第十章 砕けた万華鏡、あるいは孤独の祝祭
アスファルトを濡らす冷たい雨が、九十九揺と丹羽緋里の体温を容赦なく奪っていく。「組織」の追っ手のサーチライトが、まるで悪夢の残像のように脳裏に焼き付いて離れない。緋里の足はもはや限界を超え、揺の肩にすがる彼女の体重が、鉛のように重くのしかかる。
「……NORTHLAND……あそこへ行けば、何かが……」
揺の掠れた声は、雨音にかき消されそうになりながらも、狂的な熱を帯びていた。
「もう……やめてよ、揺……。そんなところに行ったって、死ぬだけだよ……。お願いだから、もう……」
緋里の懇願は、もはや揺の耳には届いていないかのようだ。その瞳は虚ろに宙を彷徨い、何か見えないものに引き寄せられているかのようだった。
その時、まるで悪魔の囁きのように、揺のインカムから周防晶の冷静な声が響いた。
『……東地区の第三浄水場。そこへ向かいなさい。一時的な避難経路を確保しました。ただし、多少の「混乱」は覚悟していただくことになりますが』
「混乱……?」
揺が問い返す間もなく、遠くで複数の爆発音と、それに続くけたたましいサイレンの音が響き渡った。テレビ局の臨時ニュースが、ゲリラ豪雨による浄水場の機能停止と、それに伴う一部地域での断水、そして排水システムの暴走による小規模な浸水被害を報じ始める。
「晶……! あなた、一体何を……!」
『最小限の犠牲で最大限の効果を得る。それが合理性です。おかげで、あなたたちを追っていた連中は、一時的にそちらへ人員を割かざるを得なくなったようですよ』
晶の言葉には、罪悪感など微塵も感じられない。揺は、その非情なまでの合理性に戦慄を覚えると同時に、利用できるものは何でも利用するという、自分自身の信条との奇妙な共鳴を感じていた。
晶が指定した避難場所――廃墟と化した古いプラネタリウムのドーム裏――で、揺と緋里は、びしょ濡れの狐坂潤と、憔悴しきった月代聖に合流した。ドームの天井には無数の穴が空き、そこから差し込む雨筋が、床に散らばる割れたレンズの破片をきらめかせている。まるで、砕けた万華鏡のようだ。
再会の言葉もなく、重苦しい沈黙が支配する。その沈黙を破ったのは、揺の鋭い詰問だった。
「聖。あなたの『独断』、説明してもらえるかしら」
聖は、揺の射るような視線に怯むことなく、しかし震える声で答えた。
「……あなたの計画は、あまりにも多くの憎しみを生むと思いました。だから、私は……私が信じる『正義』の形で、告発を……」
「正義ですって? あれが? あの当たり障りのない、骨抜きの情報で、一体何が変わると言うの!」
揺の怒声が、廃墟のドームに響き渡る。
「それでも……それでも、私は、誰かの命を軽々しく危険に晒すようなやり方は、正しいとは思えません!」
聖もまた、感情を露わにして反論する。二人の価値観は、もはや修復不可能なほどに断絶している。
「まあまあ、二人とも落ち着けって。仲間割れしてる場合じゃねえだろ」
潤が割って入ろうとするが、緋里が潤の腕を掴み、懇願するように言った。
「潤さん……揺を止めて……! あの人、おかしいの! 『NORTHLAND』とかいう場所に、取り憑かれたみたいに……!」
潤は、揺の狂的な瞳と、緋里の怯えた表情の間で、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「……NORTHLAND、ねえ。確かに、聖ちゃんが流した情報の中に、チラッとその名前が出てたな。展望タワーの事故の調査資料の隅っこに、アザリア神話の原典に出てくる『禁断の聖域』とか何とか……」
「その『NORTHLAND』ですが」
それまで黙ってパソコンを操作していた晶が、静かに口を開いた。
「どうやら、単なる神話上の地名ではないようです。都市の古い地籍図と、聖さんの告発から芋づる式に入手した『組織』の内部断片情報を照合した結果……都市の北西部に位置する、現在『アザリア記念公園』として再開発中の広大なエリアの地下深くに、何らかの巨大施設が存在する可能性が高い」
晶は、壁にプロジェクターで歪んだ都市の地下構造図を投影した。その中心には、赤いマーカーで「NORTHLAND」と記されている。
「そして、聖さんの『お祈り』のおかげで、いくつかの海外人権団体が、この『NORTHLAND』と展望タワー事故の関連性について、独自の調査を開始した模様です。もっとも、彼らが真実にたどり着けるかは未知数ですが」
晶の言葉は、揺の「NORTHLAND」への執着を、さらに強固なものへと変えていった。
その頃、テレビやネットニュースは、「組織」の巧みな情報操作によって、揺たちを「都市の平和とアザリア様の教えを冒涜する、狂信的なテロリスト集団」として大々的に報道していた。特に、晶が引き起こした浄水場の混乱は、市民の怒りと恐怖を煽る格好の材料となっていた。
揺は、その報道を嘲るように鼻で笑った。
「見てみなさい。これが、聖の言う『正しい告発』の結果よ。結局、私たちは悪者にされる運命なのよ」
彼女の言葉は、もはや仲間への信頼を失い、深い孤独と猜疑心に染まっていた。食料も底をつき、緋里の怪我は悪化し、聖は絶望に打ちひしがれている。潤は、この状況をどうにかしようと空回りするばかりだ。
揺は、ふと、誰もいないはずの暗がりから、囁き声を聞いたような気がした。
(……おいで……NORTHLANDへ……そこで、全てが救われる……)
それは、幼い頃に失った、大切な誰かの声に似ていた。
「……もう、決めたわ」
揺は、虚ろな瞳で立ち上がり、宣言した。
「私は『NORTHLAND』へ行く。何があっても。……ついて来ないなら、ここで雨に打たれて朽ち果てるがいいわ」
その言葉は、仲間たちへの最後通牒だった。
緋里は、堰を切ったように泣き崩れた。「もう……無理だよ……。私は……行けない……」
聖もまた、静かに首を横に振った。「あなたの行く道は、あまりにも危険すぎます……。私は、ここで……私にできることを探します」
潤は、天を仰ぎ、大きくため息をついた。そして、絞り出すように言った。
「……ったく、どいつもこいつも、勝手なことばっかり言いやがって……。だがなあ、揺……お前みたいな危なっかしい奴を、一人で行かせるわけにはいかねえだろうが」
その目には、諦観と、わずかな仲間意識が滲んでいた。
晶は、興味深そうに唇の端を吊り上げた。
「結構ですよ。あなたのその狂気が、一体どこへ行き着くのか、この目で見届けさせてもらいましょう。私の知的好奇心は、常に未知なるものを求めていますからね。特に、人間の心の闇というやつは、実に味わい深い」
砕けた万華鏡の中で、それぞれの選択がなされた。揺は、潤という不本意な道連れと、晶という歪んだ観察者を伴い、孤独な祝祭の地、「NORTHLAND」へと、その破滅的な一歩を踏み出す。雨は、まだ止みそうになかった。
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