『きすきすゾンビ』
鈑金屋
きすきすぞんび episode1
■第一話 プロローグ
――過労教師と声の天使
春の夜の職員室は、明るすぎるほどの蛍光灯の下に、ただ一人だけを照らしていた。
時計の針はすでに午後十時をまわり、廊下の音も、隣の教室の気配も、とうに途絶えている。
その静寂の中で、
疲れすぎて味もわからない。けれど、口寂しさと眠気覚ましのために、無意識に飲んでいる。
目の前には、終わらない書類の山。提出期限が明日までの進路希望調査票。部活動報告書。クラス目標案。保護者対応記録。誰がこんなにも抱えさせたのか、自分でももう分からなかった。
「……無理だって、これ……人間がやる量じゃないって……」
ぽつりと、机の上にこぼれるような声が漏れる。
この時間になると、誰も返事などしてくれないと分かっているのに、つい、つぶやいてしまう。
新年度が始まって二週間。担任、教科担当、進路指導、生活指導、部活顧問――全部兼任。
若手で真面目という理由だけで、あらゆる役割が回ってきた。
“期待されている”という言葉を信じて頑張ろうとしたのは、最初の一週間だけ。
今は、期待もやりがいもとうに擦り切れて、残っているのは“崩れないようにこらえる”だけの日々だった。
「……こんな生活、あと何年続けるんだろう」
誰にも聞かれることのない問いを、誰にも届かないように口の中で転がす。
肩は重く、頭はぼんやりして、背中は椅子に沈み込んでいた。
そんなある夜、帰宅しても眠れなかった日、彼女はふとスマホを手に取った。
ベッドに倒れたまま、「癒し 声 眠れる 女」と雑なキーワードでYouTubeを検索する。
目に留まったのは、視聴回数の少ない小さなチャンネル。
【睡眠導入】おやすみのささやき【ASMR】/momo_ne
再生ボタンを押した瞬間、イヤホン越しに流れてきたのは、どこまでもやさしく、やわらかく、包み込むようなささやきだった。
「……今日も、おつかれさま。がんばったね……。えらいよ……」
「ぎゅって、してあげるね……」
「ふー……、って、してあげよっか……?」
胸が、きゅう、と苦しくなった。
目尻に、自然と涙がにじんだ。
「……なんだこれ……やば……天使……?」
布団の中で、イヤホンをぎゅっと耳に押し込みながら、ゆりえはスマホを胸に抱えた。
こんなにも自分を肯定してくれる声が、この世にあるなんて。
彼女の中で、何かが音を立てて崩れ、そして静かに、救われていく音がした。
それからというもの、園崎ゆりえの生活に「momo_ne」が欠かせなくなった。
朝、職員室の準備をしながら再生。
昼休み、カーテンの閉まった保健室で、こっそり片耳で再生。
夜、風呂上がり、布団の中で再生して寝落ち。
チャンネル登録も、通知オンも、再生リストも完備。
彼女は密かに、「もねりす」(=momo_neのリスナー)を名乗るようになっていた。
推しの名前を、口に出すことはない。
でも、推しの声は、毎日耳元で囁いてくれる。
momo_ne:「……あなたも、がんばってるよね……ちゃんと、みてるから……」
ゆりえはその声に、返事をするようにそっと呟いた。
「ありがとう……あなたがいてくれて、よかった……」
まさか数日後、その“声”の持ち主が、自分の担任するクラスにいるとは――
この時のゆりえは、夢にも思っていなかった。
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