永劫回帰:災厄の瞳

@misakimiyu

第一部:災厄の始まり

第1章:現世の檻

第1話 血塗られた夕暮れ

「美恵子さん、今日もようけ道が混んでまうな」

中村晋三(77歳)は運転席で腕時計を睨みつけた。針は午後5時47分を指し、エンジンの振動がハンドルを伝って肩に染みる。亡き妻・美恵子が生きてた頃、この時間は必ずラジオから浪花節なにわぶしが流れてたもんや。

国道347号線の右折レンジに差しかかった時だった。

山肌の土砂が「ゴロゴロ」と低いうなり声を上げた。晋三はハンドルを左に切るフリをして、思わず唾を飲み込む。助手席の段ボール箱が揺れて、美恵子の遺影が宙を舞う。写真の中で微笑む妻の目尻が、葬式よりもっと涙ぐんで見える。

「ちょっと待てよ…この辺、崩れとるやろ?」

助手席のカップホルダーに入った麦茶が、急カーブで宙を舞い、グラスの縁で頬を叩く。77歳の体はもう反応が鈍い。アクセルを緩めるふりをして、実はブレーキペダルを踏み込んでた自分に気づく。

その瞬間、地鳴りが響いた。

「うわあぁッ!」

山肌が裂ける音と共に、トラックは重力に逆らうように崖へ滑り落ちる。幌が千切れ、冷蔵庫の中身が爆発する。晋三の頭はダッシュボードに叩きつけられ、視界が血の膜で覆われる。

「美恵子…結婚式の花輪…」

息子の結婚式場に届ける約束が、今は無意味な執念に変わっている。携帯電話を握る手は、もう指が曲がらん。時計の針は5時53分で止まり、酸素の残量を計るように胸が苦しくなる。

救助隊のヘリコプター音が聞こえたのは、意識が朦朧もうろうとする7時間後や。赤外線カメラの光が瓦礫がれきの隙間を照らす。だがその時、晋三は奇妙な事実に気づいた。

「あれ…? 救助隊のヘリ、エンジン音がおかしいな…」

プロペラの回転が、次第に不規則になる。まるで誰かが空中でブレーキをかけとるように。

「助けてくれ…はい…」

必死で叫ぶたび、喉元に砂利が流れ込む。混凝土の圧迫で内臓が潰れる痛みに、反って22年前の記憶が蘇る。

「晋三! 仕事辞めて病院来いって言うたやろ!」

美恵子が最期に吐いた言葉が、今も耳朶を焦がす。末期がんを宣告された日、彼は「運転手の契約更新が…」と病床を離れた。妻の手から零れた点滴が、白い布に小さな水たまりを作った。

「ごめんな…」

瓦礫の下で呟いた瞬間、月明かりが異様に青白く輝いた。

「ほな、せいぜい楽しんどきや」

瓦礫の隙間から現れた男は、眼球が黒曜石のように光る。不気味なほど穏やかな関西弁が響く。

「お前さん、餓鬼道の入口や」

男の指が晋三の右目に触れる。瞬間、視界が血のように染まる。痛覚が消える代わりに、全身の細胞が沸騰するような灼熱感が走る。

「えらいこっちゃ! もう死んでる人間やないか!」

男は突然大笑いした。瓦礫が宙を舞い、地獄絵図が眼前に広がる。だが実際には、晋三の肉体は既に息絶えていた。

「ほな、約束や」

男は血まみれのチェーンソーを地面に突き立てる。刃先から滴る液体が、地面に「血の紋様」を描く。

「この世の復讐は、あの世でしかできへん」

晋三の右手が、自然とチェーンソーを握りしめる。刃先が首筋に触れた瞬間、彼は悟った。

「ああ…俺はもう、死んどるんや」

青白い光が全身を包み込む。最後の意識の断片で、晋三は奇妙な光景を見た。自分の葬儀の写真に、黒スーツの男が花輪を手にしている。金属板に刻まれた死亡日時は「事故3日前」――。

「美恵子…待っときや」

チェーンソーの咆哮が夜空に響き渡る。異世界への扉が開く音と共に、晋三の魂は渇ききった大地へと堕ちていった。

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