 私の気持ちは私にしか分からん。私の家族はとんでもないことばかり口にする。そんなこと言うて責任とれるんか、私。途轍もない不安と重圧が私の心を圧し潰そうとしてる。私はサヤの自宅まで翔った。もしかすると、もう一度サヤに言ってもらいたかった。「一緒に住もう」って。もう一度、サヤの口からその言葉が出るのであれば、安心できるような気がした。私という幼馴染みを、私という女友達を、私たちの関係を寛容に受け止めてくれそうな気がした。ただし、その条件の前に、また彼女は突きつけるかもしれない。「私ね、明君。男の明君も欲しいねん」と告げられたら、私の中の「女子明」が絶対嫉妬するし、「あんな男が好きなら、私、あなたと絶交する」とまで暴言を吐きそうな私がいることも承知していた。私は女子で、サヤのことが好きで、サヤは私と一体化していたはずなのに……。

 私の視界に小さい公園の前にあるサヤの家の明かりが入った。その公園には幼児を連れた若い母親の姿があった。この寒空に気分転換に散歩かな、と私はうっすらと思った。次の瞬間、公園前の横断歩道を車が近づいているのにその親子は渡ろうとしていたのだ。

「まさか……」と、私の心が呟いた。不吉な闇オーラに包まれた親子に追いつき、私は彼女と子供の背中を自分の身を屈めてから彼らの背中を思い切り押した。その動作が終わるか終わらないうちに私は宙を舞った。自分の体に不思議と痛みは感じなかった。宙返りをしたのかもしれない。街灯がくるりと私の頭上で回った気がした。私は誰かに包み込まれるように、そうだ、歩道の冬枯れした植え込みの中にゆっくり自分の体が落ちていくのを、もう一人の私が見ていたような変な気持ちだった。

 少し思い出したかも……。

 私が目覚めると、そこには姉とカズ君、そしてサヤの顔を認めた。どうも病院らしいざわめきが漂っている大気の振動と独特な消毒液臭い匂いが鼻孔に届いた。

「どうしてここにおるん?」

「車に跳ねられたんよ」と、姉が心配そうに私の瞳を覗き込むように顔を近づけてきた。

「あの親子大丈夫だった?」と、私は訊いた覚えがある。

「親子って?」と、カズ君。

「明君、大丈夫やで。安心しい」と、サヤの唇が私の鼻先に触れた。彼女の息遣いを覚えている。私は安心して、突然、睡魔に襲われた。また目の前が暗くなった。私はパタリと寝入ってしまったのだ。

 私はどれだけ眠ったのか分からないが、次の日の昼頃だったはず。

「あれ、お母ちゃん」と、ベッドのサイドボードを整理している母の姿を見つけた。私は起き上がろうと、左足を踏ん張ろうとしたが、痛みが頭の上まで駆け上がってきた。

「痛ーい。」

「当たり前や。アンタの足の骨にヒビが入ってるって、お医者さん言うてたで。」

 私は、自分の左足を眺めるために上半身だけを浮かせた。

「ホンマや、添え木してあるんか? それに包帯でぐるぐる巻きにしてあるやん。もう家に帰れるでしょう?」

「それがな、精密検査もするって、お医者さんが言ってはったわ。」

「そんなに僕は具合が悪いんか?」

「そうやない。相手が真面な人で良かったんよ。『誠心誠意お世話させてください』って言うて、色々手配してもろうたわ。それで、頭のCTスキャンをこれから取るんよ。」

 そこへ遠藤さんが顔を覗かせた。

「沙也加ちゃん、ちょっと飲み物買ってくるから、明をお願いね」と、母は言うとハンドバッグを抱えて病室を後にした。

「どないや、随分と寝てたで。やっとお母さんから電話もろうて、飛んできたんやさかい。」

「ありがとう、遠藤さん。心配かけてごめんなさい。僕の怪我は足だけで、後はぴんぴんしてるけど。これから頭を勝ち割って、レントゲン取るって話。」

 彼女は自分の手を僕の額に当てた。僕は異性にすんなりと肌を触られて、ちょっとドキッとした。

「明君、熱ないか? ちょっとおかしいで。」

「遠藤さん、どないしたんや。」

「私、誰だか分る?」

「遠藤さん。」

「そうじゃなくて。」

「そうじゃなくて……。何?」

 遠藤さんが開け放してある相部屋のカーテンをザーっと閉めた。彼女の唇が僕の唇を押した。身動きのできない僕は後頭部を枕に押し付けられた。遠藤さんが病院から支給された寝巻の私の胸元を露わにした。彼女の掌が僕の貧相な胸に当てられた。それから彼女の口が自分の乳首にキスするのを目撃した。僕の中に遠藤さんの何かが急速に入り込んでくる。身体的感覚が彼女をよく覚えている。でも、この感覚は何? いけないことをしているような気がしてきた。

「遠藤さん、止めて」と、小声で彼女に訴えた。

「自分のこと思い出した? 明君。」

「僕は……、僕。」

「おかしいなあ。明君が『僕』なって言う言葉を私の前で言う? それに私と明君の仲よ。なんかちゃうなあ。気色悪。」

 そう言うと、彼女はサーッとカーテンを今度は開けると、すたすたと病室を一旦出ていった。彼女は母と一緒に再び、僕のベッドに近寄ってきた。彼女は母とひそひそと言葉を交わしていた。まだ、ベッドと彼女たちの位置とは距離が残されていた。

「一時的な記憶喪失になってしもうた」という会話のフレーズが僕の耳に届いた。二人は笑顔で僕のベッドの両脇に立った。

「頭の検査をしたら、家に帰っていいって。お医者さんそう言うてたよ」と、母が心配を

隠して僕に声をかけたような気がした。さらに、遠藤さんが、「私が、明君の面倒をすべて見たるから安心し」と、必死になって何かを訴えかける様に僕の頭上に覆い被さってきた。

 自宅に帰ると、自分が体感していた家と少し違うような気がした。何だろうこの感触は?自分の存在を押さえつけていたような暗さはなかった。むしろ自分がずっと望んでいた明るさと緩やかな雰囲気がそこにはあった。自分の記憶の中では、まだ「僕」という私が、もしかすると小学生高学年のひ弱な男子が居座っていたような。奇妙な感覚と時間が自分を繭のように包んでいた。

 僕の日常って、どないやったろう。僕の日常。僕って、僕や。明や。俺やで。俺? 何か。とっても恥ずかしい。気色悪い。どこかで身の毛のよだつ嫌悪感に自分の体がぶるぶると震えた。誰もいなくなった家の居間のソファーの上で、尿意をもよおした。私は母に連れ戻されてから、身体が重く感じられて、また、足の自由を奪われていたのでずっと座ったままでいた。トイレへ行かなければ、お漏らしをしてしまう。すでに両親が老後のことを考えて介護用に取り付けた壁面のバーを握り、自分の右脚一本で立ち上がった。ケンケンよろしく片足で移動する。トイレのドアを開ける。便座に腰を下ろす。裾の広いダボダボのジャージとトランクスを下ろし、用を足す。

「明君、来たよ。どこにいるん?」

 あ、遠藤さんの声を確認し、僕はトイレを済ませたことを大声で伝えた。素早く、彼女はやって来て、鍵のかかっていないそのドアを開けた。僕はまだ座ったまま。未熟な小さな小さな小さな性器という僕の秘密は家族しか知らないはず。

「なんで明君がトランクスはいているの。まあ確かに、この方が骨折した左足抜くのに引っかからへんな。名案や。」

 彼女の視線は僕のそこではなく、トランクスに注がれていた。僕は彼女に自分の秘密がバレそうで、両手で自分の股間を隠した。彼女は別に気にする素振りは見せず、私の骨折した脚を眺めていたが、そっと自分の顔を僕の腿辺りに近づけたかと思うと、内腿に頬ずりをしてきた。彼女の表情が陶酔しているように見えた。

「遠藤さん、止めて」と、僕の声は上ずり、震えていた。自分の中の何者かが姿を現そうとした。もう大雨に見舞われた河の水が堤防を乗り越えるか乗り越えないかの瀬戸際。僕の誰かが緊急避難警報を発令したような心持ち。彼女は自分の動作を止めなかった。僕の手をそっと剥ぎ取った。僕はどこかでその行為を期待して待っている。彼女の顔がどんどん股間に迫ってきた。彼女の舌先が、唾液が僕の小さな先端に触れた。体中の細胞がざわざわ揺らぎ始め、遠藤さんの口が僕のものをまるでグミを舐める様に口内に入れて転がし出した。

「ダメ、止めてー」と、僕の声ではなく、どこかで懐かしい女子の声が鼓膜を揺らした。

「明君、私は誰?」と、真顔で彼女は僕を見上げて尋ねた。確信を抱いたような自信ありげな彼女の目が僕を射ていた。

「え、遠藤さん。」

 彼女の前歯が僕の突起物の根っこに当った。彼女の歯の圧が鋭く僕の皮膚に刺さってきた。彼女の口が一度、私のモノを開放すると、僕の小さな先が大きく膨らんでいた。僕自身がこのような自分の性器の変化を経験したことがない。彼女の口が私のモノを咥えた。幾度となく舐め上げられた。我慢できない。僕は、「あ、あ。あっ」て、喘いだ。心のどこかで体験した快感が体の軸を途轍もなく熱くした。少しだけ、半透明な液が自分の体内から絞り出された。遠藤さんがこんなにも卑猥な行動をとることに違和感をもった。彼女は陽気な中にも、もっと節度を保った淑女だと思っていた。僕を襲った彼女はどうかしているのだ。再び、彼女は尋ねた。

「私は、誰?」

「遠藤さん。」

「私は、サヤでしょう。いつも、ずっと私と明君は一緒でしょ。身体と心を共有しているでしょう。」

 そう言うと彼女はスカートの裾を上げて、僕の手を自分のタイツの中に導いた。彼女のショーツのクロッチ部分がじっとりと濡れて、その液が僕の掌に纏わりついた。

「一緒に行動して、いつも同じように感じて、同じようにお互いの想いを合わせていたでしょう。明君が言うように『融合』していたやないの。私はサヤなの。遠藤さんじゃなくて……。」

 彼女の瞳が悲しく怯えているようにみえた。彼女の頗る可愛い顔が醜く歪んできた。僕は彼女に相当酷い仕打ちをしているのだと、自覚した。

「堪忍」と言って、僕は項垂れた。自分も彼女と同じように何かに怯えていることに気づいた。怯えている? 何に? 自分が交通事故にあって以来、いくつかの記憶、重要な出来事の数々を失っているということ。その記憶の欠片を全く拾い上げられない焦燥感に苛まれていることは事実。確かに、遠藤さんは僕にとって幼い頃から付き合ってくれている大切な女の子。彼女といると僕は、安心し切っていた。絶対に彼女が僕を救ってくれていたはずだ。どのように? 僕にあんな真似をするのだから、遠藤さんと僕はタダならぬ関係なのだろう。僕は僕自身を、どうしても「僕」という語句を自ら提示して、自分の何かを守ろうとしていた。何を守る?

 この日は、加賀美家の誰もの帰宅時間が遅くなるとのことで、遠藤さんが僕のために腕を振るってくれた。僕はダイニングキッチンのチェアに座り、彼女は機嫌を取り直して、楽しそうに夕食の支度を始めた。彼女が買ってきたらしいレジ袋から野菜や肉のパックが出てきた。

「遠藤さん、何、作るん?」

「明君、『遠藤さん』は、やめてーな。『サヤ』に抵抗があるんなら、そうやな、普通に名前を言うて、『沙也加』って。」

「言えない。」

「何で? さっきの私を見てくれれば、分かるやろう。私たちは濃厚な関係やないの。」

「濃厚って? どれくらい?」

「百二十パーセント果実ぐらい濃いいんやないの。」

「じゃあ、記憶が戻るまでは、『沙也加さん』と呼びます。」

「せめて『沙也加ちゃん』にしてえな。じゃあ、そう呼んで。」

「沙也加ちゃん。」

「上出来や。」

 彼女は僕に背を向けて、調理台の方を向いていた。僕は彼女の声が明るくなったことを確認したが、彼女が時折、自分の袖で頬に流れるものを拭っている姿にも気づいていた。僕は一体、何者なのか。

 青梗菜と豚バラ肉の煮物、サバの煮つけ、ワカメのお吸い物、漬物、そしてご飯がテーブルに並べられた。どれも美味しそう、と僕は思った。

「明君、私をお嫁さんにもらってくれる?」

 唐突な彼女のプロポーズ。僕は即答を避けようとしたが、ここで彼女とのただならぬ関係性を鑑みて、答えた。

「ええよ。沙也加ちゃんのこと好きやし。どうもそうなっている雰囲気やし。」

「ほんまに、ええの?」

「うん」としか返事ができなかった。記憶が戻らなかったら、それはそれでいいような気持になってきていた。

「何か、この感じって、うちら新婚みたいやなあ。」

 彼女の表情がとても輝いた。彼女が饒舌になってくるのが分かった。では、東京の新居どうしようとか。早く大学の近くの物件を押さえに行かんといかんとか。そこの広さに応じた家具やカーテンも買って、等々。そうだ。僕は東京の大学へ進学するのだった。その後も、彼女が炊事の片づけが終わると、次の段取りとして「お風呂、入れたるさかい」と言うので、私は遠慮をすると、彼女の目が再び悲しい光を帯びてきた。こんなにも彼女の瞳の色がころころ変わるものだったのか、これも全く記憶になかった。しかしながら、彼女は諦めていないようだった。彼女が着替えを取りに僕の部屋に上がったようだ。彼女が持って降りたのは、可愛い赤い細かいドットの付いたワンピーススタイルの寝巻だった。それと古そうなトランクス。

「パジャマのズボンは履けへんから、これでいいよね。」

「え、それって、私の?」

「あ、『私』って、今、言うた。」

 僕の中で、「私」の何かがぱちりと反応してスパークした。

「もちろん、明君のルームウェア。私とお揃い。三宮のショップで買ったやんか。」

 え、「私」が買った? どこで? 突然、僕は激しい頭痛に襲われた。それも酷く頭の周囲を締め付けられるような感覚に襲われた。彼女の執拗な行動に嫌気がさしてきたようだ。彼女なりに僕に早く記憶を取り戻してほしいという思いから、そのような行動をとっていることはよく分かるし、理解できるが、僕自身の現実を受け入れる許容範囲が今の自分には無いようだった。

「ご免。沙也加ちゃん。もう帰ってへんか。ほんまに今日はありがとう。ほんまにありがとう。」

 僕は玄関まで両手で体を浮かしながらお尻で移動し、彼女の帰宅を促した。彼女も僕の不機嫌さをまざまざと見て、仕方なしに屈んでブーツを履き始めた。

「ご飯のとき、明君が言うたこと、忘れんといてや。私との結婚。」

 そう言うと、彼女は私の方へ振り返って、どこか嬉しそうに笑顔を作ると、「ほな、また明日な」と言い、僕の方へ振り返った。彼女は鼻歌交じりで扉を開けた。その後、玄関の門を閉める音を響かせた。

 僕は、彼女が差し出したネグリジェを丸めて膝の上に乗せ、後ろ向きの姿勢でお尻を一段ずつ階段の上段へと運ぶ動作を繰り返し、二階へ登って行った。座ったままの状態で、壁面のスイッチに手を伸ばして明かりをつけた。暖色のオレンジ色のカーテンは自分のおぼろげな記憶とはやはり異なっていた。ただ、ずいぶん前に模様替えをした記憶はあった。本箱の中段にはアクアミュージアムで買ったとみえる黒く真ん丸な目をした白くまのぬいぐるみ。男子部屋にはそぐわない鏡台があり、そこには化粧道具がちゃんと区分された仕切りのついたボックスの中に置かれていた。カーペットの上にぺたりと座っている状態だから、僕の顔がそのミラーの下部に映っている。僕は思わず口元を手で隠してしまった。自分の驚いた表情を目撃したのだ。僕の髪はサラサラで肩まで伸びている。どこから見ても僕は女子顔にしか見えない。病院で、母親から渡されたポーチを無意識に受け取り、内容物を確認してから、確かにハンドミラーを使って、自分の顔を映しながら整えたことを思い出した。僕はそのままお尻を床につけた格好で、背の低い三つの取っ手付き引き出しのある整理ダンスの一番上の段をスライドさせて開けた。整然と並べられたショーツの数々。厚手のパットの付いたブラジャーが形を整えられて重なっている。キャミもタンクトップも入っている。その下の段にはTシャツ類が入っている。冬物の七分袖ヒートテックシャツなども。一番下の段に、申し訳程度に、男物のシャツ類とトランクスなどの下着が押し込まれていた。

 僕は僕でなくて、もういい? もう私は私でよかったの? 僕でない「私」は沙也加ちゃんから手渡された寝巻を被ると、ベッドの脇に手をついて自分の体をベッドの上に押し上げた。その姿が自分でも愛らしく思えて、「女子してていいんだ」と私に言い聞かせていた。しかしながら、その経緯が明確には思い出せない。階下で、姉の「ただいま」という声がして、私は慌てて「僕」のフリをすべく、ジャージを被った。

 沙也加ちゃんはラインを幾度となく寄越し、「明君、愛してるよ。約束忘れへんように」と何度も念押しをしていた。

その次の日も、沙也加ちゃんは「僕」を責め立てた。

「私ね、沙也加ちゃん。少しだけ思い出したの。」

「そうそう、その調子や。昨日、私らの深い関係を見せたその効果があったんやな。」

「うん」と、昨日よりも私もはっきりとした意識の下で返事をすぐに返した。とはいえ肝心なことが思い出せない。私はいつから女子として過ごしていたか。どうも随分と長く女子として生活していたことは事実で、「私」という言葉を発するようになったら自分の気持ちが穏やかになってきた。少し家族連中との緊張感も薄れてきたのは確かだ。とはいえ、添え木と包帯がなくなるまでは、私はこのままトランクスを履いて過ごした方がいいと自分で判断していた。ただ、お風呂にはとても難儀した。

 ある日、姉はすでに帰って来ていたが、両親は仕事が捗らず、遅くなるという電話があった。もう姉は私のことはすべてと言っていいほど、沙也加ちゃんに頼んでいて、彼女に私自身の委細は丸投げ状態だった。姉は肉親なのに。

「今日は明をお風呂に入れてあげてね、沙也加ちゃん。」

「はーい。喜んで。」

 私はシャツを脱ぐように言われ、自然な形で腕を自分の身体の前方でクロスさせて引っ張り上げた。

「ほら、女子の仕草やね。身体は正直や。習慣やね。」

 確かに女子は自分の胸に布地が当らないように腕をクロスさせて、自分の前に空間を作る。そして、一気に首まで持ち上げてから頭を抜いていく。彼女が言う通り、私の動作は女子そのものかもしれない、と思った。私は覚悟を決めていたので、彼女の指示に従っていた。私を裸にすると、左足先から大きなビニール袋を被せて、輪ゴムでしっかりと水の入らないように、脹脛の上部で止める。私はバスチェアに座った。彼女が誤ってシャワーのコックを開いた。彼女は私を介抱するために、着衣は白いTシャツでとショーツだけ。一瞬にして彼女は全身にお湯を被り、シャツが透けて、彼女の胸の膨らみが露わになった。彼女の豊かな胸の先が濡れた布地から突出して女を自負、誇張していた。私にはその光景を彼女が見せつけることによって、自分が上位にいるということを表現しているように思えた。彼女のバストがどんな生育過程を経過してきたかは、私のこの掌が、フワッとした彼女の乳房の柔らかさと大きさを覚えているような気がしてきた。私は彼女の乳房が欲しかったんだと。彼女は、「あ、いけない。やっちゃった」と言いながらも、嬉しそうに自ら素肌にへばりついたシャツを脱ぎ棄て、私に抱きついてきた。

「やっと、明君とくっ付くことができる」と彼女は燥いで自らの上半身を預けた。その怪しい渦に巻き込まれる私がいた。私は彼女とよくこうしていたかもしれない、と私の身体が彼女の素肌のことを、彼女の秘所を、彼女への愛撫を私に少しずつだが想起させた。

 私は、ほんの少し「私」、すなわち女子としての私の意識を取り戻したが、まだ、しっくりと自分の体が女子としての自覚を取り戻さないでいる様に思えた。だから、本当に私は外見上、女で、中身は中性的な男子ではなかろうか? そう、世間様が言うようにトランスジェンダーなのだろうか。その程度は定かではないが。ただ、最近、沙也加ちゃんの言動の中の「結婚」という言葉の端に、「明君。男やねんから、それ以上は女に戻らんでええよ」的なニュアンスを感じ取るようになった。その意味内容を掴める出来事があったのだろうと、推測するしかなかった。私は沙也加ちゃんを愛していた? 女として……? 分からへん。

 早く上京して、新しい生活をしなくてはならない時期は刻々と迫っていた。通院にしろ、食事にしろ、あらゆる場面で私は沙也加ちゃんに依存していた。私は沙也加ちゃんが好きだということ。僅かではあるが、私は本物の、正真正銘の女子になりたくて、彼女に無理なお願いをして、中学生のときにお互い真っ赤な顔をして確認し合ったことを思い出した。とても恥ずかしいことを要求し、それを彼女は寛容にも慈愛深く引き受けてくれた。女性特有の問題もしかり。男性への対処法、女性同士の付き合い方もしかり等々。

 私は沙也加ちゃんとこのままいると彼女のペースに巻き込まれ、真実、つまり完全なる私の過去を思い出せないのではないか。あるいは、どこかで書き換えられるのではないかと思い始めていた。決して彼女を疑っているわけではない。はっきり言って、この自分、私がどういう人であったか確認したかった。このまま自分という存在が曖昧なままであれば、それはそれで楽なのかもしれないとも、私は思い始めていたのは確か。私は女子なのだ、私は。私が沙也加ちゃんに語っていた『融合』って何だった? ただ女子になるのではなく、自分自身の心身を探す旅?

 もう三月中旬を過ぎた。私の足は経過が良くて予定より早く添え木が外され、リハビリ期間に入った。まだ、松葉杖を持って移動する状態であったけれども。家族の出払った家に、もうじき沙也加ちゃんが猪のごとくけたたましくやって来る。そうなると私はまた籠の中の鳥状態。その前に抜け出そう。そんな脱走劇を演じようと思いついた。我ながら名案や。私は、女性下着は着けず、普通にシャツの上からタートルネックセーターを、下はやっと通すことを許されたデニムのパンツ。あ、まだ寒いからその下に冷えないようにタイツを履いた。そして、黒革の大きめのジャケットを羽織った。髪は後ろ手にゴムで束ねた。小さなポニーテールが私の心をワクワクさせた。ナチュラルメイクを施し、イヤリングをしようとしたが、これでは完全な女子になってしまう、と自分では思ったので、渋々アクセサリーを付けるのは諦めた。自分の顔って、童顔で、小顔で、女子っぽい。私自身がそう思うということは、誰が見てもそうなのかな。

 タクシーで、新神戸駅まで行き、そこから東京を目指そうとした。スマホに沙也加ちゃんから度々ラインが入ってきた。

「今、どこ? 私の愛する明君。」

「さっさと教えんと、もう助けてやらへんよ。」

「早く返事せんと、絶交したる。愛する明君。」

 次第に沙也加ちゃんが焦っている、心配している様子が私の目に浮かんできた。

「今ね、東京行の新幹線の中や」と、送るとすぐさま既読となった。

「私も行くよ。どっかで待ち合わせしよう」と再び返ってきたが、私はこの際、敢えて電源を切った。その電源を切る前に、私の指は少しだけ躊躇してプルプルと震えた。この電源を切ったということで、彼女との関係はどうなるのか。私自身はこの先の学生生活も彼女の存在なくしてやっていけるのか。私はどんな人生をこの先送るのか。私は……。私の心が止めどなく吹く風に揺れる小さな柳の小枝のように右往左往していた。新幹線は京都駅に着いたようだ。私は当日チケットだったので、空いていればどこでもよかったが、一つ失敗したことに気づいた。私は二列席の通路側で、まだ窓側が空いていた。誰も来ないと嬉しいんだけど。

「すみません。」

 私の目の前にトレンチコートを手に持った花柄ワンピーススタイルの女子が立っていた。彼女は私に告げた。

「もしよかったら、窓際に行きませんか。足がご不自由みたいだから。私が席を立つたび、迷惑をかけそうだから。」

「いえ、大丈夫です。こちらの方がおトイレにいくとき楽ですから。」

「そうですか。でも、そうやって松葉杖持ってると疲れますやろう」というイントネーションの京都弁が私の耳に届いた。年齢的に私と同じくらいだと思った。私は最終的に彼女の意見に従った。それが彼女と私の会話の糸口を作ってくれた。

「何や、あなたも東京の大学へ行くん?」と、彼女は言うと表情を緩めた。ため口だ。

「ええ、でも合格を知った日に交通事故にあって、こんな風に」と、私は告げてから足を振る動作をしてお道化て見せた。彼女は不憫に思ったのか、自分にできることがあれば手伝ってあげると申し出てくれた。

 彼女は自分の今日の行動予定を自分の手帳を見ながら教えてくれた。それが一通り済むと、私に今日の予定を尋ねてきた。私に予定などあろうはずもなかった。衝動的に家を飛び出し、大好きで大切な沙也加ちゃんまで残してきたのだから。

「実はね、友達も同じ大学にいくから一緒に住まないかって提案してくれたんだ。でも、どうも一つ乗り気にならないの。」

「友達って、もしかしてフィアンセとか?」と、彼女は好奇心たっぷりに訊いてきた。

「幼馴染みよ。」

「で、男の子?」

「性格はもしかして男の子に近いかな。理系女子。」

 彼女は私に変化球を投げてきた。

「なら、同性で、あなたのパートナーとか?」

「それって、エルのこと言ってる?」

 彼女は頷いて、「そうそう」と言った後、一転して私に謝るように頭をぺこりと下げた。

「ご免ね。私、どうも独り暮らしを始めるにあたって、興奮しているみたい。東京っていろんな人種がいるでしょう。流行の最先端で、発信地でしょう。あなたも関西人なら知っての通り、いかに京都という土地が保守的で、お高く留まっている態度だということは承知しているよね。おまけに腹黒いかな。よく言えば、伝統文化を重んじる世界遺産都市。その窮屈な大気から解放されるという意味をあなたなら少しは分かってくれるかな、と思って。そういえば、あなたは?」

「私は神戸。でも祖先は日本海側の山奥だって。でも、一先ず、神戸出身。」

「良いところやね。港街に憧れるわ。京都に海はちょっとしかないもん。そうだ、もし暇なら横浜に行ってみない? 歴史的開港の地。その点では神戸のライバルかもしれへんけど。ハハハッ。」

 彼女は飾らない、それでいて朗らかで明るい女子という印象を私は持った。ただ、京都女の胸の内はどこか黒いという世間のステレオタイプの噂。でも、この子となら友達になれそうな気になった。で、話しといえば、高校のときの制服は。高校で何をしていたか。食べ物は何が好き。服を買うときはどこのショップがいいとか等々。まさに女子トークの他愛もない話題が多かったが、自分の記憶容器から次々に沙也加ちゃんと言った場所やお店の名前が次々に出てきた。そのたびに彼女は羨ましいという発言をしていた。

「今、アキラさんが言うてたショップな、京都でも、世界中でも名が知れてるわ。そこのブランド品な。ウチも買いに行ったんよ。そう言えば、この革ジャンはそこのと違う?」

 私はそこまで覚えていなかった。いつものことだが、沙也加ちゃんが私の服を次々と選んでくれたのを思い出した。服だけではない諸々の身につけるもの、下着、化粧品、アクセサリー小物類に至るまで。私は沙也加ちゃんになりたかった、と確信をもって思い出した。沙也加ちゃんの……。「沙也加」ではなく、「サヤ」の身体と心を自分のモノにしたかった。つまり、身近なサヤは自分の女子性を成熟させるのに必要だった。そして、長く濃厚な関係性の下で、私はサヤの思考と感覚、感触さえ自分のモノにしてきた。自分のモノ? でも、サヤの乳房が私の想像を超えて女を強調、主張するようになったとき、それがいつだったか不鮮明であるが、サヤから卒業するときかなと思ったのは確か。私に相応しい乳房を見つけなければ、と自覚したのもそのときかな。極めつけは、サヤが「男」明を好きになったことが、もしかすると、一番、自分にとって嫌だったかも。もう、「男」明君はいないんやから。

 すでに私たちの新幹線は新横浜駅を通過した。彼女の名前は「桃花」ちゃんと言う。まだ、お昼前、桃花ちゃんと私は東京駅のレストランで食事をとってから別れるはずだった。が、彼女が私の足を心配してくれて、「もし、アキラさんさえ良ければ、私の用事が一通り終わるまで、私の新居にいて」という申し出に私自身が積極的に乗っかってしまった。というのも、東京の地図が全く分からない。確かにGPSとMAPを駆使する手もあるが、面倒なことはあまり得意ではない性格だから。さらに輪をかけて、この私の行動が無計画の許に実行されたから。

 彼女はM大学国際文化学部へ進学だと言っていた。そうなのだ、驚いたことに彼女は京都料理店の一人娘。古都のお嬢様。小中高と女子校一貫教育を受けた子。東京駅から二人でタクシーを利用して向かった先は多摩川堤の新築の低層アパートだった。外観はマンションぽいし、セキュリティーキーがないと入れない仕組みなっていた。

「ここで楽してて。役所と学校の手続きが終わったら、アキラさんのお家探そうか。」

 私はいつ彼女に自分が不動産の件で、このように上京したかを話したかすっかり忘れていた。ただ、彼女との車内でのトークの終わりに、私は彼女が謝った質問についての回答らしきものを口にしたことをふっと思い出した。

「私のパートナーにどうも男ができたみたいで、悔しいの。だから、一緒に住みたくなくて、悩んでいるところ。だから、衝動的にこんな体の状態なのに来ちゃった」と。

 桃花ちゃんは、「そう」と小さく頷きながら返事をした。そのとき、これは喋っちゃいけないことだったかも、と後悔する私がいた。もう、この女子ともお別れする覚悟を決めていた。古都のお店では常連しか入れないお店があるという。「一見さんお断り」の張り紙さえ貼ってあるという。彼女にとっては、そのような存在の私だと、私自身に言い聞かせようとしていた矢先、彼女は私の背中に手を回し、一度ギュッと力を入れて抱擁してくれた後にこう言った。

「アキラさん、悔しいでしょう。『そんな男のどこがいいの?』って、言ってやった? 大切なパートナーを取るなんて許せない。」

 もう桃花ちゃんの新居には一通りの生活用品は揃えられていた。ダイニングの椅子に腰かけて、電気ケトルでお湯を沸かし、主不在にも拘らず、私は独りで紅茶に砂糖とミルクを入れて口に運んでいた。川堤の向こうに広い芝のグラウンドが見える。堤を多くの人々が歩みを進めている。ここは私がイメージしていた大都会とは全く異なる街などと、のどかな昼下がりの陽光を眺めていた。いいなあ、この場所。

 二時間ばかり経った頃だろうか。桃花ちゃんがドアを開けて、帰宅した。

「アキラさん、まだここのアパートは空きがあるって。家主さんところの不動産屋さんに聞いたの。早くしないとなくなるよ。」

「ほんまに?」

「もちろんここは女性オンリー。安心、安全よ。」

 私の心に躊躇する気持ちはなかった。私は女子なのだから。ただし、完全に記憶が修復するまでは、外ではパンツルック姿で、外見上は中性的男子で過ごそうと決めていた。なぜなら、東京というところが今の私には怖い場所という偏見と先入観に染まっていたから。男子のフリをしていたら、そうは嫌悪すべき厭らしい方々、とくにいかがわしい不良男性には声をかけられないだろうと単純に思ったからだった。

 私は彼女の新居から母に電話した。スマホの電源を付けると、多くのサヤからのラインが入っていた。それは電源を回復させるに当たっては織り込み済み。もう、このままの状態で自宅に帰らない決意をした。その日は、桃花ちゃんに迷惑が掛からないように、父が上京したときの行きつけのホテルに宿泊する手はずを整えた。急いで下着類の替えを買わなくてはならない。また、自分の本性を現すのはこのアパートの敷地内だけで、外出するときは男子でいこうと心に決めた。アパートの入金などを後日終えて、そのアパートの一番玄関門に近い部屋を契約する手筈を整えた。未だ、松葉杖を使っていたが、しばらくすると、左足に少しずつ体重をかけられるようになってきた。私の部屋にはまだ家財道具はまったく整っていない。田舎から送ってもらうまでは当面の生活用品の準備はしなければならなかった。

 沙也加ちゃんには、次のようにメールした。

「沙也加ちゃん、元気? 堪忍な。あまりにも沙也加ちゃんに迷惑かけているから、独り立ちの真似事がしたくなったの。私ね、多摩川沿いに落ち着いたところ見つけたの。でも狭いんだ。沙也加ちゃんももうすぐ上京するでしょう。そのときは私が東京を、先に上京した先輩として案内してあげる。そのときまで沙也加ちゃんも我慢してて。」

すぐに既読となり、その数秒後には返事が届いた。

「明君、約束覚えているよね。私と結婚するんよ。もうすぐ私も行くさかい。明君の顔を見んと、生きてる気がせんよ。」

 その後も引き続きラインが届いたが、敢えて返事を出さなかった。出しても十に一つ返すぐらい。それも儀礼的な内容に私は終始した。

 アパートの契約手続きがすべて終わり、生活に必要な光熱、水道関係が開通してから正式に入居した。まだ、家財道具の揃わない一DKに桃花ちゃんが覗きに来てくれた。彼女は私の無謀な上京ぶりに呆れつつ、私が近くにいることで素敵な大学生活が送れそうと嬉しそうだった。そんな夕方、近所の商店街のコロッケ屋さんに買い物に行った。年季の入った店構えであった。長年、この土地で営業をしていることがよく分かる小汚い雰囲気だった。狭い対面式の窓口から店主らしい人に声をかけた。

「あのう、肉コロッケ一つと野菜サラダパックをください」と、私は言葉短く注文した。

「お嬢ちゃん、これおまけしとくね」と、気のいいご主人が一つだけ皿に乗っていたカニクリームコロッケを袋の中に入れて、差し出した。

「ありがとう。」

「ほう、関西から来たの。大阪のイントネーションだね。」

 彼はにっこり笑って、次にお釣りを私の掌に載せてくれた。

 私は、どうしても第三者から見れば、女子に見えるのかな。その方が嬉しいのだけれど、今の心境では異郷にやって来た不安からかもしれないが、自分自身が頼りないことこの上ない。おまけに左足は完治するまでには至っていないのが現状だ。少しは貧弱な男子に見られたいと思っていた。男子であれば、そうはとんでもない騒動に巻き込まれることはないのかな、と私は何の根拠もなく幾度もそう考えていた。それに、まだ失くした記憶の数々の断片が繋がったかも非常に怪しい。それ自体が心許ないし、自分という個の存在自体が定まらず、どうもあやふやな状況だった。

次の日、私はいつものようにゴムで小さな後ろ髪を束ねて、上京時と同じジャケットで上半身を覆い、スキニーパンツを履いて外出した。そう、髪を切ろうかな、と思っていた。今の髪をショートにしてボーイッシュにカットしてもらえれば、多少なりとも男子風の空気が醸し出せそうな気になっていた。加えて、自分が通う肝心の大学構内を見て回っていないことにも思いがやっと行き着いた。有名大学だから、映像で、バーチャル大学MAPで知ったような気になっていたのは確かっだった。

 私の春から通学する大学への道順はこうだ。現在のアパートから徒歩五分程度で最寄り駅に付く。その駅から新玉川線で渋谷を経由して山手線に乗り換えなければならない。新宿からも歩いていけるが、通常の学生は新宿駅から二つ先の駅で降りるのが当たり前の通学路だ。もう松葉杖の操作にも慣れたものだ。但し、長時間の移動には確かに不向き。でも、ヒビが入った足にも少しずつ重心が掛けられるようになったのは確か。でもまだ、体重をかけると痛みがじんと足から体に響く。私は片方の松葉杖だけを左脇に抱えて、背中にディバックを背負ってアパートを出発した。さすがに東京の人でも身体に故障を持っている人には優しくしてくれるのだ、ということを私自身が身をもって感じた。多くの方が、座るように優しく手を差し伸べてくれた。本人も骨折された経験があるからか。だから、移動に不便なことを知ってらっしゃるからか。それとも、私が女子にみえるから。可愛いから? 人は一体、他人の何を見ているのだろうか。人は他人をどのような基準で評価するのだろうか。人はその時々の気まぐれからでしか行動しない?

 私は最寄駅のプラットホームエレベーターから降りると迷わず、近くの停留所を見つけてバスに乗った。少しでも身体の負担を軽くするために。大学正門で下車し、守衛さんに許可を得ようと門柱脇ある詰め所に出向いた。守衛の小父さんがにこりとして尋ねた。

「どうしました? 御用ですか。」

「はい、私、今年入学する者ですが、構内を見学していいですか?」

「もちろん」と、彼はにこりとして言った後、私の松葉杖を見つけたのか、次のように申し出た。

「学生係の担当に言って、車椅子を出しましょうか。その方がいいですよ。構内はあなたが思っているよりはるかに広いですよ。」

 私の心境としては、この申し出さえ、私への、どのようなあなたの評価なのかを真剣に尋ねたい衝動らしきものに突き動かされそうになった。が、慣れない都会の移動で神経をすり減らしたのと、やはりここまでの道すがら、誰かに付いてきてもらいたかったという後悔にも似た私自身の甘え構造が難なくその申し入れを受け入れてしまった。本当であれば、気楽に自由に闊歩してこれからの素敵な学生生活を想像し、描いてみたかったけれど。程なく、学生生活課の若い職員らしき方が車椅子を押してやって来た。私は守衛さんに丁寧に頭を下げた。

「気を付けて行ってらっしゃい。私にもあなたくらいの娘がいますよ」と、彼は告げた。

「お待たせしました。本来なら、先に連絡いただければ良かったのですが」と言いながら、担当の若い職員は私の手を取って車椅子に乗せてくれた。

「合格おめでとうございます。私もこの大学の出身者ですから、あなたの先輩になりますかね。これから何でも聞いてください。さて、どこから行きますか?」

 若い職員は、楽しそうに私に声をかけていた。

「ありがとうございます。他にお仕事があるのに、私のために時間を割いていただき感謝します。」

 私も社会通念は持っている。そのように無難にお礼を述べて、まずは入学式が行われる大講堂、諸般の手続きをしなければならない事務棟などの施設を一渡り見せてもらった。彼は親切に、事細かに、優しい口調で私に説明して接してくれた。私は彼にはどんな風に見えるの?

「私、合格を知った日に交通事故にあったんです。」

「本当に? それで怪我したんだ。」

「最初は大変でした。でも、もうすぐ松葉杖は要らなくなりそうです。」

「それは良かった。そうなれば颯爽と歩けるようになるね。また、構内で、事務棟で会える日が来るね。」

 一度、多目的トイレに連れて行ってもらい、ディバックからポーチを取り出して簡単に顔と髪を触った。寒くなってきて耳が冷たくなったので、私は結わえていたヘアゴムを取った。彼は夕刻の迫るバス停で、バスが来るまで私に付き合ってくれた。本当にこの方は誰にでもこんなに優しいのだろうか。こんなに親切に対応してくれるのだろうか。どうも私自身、あらゆるものに猜疑心をもって、そのような偏向したグラスで覗いている自分が嫌になってきていた。次のバスが来た。私は元のJR線の最寄り駅まで戻るつもりでいた。私は優先席に座り、しばらくすると先程までの気疲れが私を眠りに誘ったようだ。

ボーっとした意識の中で「次は、終点。新宿駅○○。終点でございます」と聞こえてきた。あれ、私が着きたかったところではない。どうしよう。新宿駅の後もはっきりと聞き取れなかった。ただ、次々に多くの乗客がバスを降りて行った。自分では気が付かなかったが、途中で結構多くの乗車があったようだった。私も窓側に立てかけていた松葉杖を取ると、左脇に抱えてゆっくりと最後の乗客として地面に降りた。その光景を運転手は見詰めていたようで、私が振り返りお辞儀をすると、「気を付けて」と一言だけ声をかけてくれた。私が思っているよりも、東京の人たちは他者のことに関心を持っているのかな。もっと、無関心な人間が多くいる印象を持っていたので、若干、私の大都会に対するイメージを修正しなくてはならないかな、と思ってもみた。しかし、今の差し迫った問題は、私自身が非常に疲れた鉛のように重くなった身体を持て余していることだった。私は、この場所が正確にどこかも分からず、歩道の脇のコンクリートで製作されたフラワーポットの縁の狭い面積に自分のお尻を付けて、自分の身が現段階で、これ以上、無理して動いてくれないということを認識していた。私は、目の前数十センチの空間を多くの人が犇めくように前進する群衆をしばらく眺めていた。

「疲れちゃった」と、私の口から独り言が漏れた。私は、どこかに体を休める場所がないか、見つけるためにゆっくりと辺りを見回し始めた。大通りに面する大きなビルの看板が鮮やかに点滅している。人々の欲望を飲み込むかのようなネオンも見て取れる。メインストリートにはカフェ、居酒屋、飲食店の数々、コンビニも遠近に点在している。改めて、大都会新宿の光景を目の当たりにして興奮したテンションを抱え、一方で、怯えて縮こまっている自分が、困っている内側の自分がいることを知った。外見に怯えだの、不安だの、恐怖だのといった負の感覚を発散するとすぐに私は都会のハイエナどもの餌食になってしまう。私は神戸の人間。こんなアズマ人や怖いお兄さんに付け込まれてはいけない。、怖いお兄さんの数なら関西にてんこ盛りになるほどいる。また、偏向したプライドが少しだけ疲労をため込んだ自分の身体を刺激した。向かいの通りの低い五階建てくらいのビルとその三倍くらいある高層ビルの間に少々狭い通りを私は発見した。通りからほど近い奥まった場所に桜色した四角い灯りを見つけた。店頭に置く店名の付いた看板だ。それにしても店名が分からない。判別できないくらいのアルファベット一文字がどうも看板の右下あたりにこじんまりと書いてあるみたいだ。私は、もとから雑踏が苦手だ。大通りの人間大河の流れから外れたい一心で、私はヨタヨタしながら横断歩道を渡り、奥まったその路地へ入っていった。私は、結局、店名を確認せずに古めかしい木製のドアを押し開けた。私がこんな風に行動すること自体、初めてかもしれない。いつも地元で新規のお店を開拓する先頭に立っていたのはサヤだったからだ。初めて、私は自分が先頭に立って、といっても私一人だが、その重いドアに体重をかけて開けた。

「いらっしゃい。」

 声の主はここのお店の女店主だと思われる人だった。年齢は私の両親と同じくらい? 厚化粧であることは間違いない。それに大きな睫毛と口紅の色がどぎつい印象。

「あのう、オムライス、食べられますか?」

 私は自分の注文に驚いた。口の先から無意識に発せられた欲望だった。三宮のオムライス専門店で、サヤと一緒に食べたことのある一品を思い出したのだ。よりによってオムライスでなくても、短時間で調理してくれる食べ物を注文すればよかった、と反省していた。ただ、温かいふわふわの卵が私の疲れた身体を優しく包んでくれるような気がしたからだ。そうだ、私はこのお店のメニュー表さえ見ていない状況だった。

「そりゃ、作れるわよ。少し、時間がかかるけどね。」

 そう言うと、女主人が私の身体を支えにカウンターから出てきた。私より身長が高く、肩幅もある。それに腕も思いのほか太い。私をちょこんと軽々とカウンター席に乗せてくれた。え、男性の方?

「今日の最初のお客様だから、これ、サービスね」と、彼女は言うと私の前にワンパイトグラスに入ったビールをことりと置いた。そのサービスが私にはとても嬉しかった。上京してきて真の心の籠ったサービスを受けたのは初めてかもしれない。なぜかその行為が既定のサービスではなく、温かく思えて、私の緊張感が自分でも分かるくらい溶けてきたようだった。

「私、東京は初めてなんです。」

「あなたね、怪我してるでしょう。なぜその足で出歩くのよ。怪我をしているということは、何かあったときに素早く身をかわせないし、逃げられないってことよ。大自然の動物界では生きていかれないね。あなたは命知らずか、よっぽどの世間知らずの甘えん坊さんかな。」

 なぜか彼女の話題の方向性が気になった。案の定、彼女は、私にアフリカのケニア自然公園の動物たちの生態を話し出した。この人は博学かな。面白いと思える話の出だし。さらに、店主は表情豊かにサハラの状況を、料理の片手間に説明してくれるものだから、その器用さにも私は感服して耳をピンと立てていた。喉が渇いていたこともあり、すでにビールを三分の二くらい飲んでいた。出されたオムライスの卵の上にハートマークがケチャプで描かれていた。残念ながらふわふわの卵とはいかなかったが、一口食べてみたらケッチャプと卵の相性が望外に美味しかった。その後、私はガツガツ食べた。私の身体の細胞が久しぶりに喜んでいる。何か自分の気持ちに自信のようなものも漲ってきた。何の自信? お腹が満たされた見せかけの満足感とカラ元気かな。

「美味しいです。本当に美味しいです。」

「そんなに褒めても、タダにはならないわよ。お嬢ちゃん。」

 次第に私の瞼がまた重くなってきた。空腹を満たされ、さらにアルコールが血の巡りを良くしてきた。おまけにとにかく冷えた身体が暖かくなってきたからに違いない。しばらくして私は遠のく意識の中で、次のように自分の背後を通過する人物と女店主の話声を聞いた。

「ユウコ、今日は帰りが早いのね。」

「うん、パパ。友達と喧嘩したから。」

「また、喧嘩? 誰が悪いのよ。」

「私じゃない、ことは確かよ。」

 私の耳には親子の会話に聞こえたのだが、パパって誰?

 私は肩を揺らされて目覚めた。お店の中の席が八割方埋まっていて、愉快な空気とともに賑やかになっていた。どれくらいの時間、私はウトウトしていたのだろうか。早く帰らないと、と思って私はスマホをバッグから取り出し、無意識にある人物に電話をしていたのだ。聞き慣れた声が飛び込んできた。

「明君、どこにおるん?」

 それは親しいサヤの切ない、心配した声だった。


「じゃあ、この子のこと、お願いね。沙也加ちゃん。」

「はーい、ママ。ちゃんと明君を連れて帰りますからご心配なく。」

 そんなやり取りがあった後、ふっと我に返る自分が、タクシーの後部座席でサヤに肩を抱かれて座っていた。どうしてこの東京にサヤがいるの? 私はどこにいるの? あれ、神戸に帰ったっけ。えーと……。疲れた脳内が正常な働きをするはずもなかった。必死になって状況把握をしようと焦る私と、サヤの腕に抱かれている安堵が益々、私自身の心を揺さぶっていた。どうしよう、サヤがいないといけない私がここにいる。タクシーは程なく、ある建物のエントランスに横付けされた。

「沙也加ちゃん、ありがとう。でも、どうして東京に居るん?」

「そりゃあ、そうでしょう。もうすぐ入学式が始まるんよ。この時期に上京しない馬鹿は要ると思うん?」

「う、うん。」

 エレベーターの数字ランプが十階を示していた。

「ちゃんと掴まっててな」と、彼女は自分の肩に私の掌を置いた。私は大人しく彼女の指示に従った。松葉杖は彼女が持っていた。部屋のドアが開き、室内灯が付けられた。

「ここが、私たちの、明君と私の新居なんよ。驚かそうと思って、一緒に向こうを出発するまで黙っていようとしたのがいけへんかったんかな。」

 サヤの作った物語の展開に私は言葉を失った。サヤは本当に私を愛していてくれた。男?女? どっちの私?

「私ね、明君に連絡したんよ。今朝、上京するって。なのに、あんたが何も返事くれへんから亜美ちゃんから聞いた住所に行ってきたんよ。そしたらセキュリティドアやから開かへんのよ。本当に困ったんよ。それから、一日中途方に暮れてたこと、明君に私の気持ちが分かる?」

 私の脳内細胞はまだ、混乱の最中。だって、あのお店で微睡ながら自分が電話をした相手がサヤだったこと。そのサヤがすでに上京していたこと。そして、都会での緊張が緩んで弱っていた私を救ってくれたこと。それに、これがサヤと私の新居? 私は、自分の身を放り出す様に新品のソファーに腰をすとんと落とした。すると、さっきまで怒ったような険しい表情をしていたサヤが、私の身体を跨いで、正面から私の目の奥を伺いつつ、そっと唇を近づけてきた。止められない、と思ったのはもしかすると、私が意識した後かもしれない。自分と過去に融合した乙女が私の、自分の唇の感触を確かめている。私自身が、サヤの舌に自分の舌を自然に絡めている。唾液が口内で執拗に混じり合っていく。懐かしくも精神の安定を運んでくれる感触とその感覚。その触覚が私のこれまでの緊張を、肩結びした自分の頑固さを解こうとしていた。私はサヤがいないと、やっぱりやっていけないかも。サヤの指が私の上着を順に脱がしていく。私のロンTを脱がせると、何も着けていない私の胸にキスをした。

そして、サヤは自分のセーターを脱ぐと、私の手を握って彼女のインナー下に私の手を潜らせた。彼女の熱いまでの肌の温もりがズンと私の掌を通して自分の心臓近くに忍び込んできた。私自身のかつて、私の乳房だと思っていた膨らみはより大きく成長し、私の掌では指をしっかり伸ばしても収まり切らない。サヤのバストはCカップを越えているだろうか。

「明君の胸、自然とちょっとだけ膨らんだよね。」

「うん、沙也加ちゃんのおかげ。中学生のときから『あんたは女子や』って、言い続けてくれたから。」

 その間に、彼女は私のデニムを降ろして、声を出して笑った。

「アハハ、明君、これボクサーブリーフやんか。また、男子に後退してるんか?」

 楽しそうにサヤは微笑むと、そのブリーフの前に手を当てて言った。

「明君がほんまもんの男子やったら、私、昇天するかも。」

 私は記憶にあるトラウマ的な空気をサヤの醸し出すオーラに感じ取った。彼女はそのまま私の股間に何かを探しているような仕草で、掌を私のⅠライン上に滑らせていた。彼女の唇が私の外耳を生噛した。私は、「それはダメ」と呟いたが、すでに彼女のペースに私の身体は従っていこうとしていた。サヤは布の下にある小さな小さな固まり、この固まりこそ私の突起物。それをを彼女は親指と人差し指でつまんで弄っていた。時折、私の股間の形状の変化を確認していた。女性でいう大陰唇の膨らみの中に私の発達しない精巣があるはずだ。いいえ、そんなモノは初めから、生まれたときから私にはないのだ。医者の見立ての愚かしさが私を人生のスタートから苦しめているのだ。だから、私の太腿を合わせると内股には少しの空間ができる。小さなとっても短い尿道の持ち主は便座がないと困ってしまうのだ。私はサヤという怪物に飲み込まれて行こうとしていた。それに無駄な抵抗を挑んでいた。もう私の喉の奥で声はくぐもっていた。

「私のクリトリスは明君のこれや。明君のクリトリスは私のこれや。」

 サヤが私のもう片方の手を自分のショーツの内側へ連れていき、私の指は彼女自身の襞の中に導かれた。導かれたのではなく、慣れ親しんだルートを通って帰り着いたのだ。私たちの指はシンクロして動いていく。その動きが私たちの距離を急速に縮めていく。同期していく。自分が自分のクリトリスを愛撫している自慰感覚になってきた。私はサヤの細胞の中へ溶けていく感触にもはや太刀打ちできない。いいえ、奴隷のように首に綱を付けられてはいるが、いそいそとすでに過去となった心地好い世界へ舞い戻ろうとしていた。

 ベッドにいつのまにか身体はワープしていた。身に纏うものをすべて取り除かれ、サヤのレッドピンクの襞が横たわった私の口元にあり、彼女が覆い被さり、私の秘所を舌で舐めまわすその動きを真似て私の舌がコントロールされていた。永遠に続くと思われた悦楽が、唐突に痛みに変わった。サヤ、何をしたの。私の心身が「私」を無限時空に投げ込んでいった。私自身が私という存在を制御できない間があることは彼女が知り尽くしていた。私は私なりに彼女の舌先から足の爪先まで自分の肌で完コピしているはずだった。心身のバグ? サヤの乳房の発育と私の痛みの先にある不可解な感覚が把握できない行為へ追いやっていった。

 私は大きく背伸びをした。私の横に猫のように丸くなって、寝息を立てているサヤの姿。

 その彼女の愛おしい素顔が、たまらなくなって、「沙也加ちゃん」ではなく、同期、融合してからずーっと呼んでいた彼女の愛称を私は口にした。

「サヤ。」

 その呼び名に反応して、微かに瞼を開けて、彼女は次のように小さな声で言った。

「記憶、結構戻ったやないの。心配なんや、私、明君に嫌われるのが……。」

「沙也加ちゃん、私は嫌わへんよ。私が嫌いなのはあの『明君』。沙也加ちゃんが好きになったあの男『明君』が大嫌い。それと、あの『明君』と結婚しようと画策するサヤがちょっとだけ嫌い。」

「やっぱり、嫌いなんや。あー、デリート出来ひんかったんか。明君に『男』を最終的に求めた私が悪かったんよね。私、明君と一緒に女子同士として青春してきたなあ、と実感してた。だから、明君がオスに戻る瞬間があるって発見したとき、魔が差したんやね。明君、あんたは女子やもんね。でも、どうして、こんな男ん子な格好しようとしてるん? 第三者は誰もあんたを男子として認めてくれへんよね。もっと男子になりたかったら、その中途半端なミディアムぽくなった髪をもっと思い切ってカットせんと。これでも東京で誘惑されへんように予防線を張っているつもり?」

 もう、「沙也加ちゃん」という面倒臭い呼び方が阿保らしくなっていた。

 「放っといてな。サヤがいないと本当は凄く怖いねん。何やるにしてもいつもあんたが私の防波堤になってくれて支えてくれたし、悩みなんかもみーんな引き受けてくれたし。もうサヤには感謝しかあらせん。」

 私の目尻から熱いものが噴き出してきた。

「あーん」と私の内面にあるおもちゃ箱から自分の宝物からガラクタまでごちゃ混ぜ状態になって、様々な感情がミキサーにかけられたように粉々になって溢れ出した。

「明君のアホ。そんなこと言われると、また好きの気持ちが増すやんか。馬鹿!」

 サヤと私の新居になるはずだった高層マンションの一室から私は離れていった。但し、サヤがその気にならんように、女子の姿で、昨日に羽織って出てきた黒革のジャケットの下は彼女の黒系ニットワンピを着て、白いスニーカーも借りた。松葉杖を脇に据えて、私はすくっと玄関の上がり框から立とうとした。私はよろけたのだろうか、気づくとサヤが私を抱きかかえていた。彼女の力は私を離さないぞという意志を持っていた。

「ありがとう、サヤ……。」

 私は彼女の名前を呼んだ先に、「好き」という言葉が用意されていた。自分自身がそのことはよく分かっていた。もちろん、サヤもそれを期待している雰囲気が彼女の肌から感じられた。私はサヤの気持ちを分かっているはず。

「明君。気いつけて帰りや。私……。」

 その彼女の言葉の続きを遮るように、私は再びよろける身体を彼女に支えてもらいながら、私にとっての彼女へのラストキスを軽く押した。

玄関ドアの締まる音を背後に感じながら、この日、ちゃんと髪をショートボブにしてもらうヘアサロンを自分の意志で見つけようと思った。そんな大それた勇気は未だに私には持ち合わせていないはずなのに。でも、昨夜のオムライスの味は格別だったことははっきりとこの私の味覚が覚えていた。私はサヤから卒業するのだから。今度、サヤにはいつ会えるかな。

コマ切れの記憶が、シナプスの先端がゆらゆら揺れながら、時折、触れて繋がったり、離れたりと不安定な私の記憶装置。やっと結びついたものも、瞬間的に切断されることもあったりする潜在的な恐怖感が私の心にいつも潜んでいた。


「アキラさん、お帰りなさい」と、アパートの集合ゴミ捨て場に出ていた桃花ちゃんに帰るなり会ってしまった。

「アキラさん、朝帰りですよね。それも、どうしたのですか? 昨日出かけるときと服装も髪型も変わってますよ。ちゃんと私はアキラさんの行動と服装をチェックしていますから。」

 私は彼女の詮索好きなところとどこかで執着心が強いところはちょっと苦手だと、初めて会ったときから思っていた。彼女が私の顔を覗き込んでいる風だった。

「そうだなあ。何か、アキラさんの顔、すっきりしてません?」

「そう見える? そうなら嬉しいかも」と言って、そのまま素通りを決め込もうとしたとき、彼女が私との距離を素早く縮めて、私の耳に優しく囁いた。

「私、アキラさんの恋人に立候補していいですか?」

 その返事に私が詰まっていると、彼女は続けてこう言った。

「あのときのこと、覚えてます?」

「あのときって?」と返してから、自分の不安が的中していることを思い知らされた。

「アキラさんがお引越しして二日目に新しいアパートのメンバーで賑やかに女子会しましたよね。その会がお開きになってから私の部屋で、あのときアキラさん『桃花ちゃんの唇、美味しそう』って言って、私は奪われたんですよ。あれは私のファーストキスです。」

私の記憶に彼女とのことは残っていないし、内部に私を狙う女子がいたとは。どうしよう。


 私は今回の帰省は何のための帰省だったんだろうか、と自分の行動に疑問を持ってきた。確かにサヤがママに宣言した明君奪還作戦に端を発しているのは事実だが、両親に私自身がコンフェスするはずの女子生活はすでに公のものだった。誰もが私が女子であることを認めてくれていて、私自身もいつの頃からか私生活すべてにおいて女子として振る舞い、女子としての待遇を受けていた。私だけが私の真の姿をどこかで見失っていた? 数々の記憶の根源はどこにあるの。喪失してしまった記憶の断片はどれくらいの数なの。散逸してしまった欠片を私はすべて修復できるの。その複雑な連鎖と関係性を私はもう自分で処理できない?

 私は他人に対して、自分のことを語ることがほぼないのでは。そう、私自身、あの貴重品紛失事件、つまり、単に私自身が自分の時間的行動の過程を忘れてしまったことが、優子との縁に繋がっているのだが。その縁のおかげでママの計らいでお店を手伝えるようになって、私は男子でいる時間を短縮できて、多くの常連さんに可愛がられて、現在に至っている。私は、彼らに自分の生い立ちなんか話していないように思う。もし話したとしても、私自身がその行為を記憶してないだけかもしれない。ママにどこまで私の過去を話した? 優子に私はどこまで自分のすべてを曝け出した? 優子は、今、私自身だと思っている。彼女には語らなくても通じる予感が出会った当初からあったような気がする。彼女に私は身体を洗い流された。そのとき、私は彼女に何か喋っただろうか。言葉にしていないはず。別の表現で言えば、身体接触で、身体の感触の交差と交換が私たちを結び付けてくれた。そのときに私は優子の乳房に触れた。彼女のそれは決してふくよかさはないが、優し気な胸の丘は私の掌の感触にマッチした。私は真に融合する相手にこの瞬間に出会った。優子の全身を私のモノにしたい。しばらく見つけられなかった自分のお手本、本体にやっと巡り合えた気がしていた。そして、私は優子と永遠に融合した一人の女でいたいと思うようになった。私は自立できない甘えん坊の女かも。


 私を乗せたのぞみ号は、ゆっくりと東京駅のホームに滑り込んでいった。そのとき、目の端に優子の影を捉えたような気がした。間違いなく優子だ、と私は確信した。すでに列車の速度は十分に減速されていて、もうじき車両は既定の車両番号のホームドアに停止しようとしていた。私は逸る気持ちを抑えながら、号車内の昇降口へ急いだ。でも、どうして優子は私がこの時刻のこの号車番号に乗っていることを知ってるのだろうか。私は何も告げずに帰宅して、彼ら、優子とママを驚かせようと企んでいたはずなのに。多くの乗客の一人としてやっと東京駅のホームに降り立った。

「おかえりなさい。」

「優子、逢いたかったよ。」

「本当? ちゃんとサヤと別れてきたよね。」

 心臓が止まるくらいの恐怖を私は全身に感じた。優子が自分のショルダーバッグを探っている。どうしよう。あのときのように刃先の鋭いナイフが出てきたら、私は潔くその罰を受けよう、などと次の彼女の行動を注視した。彼女はスマホを取り出し、短時間ではあるがメールを打ち込んでいるようだった。

「サヤにラインしておいたよ。アキが私の所に帰って来たって。」

 私は心底ほっとすると同時に、なぜ優子が私の到着時刻を知ったのかの合点がいった。が、ここまで彼女たち、すなわち、サヤと優子が親密に連絡を取り合っていること自体が私の困惑を増長させた。優子が私を少し高いところから見下ろしながらギュッと両腕の中に私の身体を包み込んでくれた。まだ暑さの残る大気はその上から私たちに重なってきた。彼女の真紅が私のピンク色と重なっていた。優子にはどこであろうと周囲のことなど関係ない。彼女はいつも自らの思う通りの言動で押し通す。私はその彼女と融合した人間だから、私も周りに気を使ってはいられない。縁取りに小さなフリルの付いた真っ白なタンクトップと黒のスキニーパンツで決めたモデル張りの女とスカイブルーのキャミワンピの上にシアーカーデを羽織った可愛い女がしばらく密着していた。帰路への道すがら、私の方を何度も振り返る優子。その度に、彼女は何か言いたそうな口元が私は気になった。彼女の視線が注がれているのが自分の右耳であることに気づいたのは、もうお店に着く直前だった。神戸を立つ前にサヤから確かに金色のイヤーカフを返して貰ったが、自分のカバンの中のポーチに仕舞ったままだった。サヤの見ている状況ではつけられなかったからだ。


「おかえり、アキちゃん」と、血色の良くなったママが私を迎い入れてくれた。

その夜のこと。お店から客が退けて、優子と私は洗い物や掃除を終えた後のことだった。この時間にはママはすでに体調を考慮して就寝していた。店内には私たちだけ。外では大粒の雨音が響いてきた。店看板をしまうときには小雨が降っていたことを私は思い出した。ザーという音が深夜の都会のあらゆる騒音をかき消してくれていた。スコールのようにさらに雨音が強まると同時に、風も出てきたらしい。優子が言っていた通り、強力な低気圧が姿を現したらしい。彼女には気圧アレルギー的なところがある、頭痛と耳鳴りだけならいいが、これにうつ病的な症状が重なると手が付けられないことがあった。彼女特有の思い込みが激しくなるとか、それが高じて猜疑心と攻撃性が増してくる。だから、その症状に陥ったときには、私が彼女を介抱する役回りだ。彼女と融合したときから、お互いの心身は同調し、様々な周期も熟知するようになったけれども、爆弾低気圧のような突発的自然現象に誰も抗えない。私は前屈みになって、額に手を当てている彼女を抱擁しようと近づいた。すると、彼女は顔をさっと上げた。その彼女は眉間にしわを寄せて、私に命令口調で言った。

「アキ、ドレス脱いでくれる。」

「え、脱ぐの?」

 このチャイナドレスは私のような痩身でも色香が出せる様に私の腹部負傷騒動の後、ママがそのお詫びと言って作ってくれた私の身体にフィットする大切なドレスだった。このドレスは縁起が良く、着ると客数が伸びると身内の間では評判のいい一着だった。その日、このドレスをセレクトしたのは優子だった。そう、この日は餃子特別ディということで、私たちは二人ともチャイナドレスを纏って、その雰囲気を盛り上げようということになっていた。開店前に、彼女は私の着替える様子を難しい顔をして見ていたのを覚えている。ボディーラインがそっくり見えるので、Tバック以外は下着を付けない。ドレスの性質上、自身の人工乳房をふくよかに見せ優しく収めてくれる。開店時間が迫っていたとき、優子は私の何を確かめたかったのか?

私は改めて、「脱ぐの?」と尋ねた。まだシャワーも浴びていないのに、どうしてここで脱がなくちゃいけなの、という私には疑問が浮かんだ。私はボタンを一つずつ外していった。その私の動作がもどかしそうに思えていたのか、優子が頭痛を緩和するために先ほどショットグラスに注いでいたウォッカを一気に飲み干した。頭痛を和らげるためというより、その彼女の動作は自身のイライラを少しでも落ち着かせるためだというオーラが伝わってきた。彼女は何を苛立っているのか。

「アキ、後ろ向いてお尻見せて。」

 言われた指示に従った。

「脚を広げてくれる?」

「?」と、私の頭の上に疑問符が付いたように思う。

 優子はしゃがむと、私の内腿を覗くために少し私の右太腿を押し上げる様にした。

「何?」と、私は優子に彼女のやっていることの理由を問い質そうとして、首だけ彼女の方に振り向いた。

「アキ、サヤとやったでしょう。」

 優子の髪がメドゥーサのようにみるみる逆立っていくように私には見えた。私はママに言われた通り、サヤとの縁を切るために帰省した。駅に着くなり、私はサヤに拉致されホテルに連れていかれた。不可抗力などという言葉やその場の流れなどの言い訳は彼女には絶対通じない。このことは四六時中同じ空間と時間の中で生活し、暮らしていれば分かることだし、私と優子はすでに離れがたく結びついている次元から、融合を果たした身体と身体なのだから。

「優子、私ね……」と、言い訳にならない理由を捏造しようとする自分がいることを意識しつつ、優子の激高しようとする諸々の感情の昂りを抑えようと考えていた矢先だった。

 優子は私を力の限り抱きしめた。否、抱きしめたのではなく、大蛇が獲物の動きを封じて息の根を止めるための行為に私には思えた。不意に抱きつかれたので両腕の自由も彼女に奪われていた。私は虐められると分かった児童が目を閉じて下を向くように、彼女の肩に自分の額をつける格好になった。優子の唇が私の外耳を挟んだ。彼女の前歯が私のイヤーカフを咥えた。着替える間際に二人の愛の証である金色のイヤーカフは私の外耳の中央に戻ってはいたが。次に、彼女の長い舌が私の耳の形に沿って怪しく舐め上げていった。優子の唾液が私の耳を外界から遮断した。私の身体の自由はここで完全に機能を停止した。

 私がある程度の正気を取り戻したのは、股間に小さな痛みを感じたときだった。私はボックス席前に設置してあるガラスのローテーブルの上に仰向けに寝かされ、顔を上げると優子の頭が私の股間に喰いついていた。微かな痛みと快感が下半身から体全体に伝達されていった。

「アキも流してね、私と同じように……」と途中までは聞き取れたが、むしゃぶりつかれた局部が再び私の思考を機能停止状態に誘っていく。私は放心状態かも。私はたぶん、幾度も喘ぎ声を漏らしたと思う。私はさらに深い痛みが自分の秘所、つまり膣だと思っている辺りに鈍く感じると同時に、すっと私のⅠラインに何か異物が分け入る感触を持った。優子は未だに私の性器をすべて喰い尽くすかのように弱く強く舐め尽くし、吸い上げていく。どこかで私は気の遠くなるような感覚に襲われ出した。

「アキは私のモノ。アキは私。だから、……」と、優子の声が耳に達した。私は閉じた目を見開いた。立ち上がった優子の全裸の白い胸の谷間が赤く染まり、その血の川はお臍を伝い、彼女の陰部にまで到達していた。また、彼女の口回りも真紅に染められていた。その光景を不思議とは思わない自分がいた。優子の笑顔が嫌らしいほどに妖艶さを湛え、私を求めているように感じて、私は上体を起こそうとした瞬間、激痛が私の秘所の奥底全体に響いた。

「痛―い。痛いよう。」

 自分の声が不思議なほど大きかった。でも、恐怖心や不安感はそこにはなかった。ただ優子の痛み、彼女の深い愛情、彼女の切ない執着心、彼女は私、等々。まだ会って時間は蓄積していないにもかかわらず、様々な感情と情景が私の脳裏を巡っていった。と同時に私は……。


 次に私が目覚めたのは、見慣れた白い天井。今年に入って何度も、この種の灯りと臭いを嗅いでいる。ただ、前の風景と違うのは、「ここは個室?」

 お化粧をしたママの優し気な顔が私の目に映った。

「お目覚めね、アキ。大丈夫? 大丈夫じゃないわよね。」

 すると、私に目配せをして状況を把握するようにと、私の下半身へママは目線を使って注意を促した。私の両足は開かれたままの状態で、器具で膝下辺りを浮かせて固定されていた。

「痛いでしょう? アキ。本当にもう少し私が見つけるのが遅かったら、失血が酷くて今頃あなたはどうなっていたか。私より先に天国へ行っていたかも。」

 まったく記憶という容器から漏れてしまった出来事が私を不安にさせた。

「ママ、私はどうしてこんな格好のままなの? それに優子は?」

「覚えてないの? 昨夜のあなたたちの所業。」

「所業?」と私は口にして、優子が私を愛していた光景をうっすらと思い出し始めた。そのときの彼女が立ち上がった姿を鮮明に思い出した。彼女は口元から首筋、乳房の谷間からお臍を通り越して、彼女のⅤラインをなぞり、さらには見ている間にも彼女の内腿を速い速度で伝って降りていく赤い液体がくっきりと映像として私を襲ってきた。その後の私の映像は確かに途切れたままだ。

「優子は? ママ。ママ、優子はどこにいるの? 優子が血塗れだったのよ。優子は大丈夫なの?」

「優子は別室で寝ているわ。安心して。」

「心配なのは、あなたよ。あなたの性器をぐちゃぐちゃにしようとしていたのよ、あの娘は。」

 私は彼女に命令されるまま、ドレスを脱ぎ、テーブルの上に横にされた。股間に幾度か痛みを感じたことはあったが、彼女の長い舌が私の秘所を優しく、そして激しく愛撫していたのはこの体に心地よく刻まれている。次第にエスカレートしていく事態は想定内のことだったのだが、突然、頭に駆け上っていく激痛が到達し、彼女が私のすべてを吸いつくす様に口を大きく開けて私のⅠラインをすっぽりと覆った皮膚感がある。未体験のゾーンに私は導かれていった。

「アキ、あなたは沙也加ちゃんと縁を切れなかったでしょう。」

「私は、切ったつもりです。」

「つもり? それは甘くない? 切ったのなら、優子があんなにあなたを殺そうとするほど虐める?」

「優子は私を虐めるような真似はしていません」と、はっきりとした口調で私はママに抗議した。なぜ、そんなに自信をもって主張したのかは分からないが。私の内部の細胞がざわざわ騒ぎ立てた。

「優子が言っていたわ。アキの内股に沙也加ちゃんの歯型がくっきりと付いていたと。それがどういうことか分かる? 沙也加ちゃんは『あなたは私のモノ』と優子に宣戦布告したということなのよ。そして、優子はそれに腹を立てた、ってこと。」

「そうじゃない、と思います。優子が『私と同じように血を流して』と言ったの。それからは真っ白になった脳内画面に囁くように彼女が侵入してきたの。確か……、優子が『私の痛みを分かって。私の方があなたを愛している。私がいなければあなたは一日たりとも生きられない。それは私も同じ。私はあなた。私はアキの血をもらうことでアキと完全に同化できる。私とアキは一つ』って、無機質なスクリーンに優子の囁く字幕が浮かんではすぐに消失していったような……。優子は私を必要としてくれた。彼女は怒りだけではなく、無尽蔵の愛情をこんなちんけな私に注いでくれた、と思うの。」

 ママは驚いたような表情を浮かべながら、どこかで私たちの猥雑で狂気的な愛情表現を理解しようとしていたように私には思われた。

「そうね。優子とアキは似ているかもね。二人とも常識の範囲を超えている。そんなこと言えば、私もかな。あー、そうだ。アキは喜ぶかもしれないけど、あなたの性器は当然のことながらもう男性の機能は完全になくなったみたいよ。あなた分かってる? 優子は昔なら安倍定事件級のことをしたのよ。この病院の院長さんとは医学部の同期で長い付き合いだから、事件性を隠ぺいしてくれるけどね。それにね、あなたのアソコはお望み通りの形状をしているかも。あなたが以前話してくれたように、あなた自身はDSDなのね。あれなら男性器とは判別できないかも。それにキャン玉袋もないのね。股に張り付いている。そのあなたの股に優子はフェイス用カミソリの刃をぐいっと幾度となく入れたのよ。アキ、分かる? あなたの股間から男の残存物は一切姿を消したの。大量の血が流れたのよ。もう少し遅かったらあなたは本当にあの世行きで、優子は確実に刑務所行きだったかも。その点ではおめでとうかな。

あー、あなたの肌はいつ見ても奇麗ね。要らない血を体内から排出したから蒼ざめるのかと思いきや、透き通るような白さ。ますます羨ましい限り。嫉妬しちゃう。優子はあなた自身に嫉妬していたかも。私としては残念なのよね。そうなると、優子とあなたとの間にできるはずだったかわいい孫の顔が拝めないってことになるから。」

 私にはママの顔が笑っているのか、あるいは悲しんでいるのかの判断がつかない複雑な表情に見えた。ママの頬の筋肉が多少震えているようにも見えた。

「ごめんね、ママ」と、私は枕の上で頭だけで小さく頷くことしかできなった。


 しばらく私は病室で身動きのできない状態が続いていた。私は朝起きると、かつて行ったことのある白い砂浜を思い出した。そのとき傍らにはサヤがいて、私の肩をギュッと握りしめていた。私は安心して海岸の砂浜から目をスゥ―と沖の方へ流そうとしたときだった。私の視野に大きな魚が跳ねた映像が映り込んだ。

「あ、お魚」と、私が言葉に出すと、サヤは「そう、お魚」と繰り返してくれた。どんなにその応答が心地よかったか。自分を分かってくれる人がいる、と思うだけでこの世に生きていていいんだと許されたような気持だった。サヤは私を守っていてくれた、もう一人の強い私? 私はそんなに強くない人間。サヤが言っていた。「明君は、身を守るために鈍感になったんだよね」と。それはあるかも。でも、どういう風に自分の中で様々なことが処理されているか、考えたことがないのかもしれない。いつもその場を生きてきたような。私が考えるより先に、もう一人の私が、それが融合かどうかは定かではないが、同化したサヤが対処してくれた。私は無自覚なまま、すべてを彼女に負わせていたのかも、と。

 看護師さんが「おはようございます」と朝の言葉を私にかけて部屋に入ってきた。私もそのままの姿勢で、「おはようございます」と返事をした。アイボリー色のカーテンがシャーと音を立ててサッシの両脇に収まった。強い陽射しが、といっても真夏に比べたら弱くなった陽光が、私の小さな胸元から下の身体に注いできた。ふっと、反射する光の中に優子の顔が浮かんできた。その優子は感情を露わにして、私にぶつかってきた。彼女の身体の圧力があからさまに私の身体に圧力をかけてきた。優子の諸感情が私の中に浸透し、融合し、同化していく。その過程が私の心を成長させた? 優子は私の全部。

 面会時間が始まると、優子がやって来た。この数日間はママが私の身の回りの物を届けてくれて、そのまま午後まで相手をしてくれた。神戸には怪我をして入院している旨を連絡したとか。ママが私の気持ちを推し量っていることは十分に認識できた。私もママの心配にならないように、ちょっとだけ気になることを尋ねなかった。「優子、どうしてる?」と。

彼女がやって来た。やっと、私が私の元の所へ帰ってきた。とても久しぶりのような気がした。

「優子、元気?」

「うん、元気。アキは?」と、彼女はベッドのそばに立ったままの状態で応えた。

「うん、元気、かな。」

「アキ、ごめんね」と言うと、少し俯き加減に優子は首を垂れた。

「何が?」

「アキがこんな風になっちゃって。本当にごめんなさい。」

「どうして謝るの? 私は優子の方がもっと心配。私は優子と同化したいと思っていたのに。どこかで優子に甘えていただけ。だから、私は心の四隅に小さな陰を抱えていた感じ。でもね、優子が私を本当に認めてくれたから、優子が私を本当に受け入れてくれたから、私はここにいるの。分かる? 分からないよね。私はやっと愛情を真剣にキャッチボールできる相手を見つけたの。見つけたわけじゃなく、見つけてもらったの。優子はストレートしか投げないものね。そのボールをちょっとだけ今回は受けそこなっただけ。私が謝らなくちゃいけない立場だと思うの。」

 私は、ここまで自分の気持ちを素直に言えたことはないのかな。誰かが私の代わりに返事をする。その私に成り代わって応答をしてくれる人を私自身だと思い込んでいた。きっと、あらゆる責任を負う覚悟がなく、そのように装っていただけ。私は優子に向かって寝たままで、大きく両腕を開いて見せた。優子の上体の重みが私に伝えてきた。私はここにいると。ここに存在していると。優子の頬が私の頬と合わさり、彼女の慣れ親しい熱とともに肌の湿り気も感じられた。湿り気? 彼女の涙。彼女が、私の耳に自分の唇を押し付けながら言った。

「できたみたい」と。唐突な言葉だった。私の中でぐちゃぐちゃと固形化しないゼリー状のフルフルが大きく振動したかと思うと、さっと消失していった。何かの蟠りかな。

「もう一度、言って」と、私は優子の言葉を心底、確かめたかった。

「できたみたい。」

 その話を伝え聞いたママが、こう言ったそうだ。

「私が鬼籍に入る前に、奇跡が起こったの?」って。


 大学の後期は始動したが、私の後期通学はあの出来事があって一月程度遅れた。

私の大学とお店を中心とした素敵な充実した生活が戻ってきた。商店街や町内会でも、すでに私は認知されおり、LGBTQマイノリティの若きママというレッテルを周辺やメディアから貼られて、それが多くの若い学生や女性を集めて、スナックYは繁盛店となっていた。(言っておきますが、そのレッテル張り自体が差別だと世間は分からないのかな。)したがって、優子のお店なのに、私のお店のような雰囲気を醸し出していた。それについて、彼女は何も言わなかった。ただ、「アキ、愛してるよ」という言葉を私に絶やすことはなかった。彼女は自分のお腹の膨らみを優しく見詰めている時間が少しずつ長くなっていった。

もしかすると通常の人は、その彼女の性格や言動を疎ましく、狂気さえ感じる人もいるかもしれないが、私にとっては優子の執拗な執着心や異常なまでの愛情の深さと形が、暑苦しい青春ストーリーより、小説のたわごとよりも、「作り話」の世界で生きているという実感を伝えていた。もう、異世界は現実の、生の世界と化し、偽りだと思われる出来事が具現化するにしたがって、現実と虚構の世界がクロスオーバーしているように私には思われた。仮想現実などはなく、すべてはパーフェクト・リアルなのだ。

 優子と今日の服を選び、お化粧をし、講義の準備をして大学に登校する。これも変わらない日常が続く。大学構内でも、商店街でも、生活空間のどこでも私は女子。

では、サヤとはどうしていたかと言えば……。


「優子。私ね、妊娠しているの。」

 優子と私が学内のカフェテリアで昼食を取っていると、サヤがニコニコしながら近寄ってきた。よく水曜日の午後は教授会などが開催されており、多くの専任教員のコマがなく、のんびりとした雰囲気を醸しだす半日となる。したがって、サヤも合流して昼食を取ることも多くなった。この日は、彼女は遅れてやって来た。

「サヤ、おめでとう。私たち一緒に妊婦になったんだ。なんか心強い。」

 純粋に優子はサヤと手を取り合って、お互いに小さく踵を上げて弾ませていた。サヤの表情は満足げな笑顔だった。その朗報を聞いた優子も安心した表情に見えた。私は恐る恐るサヤに相手は誰なのかを尋ねるべく、一つ咳払いをして、精神を落ち着かせて質問の準備に入った。それより早く、サヤと優子は口を揃えてこう言った。

「アキ、おめでとう。私たちの子供たちよ。」

 その二人の発言に私の心臓は驚嘆して、一度、停止したようだった。彼女たち二人は手を繋いだ格好で、立って私の様子をうかがっているみたいだった。

「うふふ」と、優子がつないだ手と反対の手で口元を隠した。それと呼応するようにサヤも「えへへ」ッと朗らかな笑顔を作って、やはり自分の口元を覆った。

「奇跡は続くものよね」と、優子。

「そうよ。私たちはアキの生みの親と育ての親。私たちが出会ったのも奇跡なら、私たちが妊娠したのも奇跡。アキは私たちの天使。私たちに幸せを届けてくれたの。ただ、私にとって後悔が残るのは、私がこの大学を選んだこと。だから、私は明君を独占しそこなったけどね。」

 サヤは優子の腹部に掌を当てて、それから優子の掌を自分のお腹に持っていった。

「まだ、ぴょんぴょんしないね」と、サヤは無邪気に優子に囁くように言うと、今度は優子が自慢気にサヤに、上から目線風に話した。

「サヤ、私は年齢的にも、妊娠したのもあなたより早いのよ。少しは人生の先輩として年長者を敬ったらどうなの。」

「でもさあ、私の方が明君との付き合いは長いのよ。その点ではもっと私を丁重に扱ってもいいんじゃない? 私は、どれだけあなたに『明君の取説』を提供したか覚えてる?」

 彼女たちは大笑いを始めた。とにかく、私は彼女たちの彼女で、パパ。ただし、そこには法的認知への障害として性別変更を早く行わなければならない面倒な手続きが残っているのも事実。私は学部在学中に戸籍上の「男」から「女」へ変わった。それは法的な枠組みの世界の話で、私たちの関係性に何も影響を及ぼすものではなかった。


 サヤは大学を卒業すると、アメリカの大学院で宇宙工学研究を続けるためにシングルマザーとして愛娘晶(私の名前「明」から命名した)を連れて留学先へ旅立った。一方、優子も表向きシングルマザーとなり、彼女はMBAの課程に進むと同時に、ママのお店とビルディング管理を引き継いだ。私はと言えば、お店の雇われママであると同時に、私も優子に触発されて同じMBAの修士課程に進学し、さらに、田舎の母親の計らいで、加賀美商事に正規従業員として採用されていた。目まぐるしい日常の中で、私は娘美雪(優子の妊娠の報告とサヤの妊娠の報告をしたのが年末の粉雪が降る日だったので、そのような名になった)を優子とともに育てていた。そう、ママのオムライスの卵に包まれるチキンライスのような温かい援助のもとに。


 私は新しく発行されたパスポートを英国のヒースローエアポートの入国審査官に誇らしげに差し出した。その性別欄には「F」というアルファベット一文字が記載されている。私は加賀美商事の常務という肩書を持って、スコットランドにあるジュラ島スコッチ醸造所との専属契約締結へ向けての交渉の途上にあった。

その頃、優子と美雪は、留学から一時帰国しているサヤと晶に会う約束をしていた。

これは後で聞いた話である。次のことは、彼女たちの会話。江の島の見える湘南の砂浜で、私の娘たち二人の姉妹は元気そうに走り回り、波と戯れて水遊びを満喫していたそうだ。それを眺めながら二人の母親はお互いに目線を合わせず並んで砂浜に座り、青い波間を眺めながら喋っていた。

「サヤ、私ね。」

「何? 優子。」

「私ね、今でもあなたが憎たらしい。」

「それは、私も同じ。」

「そうか。そうよね。私たちはアキを媒介して同調、同化しちゃったのかな。」

「そうみたい。優子みたいな女を私は知らへんよ。敵に回したくないタイプ。いつかみたいに私をグサッと刺すんでしょう。私が油断した隙に。ハハハ。」

「私はサヤが好き。あなたの晶が好き。私たち母親じゃない? あの子たちに愛情を注ぎたい。あの子たちが赤ちゃんのとき、思ったんだよ。私たちがここにいるからこの子らがいる、ってさ。乳首を頬張る小さなプルンとした唇が可愛いって純粋に思えて。夜泣きの苦労がそのたびに吹っ飛んでいく。でも、度重なると寝不足で辛いけどね。時代がどんなに変わろうとも、母親の乳房が次の世代を創っていくんだって、切に切に思ったんだ。」

 サヤは優子のモノローグ的な語りを聞きながら、呟いた。

「そうね。私たちが創造主の命を受けて、人類を造ったんだから。私たちは聖母マリアの代理だよね。でも、運命は避けられないかも。」

「運命って?」

「優子にあげた『明君の取説』の最後の注だよ。昔からちょっとだけ彼女には神出鬼没な記憶のスイッチがあったんねん。明君の頭の中の無邪気な腫瘍はいつまで大人しくしてくれているかなあ。誰も知らへんけどな。」

 サヤと優子はどちらともなく腰を相手の方に近づけ、身体の間隔を詰めて、お互いの瞳を合わせた。そして両手を大きく広げて彼女たちは強く抱き合った。


 私は今でも異端なマリアたちの乳房の間で運命を紡いでいる。マリアになれない自身の身体はより一層、マリアへの思慕を募らせていく。小さなマリアたちの成長を私は心待ちにしている。



                 ( 了 )


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マリアたちの乳房ー融合する私たちー 稲子 東(トウゴ ハル) @tougo-haru

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